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ときどきいろいろ壊したくなるときがある

なんだろう?破滅的っていうのとはちょっと違う気がする。自分がちまちま構築した物を壊してみたくなる瞬間がある。

最近はその衝動に支配されて、そのままの気分を他人にそのままぶつけてしまったりして、それが非可逆的に壊れてしまうと言うのが数回あった。反省はしているが、どうにもこうにもしようがない。これは多分自分を許容しないと、自分が壊れてしまうからこれをやってしまうしか他に手段はない。

そうやって自分にとって大事な物を壊しながら、それでも自己を保存しようと足掻いている。それって何のためなんだかわからないけど本能的な保護機能みたいなものなんだろう。他人に優しくする前に自分を何とか保護しないともっと壊滅的に壊れてしまう、そういう予感だけは前もって存在する。

いっそ気が狂ってしまえば、そんなことで苦しまないでいいのにと思うのだけれど。ただ、こう支離滅裂な思考の中で暴れまくっている段階で正常な意識を保っているとはとても言えないとも思う。

とにかく、思いを紡ぐしか自分には出来ない。それが正しい正しくないじゃなくって、とりあえず生きている限りはそれを出し尽くしていくことで何とか今ここにいるということを自分に思い起こさせることが出来る。疲れているというのとは違う。何かここまで自分をつなぎ止めていた何かの箍が外れ跳ね飛んでしまった感じなのだ。それもまた非可逆的な何かで理性を止められない程度には致命的な何かを失ってしまった。

今の僕は薬に依存しきって睡眠と覚醒を繰り返しているだけの血の詰まった袋に過ぎない。何ら思考をしているとは言えず、ただ習慣と反射を繰り返しているに過ぎない。だけど、それでも、このまともと言えない混濁した意識でありながら、意識そのものを手放すことが出来ない。

僕は僕にとって何が大事なのかだけはまだ分かっている。ただ、それだけが救いなのかも知れないし未練なのかもしれない。僕に何かあれば泣く人がいる以上、まともなふりだけでもしないといけないのだろう。これは詩なんかじゃあない。ただただ心中を吐露しただけのものだ。後から消したくなるかも知れないがきっと今しか書けないからここに書いておく。

謝っても仕方ないことだけど、謝るべき相手にはこれを伝えたかった。そして、さようなら。

これが最後な訳じゃあ無いけれど、僕の意識はとめどなく拡散していく。

フリーマーケットって何だ?って色々考えてみた話

よくフリマなんて略されているフリーマーケットだけど、改めて意味は何だろうと問われると案外難しいのです。

自由な市場??

自分としてはフリーなマーケットで自由な市場なんだろうと安直に考えたので、家族に問われてすぐにそのように答えました。しかし、自由って何だろうと何故なにをもう一段階掘り下げるとこれは途端に謎と化すのです。

確かにフリーマーケットに出す商品はこれというカテゴリが限定されているわけではありません。ただ、それがわざわざ「自由」と言うほど自由化と言われるとそうでもない気もします。

単語から離れて考えてみると

そもそもフリーマーケットって何というところから考えると、ご家庭の不要なものを再利用して、あわよくばお金に換えたいみたいな位置付けかなあと思います。一方買う方としては、使い古しではあるものの安く使える物を手に入れられるチャンス。単純に中古市場と言えば中古市場な訳ですが、そのために場所を提供する胴元みたいな存在が寺銭を取らないか格安なイメージがあります。

とはいえ、それの何がフリーなのかと言われるとやはり謎です。

わざわざ自分で意味を考える理由

最初から辞書の助けを借りてしまうのも良いのですけど、一旦は自分の語彙で自分なりに意味合いや定義を出してみることには、意味があると自分は思っています。そうというのも、道具を借りれば誰でも同じような結果を得ることが出来ますが、それがない状況において言葉を組み立てられることが理解だと考えているためです。

借り物の言葉というのは確かに正しいのかも知れないけれど、その場で溜飲を下げたら忘れてしまう軽いものになりがちです。一方、どんなに不細工でも自分なりに苦労して編み出した言葉の定義というのはそれだけで価値があると思うのです。

ここで少し調べてみた

とはいえ、どうもこのままでは据わりが良くないしこれ以上上手い考えが思いつかないので辞書をひいてみました。

結論から言えば、フリーは自由のFreeではなく、虫の蚤(ノミ)を意味するFreaでした。


いわゆる「フリーマーケット」のルーツは、元来フランス各地で行われていた「蚤の市(Flea Market)」です。
「ものは、使える限り大切に」という、省資源・省エネルギーの思想と、環境保全まで含めた考え方で、不用品や再生が可能なものを公園や広場に持ち寄って売買・交換し再利用を図る市民レベルの知恵として各地に広がりました。
フリーマーケットとは | 日本フリーマーケット協会

しかし、それでは何故蚤かというとこれがまた確たる由縁があるようでありません。

一説には、「蚤がぴょんぴょん出るような古い物を取り扱う市場だから」「売り手がノミのように湧き出して市場を形成するから」というのもあるのですが、ピンと来ない感じです。(実際、このへんは定かではないようです)

まあ、フリーマーケットを自由とするのもあながち見当違いの間違いという訳でも無いようで面目は保てました。


日本フリーマーケット協会では、本来「蚤の市」と訳される「Flea Market」を日本で開催するにあたり、誰もが気軽に参加出来るように親しみをこめて『Free Market』とし、独自性・エンターテイメント性を提案していくため、商標登録・サービスマーク等の登録を行っています。

でも、最初は蚤の市も、こっちの「鑿(道具としてのノミ)」と勘違いしていたということをこっそり書いておきます。

かばんちゃんと僕

や、今更の如く「けものフレンズ」見始めたってだけの話しなんです。


このつぶやきが、僕の感想の全てといえます。まあ、第一話しか見ていない訳でこの先どうなるかはさっぱり知らないのですけれどね。なので、ちゃんと全部見てから何か書けよ!とつっこまれると一言もなくなるわけですが…

かばんちゃんのおかれた環境の危なさと緊張感の無さで大成功するのもわかる

この自信なさそうで俗に言う「陰キャ」的な第一話のかばんちゃんに僕は妙な親近感を憶えました。そう、このおどおど感がなんとも言えず好きです。それこそ、縛り付けて(;゚д゚)ァ....熱々のおでんでもくっつけて虐めてやりたくなるような、この被虐的なキャラ付けが何とも巧妙な感じがします。

別に僕は変態ではありませんが、なんかこういうの好きです。超ツボでした。おどおどおどおどして、記憶も無く自信も無く、あるのは冒険者風の衣装と何が入っているのか分からない頼りなさげなちっちゃいバックパックだけです。ないないづくしにも程があります。

相棒たるサーバルちゃんは可愛いし、かばんちゃんよりは遙かに強いけれど、かばちゃんに言われるまでも無くおっちょこちょいだし、何より物を知らなさすぎと来ています。

この環境は見ている方がぞくぞくするほどヤバい状況であるのに関わらず、なんとなく会話の緩さにそれを忘れてしまいそうになります。状況だけを冷静に考えるならサイコパスしかいない世界に丸裸で放り出されたようなものなのにとにかくなごやかなのです。唯一現実的なのが敵性生物の存在でありますが、それをもってしてもこの逝かれた世界観は覆しようも無いのです。

そりゃあウケますよ。ここまで逝かれていると逆転してイカした何かに見えてしまうのは致し方ないことでしょう。一話だけでかなりお腹いっぱいになってしまったのですが、暫く時間をおいて二話以降を見てみることにします。

かばんちゃんと僕との関係

単純にかばんちゃんに僕がぞくぞくしたのと、似ても似つかない割にシンパシーを感じたのでちょっと並べてみました。それだけです。タイトルで釣るつもりはないんだけど、そうなってたらごめんね。だいたいタイトルはノリでつけてるから、そんなに深くは思い入れないんだよ。や、スマソスマソ。

望月記者が「国民の代表」の代表かと言えば明らかに違うだろう

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headlines.yahoo.co.jp
これさ。いい加減頭おかしい話しだと思う。

主語をでかくすんな

まず、望月記者という東京新聞の官房長に張り付いている記者のことを「国民の代表」と表現したことの是非を論じているのだろう。そこを明らかにしておくべきだ。
ja.wikipedia.org

「新聞記者は」的な広い言葉にするとこの命題はおかしくなる。あくまで「望月記者」という「東京新聞」の一記者のことを扱っていると言うことをはっきり書くべきだ。

記事を読むような人なら分かっていて当然と思うかも知れない。しかし、そんなことは無いのだ。文字通りこれを新聞社、ひいてはマスコミの問題というように主語を拡大して読んでしまう人は相当いるだろう。

それは意図的にこういう言葉選びをするマスコミの卑劣さであり、その支持者のなけなしの戦術である。そんな身勝手な物に引きづられてはならない。第一にその性根の腐れ具合が私は個人的に不愉快だ。

話しの流れをなんでもかんでも止めては持論に持っていく人が国民の代表?無茶すぎる

あのですね。仮に主語が「マスコミ」の「記者」全体だとしても、その言葉には到底出来かねます。だって、話しの流れをなんでもかんでも止めては持論に持っていく人というのが記者の本懐みたいに扱われても正直困ります。そりゃあ、一万、十万のツッコミをしていればその中にも良い質問も含まれますよ。

だけどね。時間って有限なんですよ。殆どノイズで、状況にそぐっていない持論を展開するだけの人達は国民の代表どころか、社会にとっての害悪でしか無いでしょう。時間の無駄です。本人が本人の時間を無駄にするだけなら別にどうでも良いのですが、あたかも選良を気取って言うにことかいて「国民の代表」ってなんですか?

たまたま、そういう仕事についただけの頭が片寄った人でしょうに。東京新聞の読者なんて極左的な人に片寄っているんだし、お似合いっちゃあお似合いですけど言うに事欠いて「国民の代表」。

無茶ぶりにも程があります。とても許容できない。
www.youtube.com

記者なんて仕事辞めて本業の扇動家業務として言葉遊びに「いそ」しんだらいかがですかねえ?よほどお似合いな気がしてなりません。

raf00へ

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matomame.jp

僕は君の友人では無かったけれど、Hagex氏が亡くなったときよりは感じるものがある。悲しい。君はHagex氏が失ったことを大きな転換点だと惜しんでいたけれど、僕はさほどそういう気持ちにはならず言及を避けてきた。

しかし、僕にとって君は数少ないネットで同じ時間を過ごしてきた同志の一人だという感覚を持てる人だった。

残念なことに僕みたいなこれというものを持たず、何も残そうとする努力も気概も無かった人間はネットでは存在を一般に認識されない。そして僕自身それを良しとしてきた。

そんな中で言葉を交わしてまともにやりとりが出来た相手を失うと言うことは、喪失感がある。亡くなった人にかける言葉としては、あまりに情に欠けるのかもしれないが君は早すぎたよ。まだ残すべき言葉の連なりが山と言うほどあった筈だった。

ブロガーなりブックマーカなりゴミのようなはてなのネット資産を有り難がっていた君と、それを忌み嫌う僕では似ても似つかなかったのだけれど、君が言葉をまだまだ多く残そうとしていた。その言葉は間違いなくあったと僕は思っている。

今、ネットには成熟した語り部がだんだんいなくなっている。気付けば似たような話を繰り返している若手ばかりが、それを初めての発見のように語っているのが関の山だ。

僕はただ惜しむ。自分が何が出来るわけでは無い。時間の流れは残酷だと思いつつ、ただ眺め惜しむ。いずれ僕が朽ち果てるときは来るにしても僕はネットに名を残すことは無いし、ただただ日常を揺蕩うだけだけれどね。せめて僕の記憶の片隅には君のことを少しだけ残しておきたいと思っている。

Amazonがえげつないと思うなら自前でなんとかしたら?

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www.msn.com

ITmediaニュース経由で提携されているニュースサイトでは一斉にこのようなニュースが流れた。これを見て思ったことが幾つかあります。

Amazonがえげつないと思うなら自前でなんとかしたら?


購入者にとってはメリットがあるが、出品商品のポイントの費用は「出品者の負担になる」といい、出品者からは戸惑いの声が出ている。
そう。別に購入者にとっては良いことなのだ。購入者にとっては出品者の負担云々に興味が皆無だ。無論、その負担分を売価に転嫁されれば嫌だなあという話になる。実際記事中でもそのように指摘する出品者もいるようだ。

しかし、購入者はそれでも気にする必要が無い。何故なら、身を切ってでも数を売ろうとして踏ん張る出品者と、単に儲けを確保するために転嫁する「殿様商売」の出品者にきっと分かれるからだ。買うなら前者から購入し、後者は競争に敗北しいずれ退場する。単純に競争力の問題であって、そこに耐えられない弱者は存在する意味が無い。それだけのことだ。

まさかとは思うが結託して全体で値上げ出来るなんて妄想をしているとしたら、お花畑過ぎる。そんな訳あるか?無いよ。それこそ断言できる。結局のところ市場価格をコントロール出来ないし、そこを一意的にAmazonに依存しているだけの売り手がガタガタ言っても負け犬の遠吠え的なものでしかない。

法に頼るなり他のECに頼るなり出来るならすれば良い

そもそもAmazonに頼らないという選択肢が無いと思っているのは出品者自身では無いか?

愚痴を言ったり変なところでクレームをあげたつもりになっている暇があるなら、お上に訴えるなり、他のECサイトに主力を切り替えれば良いのである。もし、その商品がその出品者からしか購入できない魅力的なものであるならそうなったとしても追いかけていって情報を得て購入しようとするだろう。

しかし、現実問題はそれだけの比較優位性が無い商品やサービスだからAmazonに依存するしかないというのが現実なんだろう。Amazonという親亀がこけたら困るのは購入者よりそういう頼りない出品者たち自身だ。ぐだぐだ言う暇があるならもっと売れる物を高く売るとか数を売る算段をするなり、買い手の研究をもっと真剣にやったらどうかと思う。それもせずに口を開けて待っているだけというのが何とも皮肉な光景だと私は思う。

炎上は嫌だが悪いことをしていたかどうかとは直結しないのでは?

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こういうつぶやきがあった。そんなことを警察が言ったのかなあ…と軽く調べてみたらこんなのがあった。多分元ネタはこれなんだろう。


神奈川県警:GIGAZINEを見たということはコインハイブを使って炎上したケースは知ってるよね?

モロ:はい。

神奈川県警:炎上したということは悪いことをしてたんだよね?

モロ:それはケースバイケースだと思います。

神奈川県警:じゃあ、あなたは炎上なんて何とも思っていないということ?

モロ:そうは言ってません。

神奈川県警:じゃあ多くの場合はどう? 炎上するのは悪いことをしたケースのほうが多くない?

モロ:それはそうかもしれませんね。 

神奈川県警:じゃあ、もしあなたが炎上してたらどうした?

モロ:一生懸命説明したと思います。

神奈川県警:でも許してくれない人も多いと思うよ?

モロ:多くの人は理解してくれるはずです。

神奈川県警:じゃあ少数派はどうでもいいの?

モロ:そうは言ってないでしょう。

神奈川県警:じゃあ少数の人たちに対しては申し訳ないと思う?

モロ:そう思う面もあります。

神奈川県警:申し訳ない?

モロ:まぁ……。

なんともはやな会話と私は思いました。しかし、実のところこの神奈川県警の人みたいな追い詰め方を思考パターンに持っている人はネット上珍しくありません。相手の罪悪感をとにかく煽って、周辺の「どうでもよくね?」と思っている人まで焚きつけて「炎上=問題=原因を作った存在は絶対悪」といった流れを形成することはよくある話しです。

モロさんは反論を試みようとしていますが、何しろアウェーで相手は追い詰めに長けた玄人です。そりゃあ「まぁ……。」とも口に出てしまいますよね。しかし、これは新しい言質となってモロさんを苦しめるでしょう。「自分で認めたな」という言質を取ったなら終わりはどう収拾を付けるかは完全に神奈川県警の手の中に掌握されています。

しかし、炎上は嫌だが悪いことをしていたかどうかとは直結しないのでは?

私も炎上は嫌です。恐怖の対象でしかありません。しかし、炎上は嫌だが悪いことをしていたかどうかとは直結しないのでは?とも思うのです。なるほど悪いことをしたら批判されたり断罪されたり、四面楚歌な目にあうこともあるでしょう。

でも、だからといって全ての炎上がその状況を指し示しているかと言えばNOです。

過去にWebはいずれ全脳の集合知になると断言していた馬鹿な人がいましたが、それから十年以上経った現在はどうですか?集合痴ならありますが、そんな絶対的な集合知なんてありゃあしません。

炎上というのは一種の現象です。人が集まったとき何かしら動揺が走るとそれを収束させたり波及させたりする流れとして炎上という形式を取るのです。それ自体に善悪を量ったり、裁定を下すような機能は持ち合わせません。しかし、使われ方としてはあたかも集合知として多くの人の意思として扱われ他者を断罪するのです。実際の中身の煽り屋は指で数えられる程度だというのにです。

勿論炎上なんてしないにこしたことはありません。ただ、それを必要以上に評価するのは判断を誤る元だと私は思います。

よく毒親に自己主張が殺されたって言う話聴くけどさ

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Twitter見てるとこういう話をよく目にします。

でもって共感を集めたりしているんですね、とんでもなく。私も頭では理解出来るんですけどねえ。イラッとも来るんですよ、こういうの。

何故イラッと来るか

他人がこうやって絞り出した血の出るようなか細い声というか絵に乗っかるだけ乗っかっているとこがどうにもならなく嫌です。そうやって他人の褌で相撲を取っています。さらには、目の前にいない毒親を叩いては自分には既得権益があったのに得られなかったのは毒親のせいだと勇猛果敢に主張されたりするのです。匿名であることと結果的にそこそこの同調があって裏付けを取ってから乗っかることその両方がイラつきます。

いい歳してるんだから、顔のある個人として物を言えよ。自分の言葉で、自分の表現で、自分の親に!

赤の他人にどうでもいいこと主張して問題解決なんかするもんかよ。自分で自分の尻を拭いてから他人の尻の話しをしてくれ。何様なんだよ?

主語のでかさは面の皮の厚さ

言ってしまってはなんだけどね。結局こういう誰かにあてはまりそうなあるあるネタを出したり、それに乗っかるって言うことはとっても楽だし、リスクが殆ど無いんだよ。少しでも反論や異論が差し挟まれたなら、その場に揃った同病相憐れむ仲間達と袋だたきにすれば良いのだし、そもそも自分がどこの何者かなんてのは全くおくびにも出さないのですよ。そりゃあ無敵ですよ。

親が親なら子どもも子どもって言ってしまうと激怒されそうですが、自分がやりたいことを適当にでっちあげた無抵抗そうなペルソナに貼り付けて事なきを得ようとする心根のありようは親にそっくりな気がしてなりません。

反逆するならもっと特定の相手に特定のことで現実的にやるのが筋じゃ無いですかねえ。主語をでかくしてなにかやったような気になる面の皮の厚さにはため息しか出ません。はあ、そうですか、良かったですねと。

世の中色々あるけれど誰彼構わず他人の人生にいちいち口出すなよ

オマエモナーって言われそうだから先に封じておくけどね。自分は面倒くさいから誰彼構わずやるなんてことはしてないんだよね。何度も書くのも嫌なんだけど、特定の相手に特定のことを自分の意見として言うだけであって、誰にでも目に付いたところ片っ端から常識のように言うなんて厚かましいことはしていないんだよね。

あたしゃ口が悪いし言いたい放題言っているように見えるだろうけど、そこら辺の一線は守っているつもりですよ。あなたはどうですかね?妙に萎縮しているようで一旦出始めると図々しくも入ってはいけない領域にずかずかと入り込んではいませんかね?なんかよく見かける気がするんですけどねえ。

昔、「感染るんです」って漫画があってだな

こんばんは、DACです。

なーんていつ読まれるか分からないのに自分が書いてる時間をベースに書いてみます。さて、表題ですが、Twitterとブログでのお友達、一ノ瀬ほたるちゃんがこんなことを書いていました。

この内容への一般的な回答としてはこれというのが、やはりTwitterで見つかりました。Twitterにはうんこが圧倒的に多いけど、でもたまにこういうキラリと光るつぶやきが拾えるので有り難いですねえ。自分でこれをひねり出すことも出来なくは無いですが、相当苦戦しそうです。

要は表題通りなんですけど、メンタルは感染するものなんです。ほたるちゃんが特別感受性が高い訳じゃ無くって、それを改善するっているのは実はかなり難しい。はっきり言うと人間である以上不可避なことなので、そこに解決策を見出そうとすると詰む気がしてなりません。

私自身、そういった心持ちになることは結構あります。私なりの対処は「これは感染する」と直感したら、よほどそこで縁が深くない限りは切り捨ててしまうのが実態です。

恐ろしく冷たいようですが、私は面倒見られる範囲が自分で狭いと言うことを自覚しています。ですから仏心とか同情とかで自分ももろとも壊してしまうようなら元も子もないように考えているのです。ミイラ取りがミイラになるみたいなのですね。それじゃあ誰も救われません。

まずは自分を救いましょう。そうやって安全を確保した上で出来ることはそれなりにあるとも思うのです。
ichinose-hotaru.com

大人と子どもという対比で言うなら、私は「自分の出来ること出来ないこと、やりたいことやるべきでないことを知っていて実行判断出来るのが大人、その区別が付いていないのが子ども」だと思っています。勿論これが万人にとっての正解とは考えていませんが、この前提で少し見直してみたらいかがでしょうか?

あ、あとフィジカルにお年寄りになると、老眼、腰痛(或いはぎっくり腰)、骨粗鬆症、更年期障害、痛風、脳梗塞、白内障、緑内障、高血圧等色々な物理的な欠損が出てきます。これらは大概非可逆的な変化で一度なるともう戻らない類の物です。それでも我々は折り合って生きていくのです。私も患ってみて(メンタル的な側面でも)初めて「歳を取るとはこういうことか。。。。」と思い知った次第です。まだまだ、ほたるちゃんには遠い話しだけどいずれは必ずいずれかになる可能性が高いのですから認識をもって覚悟をしておいた方が良いとは思います。私はなってみて分かったのは悪い面だけでは無く、きづきも多々あったことを合わせてお伝えします。

ではまた。
【表題はこんなの(ほぼほぼ関係無いけど)「吉田戦車」先生の名作です!!】

伝染るんです。 文庫版 コミック 全5巻完結セット (小学館文庫)

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属性で語られるとたいがい「やられ役」な私の思い

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人間は色んな属性を持っています。一番手っ取り早く抜けなく重複無しで仕分けるのであれば「男性と女性」「50歳以上と50歳未満」「金持ちと金持ち以外」「イケメンとイケメン以外と女性」などがあります。

もっとも最近ですと世の中は複雑な実情に合わせてこのように単純に分けられない事情も孕んでいます。例えば最初の「男性と女性」ですが物理的に男性、女性を生来の性別で判別するのは乱暴で、本人の性的な自覚に基づいてその別を厳密化すべきという人も出てくるでしょう。LGBTは勿論のこと、そこまで明確で無くてもヘテロであるか(異性性愛者)否かなんてすごくざっくりした分け方でその中には恐ろしく多様な事例があるわけです。

何が言いたいかと言えば、今の世の中物事を通り一遍にぶった切ることは非情に難しくなっています。にわかにそうなっているのではなく、そもそもが複雑な状況が存在したけど認知しないマッチョな人だらけが物の見方を支配し続けていたのが、だんだんほころび始めたというのが正しいのかも知れません。

また、人間の属性は同時に複数持ち得る場合も存在します。「イケメンとイケメン以外と女性」などという切り方は、女性が評価者として配置され、男性はイケメンか否かで区別されるという文脈がまずあって「それはイケメンでは許されるけど、ブサメンでは許されない」というような展開にするのがお約束です。最近は飽きられたのかこういう文章を使う人は減っているように見えます。

結局のところ、MECEが成り立たないレベルでMECEっぽい話しの展開ミクロ事例からをマクロ展開すると、必ず違う事例が出てきてひっくり返されるか、無理矢理押し通そうとしてへんてこな展開が開陳され続けるかのいずれかのように思います。ネットの場合、油断して話しが盛り上がってしまうと後者のトンデモがあたかも世界の真実にまで格上げされてしまう状況をよく見かけます。「集合知は一体どこに行ってしまったんだろう、梅田ちゃん」と今は無きネット有名人の申し開きを求めたくなります。

そう。ただ同年代がろくでもなくて向上心が無いと言われると耳が痛いのです。そしてリアルに腰と足の甲が痛かったりして満身創痍なんですよ。認めたくないけどここ最近ドドッと歳を感じるイベントが来ているので50代って大変ねえなどとしみじみ思っています。そんな私ですからネタ的に軽く絡んだのでソフトな着地になっています。

まあ、これは私がOMGさんと少なからずTwitterで会話してきたから出来る話です。もし初見ならもっとギスギスした展開もあり得ただろうなあと思います。

属性で語られるとたいがい「やられ役」な私の思いとしては、そのままやられる気は皆無なので何かと関係性を作ることに意識を割いています。こう書いちゃうといやらしい感じになっちゃうんですけど、仲良くしましょお話ししましょ一般化せずに個別の事例を紐解いていきましょってなことですよ。

まあ、楽しくやりましょうよ、せっかくだしね。

ブログは文字を書かれるのを待っているだけ

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この言葉はストンと心に落ちました。正確には最初は心にグサリと刺さりました。なんとなく気になるワードだけど消化できずみたいな常態が30分。その後「ああ、なるほど」と思ってトゲのような何かが解けてサラサラとなっていくのを感じました。

この言葉には出典があります。

「ああ、なるほど」と思ったのは実際に書くことをあまり考えずにブログの新規作成ボタンを押して編集画面を見たときでした。毎度思う殺風景な編集画面です。タイトルと本文入力欄が空白でド━(゚Д゚)━ ン !!!とあります。この空白を何か意味のある言葉で埋めていくということを想像すると辟易するのです。ウンザリするだろうと事前から想像するのです。

しかし、見方を変えてみれば、ブログはただ待っているだけなんですよね。コンピュータで言うところの「コマンドプロンプト」、AIスピーカーで言えば「ウェイクワード待ち」待機状態からアクティベートされるのをただただ待ち受けているんです。生き物に例えるなら忠実なポチは吠えもせず尻尾だけ振って主人とのお散歩を待ち受けているみたいなイメージです。

そう考えてみると愛おしいという感覚も違和感無く受け止められます。ちょっとハグしてよしよししてやりたくなるじゃないですか?

ブログは生き物じゃ無いからハグしてよしよしは出来ないけれど、少しでも書いてみればその瞬間から受け入れてくれるのがブログツールだし、ブログなのです。文字数が何の形式がなんの受ける要素がなんのというのは後付けなんですよ。勿論それ自体がモチベーションになることも多々あるけれど、まずその場所に書き込んでみると言うことが大事なんじゃ無いだろうか?

私の知っているブロガーのブログタイトルに「ブログ作成ボタンを押しちゃった」というのがあります。こう考えるとなんとも本質を取り込んだガチすぎる秀逸なブログタイトルだなあと気付きました。押しちゃったという表現は意図せずやらかしたイメージだけど、それが出来る時点で最初の難関をクリアして楽しみに向かうことが出来るのです。「こんなこと書いてもつまんないだろう」とか「面倒だ」とか思っている暇なんて無いのです。だってもう押しちゃったんだから。

その点私のいぐだぐだわーくすは性格丸出しでぐだぐだと仕事をするという姿勢がまんまタイトルなんで、ちょっとのんびりしがちなんですよねえ。なんてことを考えました。

めんおうさん、考える機会を有難うございました。

2019年、節分。 日本列島が血に染まる...

f:id:dacs:20190202205150p:plain:w760

2019年、節分。
日本列島が血に染まる...

経済低迷、政治不信
弱体化し続ける日本に
とつじょとして
現れた「鬼女軍団」

狂瀾怒濤...冷酷無残...
...支離滅裂...諸行無常...
言語道断...無理無体...

四字熟語っぽいものを並べてみたが
奴らの進軍を止めることはできない

そういえば、
「鬼女」と「机上」は
響きが似ている
しかし「鬼女の空論」は
あまり見たくないものだ

鬼女を丁寧に言うと
「お鬼女う様(お-きじょうさま)」になる
ちょっと可愛い響きかもと感じた人は
そろそろ耳の検査と頭の検査が必要な年頃の人だろう

この前荷物を運ぼうとして
運び始めたのはいいが
久々に重い物を運んでみたものだから
余りにも無造作で
腰痛になってしまったのを
思い出した

そもそも本当に運び出す必要があるのかも
考えずに運び始めたのが
一番の失敗だ

子供の頃、大きくなったら
医者になりたいとか
平気な顔して言っていたけど
今思うと恥ずかしい

まあ、
不労所得で大金持ち
それは成れるものなら
今でも成りたいと思っている

お金があれば
愛なんていらない?

はい いいえ

どっちが正しいかなんて
正直どうでもいいんだけど

ただ一つだけ
言いたいことは

「鬼女軍団」は
結構洒落になってない奴らなんだよ♪

原作は

飛び出せにやんこ大戦争OPから
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

ネタだからな

いちいちめくじら立てるんじゃねえ。あんた、いい大人だろう?普通にネタはネタとして流せや、な。
この記事はお題「渡る世間の鬼の話(チョコっとした鬼の話)」の参加記事です。

習慣とは「鬼」の所業であるから素晴らしいのです

f:id:dacs:20190123064240p:plain:w760
え、何言ってるの?頭おかしいの?まあ、そう思われても致し方ない我ながら支離滅裂なタイトルですが、少しづつ私の本意を紐解いてみましょう。この記事はお題「渡る世間の鬼の話(チョコっとした鬼の話)」の参加記事です。

まずは習慣が鬼の所業である実例を挙げましょう。

毎日その日が何の日かを共有して下さる人がいます。凄いですよね!

「今日は何の日?」とかで検索したり、AIスピーカーに問い合わせると大抵色んなその日の由来を教えてくれます。例えば、今日1月23日は何の日でしょうか?Googleで検索すると色々出てきますね。
www.google.com
色々検索結果が出てきます。とりあえずたまたま一番上にでている1月23日 今日は何の日〜毎日が記念日〜をクリックするとこんな感じです。

  • 八甲田山の日:1902年のこの日、八甲田山へ雪中行軍に出かけた兵士210名が遭難した。冬の八甲田山は本来は冬の重装備が必要だったが、指導部の無謀さから兵士は軽装のまま行軍を開始したため、猛吹雪の中で道を失い寒さと飢えと疲労の為に遭難して行った。25日になって199名の死亡が確認された。
  • 真白き富士の嶺の日:1910年のこの日、神奈川県の逗子開成中学の生徒12人が学校のボートで乗り出し、七里ヶ浜で遭難して全員が死亡した。この遭難は社会的事件として新聞で大々的に扱われた。この悲報に接した鎌倉女学校の教諭・三角錫子が「七里ヶ浜の哀歌」を作詞し、この歌は全国で愛唱された。
  • アーモンドの日:カリフォルニア・アーモンド協会が2008(平成20)年に制定。アーモンド約23粒が日本人の成人女性の1日の摂取目安量であることから「1æ—¥23粒」で1月23日を記念日とした。
  • ワンツースリーの日:「123」で「ワンツースリー」とよむ語呂合せ。人生に対してジャンプする気持ちを持とうという日。

面白いですよね。そう、見ている人にとっては興味深く楽しいのです。

でも、ひとたびこれを作って下さいと言われると様相が様変わりします。読むは易し、書くは難しなのです。

一日とか数日とか限定されているなら何かしらの資料を孫引きすれば容易に作れそうですが、抜けもれなく作っていくとなると途端に難易度は跳ね上がります。

実はわたしの身の回りにも毎日その日が何の日かイラスト入りでつぶやいている人がいます。凄い!





それは半魚人@カレーライスの日 (@dabohaze2017) | Twitterさんです。何が凄いって毎日怠けず朝一番の”おはざいます。本日****å¹´**月**二値は「****の日」です”が手書き画像付きで習慣化しているところです。

絵のタッチから見てこれは容易だろうと思うのは見る方の勝手な低い見積もりです。いざ私がやってと言われると「うっ」と立ち止まって悩んでしまいます。

まず今日が何の日か調べる。幾つか候補がある中で絞る。そのテーマに合わせたイラストを作り上げる。それも朝一に毎日配信。

や、これは掛け値なしに凄いでしょう!鬼の所業と言って差し支えありません!

ということで、半魚人さん、あなたマジ凄い!尊敬します!普段こっぱずかしいから言わないけどこの機会に伝えますね。

習慣とは鬼の所業であるから素晴らしいのです

こう書くと半魚人さんが鬼のようにきっつい人と初見の方が誤解されるカモなので補足します。

半魚人さんはこのうえなくおだやかでフレンドリーな人ですよ。この私のお友達になってくださるくらいですから心は広い(卑下して言っているんじゃ無くてマジで私の浮き沈みは見ての通りですからね)

で、本題ですが、この凄い何か、鬼の所業の背景には習慣化があると私は思います。

つまりですね、歯磨きだろうと洗顔だろうとやっている人からすればやらないとむしろ気持ちが悪くなってしまうものです。

しかし、そういう習慣が無い人が行為を始めるとなると:恐ろしく億劫だったり大変だったりします。

ちょうど質量の高い物を動かすのが大変だけど、一旦動き出したら慣性で意外と動かすのが楽になったりみたいな;感じです。

手前味噌になりますが私も色んなことは習慣化してのりきっている場合があります。これは身につけるまでは大変ですが、一度動き始めたらやらないと駄目って位に生活の一部になるのです。

例えの上で鬼と書きましたが、こういう鬼であれば豆をぶつけて追い出すより、内に招き入れた方が幸せになれると思います。

ということで皆様も習慣という鬼の所業をもって幸せで楽しい生活を送って行かれることを私は祈っています。

ではまた

私もしかして今晩初めて…

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ジョヴァンナさんのツイキャスに参加して、楽しく時間を過ごすことになりそうなので事前通知です。

日時

本日2019年1月21日(月)の22:00(恐らく私が出るのは23:00からで少しキャスオープニングから遅い)見込み

場所

ジョヴァンナさんのツイキャス
twitcasting.tv

ざっくり内容

以下のざっくり二部構成。

  • 前回からのレビュー的な何か(22:00-23:00)
  • 今回のお題大喜利(23:00-0:00)

DACはゲスト的に大喜利から出られたらなと思って準備しています。とはいっても心構えだけでコンテンツ用意していません。参加者さんと楽しくやれたら良いなあと思っています。

この記事を書いているのは本日6:00くらいです。お時間ある方、お時間少しでも作れそうな人は是非聴いてみてください!!(*‘ω‘ *)ぐふふ

できるできないではなく、やるやらない。やってから尚考え次の手を行う

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よく「そんなことできないよ」ってなることありますよね。

でも、よく考えてみて下さい。あなたが抱えている課題(イシュー)は本当に「できるできない」なのでしょうか?私は殆ど全てにおいて「できるできない」ではなく「やらない」を代言した物だと思っています。なるほど物理的に不可能なことは出来ない。ただ、仮に出来たとしても「出来ない」ということにして「やらない」ことが多くありませんか?或いは「出来る」と思っているけど、自信が無いから「出来ない」ということにして「やらない」ということにしていることはありませんか?

「できる」「できない」は重要ではない

私がここで何を言っているかを整理します。要は「出来る」「出来ない」とは客観的な状況判断です。言ってみればファクトのように見える何かです。

しかし、それは本当にファクトであるか否かの検証は成されていません。ただただ「出来ない」「出来る」という空虚で中身の無い判断が先行して出ているだけです。確かに世の中無茶ぶりといえる物もあります。道具も紐も付けずに高いところからバンジージャンプをして生き残れという指示があったときにそれはほぼほぼ不可能な無茶な課題設定です。ですからこの設定で言えば「出来ない」という回答はかろうじてOKです。

「かろうじてじゃなくて当然でしょう、頭湧いてるの?」と思ったあなた、もう少しだけ冷静に考えて下さい。この場合の回答は「出来ない」ではないのです。ほぼほぼ確実に死ぬし大怪我をするから「しない」が正しい。はっきり言えば物理的には誰でも「出来ます」から単純に回答をすると「出来る」という回答しかあり得ません。論理をひもとけば「やっても損しかないと判断して行いたくない。馬鹿馬鹿しい」という判断があって結論の表現のひとつとして「出来ない」と言うなら正しいです。その思考プロセスや論理を端折って「出来ない」が先んじてしまっているのは結論から言えば何の頭も使っていないし行動に自信を持てない人の類型です。

くりかえしますが「できる」「できない」は重要ではない。それは結論として出てくるものの一つの表現形態に過ぎません。

「やる」「やらない」が重要

今は記事を書いてられる時間が無いので後で書きます。とりあえず時間が無いのでこれを聴いてみてください。この記事の元になる私のラジオ放送(CAST)です。