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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

『玉葉』と『断腸亭日乗』

2007-11-08 08:21:09 | Essay
素人考えですので、専門家には常識的なことかもしれませんが、ちょっと思いついたことを書いてみます。

それは、荷風が『断腸亭日乗』を当たって、九条兼実の『玉葉』の影響を多少なりとも受けていたのではないか、ということです。

ここで、老婆心からいささかの説明を。
『断腸亭日乗』については、永井荷風の日記ということを述べておけば、ことさら説明する必要もないでしょう。
『玉葉』は、平安時代末期(院政期)から鎌倉時代前期に、上級貴族である九条(藤原)兼実(1149 - 1207) が書いた日記です。

人によっては、
「昭和史を知る上における貴重な資料であり、鎌倉時代の『玉葉』や『明月記』に相当するものであることは明白である。」
と、『断腸亭日乗』と『玉葉』とを並べ、一流の日記文学/歴史史料として評価している人もいるくらい。

そのような共通点のある、この二つの日記ですが、さる本を読んでいたら、次のような『玉葉』の一節が眼に付きました。
「まことに我が朝、滅尽の期なり。悲しむべし悲しむべし」
この「悲しむべし悲しむべし」というような表現、『断腸亭日乗』に目を通した方なら、そこにも頻出することをご存知でしょう。

さて、となると、荷風は『玉葉』を読んでいたんじゃないか、と思えてくるのですが、どうでしょうか。
少なくとも、原本には目を通してはいないでしょうから、刊本が出たのがいつごろか、というのがポイントとなりそうです。

そこで調べてみると、「通行本」(おそらくは「印影本」ではなく、「活字本」)が刊行されたのが、1906(明治39)年から1907(明治40)年。
したがって、荷風が『玉葉』本文に目を通す可能性はあったわけです(ちなみに、荷風は「通行本」の刊行時、外遊中だった)。

ただし、これは、荷風が『玉葉』を読んだかどうかに、確答を与えることにはなりません。というのは、それについての直接的史料ではないからです。
また、小生の知らない「ミッシング・リンク」があるのかもしれないし、このような表現が、当時流行ったのかもしれない。

ただ、可能性があったことは確かなことです。

ここまでが、素人としての限界。
国文学界で、この問題に関しての論考などはあるのでしょうか。

ドイツ・ロマン派の「諦念」

2007-10-31 04:41:45 | Essay
ドイツ・ロマン主義の神髄とも言えるのが、F. シューベルトや P. チャイコフスキーによって歌曲化された、J. W. ゲーテの次の詩でしょう。
 憧れを知る者のみが

 憧れを知る者のみが、
 わが悲しみを知る。
 ひとり、ただひとり、
 なべての喜びを絶たれ、
 ひたすらみ空に、
 遠きかなたに見いる。
 われを愛し、われを知る者は、
 遠くにあり。
 眼くらみ、
 胸うちは燃ゆ。
 憧れを知る者のみが、
 わが悲しみを知る。

この自己陶酔じみたものが、ドイツ・ロマン主義には、どうしても付きまとうのね。
音楽で言えば、R. シューマンなどは、「生涯一青春」とでもいうような楽曲を作っていた(晩年に近い頃の作品、ピアノ曲集『森の情景』「予言の鳥」などを参照)。

ところが、同じドイツ・ロマン派に入れられる J. ブラームスは、ちょっと違った面を見せて/聴かせてくれます。
というのは、歳を取るにつれ、「苦み」が増してくる。いつまでも、青春の甘さに酔ってはいられなくなる。

これはブラームスが60代まで生きていたこととも関係があるのでしょう。
ちなみに、シューマンは40代で亡くなっています。

したがって「苦み」も増す。
小生の私見では、その正体は「諦念」なんじゃないか、と思われます。
可能性が徐々に失われる/狭められる。
自分に出来ることと、出来ないこととがハッキリ分ってしまう。
「あこがれ」という可能性が広がった世界から、「あきらめ」という可能性の狭い世界に。そこに安住しようとは思うわけではないが、住まざるをえないことに気づいてしまう。

ブラームスが晩年に達したのは、そのような世界だったのではないでしょうか。
aquira さんは、如何お思いになりますか。

台風と野分(のわき)と俳句と映画と

2007-10-27 00:42:35 | Essay
九州南方の海上にあった熱帯性低気圧が発達し、南大東島近海で台風20号となりました。

こうした台風の進路などが明らかになったのは、せいぜい20世紀に入ってから、また台風の発生が即時分るようになったのは、近々数十年前からのことでしょう(気象衛星「ひまわり1号」の打ち上げは1977年)。

ですから、戊辰戦争時、榎本艦隊は房総半島沖で台風に遭遇し、2艦を失うことになりました(〈美加保丸〉は座礁、〈咸臨丸〉は損傷、清水へ入港し新政府軍に拿捕される)。
それでも乗組員の中には、台風に遭うことを危惧した者もいました。

しかし、それ以前となると、直接の被害が起こらないと、台風だとも思わなかった。
ちなみに、古来から台風を含めた暴風雨は「野分」と呼ばれていました。
これは「嵐が過ぎ去った後の野の草が、いろいろな方向に倒れ伏した状態」を捉えていった語のようです。

さて、「野分」というと、小生がまず思い出すのが、
鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな
という蕪村の句です。

「鳥羽殿」とは、白河上皇が造った離宮の名まえ。
その名のとおり鳥羽上皇は、この離宮で院政を行ない、また崩御しました。
当時、やっと中央の政治に関与し始めてきた武者(平清盛や源義朝など)。京でいかなる大事が起ったのか、伝令の武者が五、六騎を飛ばしていく。
そういった情景を、嵐の中に描いた俳句です(「蕪村得意の時代劇俳句」との評もある)。

映画で、こういった荒々しい気象とともに、アクションを描いたのは、何と言っても黒澤明でしょう。
『七人の侍』での大雨の中での戦闘シーン、『用心棒』での空っ風の中での対決シーン、などなど。
こうして見ると、黒澤は蕪村の伝統を引いているとも言えるのでしょう。

さて、現在、そのような傾向の監督さんはいるのかしら?

プロフェッショナルの条件とは? その2

2007-10-19 08:53:59 | Essay
前回、プロの条件として、
「同程度の質のサービスを、コンスタントに提供できること」
を挙げました。

その際に、小生が最近感じた「拙宅の老人が受けているサービス」の質に問題がある、と述べました。
さて、「拙宅の老人が受けているサービス」には、3種類のものがあります。

 (1) デイ・サービス
「老人デイサービスセンターのこと。介護の一形態。日帰りで、対象者を通所させて行われるもの。」(「はてなダイアリー」より)

 (2) ショート・ステイ
「ショートステイとは、児童や障害児・者、高齢者の心身の状況や病状、その家族の病気、冠婚葬祭、出張等のため一時的に養育・介護をすることができない、または家族の精神的・身体的な負担の軽減等を図るために、短期間入所して日常生活全般の養育・介護を受けることができるサービスことである。」(「ウィキペディア」より)

 (3) 訪問看護サービス
看護士が「主治医の指示に従い看護プランに基づき、医療行為や日常生活」の世話をするもの。

これらのサービスには、国家的資格のある人(訪問看護サービスが典型)だけではなく、その手助けをする人たちも参加しています。

問題は、おそらく「手助けをする人たち」の質の問題なのではないかと思われます(もちろん、「国家的資格のある人」の場合も、個々に個性の違いや以前にどのような教育を受けてきたか、などによる違いはあるが、サービスの質という点では問題は少ない)。

もちろん、対象となる老人によって、障害・個性・正確などの違いがありますので、一律にマニュアル化することはできないでしょう。しかし、質をコンスタントに保つための工夫自体が、プロフェッショナルの条件でもあるのではないでしょうか。

それは、前回述べたコックやスポーツ選手の場合も同様でしょう。
体調や心理状態が良くない場合には、それをどのように補うか、などは、ほぼ無意識に行なわれているはずです。
コックの場合でいえば、普段より体力を必要とするしごとをした後は、塩味を控えるように料理するとか……(そうしないと、自分の体調に合わせて塩辛くなってしまう)。

しかし、人間を相手にするしごととなると、なかなか難しいようなのね。
些細な行動にも、どうしても体調や心理状態の悪さが出てしまう。
老人に対する暴力や虐待などは、言うまでもなく論外ですが、小生が観察する限りにおいて、行動の補助などに、ちょっとした手抜きが見られる時があります(老人が歩く時の支え方など)。

そのような手抜きは、場合によって老人の身体の危険につながる場合もありえないわけではない。
そう考えると、「同程度の質のサービスを、コンスタントに提供できること」を、もっと重要に考えてもらいたいものであります。

プロフェッショナルの条件とは? その1

2007-10-17 08:27:47 | Essay
プロのプロたる由縁には、いろいろなものがあるでしょうが、最近、小生が感じている条件は、次のようなものです。
「同程度の質のサービスを、コンスタントに提供できること」

ですから、その日、その日の気分によって味の違う料理を作るコックなどは、プロフェッショナルとはいえないわけです(まあ、それはほとんどないでしょうが)。
家庭の料理は、日々多少味が違っても、誰も文句は言いませんが、レストランとなると、顧客のクレームが付くことになってきます。

コックの場合が典型的な例ですが、スポーツ選手の場合も、それは言えそうです。例えば「三割バッター」というのは、そのようなことでしょう(だけど、30%程度しか確度がなくていいのかね)。

なぜ、それを問題にしているかといえば、最近、拙宅の老人が受けているサービスが、プロの名に価しない人によって行なわれている節があるからです。
ある程度、ご説明をしなければ、お分かりにならないでしょうが、いささか時間もかかることですので、それは次回ということに。

「プロとしての自覚を持て」とは、今の定義に沿って考えれば、気分によって体調によって、サービスの質が変わらないようにしろ、ということになるでしょう。
また、組織としては、そのような質の変化が起らないような管理をする、ということにもなります。

「畏怖」という感情と「宗教」

2007-10-13 03:48:19 | Essay
「畏怖」という心理状態/感情・感覚が、人にはあります。
何か人間存在を超えたものに対するときに覚える感情・感覚です。
ですから対象としては、いろいろな形がある。
ある人は、大自然に対して抱くでしょうし、またある人は藝術作品にも覚えることがあるでしょう。

このような感覚がないと、どうしても人間というのは傲慢になりやすいようです。ただでさえ「万物の霊長」と自己中心的に思っているのですから、近代に入ると、すべてのものは人間に所属するもののように思え、大自然でさえ人間に都合のいいように改造可能なもののと思ってしまう。

この辺りが、近代科学技術が批判される点でありましょう。
特に二十世紀も後半になり、遺伝子への操作や臓器移植などが可能になると、その限度の基準をどこに持つかが問題になってきました。

そうなると一つの反省基準として、「畏怖」を持つことが必要になってくるのではないでしょうか。

古くは、「畏怖」が「神」と結びつけられ、宗教が生まれてきた。
アブラハム宗教だと、この世の存在を形作った「神」という概念ですな。また、ありとあらゆる存在には「神」が宿る、という考え方も一方にはあります。
いずれにしても、人間存在を超えたものに対する「畏怖」が元になっているのでしょう。

一方では「畏怖」の対象を掴みたい/「合理的」に理解したいという欲求から、世界の説明原理としての「教義」「経典」が生まれてきます。
現在、このような「説明原理」としての宗教は、科学に取って代わられています。

一方では、超越的存在に何らかの働きかけをして、自分に都合がいいように操作する、という態度もある。
いわば「現世利益」を求める宗教活動です。これも古くからの宗教の機能の一つなのでしょうが、あまりにもご都合主義的なのは否定できないでしょう。

それでは、これからの「宗教」はどうあるべきか。
「畏怖」を元にした感情と科学とに、どのように折り合いをつけていけばいいのか。
この辺りが、小生の個人的な問題意識を含めて、今後の課題になっていくようです。

「派閥」という名のグループについて考えてみる。

2007-10-05 04:19:38 | Essay
今回は、小生らしくもなく、政治についての話題。

フランス人が3人集まると、2つの政党(与党と野党)ができる、といいます。
それならば、日本人が3人集まると、何ができるのでしょう。それは「閥」という名のグループのようです。

福田政権の成立にともなって、自民党の「派閥」はなくなったのかどうか、という記事が新聞雑誌に載っています。

これは「派閥」についての定義によって変わってくる議論なのね。

そこで、旧来の「派閥」の実態を見てみると、
「田中派は、戦闘集団といわれ、『田中軍団』と呼ばれるが、そのいかめしい呼称とは逆に、田中を『父』とする父長制的な構成で、家族的雰囲気がつよい。他のほとんどの派閥は、当選年次別に階層的につくられていて、高齢の五年生議員と若い一、二年議員が、一緒になって飲んだり、碁、麻雀など楽しむということはめったにない。ほとんどの議員が、代貸あるいはそれクラスの後輩(先輩の誤り?)議員を通じ、ワン・クッションをおいて親分である実力者に繋がっている。
田中派は、田中みずからが議員の一人一人に通じていて、父子のような形である。
一年生も、相談事があれば代貸を通さずに、じかに田中に会う。ともに雑談の時間をもったり将棋をさしたりもする。こんな光景は、他の派閥にはみられないことだ。」(戸川猪佐武『小説吉田学校 第八巻 田中軍団』)
となります。
この本も、他の作家(童門冬二がその典型)の『小説~』と称するものと同様に、小説にもなっていない低水準の「読み物」ですが、まあ、それなりに旧来の派閥の様子は分る。

何はともあれ、日本的な〈親分ー子分〉関係にあり、子分の親分に対する忠誠心に応じてポストや資金が配分される、という特徴を持っているようです(「ヤクザ組織」とよく似た組織。それが何より証拠には、「代貸」などということばが平気で使われている)。

また、そこで重視されるのは、人事(対人関係や義理・人情など)であり、けっして政策ではない、という点も指摘できるでしょう。
そうでなければ、戦後、政策すらはっきりしない何人もの総理大臣がいたことの説明はつきますまい。

そのような意味では、現在「派閥」という存在はなくなっている、とも言えるのでしょう。
しかし、旧来型の「派閥」はなくなったしても、変質した「派閥」はまだ存続しているようです。
「派閥集団によって作られるミクロコスモスが、政治家の自己承認の不足を埋める小さな共同体の役割を果たしていた。(中略)それ(=派閥)はポストや資金の配分、あるいは政策を形成するために必要な共同体というだけではなく、人を育て、鍛え、目標や価値を伝達する鍛錬の場として機能していた。」
「大方の派閥が犯した過ちは、余裕がなくなってもはや共同体などではなく、利益配分のマシンと化してしまったことだろう。」(吉田徹「寂しい時代の寂しい宰相」。「論座」2007年11月号)

これを別の言い方をすれば「強い〈しばり〉のグループ」から「弱い〈しばり〉のグループ」へ、ということになるでしょう。
そして、最後に残された「派閥」の〈しばり〉が、「利益配分」ということになります。

残念なことに、ここでも政策不在(ないしは軽視)という事実に変化はないようです。

1,000回の記念にもならないけれど……。

2007-10-04 04:55:30 | Essay
今回が、ちょうど1,000本目の記事となります。
当ブログの読者の方々に、感謝申し上げます。

第1回が2005年の3月14日、途中に休みはなかったはずですから、それから1,000日(ほぼ3年)が経った計算になります。
ちなみに第1回は、「地上の音楽とアットリビュート」というタイトルで、モーツァルトの楽器使用法について語っています。

その間、文体に多少の変化はあったものの、基本的に「です・ます」体なのは変わっていない点。
当初は「です・ます」体に、変化をつけるため「だ・である」体や体現止めを入れるのに、若干の苦心をした覚えがあります。しかし、それも何回も繰り返していく内に、適宜な挿入ができるようになった気がします。

ただし、当初から意識的に話しことば的にしようと思っていたものの、なかなかその点は上手くいっていません。
まあ、幾分採り入れる程度でしょうか。
というのも、完全に近く話しことば的にするとなると、小生の場合、東京下町方言になってしまい、耳障りな方もいらっしゃるのでは……、とも思われるのです。

その代わりと言っちゃあ何ですが、小説では会話文のみならず、地の文でも、どしどし話しことば的にしてみたりして。
そうなるってえと、何だか落語くさくなってきますね、やっぱり。
これもやっぱり「方言小説」の一種なのでしょうか。

「方言小説」らしきものを書いていて気が付いたのは、このような文体だと、一文がどうしても短くなること。会話的な文体なので、複雑なことを言うには、あまり向いていないのでしょうかね。
それを上手く生かせれば、短文の積み重ねで、調子を出すこともできそうです。ハード・ボイルドの文体みたいにね。

さて、他の方のブログを拝見していると、ブログらしい文体というものがありそうです。
それは、先述したように、口語的であること。これは意識なさってではなく、自然にそうなってきているようです。おそらく、ブログには限らない、お若い方の文体の特徴の一つでもあるのでしょう。

小生も、そのような文体を参考に、できるだけ口語的であることを意識していこうとは思っているのですが、はてさて、如何相成りますか。

それでは、これからも引き続きのご愛読をお願いいたします。

音楽の刷り込み

2007-10-02 04:27:24 | Essay

BRUNO
WALTER
CONDUCTS
MAHLER
SYMPHONY
NO. 1 IN D
"THE TITAN"
COLUMBIA
SYMPHONY
ORCHESTRA
(SONY MUSIC ENTERTAINMENT)


刷り込みといっても、ここでは印刷に関して述べようというわけではありません。
例のローレンツ(Konrad Lorenz, 1903 - 89)が、
「ガチョウが孵化させた雛は当然のようにガチョウの後について歩き、ガチョウを親と見なしているようにふるまった。」
という事実から発見した、
「特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する現象」
のことです。

それを比喩的に用いて、最初に聴いた曲の演奏が、その楽曲のモデル演奏になってしまう、ということを指摘したいのです。

小生の場合、このような楽曲の刷り込みに当たるのが、例えば、G. マーラー『交響曲第1番〈巨人〉』のB. ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏であり、M. ラヴェルの一連のピアノ曲における S. フランソワの演奏なのです(時代が分りますね)。

ですから、マーラーの交響曲の演奏にしても、ブーレーズ指揮のシカゴ交響楽団や、インバル指揮のフランクフルト交響楽団の演奏が、いくら良いと言われても、ちょっとピンとこないところがある。
ことほどさように、音楽の刷り込みは強烈なものがあります。
これ、どこまで一般化していいのかどうか分りませんが、まあ、ほとんどの人が体験するところじゃあないか。ということで話を進めます。

世の中に「名曲名盤」と称するものがあります(どこかマニュアル本と同じように、うさん臭いところが多々あるけれどね)。
けれども、実のところ、それを選んだ人の刷り込みによるものが、大部分じゃあないか、という疑いを捨て切れません。

その証拠(?)に、「名曲名盤」として挙げられているものの大部分が、かなり古い演奏だということがあります(人によっちゃあ、LP 時代や SP 時代のモノラル演奏を挙げるケースもある)。
いくらフルトヴェングラーやトスカニーニが名指揮者だからといって、今時それを世界最高の演奏として挙げるというのも、どうかと思うけどね。

骨董品の目利きになる一番いい方法は、一流の骨董品を数多く見ることだといいます。
しかし、音楽の演奏は、白鳳仏でもなければ、武蔵の枯木鳴鵙図でもない。むしろ、時代とともに生きているものでしょう。ここで、思い浮かべるべきは、利休が、朝鮮渡来の日常雑器に新たな美を見出して、珍重したという事実でしょう。
「批評とは、感性と理性とを二つの焦点とした楕円形である。」(ルネサンス期の賢人のことば)

「文豪・夏目漱石ーそのこころとまなざし」展を観る。

2007-10-01 03:41:36 | Essay
江戸東京博物館で現在開催中の特別展「文豪・夏目漱石ーそのこころとまなざし」を観てきました(2007年9月30日)。

この展覧会は、東北大学所蔵の漱石関係の資料「漱石文庫」の展示を主にしています。このコレクションには、漱石の所蔵していた書籍・雑誌のほかに、レジュメやメモといったものが含まれています(ただし、断簡零墨とはいえ、自作の小説に関するものは少なく、英文学関係のものが主)。
また、本年が漱石の朝日新聞入社100年ということもあり、朝日新聞社も主催社の一つとなっています。

さて、会場では、漱石等身大の「漱石人形」が、再現された合成音声で入場者を迎えてくれます(「よく、いらっしゃました」などとは言わないけれどもね)。
小柄で痩せているのは、ちょっと意外でした。ツイードのスーツは、英国で誂えたものなのでしょうか、生地といい仕立てといい、なかなか身にあった出来映えです。

展示内容は、ほぼ生涯の軌跡の順になっています。
幼少時代はともかくとして、学生時代のものとしては、高校(もちろん旧制)時代のノート類や答案用紙など。

この時代のことですから、外国人教師による英語での講義で、ノートにしても答案にしても英語で書かれています。
こんなところにも、明治初期の高等教育が、外国からの直輸入だったことが、今更のようにリアルにうかがうことができます。

漱石の理数系の点数が良かったことはよく知られていますが(当初は、建築家志望)、答案用紙を見る限り、高校での数学のレヴェルは、そんなに高くはなかったようです。ごく一般的な公式を知っていれば解ける問題で、これなら現在のそれの方が程度が高いでしょう。

さて、留学によって、漱石の英文学研究も本格的になるわけですが、当時、英国で購入した書籍類の多さには驚かされます。
それも専門分野の書籍に限らず、イプセンの戯曲集(英訳)や、ヘンリー・ジェイムズの心理学、ニーチェの『ツァラトゥストゥラはかく語りき』(英訳)などのほか、美学や社会進化論の専門書もあって、その勉強が広範にだったことが分ります。

これらに比べると、専業小説家となってからの資料は、さほど多くはありません(装丁関係のものは、結構展示されているんですけど)。この辺りの資料を観るには、別の機会を待たなくてはならないんでしょうね。

余談になりますが、漱石の南画も何点か展示されていますが、いずれも出来はあまりよくありません。まるで出来の悪いものを選ったようで、このような出展には一考を要するところ(小生の趣味では『あかざと黒猫図』など、出来が良いと思う。群馬県立土屋文明記念文学館所蔵)。

以上が、ざっとした感想ですが、会場を出たところには、ミュージアム・ショップがありました。漱石関係の書籍が主で、さすがに「漱石まんじゅう」(漱石が五高の教師をしていた熊本にはあるそうです→こちら)の類はないだろう、と思っていましたが、これがあるんです。
書籍の形をしたもなかです(空也のもなかや藤村の羊羹は、漱石の好物)。
食い物に名まえがつくようになれば、「文豪」として認められた一つの証拠になるんでしょうかね(ちなみに、津和野には「森鴎外まんじゅう」があるそうです。製造元のHPはありません)。