弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

The Mind Disaster -2 危険な食べもの

2011å¹´11月09æ—¥ | åŽŸç™º 3.11 フクシマ
 いちいち断るのもばかばかしいが、一応書いておく。僕は、「アメリカより中国に飲み込まれたほうがマシだ」などとは微塵も思っていない。何をもって「飲み込まれる」というのかにもよるが、たとえば今のアメリカのポジションに中国がなって、アメリカと同じような関係性を我々に強要するという意味なら、断じてそんなことは御免である。もしそんなことになれば、今アメリカに対してムカついているのとそっくり同じに、中国に対してムカつくことになる、だけの話だ。それは相手がどこの国であっても、同じことである。
 逆に「韓流」ブームのように、中国の料理やら音楽やらアイドルやらが日本でもてはやされるという程度の話なら、勝手にすれば、としか思わない。というか、そんな具合の中国文化の浸透なんて、古代の昔から途切れなく続いているのであって、その意味ではとっくに「飲み込まれて」いるのである(普通はそれを「飲み込まれる」とは言わず、単に「影響を受ける」とか言うのだけど)。

 もちろん一般の人にとって、昨今口の端に上る中国の(経済成長に伴う)「脅威」とは、そういう次元の話ではないことも、わかっている。たとえば農産物や衣料品などの生活物資のなかに、安い中国産が高いシェアで割り込んできている、あるいは安い労働力として中国人労働者が雇用されていることなどが、一番身近に感じられる「脅威」なのだろう。消費者として・雇用者としては、安くて得をしているのに「脅威」というのもずいぶん身勝手な発想だが、ここではその問題には触れるのはやめておく(時間がない)。

 経済学の細かな議論などは興味ないので、ごく正直な直感的な思いを「輸入」に関して述べさせてもらえば、中国に限らず、外国産・外国製の食料品がこんなにも入り込んでいる事態そのものが僕はイヤだ。どの国だからいい・悪いという話ではない。特に加工食品ならともかく、野菜や海産物のような基本的な食材を、国産より安いからと、やたらに輸入促進する貿易体制にはどうしたって馴染めない。それは輸入する側の国民の安全に関わるだけでなく、輸出する側の国の正常な一次産業の発展・維持にも禍根を残す、ひいては地球全体をおかしくしてしまうやり方だと思うから。

 そういう原則でものを考える僕だが、何ヶ月か前、偶然に耳にした話で、ある種呆れた、ショックだったことがある。
 僕の友人がとある懇親会で、農協に近い筋の壮年男性と話をしたのだそうだ。その席で友人が、その頃報道され始めていた食品の放射能汚染の話題を振り向けたところ、その相手の人は顔をしかめ、そんなものは心配要らないんですよ、マスコミが騒ぎ過ぎなんですよ、ちゃんと検査してるんだから大丈夫ですよ・・・、つまりは風評です、という説明をした。ここまでは、まあ立場上そう言うだろうな、という感じの話である。
 だがそれに続いてこの人は、「中国産野菜のほうがよっぽど問題ですよ」と強弁したのだという。いわく、農薬の基準が日本より甘いから、食べたら体に悪いとか、なんとか。かなり自信満々に、くり返し。
 新聞・週刊誌に載っていた話の受け売りなのか、「農協関係」というからご自分の仕事で検査をしてのことなのか。あるいはどこかの検査した人からの内部情報に基づいているのか。どれだとしても、おかしな話である。そんな毒を含む食べものなら、なぜ日本に入ってきた時に、はねられないのだろうか?日本にはそれを検査する技術、体制がないのだろうか?もしそうだとしたら、税関をはじめとして、そんな検査もしないままに、次から次へと輸入を続ける、それは誰が悪いのだろう?

 そこで、「風評」である。
 中国で加工した餃子に毒物が混入される事件があった。それからしばらく、中国産の同様の加工食品は売り上げが落ちた。当たり前だ。あくまで一部であって、ほかの製品に落ち度がなかったとしても、同じタイプの食品を買うのには慎重になるのが、消費者として普通だろう。現に健康被害者が出ているのだ。生産者は「それは風評です」と言いたいだろうが、消費者からすれば当然の自衛をしているに過ぎない。
 同様に、中国産の野菜の安全性に問題があるなら、それを何らかの数値を示して報道したらいい。それを見て、消費者がどう判断するかである。実際にはこれらの野菜は、とにもかくにも日本の国が定めた「基準値」をクリアしている。だからとどこおりなく輸入され、店頭に並んでいるのだ。しかし、そんな基準値などあてにならないと思うなら、買うのを手控えるのは消費者の権利だ。そんなの風評です(泣)、と中国の農民に言われようが、日本の輸入業者に言われようが、買う側の勝手である。
 幸いなことに、輸入食品に関しては、我々はこのように選択の自由があるのだ。中国産は危ない、あるいは中国なんて大っ嫌いだ!という人は、ラベルを調べて、中国産以外のものを買えばいい。多少怪しくても安い方がいいやとか、わりと中国産の味が好きだというなら、そっちを買えばいい。とにかく、選択できるのである。
 もちろん、産地偽装されている場合はその限りではない。だが、偽装があるとしたら、それをするのは誰だろう?僕が思うに、それは日本の業者がやるのだ。中国産では売れないから、○○県産などと書き換えて。としたら、それについて日本人を騙しているのは、日本人だということになる。

 では、これを放射能の話に置き換えてみよう。
 ある地域の野菜から、放射能が検出された。あるいは検出されていないが、それは器械の検出限界値が高いせいかもしれない。いずれにしろ、店頭に並んでいるものに関して、日本政府としてはそれを、「基準値をクリアした」と保証している。
 あとは、その基準値が妥当かどうか、個人の判断である。政府が大丈夫って言ってるんだから大丈夫だと思うなら、買えばいい。そんな基準値、ゆる過ぎてとても安心できないというなら、やめておけばいい。そもそも数値を個別には教えてくれないから判断しようない──だから大事をとってやめておく、ならそれもいいだろう。
 ところが、そのような消費者としての当然の選択行動をしようとすると、「風評を助長する行為」「風評被害に苦しむ農家の身にもなれ」と、やんわりとした非難の目にさらされることもあるのが、わが国の現状なのである。
 放射能では、何か毒物を食べたり飲んだりした時のように、即座に体に異常が出ることはない(摂取量にもよるが)。しかし、わずかな量であっても、長期的にリスクを伴うことは学問的にわかっているのだから、このリスクを回避しようとすることは決して「風評に踊らされた行為」などではない。毒入り餃子を恐れて中国産餃子を一律買い控えることに比べても、よほど科学的に理に適った自衛行動だ。まして小さな子どものいる家庭なら、そうした点で特に神経質になるのは当たり前の話だし、むしろ親の義務というべきところかもしれない。
 しかし、その当然の行動が、蒙昧で身勝手な行動であるかのように、政府や行政、大手マスコミらによって訓示される。危険な(かもしれない)ものを、あえて食べるように社会的な圧力が加えられる。情報開示は乏しく、他方で危険を訴える科学的な意見は各方面から寄せられているにもかかわらず、わが子を守ろうとする理性的な行動が、ヒステリックでジコチューな行動のように言及され、描写される。結果、選択してはいけない、と思い込まされる。むしろ積極的に買わないと、と思い込まされる。

 このような状況の只中で、先の「農協に近い筋の人」は「中国産野菜のほうが問題」と言う。
 「のほうが」とはどういうこと?と僕は思う。
 中国産品をかばいたいわけではない。全然、そんなこととは関係ない。個人的に中国産の野菜なんて、ひとつも要らないと思っているくらいなのだ。ただ、中国産品の流通が問題であるという、その同じ理屈を素直に適用すれば、放射能汚染の疑いのある食品を、「被災地復興」の美名の下に流通させられ、選択の余地なく食べさせられる状況のほうが、さらにヤバイ問題であることは明らかではないか。
 なのに、かの人は、逆のことを言う。なぜ理屈に合わない逆のことを言うのか?
 それはこの人が、この社会のなかで「中国」についての拭いがたい偏見と「脅威」説を刷り込まれ、それを冷静に検証する思考過程を持っていないからだと、僕には思える。
 また、そんなに中国産野菜が問題だというなら、食品の放射能汚染を訴えている市民たちのように、なぜ自分で検査体制の不備を社会に知らしめ、抗議する行動を起こさないのだろうか?(たとえば「反中国野菜デモ」とか)。それこそ「中国産野菜のほうが」という根拠をきっちり示せば、賛同者はすぐにも日本全体に広がり、政府を動かし、審査基準の厳正化に寄与できるのではないだろうか。
 それをしないのは、そのような根拠がないばかりか、それに近い「風評」を流したならば、かえって中国産野菜の販売で儲けている有力な日本の業者から非難を浴びることを知っているから、ではないか。
 それは中国のせいなのか?僕にはそうは思えない。日本人同士がお互いに騙し・騙され合っているだけにしか見えない。

 結局、いない敵に向かって石を投げている。彼の石は、中国になんぞ届きはしない。ただ、外への敵意をブスブスと燃やしながら、内側にある矛盾を覆い隠している。
 しかも、福島事故は中国の責任ではない。彼の石を投げる行為は、福島事故の被害に会っている人たちにとって、何の救いにもならない。事故の影響を極力小さく見積もる国や東電の見方に寄り添い、正当な被害補償を求める動きを封じる権力、社会の同調圧力のほうに加担している。明らかに、日本国民に対する加害者は国であり東電なのに、その加害者をかばう形になっている。
 中国のほうが・・・といって、いない敵を加害者の役に据えて、話をそらし、自分はいなくなってしまうということは、否が応にもそういう構造に与することである。自分の職種に近いはずのその問題に対して、有効な改善の動きに出ることさえない。ただ中国のほうが・・・と言って、いなくなってしまう、そのような「いなくなる人」で充満し、閉塞している社会と、気がつけばもう何年も、向き合わされている。
 それでみんなよく平気だな、思うのだ。

※付記
 TPP推進論者の論旨も、当初の「経済的メリット」強調から(それが論破され尽しているので)、「中国の脅威」強調に変わってきているという。この場合の脅威は経済的なもの、軍事的なものの双方で、「だから米国に頼らなければいけない」。その化石のような思考の妥当性を考える以前に、そうやってコロッと論旨を取り替える連中が推進しているという事実ひとつをとっても、TPPのまやかし、危険性は明らかだろう。
 ただ、農協はTPP反対の立場だけど、上に示したように「農協に近い筋の人」が中国脅威説に与している、という場合がある。その場合でも、農業政策の一貫性のなさ、ヴィジョンのなさが日本の独自性を保つ体力を失わせているという自覚があって──結局アメリカがどう、中国がどうという以前に、それが本当の問題なのだと思う──、それを克服する方向で中国野菜の問題にも言及するというなら、僕はむしろ歓迎したい(ただし、TPPは農業だけの問題ではないが)。

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