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2015年8月11日火曜日

W. E. B. デュ・ボイスからマルコムXまで: 反核運動の語られざる歴史

[Resouce]
W. E. B. Du Bois to Malcolm X: The Untold History of the Movement to Ban the Bomb (2015/07/30)

マーティン・ルーサー・キング Jr. 牧師がヴェトナム戦争への強い反対を表明したとき、メディアは彼の市民権要求の道から逸れていると非難した。多くの人は「その件はほっておけ」と言葉を費やして彼を止めた。しかし実際は、アフリカ系アメリカ人の指導者たちは彼以前にも、平和と正義に関する幅広い問題に関心を抱き続けてきており、特に、核兵器に反対してきた。不幸なことに、この事実は主要な出版社がつくった歴史教科書からは排除されてしまっている。

1964年6月6日、日本の作家と被爆者団体が、広島長崎世界平和研究ミッションの一部として、ニューヨークのハーレムを訪れた。

日系アメリカ人活動家のユリ・コウチヤマがハーレム・マンハッタンヴィル公共住宅プロジエクト内の彼女の自宅で、友人であったマルコムXと共に、被爆者団体のレセプションを主催した。マルコムは「みなさんは原爆に傷つけられてきました。みなさんがご覧になったように、私たちもまた傷つけられてきたのです。私たちに落とされた爆弾は、レイシズムと言います」と挨拶した。彼はさらに、獄中の生活、教育やアジアの歴史について話を続けた。話がヴェトナムに移り、マルコムは「もしアメリカがヴェトナムに兵隊を送ることになるなら、進歩主義者はそれに抗しなければなりません」と述べた。彼は「ヴェトナムの闘争はすべての第三世界の闘争であり、植民地主義、ネオ植民地主義、そして帝国主義との闘争なのです」と述べた。マルコムXは、彼以前に公民権の問題に関わっていた多くの人々同様、植民地主義、平和と黒人の自由のための闘争といった問題を常に関連付けて考えていた。しかし、今の生徒たちがこの話を聞かされることはめったにない。

南軍旗を取り巻く昨今の進展と共に、アメリカの歴史教科書に何が含まれ、誰がそれを決めるべきか、という問題に関する新しい論点が出現している。アフリカ系アメリカ人の歴史に関して言えば、多くの場合教科書は黒人の自由を求める闘争を、モンゴメリー・バス・ボイコット事件とワシントン大行進のことだと説明されてしまう。ローザ・パークスとキング牧師は綺麗に整理された枠内に押し込められ、奴隷制、黒人隔離、公民権運動を、国際問題とはいっさい関係のない、純粋に国内問題と見ることで、生徒は黒人の自由を求める闘争の国際的な側面を見落としてしまう。しかし、マルコムXは、1945年から続く、活発に核非武装を求めたアフリカ系アメリカ人の長いリストの一人であった。W.E.B.デュ・ボイス、ベイヤード・ラスティン、コレッタ・スコット・キング、マーティン・ルーサー・キング Jr. 、そしてブラック・パンサー党などは、公民権の問題を平和問題と関連付けて考え、黒人の自由のための運動を広げ、それをグローバルな人権という概念の一部に定義するのを助けた多くのアフリカ系アメリカ人の一部である。

もし生徒がデュ・ボイスについて学ぶとしても、それは全米有色人種向上協会 (NAACP)の設立に寄与したことや、ハーヴァード大学から博士号を受けたことなどについてである。しかし、デュ・ボイスは広島と長崎への原爆投下の数週間後に、トルーマン大統領をアドルフ・ヒトラーと結びつけて「我々の時代の大量殺戮者の一人」と呼んだのである。彼は日本も訪れ、核兵器の利用を批判し続けていた。1950年代、韓国でもう一つの「ヒロシマ」が起こる恐れがあった時、デュ・ボイスは「核兵器禁止」請願によって核兵器を捨てるために黒人コミュニティが努力するよう、まとめあげた。多くの生徒は彼らの学業全体の中で、デュ・ボイスの国際関係における業績について学ぶことはない。

もし生徒がベイヤード・ラスティンの名前を聞くことがあっても、それはワシントン大行進に関する彼の業績に関連してである。彼はアメリカの歴史教科書の中で悲劇的なまでに小さな扱いしか受けていないが、これの主要な原因は、彼のホモ・セクシャリティによる。しかし、公民権と平和に関する彼の活動は、1930年にまでさかのぼる。1959年の公民権運動の最中に、ラスティンはアメリカ合衆国の制度的なレイシズムだけではなく、フランスがアフリカ大陸で最初の核実験を行おうとするのを阻止しようとガーナを訪れたこともある。

最近では、いくつかの教科書がキング牧師のヴェトナム戦争批判を掲載するようになった。しかし、キング牧師の反核兵器運動はその10年以上前の1950年代後半までさかのぼる。1957年から彼の死まで、演説、説教、インタビューや行進の機会に、キングは戦争と核兵器の利用に抗議し続けていた。キングは核実験の停止を訴え、「黒人であれ白人であれ、すべての人が置かれた文脈の中で、確立された社会正義を持つことの究極的な価値となるだろうことは、ストロンチウム90あるいは核戦争による破滅に直面しなくていいようになるということであろう」と述べた。1962年10月のキューバ危機の後に、キングは政府によびかけ、核兵器に使われている何十億ドルかのいくばくかを、教師の給料を上げることや、貧困地域に必要とされている学校を建てることに使うべきだと訴えた。2年後、ノーベル平和賞を受賞したキングは我々の社会の精神的および道徳的な遅滞は、人種的不公正、貧困と戦争の三つの問題の結果であると述べた。核の時代にあって、彼は社会がレイシズムと絶滅の危機を除去しなければならいと警告した。

キング牧師の妻は彼の反核の姿勢に大いに影響した。コレッタ・スコット・キングはアンティーク大学の学生時代に彼女の社会運動を開始した。1950年代から60年代にかけて、キングは多様な平和運動組織と一緒に活動し、また女性活動家の団体とともに、ケネディ大統領に対して核実験禁止を要求する運動を始めた。1962年に、コレッタ・キングは、ソ連とアメリカの核実験禁止条約を結ばせようとする世界的な試みである、ジュネーヴでの軍縮会議における「平和のための女性ストライキ」に代表として出席した。彼女の帰国後、シカゴのAME教会でキングは「私たちは核戦争で自分たち自身を滅ぼすかどうかの瀬戸際にいます。公民権運動と平和運動は究極的には同時に働かなくてはなりません。なぜなら、平和と公民権は同じ問題の一部なのですから」と述べた。

もうじき、私たちは広島と長崎の原爆投下70周年を追悼するであろう。1963年のワシントン大行進かの記念日からそうたってはいない。生徒は学校と彼らの教科書に戻るであろう。しかし、ほとんどが、これらの問題がどう関連しているか、学ぶことはないであろう。彼らは、公民権運動の中にいた人々が同時に平和のために戦った、ということを学ぶことはない。しかし、この状況はすぐにでも変えなければならない。マルコムXが述べた、戦争、貧困、レイシズムで傷つくことは未だに続いている。生徒たちが、この「死の三つ子」に挑戦する社会運動の長い歴史について学ぶべき時がきているのである。

ヴィンセント・J. イントンディはモンゴメリー・カレッジ准教授(歴史学)であり、アメリカン大学核問題研究所の所長である。著作に"African Americans Against the Bomb: Nuclear Weapons, Colonialism, and the Black Freedom Movement" (Stanford University Press, 2015) がある。