2005.05.15

O(オー)

「それはどういうことですか?」
「だから、ちょっと、オタクに見ていただこうということになってね」
「……沖ノ鳥島を、ですか?」
「遺跡があった」
「本当ですか?あんな海の底に?
ニュースでは言ってなかったけど……」
「まだ、発表はしていない」
「どうしてですか? 世界的な発見ですよ」
未音は大崎のウルトラマンのようにつるりとした顔を思い出した。
泥棒が入り、蔵が荒されて色々盗まれたと父親から連絡があり、実家のある海辺の町に戻って二日目のことだった。
未音の家は伊豆にあり、その地方では旧家だった。
荒らされた土蔵の中を片付け、一息ついた時に、その電話は来たのだ。
大崎が珍しく、次の言葉を躊躇った。
「それが、ちょっと、理由ありでね」
「わけあり?」
「変なものが出たんだ」
「変なもの?」
「オーパーツとでも云うか……」

大崎とは半年前、友人のパーティで知り合った。
政府関係者と言う彼の紹介だったが、大崎は気さくな男で、未音が考古学をやっていると言うと、詳しく現場の様子を聞きたがった。年も未音が三十歳、大崎は三十三歳とさほど離れていなかったので、子供の頃嵌っていたヒーローの話で盛り上がった。
その後、二回誘われて、一緒に酒を飲んだ。
大崎の行きつけと言う居酒屋で、一方的に大崎がしゃべり、未音はもっぱら聞き役だったが、結構楽しい酒だった。

2005年インド洋の島々に大きな被害もたらした地震の後、日本でもM7.0クラスの地震が続いた。
そして、東京を始め、関東、東海に甚大な被害をもたらしたM8.0の大島沖地震。

大島沖が陥没し、その代わりのように、沖ノ鳥島付近の海域が隆起した。
地震の被害に気を取られて、国民はこの報道にあまり関心を払っていなかったし、単なる海底隆起と今でも思っているはずだ。
その島に、何千年も海底にあったのに、しっかりとそれとわかるほど立派な遺跡群が有るということは、政府関係者でも一部しか知らない極秘事項だった。
今、火山噴火の危険が有るという理由で、この領域は空も海も閉鎖されたままだ。
日本の排他的経済水域を広げていた小さな島は、今では300mほどの高さの山の頂になっている。

周りの海面が上昇して一年。
未音に電話が掛かって二週間後、未音は自衛隊の駆逐艦の艦上からその島を眺めた。

「結構大きいですね」
未音は隣の大崎に話しかける。
大崎は、咥えタバコのまま頷く。
「南北に90キロ、東西に60キロという細長い島だ。
もっとも、満潮時には半分は海に沈みますがね。
日本の希望の島ですよ」
隆起して、まだ一年しか立っていないのに、島にはまばらに草が生えている。
だが、ほとんどは黒々とした岩の塊のような島だ。
「これ、どうぞ」
自衛隊員がガスマスクを持ってきた。
「毒ガスが発生しているんですか?」
未音が驚いて聞くと、隊員は苦笑いする。
「いや、それは無いですけど、かなり臭いんですよ。
気持ち悪くなる人もいるんで。良かったら使ってください」
確かに、島に近づくにつれて、腐った貝のような臭気が漂い始め、二人は早速渡されたマスクをつけた。
何千年もの堆積物が空気に触れて腐り始めているらしい。

小船で入り江に上陸すると髭ぼうぼうの男が二人を迎えた。
男はもう慣れっこなのか、マスクもしていない。
髭が伸びっぱなしだから、マスクをし辛いのだろうと未音は噴出しそうになった。
大崎は男を見て笑いかける。
「高田さん、ずいぶん、ご立派になりましたね」
「え?」
「まるで、五月人形みたいですよ」
「五月人形?」
男は何のことか分からないらしい。
鍾馗様のことか?と未音は思う。
なるほど、大崎はそんなものを飾る家の育ちか……
未音は旧家の末裔だから、親は昔からの節句を大事にして、そう言う飾りもしっかりする。
だが、友人達の親はあまりしないらしく、そう言う話はまるっきり通じない。
未音の家の土蔵には五月人形やお雛様、そのほかに何に使ったのかと言う飾り物が山のように積まれている。
節句ごとに、その土蔵から先祖代々伝わっている飾り物が出され、座敷に並べられた。
その中には髭ぼうぼうの鍾馗様もあった。
それも今度の泥棒は持っていった。
残っていたのは、未音が子供の頃に遊んだおもちゃとか、食器や衣類だけだった。
あんな骨董品をどう捌くのかと、両親と首を傾げたものだった。

高田と紹介された隊員の運転する車は上陸した地点から丘に向かう。
かなりの悪路だ。
胃袋が口から出るかと思うほどの揺れを我慢しながら、未音は島を見廻した。

向かっている丘と並んでもう少し高い峰がある。
山の頂上にはコンクリートの建物のようなものが見えた。
かつて、あの部分だけが沖ノ鳥島と呼ばれていた。
コンクリートの塊が、周囲200海里の日本の専管水域を作り出していたのだ。
温暖化の影響で今にも沈みそうになっていたのにと未音は複雑な思いでその山を眺めた。
あの山の隆起は、何万人と言う犠牲者を生んだ。

「東京も海に沈んで3000年も立てば、こうなるのかな?」
これ以上車では無理と言うところで降りて、丘を目指し歩きながら、マスク越しに大崎が言う。
「かなり、立派な都市だったようですね」
そこここに突き出た柱を避けて歩きながら、未音は答えた。
「こんな文化がここにあったなんて、どこの国の歴史にも伝承が無いのは何故だろう?」
「それだけ古いと言うことでしょう」
三人はやがて、丘の中腹にある、こんもりとした泥の山にたどり着いた。
高田もマスクをつける。
ここは海辺よりもかなり臭いらしい。
臭気が強くなっているのは、乾いてきたところを掘り出して、泥の中に封じ込められていた建物と一緒に臭気も掘り出してしまったからだろう。
泥の山の一部が取り除かれ、滑らかなクリーム色の石のドームのようなもの覗いている。
それは日光を反射してまぶしい。手を翳して見上げるとかなり大きな建物のように見えた。
完全防備の自衛隊員が大崎を見て敬礼する。
未音は大崎の正式な部署や身分を知らないが、少なくとも、この男にかちかちの敬礼させるくらいの地位はあるらしい。
「中に入れますか?」
「どうぞ」
大崎が先に入った。
高田に促されて、未音は続いて入った。
中はつるりとした感触のプラスティックのような材質で囲まれた小部屋になっている。
入ったところの向こう側にはアーチ状の出入り口があった。
そこから廊下に出るようだ。
大崎はマスクを取った。
「臭いませんよ、ここ」
そう言われて未音もマスクを取った。
この球体の中にはあの臭いがしていない。
未音は大きく息を吸った。新鮮な空気だ。
大崎はアーチ状の出入り口を出て進む。
未音はあわてて後を追った。
真ん中に大きな吹き抜けがあり、その周りを廊下が回っている。
この廊下は結構高い階になるようだ。吹き抜けの底を見下ろすと、かなりの下に作業している隊員が見えた。
窓や照明はひとつも無いのに、ほんのりと通路は明るい。
「あそこの壁が外の光を透かしているんですよ」
高田が天井を指差す。
泥を払われた南側の天井が外の光を透かしているらしい。
「夜になると暗くなります。月明かりの夜はほんのりと銀色になってとても綺麗ですよ」
「光源は無いの?」
「照明やスイッチのようなものがありますので、動力が通れば、夜間も明るいのかもしれません。
動力部分と思われる隣の建物は壊れて、壁が残っているだけなので、
エレベーターらしきものもあるのですが、今は使えません。
申し訳ありませんが、この通路を下まで降りてください。
今後、調査が進めば、未知の動力源が見つかるかもしれないと、期待しています」
卵の殻の中身をぐるぐる廻っている通路を降りて、底の部分についた。
そこも壁を通した外からの光でほんのり明るい。

「凄い」
思わず、未音は声を上げた。
淡い壁からの光に照らされて、何千何億と言うきらきら光る石のようなものが床に散乱している。
この外壁と同じような材質だ。
壁の光を受けたものは淡い光をそれ自体が放っている。
大きさは様々で、未音の背丈くらいのものから、掌に収まるくらいの大きさのものまであり、それぞれが淡いクリームやピンク、薄い水色、様々な色に輝いている。
「綺麗でしょう?」
大崎は未音の反応を窺う。
「ここは密封されていたんですか?」
「ええ、一点の染みも無く綺麗な状態で保存されていました」
「泥の中で何千年、もしかしたら何万年、眠っていたんですよ。この石たちは…」
大崎と高田の説明を聞きながら、未音はあまりの衝撃に言葉を失っていた。
「ここはライブラリーのようなものだと思っています」
大崎は足元に落ちているクリーム色に輝く石を持ち上げた。
大崎の手の中で、それは色を失い、グレーの石そのもののような色
に変わった。
「こうやって手に取ると。色が変わるんですよ。
どうも、重力場を変える装置が作動していて、この石は全部宙に浮いていたらしい。
科学者たちは、これはMOやCDのように記録を保存するものではないかと言うし。
この建物自体がこの石に隠された情報を再生するものかもしれないも言っているんだが……」
「もう情報を取り出すことはできたのですか?」
未音は恐る恐る訊いてみる。
「いや、まだ…。
だから、未音さんに来ていただいたのですよ」
「でも、僕は考古学のほうですよ。これは考古学じゃなく、科学の分野じゃないですか?」
「まあ、そうですけどね。
あちこちに文字らしきものもありますので……浸蝕されていて判りにくいですけど、それも読み解いていただきたいし……
これにも何か記号のようなものがあるかもしれませんしね。
すべて調べていただいて、分類して頂だこうかなと。
もちろん、これを再生する方法は別の班でやりますよ」
大崎は石を差し出す。
未音はポケットから手袋を出してはめ、大崎の持っている石を受け取った。
「セラミックのような材質ですね」
「今、分析を急いでいますが、概ねそう言うものではと科学者は言っていますよ。
調べれば、未知の材質もありそうです」

未音は手の中の石を下に置いた。
石はまた乳白色の輝きを取り戻す。
「面白い石ですね」
そう云いながらも、未音は身体が震えて、今にも倒れそうな気がしていた。
大崎はそんな未音の様子をじっと見て、
「人類が前時代の文明にやっと遭遇できたのですよ。凄いと思いませんか?」
「ええ、でも、こんなものが何千年も昔にあったなんて……」
そう言った未音を大崎が微かに笑ったような気がした。
「そうですか?」
大崎はタバコを胸ポケットから取り出し、口に咥えたが、火は点けなかった。
「そう言えば、未音さんのご実家には、なにやら伝承が有るそうですね?」
「え?」
「昔、海の向こうからやってきた神人が、光る石と小さな箱を持ってきた。
石を箱に入れると、この世のものとは思えないほど美しい音楽が聞こえた・・・」
その言葉で、未音は自分が呼ばれた理由がわかった。
そして、大崎が自分に近づいた理由も……

「単なる伝承ですよ」
「でも、その箱と石は今でもオタクにあるのでは?」
「そんなもの、ありませんよ」
思いっきり否定する未音から大崎は視線を外し、床に散乱する石を見つめる。
「僕はあの石が何かの情報を記録するものではないかと思っている」
「……」
未音はそれに答えなかった。
「向こうに小さな部屋がありますので、そこを使ってください。
ちゃんとイスとテーブルらしきものがありますよ」
高田がのんびりした声を出した。

その夜は大崎と未音を迎えて、宿泊用に停泊している船で、ささやかなパーティが開かれた。
酒も振舞われ、隊員たちも、久しぶりにリラックスした夕食をとった。
その席で未音は倒れ、応急手当を受けていたが、次の日、自衛隊のヘリで本土の病院に運ばれた。
医師の見立てでは食中毒か、急性腎炎と言うことだった。

三日後、病室から未音は抜け出した。


夕暮れのオレンジ色の光が蔵の高い窓から差し込んでいる。
その光を頼りに未音は、自分のおもちゃ入れの箱の中から丸い石を取り出す。
未音が触るとその丸い石はほうっとサーモンピンクに内部から発光した。
その光で、箱の中に一緒に入れられていた未音が好きだったキャラクターの人形が照らしだされた。
次第に、石からは音が響いてきた。
未音はその音に合わせてなにやら呪文めいた言葉を唱える。
石は次第に赤みを増してますます強く光った。

「なるほど、君自身が再生機だったんですね」
聞き覚えのある声を聴いて、未音は振り返った。
大崎が戸口に立っている。
「どうして・・・?」
「無理をしてはいけませんよ。
お醤油をあんなに飲んじゃって・・・まだ、腎臓の数値は良くないみたいですよ」
大崎は切れ長の目を細める。
「もしかして、小箱を盗んだのはおまえか?」
「ええ、てっきり、あれが再生機と思ったものですから。
まさか、あなた自身が再生機だとは思いませんでした。
道理で、素手で触らないはずです」
大崎が手を上げると、後ろに控えていた完全武装し銃を構えた男達が出てきた。
武装しているが自衛官ではなさそうだ。
彼らからはもっと危険な匂いがした。

未音は手の中の石を身体の後ろに隠す。
「親父やお袋は・・・?」
「ご一緒にお出かけ頂こうと、お待ちいただいていますよ」
「二人に何をした?」
未音は目を見開いて叫ぶ。
「なに、ちょっと、座っていただいているだけです。
オタクが協力してくだされば、何もしませんよ」
大崎は未音に手を差し出した。
「それをこちらにいただきましょうか?」
「これは渡せない」
「旧文明の遺産を個人が所有するのはどうかと思いますが」
「お前だって、果たして政府に渡すか怪しいもんだ」
未音は両手で石を隠す。
大崎は余裕を見せるように笑う。
「実は僕の家にもその石と同じようなものが伝わっているんですよ。
祖父からの申し送りで、これはある文明の記録なのだと言われていました。
僕はそれがCDのようなものではないかと思ってのですが、あの遺跡が見つかった時、僕は確信しました。
でも、うちにはそれを再生する機械は伝わっていない。
それで、僕は同じようなものを受け継いでいる家を探しました。
あなたの家に石と小箱が伝わっていると知ったとき、僕はあなたとお知り合いになれるように図ったんですよ。
てっきり、小箱が再生機と思い、部下に命じて持ってこさせたのですが、あれは何の役にも立たなかった。
中にうちの石を入れても何も起らなかったんでね。
それで、僕はオタクにあの遺跡を見せたのです。
我々の先祖は本当に素晴らしい民族で、素晴らしい文明を持っていたということをあなたにも自覚していただきたくてね。
でも、まさか、わざと体調を崩して逃げるとは予測していませんでしたが……あれを見て逃げたことで、僕はオタクがきっと何かを知っていると確信しました。
まさか、あなたがその再生機とは思いませんでしたけどね」

「君の先祖もウラシマだったのか・・・」
睨みつける未音を見て、大崎は鼻で笑う。
「ウラシマ・・・ああ、祖父はそう言っていましたね。
わしらはウラシマの末裔。
日本人など足元にも及ばない優秀な民族だったと」
「その優秀な民族のしたことは何だ。
自分達の国を海の底に沈めるような恐ろしいものを開発し、自滅した」
「自滅? あなたと私がいるように、全国にウラシマがいるかもしれないじゃないですか?
二人で、ウラシマを復興させませんか?
まずは、僕に、その石の秘密を教えてください」
大崎はじりじりと未音に近づく。
未音は後ずさりして壁際に追い詰められた。

「子供の頃から、僕は家にあった石に触り撫でていたのに、今、あなたが起こしたような状況にはならなかった。
どうやれば良いのです?
それと、さっきの呪文、あれは何ですか?」
大崎はほとんど未音に触れそうな所まで、手を伸ばす。
未音は小声で、「それを知ってどうする?」と訊いた。

「もちろん、あの遺跡の石すべての情報を解読し、その力を頂くのですよ。
僕らが再び、この世界の王として君臨するのです」
「馬鹿げたことを……」
「さあ、こちらに来て、僕らの国について語り合いましょう」
「本気でそんなことを言っているのか?
あの島が沈んだ理由を知らないのか?」
「沈んだ理由?」
ミネは石を抱きかかえ、呪文を唱えた。
石はまばゆく光り、その光が渦となり様々な色に輝いた。
大崎もその部下もその光の美しさに見とれている。
「素晴らしい……」
うっとりと見つめている大崎はふっと、自分が軽くなったような気がした。
何気なく手を見ると、手が透き通っている。
「うわあ」
叫んで横を見ると、隣に立っていた武装した部下が足や手の先端から次第に消えていく。
痛みも何も無いのに、身体が消えていくのに気付いた大崎は、もう一度大きな悲鳴を上げたが、その悲鳴も口が消えて出なくなった。

石を抱きかかえていた未音が目を開けると、そこにはもう誰もいなかった。
蔵から出て母屋に行くと、母親と父親が玄関先で縛られて転がされている。二人の戒めを解く。
「大丈夫?」
「あいつらは?」
父親が聞いた。
「石の力で消してしまいました」
未音は正直に答えた
「そうか……」
父親は目を伏せた。
「未音、逃げなさい」
母親が未音の頬に触る。
「あの島が浮上している限り、あなたはきっとまた狙われるわ」
「お母さん」
「あの島の謎を皆が知りたがる。
そして、それを解けるのはお前だけだもの」
「……」
未音は無言で年老いた母の肩を抱いた。
また一段と細くなったようだ。
「私たちのことは心配要らないから」
父親はそう言い、何か思い出したように奥の部屋に行き、しばらくして、通帳と印鑑を持ってきた。
「これだけ有れば、外国にも逃げられるだろう」
「僕がいなければ、お父さんたちが狙われます」
「私には何もできん。役に立たん。
あの石の情報を再生できるのは、お前のDNAだけだ」
二人にせかされて、未音は家を出た。

15歳の子供の日、未音は父に言われ、その石に自分の指を切り、血を垂らした。
それは未音の家に代々伝わる儀式だった。
その傷口から血が石に滴り落ちた時、それは起った。
石からまばゆい光が飛び出し、ミネを包んだのだ。
未音はその光の中から歩み出てきた老人に導かれ、ウラシマの世界に行った。

ウラシマの滅びを察知した科学者達が文明の知識を残すためにこの石を未音の先祖に託して、日本に送ったこと。
石に血を垂らすことにより、その血液のDNAコードが登録されること。
登録が更新されると以前の登録者でもそれは開かなくなること。
そして、海に沈んだ遺跡に残る石の情報はこの石に登録された人物のみが閲覧できるということ。
つまり、未音はあの遺跡の情報の鍵になったのだ。
未音の家はその鍵とその番人の役目を負っていたのだ。
光の中で再生された老人は最後に、
「科学に頼り、我々は滅ぶだろう。
その情報を消去するのが我々の責務かもしれない。
だが、これはまた、素晴らしいものでもあるのだ。
いつか、われわれの科学の情報をきちんと平和に利用できるような状況になった時には、お前がこれを開いてくれ」
と言い、未音の頬を撫ぜた(ような気がした)。
そして、何千年も昔に生きた老人のホログラムは、次の登録者が現れるまでのしばしの眠りに付いた。
ホログラムの老人は遺跡のある大地が海に沈むことを、話していなかった。
古代人にとっても大地が海の底になるのは予想外のことだったらしい。

長い年月の後、遺跡は海の底から地上に戻った。
その秘密を探す大崎のようなものがまだいるかもしれない。
暗い山道を運転しながらミネは膝に置いた石に触る。
未音の指が触れたところが筋になり光る。
未音はその光を見て呟いた。
「今の人間には、まだ、無理ですよね」
何に反応したのか、石は一瞬ぽっと光り、すぐにもとの石に戻った。

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2005.04.25

その春の桜の下(Ⅷ)最終回

丘の上に大きな桜の木が見える。
周りは一面の草原。
桜は大きく枝を広げ青空をバックにピンクに震えている。
私は丘を登っている。

桜の木の下に実香子が立っている。
彼女は微笑んで一生懸命登っている私を見守っている。

やっとたどり着き、息をつきながら
「ここは・・・?」と聞いても、実香子は答えない。
「実香子・・・」
実香子は微笑みながら言う。
「セリ、私はずっとあなたが怖かったわ」
「・・・どうして?」
「あなたは私には無いものをいっぱい持っているから。
だから、私、あなたのことずっとうらやましかった」

何を言って良いのか判らず、私は首を振る。

「健二が私を愛していないのはわかっていたの。
彼は愛とか恋とかで結婚相手を決める人ではないとわかっていた。
あの人の奥さんの条件に合ったから、私との結婚を決めただけ・・・」

「そんなこと無いよ、実香子」
必死で否定する私に、今度は実香子が首を振った。
「ううん、そうよ。
それでも良かったの。とりあえず、あの人の目は私を見ていたから。
でも・・・あなたを紹介した時に、私判ったの。
この二人は合わせちゃいけなかったって」

寂しげな目で実香子は私を見る。

私は居た堪れない気持ちで言い募る。
「実香子、室生さんは実香子のこと好きだったと思うよ。
そうじゃなきゃ、結婚しようなんて思わないって。
私も、確かに室生さん好きだよ。
でも、実香子から盗ろうなんて思ったこと無かったからね」
「うん、判っている。
健二も必死で気持ちを抑えていた・・・でも、私、そんなあなた達が怖かったし、悲しかった」
そう言われると、私は言葉を返せない。

振り返り、丘の下を見ると、そこは一面の草原。
その真ん中で電車がすれ違っていた。
草原の向こうには新宿のビル群も霞んで見える。

――ああ、ここはあの桜の木の下なんだ。
これはあの桜の記憶の景色なんだ。

「セリ・・・私はもう行かなきゃ。健二のこと頼むね」
「実香子・・・」
「あの人、可哀想な人。
自分が誰が好きで、どんなにその人のこと愛しているかさえ判らない馬鹿なの」
「・・・実香子はそれでいいの?」
微笑んでいた実香子の顔が歪んだ。

涙がぽろぽろと音を立てそうなほどの大きさで、目から溢れて頬を伝う。
「だって、私とあの人はもう・・・別次元の存在だもの」
「実香子・・・」
口の中がしょっぱくて、自分も泣いているのに気づいた。
実香子が言う。
「あの人を大事にしないと祟ってやる」

実香子は泣きながら目をこすって、笑った。
私達は見つめあったまま、そこで子供のように鼻をすすり上げながら泣いた。

びゅうと強い風が来て、たくさんの花びらが降ってきた。
少しずつ、実香子の身体が透けていき、やがて木の幹に溶けるように消えた。
私は降りしきる花びらの下で、ただ、立ち尽くしていた。

次に気づいた時、わたしはアパートの自分のベッドに寝かされていた。
口の中にまだ涙の味が残っていた。
「気がついた?」
室生の声が聞こえ、横を見ると、ベッドの側にパソコンの椅子を持ち出して、室生が座っていた。
心配そうに覗き込んでいる。
ドキッとしたのを隠したくて、私はあわてて聞いた。
「十夜は?」
「今、警察に行っている」

室生はキッチンに行き、冷蔵庫を開け水のペットボトルを持ってきた。
「警察?」
「ああ、洋介君に付き添って行った」
「自首したの?」
「ああ」
「あれからどうなったの?」
「うん、セリさんが気を失うと同時くらいに、洋介君の気がついて・・・おばあさんに叱られて、自首することになった」
――え~、何なのよ、それ?
「そんなんだったら、こんなことせずに、自分で叱って自首させれば良かったのに」
急に傷口が痛んだような気がした。
「霊は見えない人がほとんどなんだよ」
「あ、そっか。でも、あの子、見えたんでしょ?」
「それはおばあさんの力じゃなく、十夜君の力だ」
「十夜の?」
「うん、彼、凄い霊能者みたいだね。
自分が見るだけでなく、他の人にも見せることができるんだから」
「でも、あなたは十夜と知り合う前に、家で実香子が見えたのよね?」
「うん、僕は結構、その・・・見えるから・・・君もそうなんだろ?」
少し恥ずかしげに室生は言った。

彼も見えることを誰に言わない口だな。
そう思いながら頷いた。
「十夜君が言っていたよ。
霊は見える人に会うのを切望しているんだってさ。
霊は何かを訴えたくても方法が無いらしい。
見える体質の人を求めて彷徨っている霊は多いらしいよ」

それで、私は実香子とのやり取りを思い出した。
「夢の中で、実香子と話したわ」
「そう」
室生は何を話したのと聞かなかった。
私もそれ以上話さなかった。

気まずい時間を救うように、電話が鳴った。
――十夜だ。

「洋介君がすべて話したので、時田が指名手配されたわ。
時田は洋介君がおばあさんの死体を庭に埋めたのを嗅ぎ付けて、ずっと、強請っていたんですって。
実香子さんを殺した後、時田はあわてて洋介君の部屋に行き、埋める手伝いをさせたらしいの」

――ああ、あの夜騒がしかったのは、そのせいだったんだ・・・

「あんたたちの事は話していないから、何も知らない振りをしていなさい。
私は洋介君と最近知り合って、彼から打ち明けられたってことにしているから。
室生さんにはすぐに家に帰るように言ってね」
「判ったわ」
「じゃ」
「十夜・・・」
「うん?」
「ありがとう、ごめんね」
十夜は何も言わず、電話を切った。

心配する室生を無理やり返し、私はベッドで横になり天井を眺めていた。
しばらくして、廊下をどやどやと何人もが歩いてくる音がし、隣の部屋が騒がしくなった。
起き上がり、カーテンの隙間から覗くと、夕日で桜の木はオレンジに染まっている。
その前の道路には警察の車両が何台も止まっている。
青いビニールシートが塀の向こうに見えた。
「実香子・・・」
また、涙が流れた。

桜は次の日、一斉に花びらを落とし、町を桜色に染めた。
そして、なぜか、その後出るはずの葉は出ず、そのまま、立ち枯れてしまった。
桜の精は、その力を使い果たしたのだろうか?
もしかして、これからの自分の運命を思い、自死した?

洋介は母親を殺した尊属殺人罪と、自然死した祖母を庭に埋めた死体遺棄の容疑で逮捕された。
この後、実香子を殺した時田との共犯関係を調べられるらしい。
時田は指名手配され、潜伏していた実家で逮捕された。
彼は実香子の殺人を否定している。

あれ以来、室生からの連絡は無かった。
葬式でも話さなかった。
実香子の葬式を終え、二ヵ月後、室生はインドネシアに転勤した。
彼が希望しての転勤だったらしい。
そのことを実香子と共通の友人が教えてくれるまで私は知らなかった。
十夜は、聡子との約束どおり、洋介の面倒を見ているらしい。
時々、面会にも行っているようだ。

ある夕暮れ、私は十夜の自宅兼事務所を尋ねた。
エレベーターが5階に着き、開くと、待っていた女性と目があった。
背の低い可愛い女の子だ。
赤いミニのワンピースを着ている。
――こんな若い子も来るんだ?
女の子はにこっと笑うと会釈して、私とすれ違いにエレベーターに乗った。

「あら、セリ、今日は何の用?」
相変わらず無愛想な物言いの十夜は、それでも、中に入れ、コーヒーを淹れてくれた。
「お客さんだったの?」
コーヒーを飲みながら切り出す。
「え? まあ・・・」
十夜にしては歯切れが悪い。
「可愛い子じゃないの? ガールフレンド?」
と冷やかすと、
「あの人が可愛い? 目が悪いんじゃないの?」
と相変わらずの悪口雑言が帰ってきた。
「ひどい、そんな言い方。可愛い子だったわよ」
「そう言う意味じゃないわ。可愛いなんて失礼だってこと」
意味不明なことを言って十夜にしては珍しく笑った。

「あ、笑った!」
「何よ」
「十夜の笑ったの見たの、赤ちゃん時以来」
十夜は真面目な顔で膝に乗ったレディを抱く。
「あの人の正体を知ったら、セリだって可愛いなんて言えないと思うよ」
レディは十夜を見上げてニャ~と澄んだ声で鳴いた。
十夜はレディを放す。
レディは優雅に尻尾を揺らしながら隣の部屋に入っていった。

「で、どうするの? 後を追うの?」
「ううん」
「ふうん」
十夜の意外そうな顔がちょっと心地よい。
「私、日本で待つわ」
「なるほどね」
「室生さんが帰ってくるかどうかわからないけど、私、待つことにした」
「ふうん」
「実香子にも言われたの。あの人を大事にしないと祟ってやるって」
「なるほど」
「この二ヶ月、ずっと考えていたの。あの人を諦めようと何度も思った。
でも、私、諦められない。だから・・・」
「・・・あの」
十夜が面白くなさそうに私の言葉を遮る。
「そう言う話は本人にしてくれないかなあ?」
「仕方ないじゃない、本人は・・・」
いたずらっぽく十夜の目が笑った。
「後ろにいるからさ」
「え?」
驚いて振り返ると、レディを抱いた室生が思いっきりの笑顔で立っていた。

これは三年前の桜の季節の話。
私は家事の合間にふっと視線を感じるし、1歳半になった娘は、じっと虚空を眺めていることがある。
そして、ハンガーにかけている夫のスーツに寄り添うような女の影を見ることもあるが、それは見て見ぬ振りをしている。

自分達だけで生きているのではない。
自分達を見張るものがいるのだと思えば、私はいろんなことに油断できない。
それは、人一人を犠牲にしてしまった私たちへの罰のようなものなのだろう。
そして、その償いは私達が幸せになっていくことしかないのだと思う。

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その春の桜の下 Ⅶ

「どうした?」
私の悲鳴を聞いて、十夜が後ろから声をかけてきた。
左右どちらかのドアの中に入っていたらしい。
実香子の目が、十夜を睨む。
今にも倒れそうなほど驚いていた澤口は十夜を見て、また、叫ぶ。
「なんなんだよ、お前達。何でこの家に居るんだよ。
あの変なもの、何なんだ?」
どうも、彼は私たちがこれをやっていると思ったらしい。

声を聞いて目がぎろりと動き、澤口を見た。
澤口は悲鳴を上げ、出てきた部屋に逃げ込み、ドアを閉める。
実香子の顔は室生を見て微笑み、すぐに澤口の入った部屋のほうに向かった。
ドアの向こうから澤口の悲鳴が響いた。

「大丈夫?」
十夜がすたすたと私たちの横を通り過ぎながら、訊く。
私は頷いたが、室生はぼうっとしている。
「実香子・・・」
「室生さん、ぼうっとしていないで。行くわよ」
十夜が肩越しに言った。
「え? 行くってどこに?」
私は思わず声を上げる。
「決まっているでしょ。決着をつけるのよ」
そう言うと、十夜は澤口の入ったドアのノブを回す。
室生も十夜の言葉にはっと我に返ったのか、その後を追う。
ドアに鍵が掛かっているのか、十夜と室生は体当たりしてドアを開けた。
私は行きたくなかったが、一人でここに残るわけにも行かず、渋々後を追った。

二人はドアを入ってところに立っていた。
「どうしたの?」
覗くと、澤口が床に倒れている。
そこはだだっ広い部屋で、埃まみれの大きなサイドボードやソファが置いてあった。
何の変哲も無い部屋なのだが・・・
「あの・・・」
二人に話しかけようとして、その部屋の向こうの明るい庭を見て、私も思わず悲鳴をあげそうになった。

そこは例の桜の木が植えられている庭らしく、ピンクに庭全体が染まっている。
結構な樹齢の桜は大きく枝を伸ばし、外の道路に出ている何倍かの大きさで庭を占領していた。
その木の下に緋毛氈が敷いてあり、そこで誰かが野点をしている。

亭主と客が一人。

亭主は上品な白髪の老女で桜の花の陰のような藤色の着物を着て、こちらに横顔を見せてお手前をしている。
客は鮮やかな振袖を着て、こちらに背を向けて座っている。
「実香子・・・」
その振袖は実香子が同窓生の雅美の結婚式で着たものだ。
鮮やかな黄色の地に紫のあやめとオレンジやピンクの花が絶妙な配色で描かれた手書き友禅。
帯は華やかな紫地に大きな黄色のあやめが描かれている。
「おばあさまが着た物なの。今ではこんな友禅はできないんですって」
そう言ったのを思い出した。

老女は切り柄杓をし、こちらを見た。
「どうぞ、一服いかがですか?」
穏やかな声だ。
この人が実香子を操っていた正体?
それにしてはとても上品で優しそうな人だ。
「いただきます」
十夜はそう言うと庭に出て、緋毛氈の上、実香子の隣に座った。

「さあ、あなた達も、こちらへ」
老女の慈愛に満ちた表情に、つい、私たちも靴を脱いで毛氈に上がった。
実香子は老女の後ろに座りなおした。
私たちは十夜の隣に並ぶ。
実香子は私たちを見て、微笑み、目を伏せた。
十夜のマンションの前のおどろおどろしい表情が嘘のようだ。

老女は手際よくお茶を立てて行く。
最初のお茶を実香子は正客の位置に座った十夜に運んだ。

「美味しい」
作法どおりに一口飲んで、十夜はと呟いた。
「まあ、ありがとうございます」
老女は嬉しそうに笑う。
十夜が飲み終わり、茶碗を返すと、また、実香子が立ち、亭主に戻した。

「今度のことは本当に申し訳ありませんでした」
その茶碗を引きながら、老女が言った。
十夜は頷いた。
「どうして、あなたのような方があんなことを?」
「まあ、そのほうが興味を惹くかと思いましたので・・・」
ホホホと袖で口を押さえ、老女は上品に笑った。
「確かに」
室生と私は息を飲んで二人の会話を見守る。

「今度のことはあなたが謀ったのですか?」
「ええ、私が実香子さんを利用させていただきましたの」
悪びれずに老女が肯定する。
「なぜ?と聞くまでもありませんが・・・何故です?」
「あそこでのびているうちのバカな孫が心配で、助けてくださる方を見つけたかったんですわ」
「私は十夜さんのこと、セリから聞いていましたから、聡子さんはあなたを呼びたかったのだそうです」
実香子が言った。
十夜はあまり驚いてもいないようだ。
「私をここに連れてくるためのお芝居だったわけね」
老婦人と実香子は微笑んで頷く。

「あなたは、もう知っているんですね?」
十夜の問いに実香子はためらいもせずに答える。
「ええ、聡子さんに教えて頂きました」

え? 実香子は何を知っているの?
十夜を見ても知らんふりをしている。
何も聞くなと言うことか・・・

「最初から話してくださる?」
十夜は聡子と呼ばれた老女に話しかける。
「ええ、もちろん」
聡子の手はお手前を続けていて、お茶碗にお湯を入れている。

「一昨年の春、私、持病の心臓発作で、この木の下で死にましたの。
ちょうど、今日と同じように桜が満開の美しい日でした。
洋介は私の死体を見つけ、とても驚いていました。
でも、あの子は医者も警察も呼ばなかった。
呼べなかったんです」
「呼べなかった・・・?」
「実は、あの子、母親を・・・
ほんのちょっとした口論で、あの子、母親を突き飛ばして・・・
依子は、サイドボードに頭を打ち付けて死んでしまったの。
私は警察に自首するように説得しましたけど、あの子、刑務所なんかに入ったら、自分は生きていけないって・・・つい、可哀想になって、この木の下に埋めるようにと言ってしまいました」

驚くべき内容に、私と室生はつい眼を合わせた。
「私は毎日お供えをして、経を上げ、娘の供養をしました。
だから、娘は成仏しています。
それなのに、何故私が自縛霊になってここにいるかと言うと、ただ、ただ、あの子が心配だったから・・・」
その話の間にお湯が捨てられ、茶碗が拭かれ、新しいお茶が入れられた。

「遺産相続ね?」
十夜の問いに老婦人は頷く。
「ええ、この家と周辺にある土地、家作、全部を合わせれば、10億にはなると前に弁護士が言っていました。
そのときに、その税金を払うにはこの家もアパートも貸家もすべて売らなければならないと・・・
洋介にもそのことは話しました」
「だが、売れば、死体が見つかる」
十夜は呟いた。
カシャカシャと茶筅が良い音を立てている。
「それと、あの子はこの家が好きで、誰にも渡したくなかったのでしょう」
「それで、あなたものこの木の下に埋めたんですか?」
「バカな子ですわ。
でも、それを教えたのは私。自業自得です」
聡子はお茶碗を出すと桜の気の根元に置かれたおにぎりとお茶を見る。
毎日、買っていたおにぎり・・・そのためだったんだ。

実香子が聡子の差し出したお茶を取りに立った。
「私はこのままで良いと思っていたのです。
このまま、あの子を見守り続けようと・・・でも」
「実香子さんですね?」
実香子は老女の前に座り、お茶碗を取り上げ、老女に微笑む。
老女も実香子を優しげな笑みを浮かべて見る。

「この娘は、ふらふらと彷徨っていたんです。
自分の死を理解できずに、怯えながら・・・」
実香子は室生の前に座り、お茶碗をまわして差し出した。
室生を見ないまま一礼して立つ。
実香子が席に戻り座るのを待って、聡子は室生に「どうぞ」と勧めた。

室生が飲むのを見届けて、聡子はすっと腕を上げ、塀の角にある花水木の大木を指す。
その花はまだ咲いていない。
「彼女の死体はあの花水木の下に埋められています。
あの夜、私は彼女が殺されるのを見ていました。」
老女は寂しげな笑みを浮かべる。
「霊なんて無力なもので・・・私には何もできなかった」
「犯人は?」
「時田茂樹・・・孫の友人です」

実香子は室生が飲み終った茶碗を取りに立ちながら言った。
「あの夜、私は部屋を飛び出して、タクシーに乗り、この桜の木の下で降りました。
あそこからはセリの部屋の窓の明かりがよく見えるの」

私は震えが止まらなかった。
室生がそっと、私の手を握る。
実香子ははそれが見えたはずなのだが、何事も無いかのように話を続ける。

「私、二人が愛し合っていることに気づいてしまった。
どうしてよいか判らず、飛び出しては見たものの後悔していました。
帰ろうとタクシーを捜していたら、時田が駅のほうから歩いてきたんです。
彼には実香子の部屋に行ったときにすれ違ったことが何度か有って・・・あの人、声をかけてきたの。
彼は私が泣いている気がついて、話を聞かせてくれと言い出しました」

話しながら実香子は茶碗を亭主に返し、席に戻った。
裾と袖を直しながら、実香子は続ける。
「私、馬鹿でした。
つい、彼の言うとおり、この庭についてきて・・・時田は最初から私を襲うつもりで・・・
抵抗したのですけど、首を絞められて・・・」
実香子が伏目がちに私を見る。
「気がついたら、朝になっていて、私、あなたの部屋の前にいたの」

「私、自分が死んだとは思っていなかった。
殺された記憶が無くて・・・でも、セリと歩いて駅に向かってもあの木の下から行けなくて。
まるで見えない壁に囲まれているように、ここから抜け出せなかったの」
「どうにかしてあげたくて、実香子さんの記憶を探ると十夜さんのことがわかって・・・
それで、つい、私は実香子さんを利用して、実香子さんだけでなく孫も助けたいと思いました。
あなたなら、実香子さんを何とかして、洋介を救ってくれるのではと思いましたの」

新しいお茶が入った。
実香子が立つ。
彼女は黙って私の前にお茶を運んだ。
その手はぼうっと白く輝いていた。
着物姿の実香子は今まで見た中で一番美しかった。
涙が滲んで、茶碗がぼやけた。

「セリ・・・ごめんね。怖い思いをさせて。
傷も・・・痛かったでしょ?」
私は声が出ず、ただ、首を振った。

「実香子さんが悪いわけではありませんよ。
私がやらせたんです。
ごめんなさいね、お嬢さん」
もう一度、私は首を振った。

桜の花びらが私たちの上にはらはらと落ちる。

「この木も今年限り。
この木の精にも力を頂きました」
老女が木を見上げる。
そして、十夜を見て指をついた。
「どうか、洋介をよろしくお願いいたします」
「といわれても、本人の自覚の問題ですから」
「分かっています。
でも、私が間違ったせいであの子は引き篭もらざるを得なくなってしまいました。
あの子に償いをさせてください。
そして、真の人生に戻る力を得られるように力になってください。
この通りです」
老女の声は涙声になり途切れた。

いたたまらなくなって、私は目の前に置かれたお茶碗を取り上げた。
抹茶の緑の泡の上に、桜の花びらがひとつ浮いている。
飲むと、力強く泡立てられた抹茶の香りが口に広がる。
幽霊の立てたお茶、幽霊の運んだお茶、
こんなことが現実にあるんだろうか・・・

見上げると桜の花びらの向こうに青空が見えた。
そういえば、今日は良い天気だ・・・
まるで宇宙が透き通って見えるようだと思った瞬間、ふうと意識が遠のいた。

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2005.04.12

その春の桜の下(Ⅵ)

薄墨色の花びらが風に震えている。
あの日、実香子が見上げていた蕾の桜が満開だ。
私と室生と十夜は、それをアパートの前に止めた車の中から見ている。

十夜のマンションを訪ねてから3日目のことだ。

「綺麗な桜ですね」
室生は誰にともなく言った。

室生は、あの日、十夜に指示されて以来、実香子の捜索願を警察に出し、興信所を雇ってこの洋館の持ち主のおばあさんやその孫のことを調べさせていた。
その結果を見て、十夜と室生が話し合った結果、私はここに呼び出されたらしい。
まったく、土曜日の朝だというのに・・・
室生はあの日以来、一人で家に帰っていないという。
十夜の部屋で寝泊りし、着替えを取りに戻るときには、十夜が付き添っている。
十夜ってば、私には冷たいのに、どうして、あんなに室生には親切なの。
あれ、今、私、なんか嫌な感じが・・・まさかねえ?

「あの~、何のために私たちここにいるのかしら?」
運転席の十夜が振り向いた。
「決まっているじゃない? 霊と対決するためよ」
「はあ?」
「はあ、じゃないわよ。まったく、ボケなんだから。
真剣にやらなきゃ、憑き殺されるわよ」
「なんで、突然? 心の準備ってもんが・・・」

夕べの十夜の電話では何の説明も無かった。
「明日の朝6時、あんたのアパートの隣のコンビニの駐車場に来て」
寝ていた私は思わず、「え? 朝6時。はや!」と言ってしまった
「つべこべ言わずに来るのよ。遅れないでね」
「待ってよ、何があるの?」
「ガチャン、プー、プー」
と言うやり取りがあっただけだ。

「澤口洋介が、毎朝、6時10分くらいにこのコンビニで食料品を買い込み、あの洋館に入っていくんですよ」
十夜が答えないので、室生が答えた。
「あ~、さわぐちようすけって誰?」
「セリさんの部屋の隣人、清水聡子の孫です」
「あの人、そんな名前なんだ?」
「ええ、清水聡子の一人娘・依子の息子です。
高校を中退して、現在は無職です」
「学生じゃなかったのね」
「ええ、いわゆるニートですね」
私の読みに間違いは無かったらしい。
髪も何時もぼさぼさだし、夜中まで起きているし、会っても顔を背けて知らん振りするし、あんな陰気で感じの悪い奴が勤まるはずが無いわ。

「母親の依子は夫の澤口郁夫と離婚して二ヵ月後から行方不明。
4年経った現在も所在がわかりません。
息子の洋介は両親の離婚前から、澤口家を出てここに住んでいます」
そう言って、室生は興信所の報告書を差し出す。
斜め読みし、澤口家の事情はあらかた判った。
よくある上司と部下の不倫で、妻が弾き飛ばされたと言うものだ。
「新しいお母さんが自分と6つしか違わないんじゃ、出たくもなるわよね。
でも、母親どこに行ったのかしら?」
「興信所もお手上げみたいです」
室生が律儀に答えてくれた。
「一人の人間が痕跡も残さず消えるなんてできるのかしら?」
「大人の場合、免許の更新で出てくることが多いようだが、彼女は免許も持っていないようだし」
「もう、4年も経っているんでしょ? いなくなってから・・・」
そこで、運転席の十夜が声を上げた。
「出てきた」

アパートの隣の部屋から遠目にも痩せて見える男が出てきた。
階段を下りて、こちらに歩いてくる。
私は身を伏せて、見つけられないようにしたが、男は朝早くから路上に止まっている車に注意を払う風でもない。
俯いて歩き、そのまま店に入っていく。
「毎朝、お茶とおにぎりを買うんですよ」
室生がその後姿を目で追いながら言った。
「隣に住んでいるのに、あの人の生活なんて気にしたことも無かったわ」
「あの人ってば、とても質素な生活をしているのよ。
買うものは必要最低限。服もほとんど同じものを着ている。
あの子自身には収入は無いけど、あの家にはあちこちにあるアパートの家賃収入が入っているから、もっと贅沢に暮らせるはずなのにね」
十夜は持参したポットの紅茶を飲みながら言った。
なにやらやけにしゃれたボーンチャイナのポットとお揃いのティーカップまで用意して、人には勧めずに自分だけが飲んでいる。
「十夜、私にもお茶頂戴」
「あら、欲しいの?」
「な・・・」(んて、根性悪なの?あんた)と言いかけたが、室生の前なので飲み込んだ。
十夜は大きなバスケットからカップを二つ取り出して、紅茶を注ぎ、室生と私に渡した。
紅茶は微かに花の香りがした。
私たちは黙って紅茶をすすり、澤口が出てくるのを待った。

やがて、小さなコンビニの袋を提げて澤口が出てきた。
タバコに火をつけ、くわえタバコで歩いている。
角を曲がり路地に面した洋館の入り口に向かっているようだ。
私たちは車を降りて、後を追った。

澤口は背の高い門扉を少し開けて、中に入っていく。
錆付いた門扉はキーっと音を立てた。
門に隠れて覗くと、荒れ放題の植え込みの向こうの玄関に向かっているようだ。
「入りましょ」
十夜は門扉をすっと押した。さっきはキーっと音を立てたのに、今度は鳴らなかった。

通路に伸びて来ているツツジの枝を避けながら、奥に進む。

大きな木の玄関ドアは鍵が掛かっていなかった。
引くと、すうっと開いた。
十夜が中を覗き込む。そして、するりと中に入った。
室生は私を見た。
「君はここで待っていたら?」
「それは、イヤだわ」
室生はふっと頬の緊張を緩める。
「そう言うと思った」

私たちが中に入ると、十夜はいなかった。
広い玄関ホールは階段が正面にあり、左右に大きなドアがあった。
十夜の姿は階段の上には無かった。
左右のドアはどちらも閉まっている。
正面の奥に廊下があり、さらに薄暗い奥へと続いている。
段差があり、廊下は土足厳禁かと思ったが、そこにはあの澤口の靴も十夜の靴も無かったので、私たちも土足で上がることにした。
奥へと続く廊下を進む。
奥のほうにドアが見える。通路の左側は壁になっていて、右側は腰ほどの高さから、3mはあろうかという高さの天井まで続く窓になっている。
その下に奥の部屋までずっと、マンガ本が堆く積まれ、埃にまみれている。
マンガ本が有ってもまだ広い廊下はまったく掃除されていないようで私たちが歩くと床の埃が舞った。
高い窓から差し込む光が漂っている埃を照らし出す。

「凄いわ」
「少なくとも掃除をする人はいないようだな」
二人ともつい呆れた口調になり、顔を見合わせた。
室生の顔が思ったよりも近くにあって、私は後ろに下がった。
足が何かに触った。その瞬間、どざどさっと大きな音がしてマンガ本の山が崩れた。
マンガ本が横に飛び出ていたのに脚がひっかかったらしい。

「誰?」
奥の部屋で声がして、私たちが逃げる間もなく、奥の部屋のドアが開いた。
澤口は私に見覚えがあったらしく、驚いた顔をしたが、
「なんでこんなところに?」
と間抜けなことを聞いた。
「友達を探しています」
とっさに私は嘘をついた。
「この家に入ったのを見たという人がいるんです」
「友達・・・」
明らかに澤口は狼狽していた。
どうも心当たりがあるようだ。
「そんな、女はここにはいない」
「女、と言いましたね」
室生は冷静な声を出した。
「どうして女だと?」
澤口は俯いた。
「その女の友達なら、女だろ」
「そうかな、男だって友達かもしれないじゃないか?」
「男だろうが女だろうが、この家にはそんな者はいないんだよ。
さっさと出て行けよ。警察呼ぶぞ」
「呼んでもいいですよ。こっちが呼んでも良いですよ」
室生はますます冷静になるが、澤口はまるで泣きそうに顔を真っ赤にして怒鳴る。
「うるせえんだよ。人の家に勝手に入り込んで、何ごちゃごちゃ言ってんだよ。
さっさと出て行けよ」
まるで駄々っ子のように身体を震わせて怒鳴りまくる男を室生は睨みつけている。
そんな二人を見ていて、ふっと、陽が翳ったような気がして、私は何気なく窓を見上げた。

「キャーッ」
室生も男も私の声に反応した。
「どうし・・・」
室生が息を呑んだ。男が悲鳴を上げる。

5m以上ある廊下の窓なのに、それに収まりきれないような大きな顔が窓の向こうから中を覗いている。
大きな顔は虫かごの中の珍しい昆虫でも覗いているかのように、じっとこちらを見つめている。
切れ長の二重まぶた、少し上向きの鼻が見える。
その顔には見覚えがあった。
「実香子・・・」
室生が呟く。
顔は嬉しそうに笑った。

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2005.03.28

その春の桜の下 (Ⅴ)

三越の裏の十夜のマンションに着いたときには、私の心臓のポンプは疲労しきっていた。
どうも、この人といると身体に悪い。
とにかく、早く室生を十夜に会わせなくてはと焦っていたのに、運賃を払って先に下りた室生が「あれ」と声を上げ、降りたところから動かない。
彼を押しのけるように、車から降りた私は、室生が何かを凝視しているのに気付いた。
その視線の先を見て、凍えた。
マンションの入り口を塞ぐように立っている細い女――実香子だ。
あの朝、着ていた服のまま、銀座の裏通りに立っている。
眺めのスカートの裾が、風に翻り、長い髪が顔にかかっている。

「実香子、どうしてここに?」
室生が声をかける。
彼は私と一緒にいるところを見られたショックで、実香子がここにいる不自然さに気付いていない。

「嘘つき・・・」
完全に目が釣り上がっている実香子は室生を睨み、次に、私を睨んだ。
「許さない・・・」
実香子の手がすうっと上がる。
「実香子、誤解よ」
「誤解だよ、実香子」
私と室生は同時に叫んでいた。
実香子の目がさらに吊り上がる。
「誤解? 二人で私を消そうとしているくせに」
「実香子・・・」
何も知らない室生は、無謀にも実香子に近づこうとしている。

「室生さん、だめ! いかないで!」
ああ、タクシーの中で、少しでも話しておくんだった。
そう後悔し、室生を引き止めようと手を出した瞬間、どーんと風の塊のようなものに弾き飛ばされた。
ちょうどタクシーが動き出した瞬間で、私はタクシーの前に転び、タイヤが迫ってくるのが目の端に見えた。
――うわあ、轢かれる!
頭を抱え、目を閉じたので何が起こったのか分からなかったのだが、キーっと言う金属音が耳元で聞こえた。
ふわっと身体が持ち上がる感覚がした。
――ああ、死ぬときってこんな風なんだ。
身体が引きずられて、ザザザっと擦れる音がする。
手や足が熱くてひりひりし、感電したように全身がぴりぴりした。

「セリさん――」
室生の声が聞こえて、私は目を開けた。
あれ? 
さっき倒れたところとは、まるで違うところにいる。
10mは離れていそうだ。

跳ね飛ばされたのかと、起き上がろうとしても、自分の体制がよくわからない。
手足が変に曲がっているので、すぐに起き上がれず、ようやく、右手を捜し、(変な話だが自分の右手がどこにあるのか一瞬分からなかったくらい変な格好をしていた)その手をついて起き上がろうとしたのだが、着ていたスーツの袖がびりびりに破れて、血が滲んでいるのに気がついて、そんな状況なのに、それに見入ってしまった。
――え~、何、これ~? 高かったのに・・・
パンツもぼろぼろに擦り切れた雑巾のように、繊維がよれて、穴が開いていた。
脚にはあちこち擦り傷がある。

室生が駆け寄って来て、起こしてくれた。
「大丈夫か?」
室生は私を抱き上げてくれた。
近づいた顔に、そんな状況にありながら、つい、ときめいてしまった。

その肩越しに実香子が見える。
また、蒼い炎のような揺らめきが実香子を包んでいる。
「やめなさい」
――重低音。
十夜が実香子のむこう、マンションの入り口に立っている。

「後悔するわよ。愛する人を傷つけたら・・・」
「お前に何がわかる?」
紛れも無く実香子の声なのだが、それに誰かの嗄れ声が被っている。
「愛は寛容で愛は慈悲に富む。愛は妬まず、誇らず、高ぶらない・・・」
「何を・・・」
「愛は全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ」
十夜の言葉に、実香子がグラッと揺れた。
カトリックのお嬢様校出身の実香子には、その聖書の言葉は効いたらしい。

「私は許し、耐え忍ぶつもりだった・・・」
実香子の声だけが聞こえた。
「だが、あいつは女と、こうやって出会っているぞ」
嗄れ声が実香子の口から洩れる。実香子が頭を抱えた。
「私は何故、ここにいるの? 何が起こったの?」

「あなたは死んだ」
十夜が冷たい声で言い放つ。
「嘘、死んでなんか無いわ。私、ここにこうやっているわ」

実香子の叫びを聞いて、室生が抱いていた私の肩を放し、立ち上がる。
「死んだ・・・って?」
その彼を見上げ、私は言った。
「室生さん、実香子は死んだの。あれは霊体なの」
室生は私を見た。
「嘘だろ?だって、あんなにはっきり、足も見える」
 私たちのやり取りを聞いて、治まっていた実香子の炎がまた燃え上がった。
「嘘よ、私は生きているわ。こちらに来て、あなた」
嗄れ声が強くなって、実香子本人の声はほとんど聞こえないくらいだった。

「実香子?・・・お前は実香子じゃない。誰だ」
室生もその声に、おかしいと気付いたらしい。
実香子(の形をしたもの)はニヤっと笑い、室生に向かって動こうとしたが、急に険しい顔になり、十夜のほうを振り向いた。
「お前・・・?」
十夜は静かに立って、手を合わせ、口の中で何か唱えている。
「そんなもので私が倒せるとでも」
そう言いながらも、実香子は喉を押さえ苦しみだした。
十夜の呪文はどうやら効いたようだ。

「ああ・・・あなた・・・」
実香子の声が叫んだ。
動こうとする室生のスーツの裾を掴んで引っ張る。
「・・・セリさん?」
「行っちゃ駄目です、室生さん・・・」
そんな私たちを見て、
「酷いわ・・・」
ため息を洩らすようにそう言うと、実香子は消えた。
すうっと、風景に溶け込むように・・・

室生は唖然として私と十夜を交互に見たが、私は何も言えなかった。
そして、十夜はここでは説明する気はないようだった。
気が付くと、私たちは数人の見物人に遠巻きに囲まれていた。
私たちが痴話喧嘩をしているように見えたのだろう。
もちろん、室生が実香子と呼んだ相手は十夜で、室生は二人の女に挟まれて悩んでいる色男。
私は男に叩かれて道路に倒れ付しながらも、裾に縋っている哀れな女・・・ああ、やだ、やだ。

我に返った私たちは、この状況から抜け出そうとそれぞれに動こうとしたのだが、私はとても動けず、結局、室生におんぶされて、十夜の部屋に運び込まれた。
十夜は私を見て、「なに~まるで、ボロ雑巾みたい」といって汚がり、指先で摘むように私のバッグと靴を持っただけだった。

あの観葉植物だらけの部屋のソファに私を寝かせ、十夜は紅茶を入れはじめ、室生は十夜から借りたタオルを洗面所で絞っては、汚れた私の顔や手や足を拭き、私の服の汚れを拭き取ってくれた。
何か修行でもしているかのように、何も言わず黙々と作業していた。
私はとりあえず、打ち身と擦り傷が痛くて、何か言うどころではなかった。

「お疲れ様」
十夜は紅茶のポットとティーカップを大きなトレイに載せて、キッチンから運んできた。
「まあ、お茶でも飲んで一服しましょう」
「はあ・・・」
室生は十夜を見て、
「あの・・・室生といいます」
「うん」
十夜はなにが「うん」なのか頷くだけでその後を何も言わず、紅茶を飲み始めた。
仕方なく、私が口出しすることにした。
「室生さん、彼は十夜、私の幼馴染です」
室生は訝しげに私を見る。
彼と言う言葉に引っかかったのかもしれない。
どう見ても、この姿では十夜は男には見えない。

「彼は、その、ちょっとした超能力者で・・・霊と話せます」
ちょっとしたと私が言った瞬間、十夜の左眉が上がった。
気に入らなかったらしい。
「それは・・・凄いですね」
室生は改めて十夜を見る。
「で、実は、室生さんに来ていただいたのは・・・」
「実香子は何かに取り憑かれているんですか?」
私の言葉を遮って室生は十夜に聞いた。
十夜は室生を見、カップを置いて、膝で指を組む。
長く白い指には青や緑の玉のついた指輪が嵌っている。

「もちろん、取り憑かれています。
あんな力、実香子さんにはありませんもの」
室生はふうと息を吐いた。
「あなたのお力で、実香子を元に戻せますか?」
「元に?」
「僕達、もうすぐ結婚するんです。
一刻も早く彼女を元通りの実香子に戻して頂け・・・」
室生は十夜を見て、その先を言えなくなった。
十夜は黙って首を振っている。

「あなたが駄目なら、どなたか、それができる人が・・・」
室生は結構失礼なことを言っているのに、十夜は彼に似合わない優しい表情で、
「それは無理なんですよ、室生さん」と言った。
「何故ですか?」
室生は必死で食い下がる。
十夜はチラッと私を見て、穏やかな声で続けた。
「死者を取り戻すことは誰にもできません」
「死者・・・って?
実香子はあそこにいたじゃ有りませんか?」
室生は実香子が死んだと聞いたのに、それを聞かなかったことにするつもりらしい。
十夜は微笑む。
「ええ、でも、あれは肉体を伴わない影です。
その証拠に、消えた、でしょう?」
わざと「消えた」を強調している。
「でも、あれは何かに取り憑かれているから・・・」
縋るような目で、室生は十夜を見る。
「消えるのは無理ですよ、人間はね」
その言葉を聞いて、室生はぽかんと口を開けたまま、十夜を見た。
「実香子さんにはかなりの力を持ったものが取り憑いています。
彼女の現世への未練を利用し、彼女に自分の死を忘れさせ、成仏させずにああやって浮遊させているのです」
「浮遊・・・?」
「そうです。今の実香子さんは浮遊霊になっているのです」
室生は俯いて黙った。膝が小刻みに震えている。

「室生さん、彼女はもう、この次元にいるべきではないのです。
この次元は人間の世界。
肉体を失った実香子さんがここに留まることは、本来なら、できないのです。
このままにしておくと、彼女はふらふらと永遠に彷徨うことになります。
彼女を霊の世界に送って上げなければね」
十夜は諭すように室生に言った。
「どうして・・・」
室生は顔を上げて十夜を見る。
「何故・・・実香子は死んだんですか?」
「それは私たちにも、判りません」
「それなら、どうして、彼女が死んだとわかるんですか?」
室生の声のトーンが上がった。

十夜は室生に実香子が私の部屋の外にいた時からの話をした。
朝、実香子が私の部屋の前にいたこと。
古い洋館の桜の下で別れたのに、夜、帰った時にも、まだそこに居たこと。
それで私の部屋の前まで連れてきたのに、部屋に入らずに居なくなったこと。
十夜を呼んで、その話をし、対策を考えたこと。
隣の洋館に実香子のボディがある可能性があること。
そこに住んでいる老婦人が死んでいるかもしれないこと。
私の部屋の隣の大学生が、何か知っているかもしれないこと。

室生は黙ってそれを聞いていたが、十夜の話を聞き終わるとチラッと私を見た。
少しは冷静になったらしい。
「君をこんなことに巻き込んですまない」
悩ましげな声だ。
「ううん」
私は首を振る。頭がずきずきした。

巻き込まれたのか? 
そうじゃない。
もし、室生に実香子の死の責任があるのなら、それは私にもあった。
実香子が私を責めるのは当然だ。
だが、実香子の私たちへの恨みは仕方ないにしても、あのまま、実香子を放っておくわけにはいかない。

「実香子を何とかして成仏させてあげたいの。
協力してくれませんか?」
室生は私の言葉に頷いた。
「もちろん。
それは僕のほうがお願いしなければならない」
そして、室生は十夜のほうを向き直った。
「どうか、実香子を助けてください。
彼女が納得するために、僕がなにをすれば良いのか教えてください」
そう言って、室生は十夜に頭を下げた。

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2005.03.19

その春の桜の下 (Ⅳ)

十夜の家に泊めて貰い、翌日はアパートに一緒に行って貰った。
桜の下に実香子の霊は視えなかった。
「いないわね」
「あまり良い兆候じゃないわ」
十夜が眉を顰める。
「どうして?」
「どこかに行けるくらい力が強くなったとも考えられるの」
「そっか・・・どこ行ったんだろう?」
「何も起こらなきゃ良いけど・・・」

とりあえず、荷物をまとめて、去年、グアムに行った時に買ったスーツケースに詰める。
「何、その荷物?」
大きなスーツケース一個と紙袋二つを見て、十夜はいやな顔をする。
「だって、しばらく帰れないかもしれないでしょ?」
「まあ、良いけど、で、どこに行くの?」
「ねえ、十夜・・・」
猫なで声を出してみるが、十夜は手を振る。
「駄目よ、うちは。ウィークリーマンションでも借りるのね」
「ちぇ」
仕方なく、事務所まで送ってもらい、その荷物を持って行くと、所長や同僚達の視線がスーツケースに集まった。
「どうしたの?」
向かいの席の千沙に聞かれ、
「うん、うち、上の階が水漏れしちゃって、水浸しで住めないの」
と出任せを言うと、千沙は眉を顰め、
「まあ、あなたのところも・・・」
とっさに思いついた良い言い訳だと思いきや、それはこの前千沙が言っていた話だった。
それが記憶にあったらしい。
――不味いよ、これ。
「大変よねえ、水漏れって」
しまったと思ったが、千沙は疑いもせずに同情してくれた。
「うん、だから、どこか借りなきゃ」
「そうよね、まずはホテルでも取る?」
その会話を聞いたのか、所長が受話器を取った。
「大竹不動産に聞いてやるよ」
大竹不動産はお得意さんで結構繁盛している不動産屋だ。
所長は大竹社長と世間話を延々としながらも、事務所の近くの部屋を借りる手配をしてくれた。
何とか、住むところは見つかったが、問題は解決しているわけではない
それを思うと気が重い。

午後、近所でランチを終えて帰ると、電話番をしていた千沙がニヤニヤしながら、
「せりさん、お客様がお待ちです」
応接室を指差す。
「え?面会のアポ、あったっけ?」
「室生さん。うーん、カッコいい人よね」
「室生?」
今さっき食べたパスタが逆流して、口から出てくるような気がするほど、驚いた。
つーか、びびった。
「やだ、何、考えてんのよ」
思わず、周りを見回す。
まさか、付いてきていないだろうなあ・・・
とりあえず、実香子は視えないので、ほっとした。

――どうしょう・・・会って大丈夫なのか?
もう、来ているしなあ・・・あー、十夜が聞いたら怒るだろうなあ。

ドアノブが重く感じた。
ドアを開けると室生がこちらを見て、微笑んだ。
それは私には、おばさんにとってのヨン様並みの迫力なんだけど。
「突然、押しかけてすみません」
おどおどと、様子を窺いながら、部屋に入った私の様子に、室生は気付かないのか、気付かない振りをしているのか。
「いいえ、でも、どうしたんですか?」
「実は、実香子が帰ってきたんです」
「えー? うっそー!」
マンションまで帰る力が付いたってわけ?
それ、不味いって。
「本当ですが、何か・・・」
室生は私の反応が意外だったようだ。
「視えてました? ちゃんと、触ること出来ます?」
「・・・どういう意味ですか?」
室生は怪訝そうに私を見る。
そうだよね、親友の無事を本当は喜ばなきゃいけない私なんだ・・・
って、こんなことしている場合じゃない。
「ちょっと、失礼します」
私はあわてて部屋を出、その様子に唖然としている同僚や所長の視線を痛いほど感じたが、廊下に飛び出した。

「十夜、出たよ」
十夜はすぐに電話に出た。
「会社に?」
緊迫した声だ。
「ううん、室生さんちに帰ってきたって」
「連絡が来たの?」
「室生さんが訪ねてきた」
「どこに?」
「事務所に」
一瞬の沈黙。
「不味いよ、それ」
十夜はうんざりしたような声を出す。
「だよね。不味いよね。どうしよう?」
「・・・」
「私がお昼から帰ると、居たんだもん。私のせいじゃないよ」
「来たものはしょうがないわ」
十夜は落ち着いたのか投げ出したのか冷静な声を出した。
「とにかく、そうなったからには、彼の命も危ないってことになるわね。
それに、捜索願を取り下げられては困るし、死体を見つけても貰わなきゃいけないし。
家に帰る前に、ちゃんと話さなきゃ・・・
これから、その人連れてうちへいらっしゃい」
「わかった。頼むよ、十夜」
「ドジるんじゃないわよ」

そんな話し合いの末、私は何事も無かったかのように事務所に入ったのだが、みなの視線は私が応接室に入るまで離れなかった。

「すみません。ちょっと、用事があって・・・」
下げた頭を上げると、室生がこちらをじっと見ていた。
その目が訴えているものを私は理解している。
たぶん、私の目が訴えているものに、室生も気付いている。
あの日、実香子に紹介された瞬間、私達が共有した秘密。

「実香子、帰ってきたんですけど、変なんですよ」
「変?」
変に決まっているよ。霊だもん――とは言えない。
おかしいとか狂っているとか思われては終わりだ。
話が通じなくなってしまう。
「実は、私も心配なことがあって、出来れば、ゆっくりとお話したいんですけど」
上目遣いに見ると、室生は首を振る。
「実は今日はお願いがあって来たんです。
実香子には、もう、会わないでいただけませんか?」
「え?」
室生のいっている意味が理解できなかった。
「ここ二ヶ月、僕は悩みました。
実香子が家を出たのはそのせいです。
実香子がいなくなって、僕はほっとしたような、取り返しの付かないものを無くしたような複雑な気持ちでした。
昨日の夜、家に帰ると実香子がいました。
きちんと話し合いをしようと思ったのですが、実香子は、部屋に篭って泣いてばかりで・・・今朝も声をかけたのですが、返事をしてくれません。
食事も摂らないし・・・
色々考えたのですが、あなたの存在がある限り、実香子は狂ってしまうと思うのです。
あなたに会わなければ、あいつも落ち着くと思います。
もう、実香子には会わないでいただけませんか?」
別にそれには異存は無いが、でも、実香子、死んでるし・・・
とにかく、この人を十夜に合わせなきゃ。
「わかりました。もう、実香子には会いません」
私はきっぱり言い切った。
室生が複雑な微笑を浮かべた。
「でも、私からもひとつ、お願いがあります」
「僕に出来ることでしょうか?」
「ええ、今から、私に付き合ってください」
驚きの表情。
――もしかして、誤解された?
「あの・・・」
「だから、その、そんなんじゃなくて、今から、ある人にあって欲しいんです」
「ある人?」
「ええ、どうしても、その人の話を聞いて欲しいんです」
「話って・・・」
「とりあえず、行きましょう」
「今からですか?」
「ええ」
「でも、僕、勤務の途中で・・・」
「私だって、そうです。でも、これは何よりも優先事項なんです」
私の剣幕に押されたのか、室生は頷いた。

私は先に立って、応接室のドアを開ける。
事務所中の視線を浴びながら、所長の席に向かい、
「所長、お願いが・・・」
「行ってこい。がんばれよ」
所長がウインクする。
――聞いてたな、こいつ。
「あの、そんなんじゃ・・・」
「良いから、早く行け」
とりあえず、誤解はそのままにして、行くしかない。
「それでは、すみません。2時間ほどで戻ります」
「二時間、いや、延長してもかまわんよ」
誰かが噴出す音が聞こえたが、無視して、応接室から出てボーっとしている室生のスーツの袖を引っ張って事務所を出た。
ドアを閉めた途端、なにやら、事務所が騒然となった気配がした。

タクシーを止めて、「銀座三越」と行き先を告げる。 


タクシーに乗って落ち着くと、密着していることに気付き、私は少し離れた。
何か言わなければと思った瞬間、室生のほうが口を開いた。
「随分、良き婚約者になろうと頑張ったんだけどな」
「私もよ。良い友達でいようと努力したわ」
「あいつがあんなに勘の良い女とは思わなかった」
「そうね。気付かれるなんて、ドジよね」
私が室生を見ると、室生も私を見ていた。
せつな過ぎる。

あの瞬間、私達は自分の求めていた相手に巡り会い、相手もそう思っていることに気付いてしまった。
だから、いくら、実香子に誘われても、私は彼と一緒になる場所には行かなかった。
室生も私に会いそうな場には来なかった。
それでも、私達は会わざるを得ない時があり、目を合わせないようにと心がけたものだった。
それなのに・・・
こうやって見つめあっていると、自分がどんなにこの男が好きなのかを思い知らされる。
先に視線を外したのは室生だった。
「こうやって、一緒にいるのは辛い」
彼はそう呟いた。

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2005.02.28

その春の桜の下 (Ⅲ)

朝起きて、とりあえず、洋館の前を通らずに出勤するためにタクシーを呼んだ。
恐る恐るドアを開けたが、実香子の姿はなかった。

昨日とは打って変わって、とても暖かい日だ。
所長が「そろそろ花見だなあ」と嬉しそうな声を上げる。
花見といっても、彼は人ごみが嫌いなので、桜の見えるオシャレなレストランに連れて行ってくれる。
英国紳士を目指している彼には、ゴミと一緒の宴会など、到底受け入れられないらしい。
女性陣は、どちらかといえば、そのほうがありがたいのだが、オヤジと言うあだ名の田宮さんに言わせると、「あんなもん、花見じゃねえ」らしい。
この暖かさでかなり咲くだろうと、所長は早速、何時ものレストランに連絡を入れている。
「来週の月曜、予約したからな」
浮かれて大声で宣言している。

だが、私は花見に行けるのか?
なんたって、呪われているんだし・・・

そう思い、肝心なことを忘れていたのに気付いた。
室生に連絡を取っていない。
だが、どう話そう・・・

「あなたの婚約者は死んで霊になり、私を呪っております。
ところで、あなたも私を好きでしたか、そうですか」
なんて、言えるはずも無い。

といってこのままにしておくわけにも行かず、私は室生に様子伺いの電話を掛けた。
「実香子、どうです? 連絡ありました?」
「いいえ・・・上野毛にも連絡していないようです」
「そうですか・・・」
「とりあえず、今日、向こうのお母さんが来て、家で待機してくれています。
もし、今晩、帰らないようなら、明日の朝、捜索願を出そうと話しています」
冷静な声だ。
「そうですか、あの私、一度会って話を・・・」
「そうやって、健二さんに近づくつもりなのね」
突然、女の声が耳元で響いた。
「え?」
「なにか?」
室生が私の声に反応する。
「いえ、今、実香子の声が聞こえたような気がしたんですけど・・・聞こえませんでした?」
「え? 何も聞こえませんでしたが・・・」
「ほら、そうやって、気を惹いて、あの人を盗ろうたって、そうは行かないわ。
健二さんは永遠に私のものよ。あんたなんかに渡さない」
室生が何か話しているが、耳の側で実香子の声が喚くので聞き取れない。
私はかなり唐突に「それじゃ、また電話しますね」と電話を切った。

周りを見回すと、何時もの昼下がりの事務所の光景だ。
みな忙しそうにしている中で、所長が誰かと電話で話している。
「不味い・・・これって、絶対不味い」
私は、あわてて、トイレに行くような振りをして部屋を出て、廊下で十夜の携帯に電話をする。

十夜はすぐに出た。
「何かあったの?」
気の抜けるような声だ。
「何かもナンも、室生さんに電話したら、実香子が割り込んできた」
「ああ、それは、大変、大丈夫~?」
「何が大丈夫~よ」
つい突っかかってしまう。

「室生に電話したりするから、いけないのよ。
こんな時に実香子さんを刺激してどーすんの?」
十夜の声が怒っている。
「そんな事言ったって、あれからどうなったか、心配だったんだもん」
少ししおらしく言ってみた。
それが効いたようで十夜の声も穏やかになる。
「で、どうだって?」
「今晩帰ってこなきゃ、明日の朝、捜索願い出すって」
「ま、当然の行動ね。
そうね、早くあの子の死体を捜してもらわなきゃどうしようもないから、ちょうど良いわ」
「で、どうよ?」
「どうよって?」
「何かわかったの?」
「まあね、帰り、うちに寄って」
そう言う話になって、慌しい一日の終わりに、私は銀座に向かった。

10時過ぎの銀座通りの能天気な酔っ払いや、綺麗なお姉さんたちの群れの中を歩き、三越の裏のそんなに新しくも無いビルに向かう。
この10階に、十夜の事務所兼住居がある。
エレベーターを出て、左右5室ほど並んでいる廊下の突き当りが十夜の事務所だ。
「安曇野森事務所」とドアに看板が出ている。
「何の事務所かわからんぞ」
と一応文句を言って、チャイムを鳴らす。

二回目のチャイムを鳴らそうかと迷っていると、ドアが開いた。
相変わらず怪しいラーメンマンスタイルの十夜が立っている。
今日は紫にゴールドの唐草模様だ。
まったくセンス悪すぎ!

「早かったね」
「うん、残業切り上げてきた」
「どうぞ」
玄関で靴を脱ぎ、フローリングの廊下を奥に向かう。
突き当たりに、大きなリビングがあり、そこを事務所にしているらしい。
もともとここは事務所と言うよりも住居として作られたようだ。
リビングの中央に焦げ茶色の大きなテーブルと、クリーム色の二人掛けのソファ。
同じ色のスツール二個があり、部屋の残りの部分は観葉植物で占められていた。
大きな椰子のような葉っぱのようなものから、南の島の湿地帯に生えてそうなひらひらした葉っぱの大木が所狭しと置かれている。
「ジャングルみたい」
天井から垂れ下がったポトスに触りながら、つい、言ってしまった。

十夜は「まあ、座りなさいよ」とソファを指し示し、隣のキッチンに向かう。
後を付いて行くと、十夜は、手動のミルで豆を挽き始めた。
「面倒なこと、やってんのね」
「美味しいコーヒーを飲みたいの。インスタントじゃなく」
十夜の口角が皮肉っぽく上がる。
砂糖をあんなに入れる人がインスタントコーヒーを馬鹿に出来るか?
と思ったが、口にするのは辞めた。
今は、十夜頼りの私だ。
十夜にそっぽ向かれては、命が危ない。
大人しくリビングに戻り、座って待つ。

「どうぞ」
しばらく待って、出されたコーヒーはウインナコーヒーだった。
「美味しい・・・」
滑らかな生クリームが美味しい。凄く空腹だったことに気付いた。
そう言えば、昨日からろくに食事をしていない。
――それどころじゃなかったもんなぁ・・・

十夜は向かいに座り、自分も飲んで、「うん」と頷く。
満足の出来ばえだったらしい。
「ところで、何かわかった?」
「ええ」
十夜はコーヒーを左手に持ったまま立ち上がり、キッチンから書類を持ってくる。
「これ見て」
うちのアパートと隣の洋館の登記簿抄本と知らない家族の戸籍謄本だった。
「これって、まさか・・・」
読んで私は思わず声を上げた。

十夜は優雅な仕草で足を組む。
「そう、オタクのアパートと、あの古ぼけた洋館は同じ女性のものよ。
清水聡子、75歳、あの辺り一体の大地主みたい」
「隣の洋館の持ち主がうちの大家さんだったの?」
「オタクのアパートの塀に看板のあった不動産紹介センターに行って話を聞いたんだけど、ほかにもいっぱい持っているみたいよ」
「どこに住んでいるの?」
「それがね、あの洋館に住んでいるのよ」
憂鬱そうに十夜は細く整えた眉を顰めた。
「えー、見たことないわ、そんな人」
「不動産屋も、ここ二・三年会っていないみたい」
「アパート貸したりするのに、会わなくていいの?」
「電話で話を済ませているみたい。といっても、本人とではなく、孫とだけど」
「孫?」
「ええ、清水聡子からそう紹介されたそうよ」
私は戸籍謄本を取り上げ、見るが、彼女の戸籍は夫の欄は死亡、娘の欄は結婚で除籍されている。
「晴美・・・この娘の子供かしら? その人はどこに?」
「娘の戸籍まで調べる時間はなかったわ。
不動産屋の話によると、孫も、あの洋館に住んでいるんだって・・・」
「嘘、見たことないわ」
「もうひとつ、あんたの住んでいるアパート、部屋は10室よね?」
「うん、上下5室ずつ」
「今、入っているのは9組なんですって」
「えー? 今、あそこ満室だよ」
「この前、私もオタクに行く前にチェックしたけど、全室埋まっているよね」
「うん」
「不動産屋によると、あんたの隣の部屋、奥のほうの・・・あそこ、誰にも貸していないのよ」
「え? 学生が住んでいるわよ。なんか陰気くさい兄ちゃん、何時も部屋にいるけど」
「その人のことを不動産屋は知らなかったわ」
「じゃあ、あの人は?」
「もう一室は貸さないって不動産屋に言っているんですって。
鍵を持っているし、その大学生が大家の孫かしらね」
「ああ、そうかもしれないわ」

私は隣の学生の神経質そうな青白い顔を思い浮かべた。
引っ越したときに挨拶に行ったのだが、挨拶のタオルを差し出して、要らないといわれた。
それから、たまに廊下であっても、(彼は近所のコンビニによく買い物に行っていた)、挨拶すらしないで、まるで私が目に入らないかのように通り過ぎるだけだった。
何時も家に居るところを見ると、どうも、彼はニートなのではないかと私は睨んでいる。
たまに、彼とは正反対の調子のいい同じくらいの年の男が遊びに来ている。
その男はやけになれなれしく話しかけてくるので、かえってキモかったりするが・・・
そう言えば、この前、夜中にあんなに騒々しかったは、あいつがいたからかもしれない。

「隣の男が大家の孫だとしたら、実香子がうちに来る途中で出会って、彼に殺された可能性はあるわよね?」
「犯人が誰かはともかく、あの実香子さんの状態からして、死体はあの洋館に敷地に有ると思って間違いないわ。
隣の大学生があの洋館の持ち主の孫なら、犯人の可能性はかなり高いわね」
「状態って?」
「あの子、あの敷地から出られないのよ。
つまり、あの敷地に身体があって、霊を縛るものがあるってこと」
「それをどうやって探すの?」
十夜は馬鹿にしたように私を見る。
「下手に探し出せば、あなたが犯人にされちゃうわよ。
実香子さんの状態をどうやって知ったのか、説明できる?」
「あー、そうよねえ、霊を見ましたので、とは言いにくいわ」
「外国では霊能者が捜査に協力するって良くあることだけど、日本の警察はそんなこと、ハナから信じないものね。
それに、あなたの霊能力では、向こうが見せても良いと思うものしか見られないから、霊に騙されちゃう可能性もあるしね」
「霊も人を騙すの?」
「当然」
十夜は冷たく言い放つ。
「でもねえ、早く、実香子の身体を見つけてあげたい。
あのままにはしておけないわ」
「セリ、そんなお人よしな事、言っている場合じゃないと思うけど。
今のままじゃあんたは実香子さんに憑き殺されて、あそこでふらふらする仲間入りすることになるわよ」

それだけは避けたい。
私は十夜にしがみ付きたい気分になった。
「どうすればいいの?」
十夜は腕を組む。
「そうね・・・実香子さんをあそこから解き放ち、守護霊の導きをいただけるようにするには、彼女が忘れている自分の死を思い出させるしかない。
それには、彼女の死の原因とその死体のありかを突き止め、彼女の恨みを喰おうとしているものを退治するしかないわね」
「退治って・・・そんな大それた事しなくても、いいんじゃない?
とりあえず、実香子の死の原因と死体のありかだけで」

退治なんて危ない橋を渡りたくないので、何とかそれを避ける方向に持って行きたかったのだが・・・十夜は冷たく首を振る。
「それがそうも行かないのよね」
「どうして?」
「実香子さんのあんたへの恨み、それじゃ消えない」
「だって、私、何にもしていないよ」
「彼女の婚約者を愛したくせに?」
「心の中で思っただけじゃない。肉体関係どころか、手を握ったことも、二人きりになったこともないんだぞ」
「汝、姦淫するなかれ、よ。
見て想像するだけでも、姦淫の罪になるの」
「そんな~」
絶望だ。
私は思わず、髪の毛をくしゃくしゃに掻き毟る。

「相変わらずね、そのくせ」
十夜の顔がほころんだ。
「実香子さんは、そんなにあんたや婚約者のこと、恨んでいたわけじゃないと思うわ。
怒ってはいたと思うけどね。
でも、そんな彼女の負の感情を増幅しているモノがいる。
それがいる限り、たとえ、死の原因や犯人が分かり、死体が見つかっても、彼女は戻っては来れない」
「何者なの、それ?」
十夜は私を見て、目を細めた。
「どうしたの、十夜?」
「し、黙って、貞子さんが何か言っているわ」
十夜はそのまましばらく私の後ろを見つめていたが、やがて、口を開いた。
「貞子さんがおばあさんを見かけたそうよ」
「え?」
「隣の洋館の庭に何時もいるんですって」
「へえ、私は見たことないけど」
「霊体だそうよ」
それって・・・
「死んでいるの? でも、そんな霊、私は視ていないよ」
「かなり、弱い霊体みたいね」
十夜が貞子さんを見ながら言った。
「そんな弱い霊が実香子を操っているの?」
「そんな力は無いみたい。別のものね」
「まだ他にいるって? あーやだ、やだ」
思わず髪の毛を掻き毟ってしまう。

「それにしても、死んでいるのに、彼女、書類上はまだ生きていることになっている」
十夜は戸籍謄本を手に取る。
「あ、そっか、と言うことは、あの家には、そのおばあさんの死体もあるってこと?」
「じゃない?」
「あ、だから、あの男、あの家を離れて、私の隣の部屋に住んでいるんだわ。
死んだのに、葬式も出さないなんて・・・」
「そこら辺に何かありそうね」
「なにかあるっていっても、どうやって調べればいいの?」
「まあ、あんたは、自分の身を守るのが一番だから、とりあえず、今日みたいに実香子さんを刺激するようなことはしないで、大人しく会社に行ってらっしゃい。
といっても、あの部屋は不味いわね。
敵の陣地で寝ているようなもんだから」

寒気が来た。膝が震える。
「どうしたらいい?」
「ホテルか、友達のところにでも泊めてもらえば?」
「そんな・・・」
思い巡らせても、そんなことを頼める友人は実香子くらいのもんだ。
その実香子に呪われている・・・なんだか涙が出た。
涙がこぼれた瞬間、はっと気付いた。

「そうだ、十夜、今晩ここに泊めて」
十夜が首を振る。
「やーよ、ここ女人禁制なんだから」
「何言ってんの、いつも、女扱いしていないくせに。
幼馴染の窮地を知らん振りするの?」
「知らん振りって・・・私が一番動いているじゃない」
「だったら、今晩泊めるくらいいいじゃない」
「でも・・・」
「わかった、私が殺されても良いのね。
私が今晩殺されたら、あんたを絶対呪い殺してやる」
十夜は呆れたような顔をして、ため息をついた。
「わかったわ、今夜だけよ。明日はどこか寝場所を探してね」

十夜は私の据わっているソファを指差す。
「そこで寝てね」
「えー、ベッドは?」
「ベッドはひとつしかないの」
十夜は立ち上がり、奥の部屋のドアノブに手をかける。
「泊まるんなら、紹介しておくわ。私の恋人・・・」
「え? 女人禁制じゃなかったの?」
あ、そうか、もしかして男?
えー、同棲中なんて聞いてないよー。
部屋に入った十夜は、何かを抱いて出てきた。
腕の中には、金色の塊が・・・
「ニャア」
塊が動いて鳴いた。
「レディよ」
金色に見えるくらい毛並みが光っている雉色の猫は雑種らしく、顔は普通の猫のように毛が短いのに、胴体や脚は長い毛並みに包まれていた。
目は微かにグレーがかった緑でまん丸に見開いて私を見ている。
「可愛い!」
どう見ても、特上に可愛い猫だ。

私が手を差し出すと、猫は「ミ~」と鳴いて十夜を見上げた。
「抱かれても良いって」
そう言うと、十夜は私にその猫を渡した。
猫は大人しく、まるで皇女様のように私の腕に滑り込んできた。
そして私を見上げ、また、「ミ~」と鳴く。

「可愛い・・・この子、レディと言うの?」
「正しくはレディ・アレクサンドラ・レ・トール」
「何、その呪文みたいな名前?」
「レディが自己紹介したのよ」
「どこで?」
「三丁目の裏路地で」
「そんなとこで何していたの?」
「イタリアンレストランの残飯を漁っていたのよ」
「最高ね」
「気高いお姫様よ」
「よろしく、レディ、私はセリよ。今晩お世話になるわね」
レディはまっすぐに私を見て、「ニャア」と鳴いた。
まるで、「良きにはからえ」とでも言うように・・・

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2005.02.26

その春の桜の下 (Ⅱ)

「ああ、セリ、お帰りなさい」
実香子はほんのりと笑う。顔色が悪い。
青黒くなっている。
「まさか、朝からずっと、ここにいたわけじゃや無いわよね」
ようやくちゃんと実香子を見て、私は実香子の状態が分かった。
「実香子、あなた・・・」
実香子はなんとも言えない悲しそうな表情をしている。
私は続きを言えなかった。話題を変える。
「あなた、室生さんと喧嘩したんだって? 
彼、心配していたわよ」
「心配? あの人が、私を?」
「うん、うちの会社に電話してきたくらいだもの」
「話しかけても知らん振りしているくせに・・・」
「それは仕方ないと思うよ」
「私、なぜかここにいたの。どうしてここに居るのかわからない。
気がつくといつもここにいるの」
実香子はぽろぽろ涙をこぼす。

「昨日のこと、覚えている?」
「何も思い出せない。
気がついたら、朝、セリの部屋の前に立っていたの」
「そっか・・・部屋に来る?」
「うん」
「おいで」
実香子の手を取ると、その手はひんやりと冷たかった。
「冷たいね・・・」
「とても冷たいのよ、セリ。寒くて冷たくて悲しいの。でも、私、どうしていい分からない」
「うん、それはこれから相談しよ。歩ける?」
「うん」
実香子は足を引きずるように歩く。
私は彼女の手を引いて、アパートの階段を上った。
私の部屋の手前で、実香子は怯えうずくまる。
「そうだ、実香子、ちょっと待っていて」
私は実香子の手を離し、鍵を開け、先に部屋に入った。
部屋にあるアレを何とかしなければ、実香子を入れるわけには行かない。
それを風呂場に隠し、ドアを開けると、実香子はいなかった。

少し待っていたが、実香子は帰ってこなかった。
奥のほうの部屋の学生はまだ帰っていないのか、電気がついていない。
手前の部屋からは、子供の泣き声が聞こえてきた。
しばらくそこで待っていたのだが、あきらめて部屋に入った。

電話を掛ける。

何回か掛けなおし、ようやく、その電話の主が出た。
「煩いなあ」
低音がさらに重低音になったような声だ。
「ごめん、十夜、でも一大事なの」
「なんだ、セリか・・・また、何か拾ったの?」
「うん」
「だから、アレを肌身離さず持っていろといったでしょ」
「冬のコートのポッケに入れていて、今朝、春のコート来ちゃったのよ」
「こんな寒い日に春のコート? ばっかじゃない!」
少しオカマのような言葉遣いだが、安曇野森十夜は私達の世界では超有名人だ。
彼の幼馴染というだけで、皆から尊敬の目で見られてしまう。

「ねえ、十夜先生って、ものすごい美形なんですってね。とても優しくて素敵な人だって噂よ」
かなりの美形と言うのは当たっているが、優しいとか素敵と言うのはどうか・・・
低血圧で何時も機嫌が悪くて、かなり皮肉っぽいあいつにどうしてこんな噂が立つのか不思議だ。
あんな扱い辛い奴、親同士が友人でなければ、お付き合いしなかったと思う。
でも、皮肉なことに私には十夜が必要だと、今までの経験で思い知らされている。
私は7歳年下の十夜がいなければ生きていけない。

「で、今度のはどんな奴なの? 猫? 犬?」
「人間・・・」
「人間・・・誰よ?」
「学生時代からの友人」
「ふうん。どこで拾ったの?」
「今朝。うちに訪ねてきたの」
「あんたん家に?」
「朝、ドアを開けたら部屋の前に居た」
「そう、それで?」
「駅に行く途中の古い洋館の桜の木の下まで張一緒に行ったんだけど、そこで動かなくなっちゃって、別れた。
で、・・・帰り、やはりそこで待っていたんで、部屋につれて来ようとしたんだけど、アレを隠している間に居なくなっちゃった」
「・・・・・・」
「どうすればいい?」

ため息が聞こえた。
「とにかく、これから行くわ」
「お願いします」
私は電話に頭を下げた。

十夜は30分ほどで、相変わらず騒々しくやってきた。
まず、10年落ちのポンコツパジェロの騒音が次第に近づいてきて、カンカンと階段を上がるヒールの音が響き、部屋のドアががんがん叩かれた。
そして、ドアを開けると、ジャラジャラ胸に掛けた安物のアクセサリーの音と、重低音。
「あー、もう、この辺りってなんてとこかしら?
変な奴がうようよ。
あんた、よくこんなところに住んでいるわね。
そうだ、コーヒー頂戴。濃い奴ね」
小さじ5杯分コーヒーをぶち込んだインスタントコーヒーを出すと「まあ、苦い」と文句を言い、「砂糖、無いの?」
「何時もブラックだから、コーヒー用の砂糖なんて置いていない。
料理用のなら有るけど」
「なんでもいいから、砂糖!」
私はついむっとして、台所のプラスチックの砂糖入れを、そのままどんとテーブルに出す。
十夜は大きな計量スプーンで山盛り一杯砂糖を入れた。
「あ、ようやく目が醒めたわ」
「あんたいつか糖尿になるわよ」
十夜はジャラジャラアクセサリーの上にショールのようなシャラシャラした銀色に光る布を肩に掛け、黄色地に青い模様の中国服のような立て襟のスリットの入った上着を着ている。
下は青のパンツだった。
まるで怪しいラーメンマンだ。

「視えたわよ。あんたの友達」
コーヒーを口にしながら、十夜が言い出した。
「どこに居た?」
「あの洋館の桜の木の下」
ということは、十夜は駅の方から登ってきたのだろう。
「なぜ、あそこが気に入ったのかしら?」
「気に入ったというより、あの近くにあるのよ。ボディが・・・」
「ボディって、死体?」
私は思わず大声を出してしまった。

「大声出さないで。
まだ、あの子と直接話していないから断定できないけど、この近くに犯人が居るわ」
「私じゃないわよ」
十夜は唇をゆがめて笑う。
「犯人じゃないけど、原因はあんたかもね」
「私が? 何もしていないわ。大体、夕べは来なかったのよ、実香子」
十夜は見透かすように私の後ろを見つめる。

「貞子さんが言うには、あんた、あの子の婚約者に気が有ったらしいわね?」
「そんなこと・・・あるかも」
貞子さんには嘘はつけない。
彼女は私の曾婆さんだ。
私が産まれる3年前に死んで、私が産まれてからは、ずっと、私を守っていてくれる、らしい。

私は、霊を視る事が出来るし、話すことも出来る体質だ。
子供の頃から、人には見えないものと話していて、不気味がられた。
だが、自分の守護霊の貞子さんとは会ったことはない。
守護霊とはそう言うものだと十夜は言うが、一度話してみたい・・・

「あの子、あんたのことで彼と喧嘩して出てきたんでしょ?」
「そう、みたいね」
「貞子さんによると、その男もあんたのこと好きなんだってさ」
「へー」
少し嬉しかった。
「何、ニヤニヤしてんのよ」
十夜は怒っている。
あんたには乙女心は分からないさ。
初めて、自分のための人に出会ったんだぞ。
その相手が友人の婚約者だった絶望をこの半年抱いて、私は暮らしてきたんだ。
少し喜んだくらい、大目に見ろよ。
と、私は心の中で思う。
だが、十夜にそんなことを言ったら、百倍の罵倒が帰ってくるから辞めよう。

「まったく、自分の命が危ないって言うのに脳天気な女」
十夜は私の心を見透かしたかのような言葉を口にする。
「嘘でしょ? どうして、実香子が私を殺そうとするの?
私、何もしていない・・・恨むのなら、自分を殺した相手でしょ?」
「あの子、自分が死んだことを知らないのよ。
それと、犯人のことも覚えていない。
というか、思い出したくないんじゃないかな。
たぶん、とても、辛い殺され方をしたのね。
今のところ、あの子の恨みは全部、あんたに向かっている。
あの子、あんたと婚約者の気持ちに気付いて、婚約者を責めたのね。
そして、家を飛び出した。
そして、殺された。
あの子は殺した相手を忘れているから、恨みはあんたに向かったままなのよ」
「うそ・・・」
「彼女の恨みが強くて、貞子さん、震え上がっているわ」
「守護霊が震え上がるなんて有りなの?」
「あんたの友達は自分の状態が分かっていない。
でも、どこにも行けないし、誰も気付いてくれない。
とても孤独なの。
どうも、この部屋の前までと、あの桜の下までが、とりあえず、彼女のいける範囲みたいだから・・・
彼女の守護霊も彼女の怒りの強さに隠れてしまって、出て来れないみたい。
アレがこの部屋に無ければ、今朝、あんた、取り憑かれて、今頃寝込んでいたね」
「ひえー」
「手を見せてごらん」
十夜は私の手を取り、右手の掌をじっと見る。
「あんた、あの子に触ちゃったんだね」
「うん、手を繋いだ」
「馬鹿だね。霊障が出てる。寒いだろ?」
そう言えばさっきから寒くて寒くて仕方なかった。
ゾクゾクと悪寒がして、風邪を引いたのかと思っていたのだが・・・

「あの子を家に入れなくてよかったね。
もっとも、入れなかったんじゃなくて、入れなかったんだけど」
「どうすればいいの?」
「このままでは、あんたは危ない。それに、あの子も・・・
貞子さんのは話だと、あの子、どういうわけか、力を増しているみたい。
彼女に力を貸しているものが、ボディの近くに居るのね」
「手を貸しているって・・・?」
「それはまだ分からない」
「障りってかなりヤバい?」

十夜は肩をすくめる。
そう、答えはもう出ている。私は寒くて死にそうだ・・・

「なんとかしてよ、このいんちき霊能者!」
「いうじゃない。帰ろうかな」
にやりと十夜は笑う。
悪魔だ、こいつ。

「仕方ないなあ、幼馴染だし、おばちゃんが悲しむのも辛いから、出してやるか」
そう言うと、十夜は私を正座させ、私に向かって九字を切り、なにやら唱え始めた。
身体が左右に引きちぎられるような感覚。
体の中で、何かが綱引きをしている。気持ち悪い・・・
げほげほっと咳き込んで、私は吐いた。
白い痰のようなものが出て、急に身体がすっとした。
痰はフローリングの床の上で煙を上げて消えた。

「消えた。でも、油断は禁物よ。
今度からはうっかり霊に障ったりしないでよ」
「わかった」
「とりあえず、この部屋には結界を張っておくわ
アレを肌身離さず、行動するのよ」
「分かった」
「じゃ、あの子と話に行こうか」

私達は駅への道を歩く。
桜の枝が張り出した下に、実香子が立っている。
坂の下の駅前の灯に実香子のシルエットが浮かんでいる。

実香子は私を見て、駆け寄ってきた。
手を出そうとしたが、私がアレを持っているのに気付いたのか、引っ込めた。

「セリ、どうしよう・・・とても、冷たくて冷たくて・・・それを捨てて、私を暖めて、セリ」
「ごめん、実香子」
「暖めてくれないの、セリ。酷い、友達だと思っていたのに・・・」
「ごめんね」
「酷い、酷い、あなたも健二さんも・・・私がどんなに彼を愛しているか知っていたくせに・・・」
実香子の両肩にめらめらと蒼い炎が上がる。

「実香子、私、確かに彼を好きになった。
でも、一度も彼と二人で会ったこと無いし、彼に好きだと打ち明けてもいないわ」
実香子は頭を降りながら、私を睨む。
目が釣りあがって、赤く光っている。
「でも、あなた達は、私を裏切って、愛し合っているじゃない。
私が判らないとでも思っていたの。
目を合わせようとしないくせに、互いにいつも後ろ姿を追っていたわ。
健二さんはあなたに紹介する前の彼じゃない。
彼の目はもう、私を見ていない。
それって、どんなに酷い裏切りかわかる?」
炎はもう、実香子の全身を包んでいる。

「下がって、セリ。かなり危険」
十夜が私を引っ張り、自分の後ろに隠した。
「何とかならないの、十夜」
「無理みたいね」
「そんな~」

青白く光る実香子がそこにいるというのに、その横を酔っ払いがふらふらと通り過ぎる。
彼は私と十夜を見て、怪訝そうな顔をしている。
彼には実香子は視えないのだ。

「こんな状態の彼女をこんな人通りの多いところにおいておくのは危険だな」
十夜がつぶやく。
私達は実香子を見たまま、じりじと後ずさりする。
「逃げるの。逃がさないわ」
実香子がすすっと近づいてくる。

ふわっと実香子の身体が浮かび上がり、私達に覆いかぶさろうとした瞬間、十夜が呪文を唱えた。
「ギャー」
実香子の口から、悲鳴が洩れ、倒れる。炎が消えていた。
「お前、何者?」
倒れた実香子の口が動くが、それはすでに実香子の声ではなかった。
しゃがれた老女の声だ。
十夜がにやりと笑い「お前こそ、その女を操って何をするつもり?」と聞く。

「その女を憎むエネルギーを貰うのさ」
実香子は、というか、実香子を操っているモノは、私を指差す。
「なんと素晴らしいエネルギーだろう。こんなに力が漲って来るなんて。
この愚かな女はとても美味しい餌だ。
だが、まだ、食い尽くしたりはしないよ。
まだまだ美味しくなる。
お前を殺したときには、どんなに美味しくなることか・・・楽しみだねぇ」
にたっと笑い、実香子の姿は消えた。

私はへたへたとその場に座り込む。
「十夜」
「ん?」
「あんな強力な呪文が使えるなら、さっさと使ってよ。
もう、死ぬかと思ったじゃない」
「ふん、あいつの狙いは自分だってこと忘れてんじゃないの?
手を引いてもいいのよ」
私は黙った。
とりあえず、ここは十夜の機嫌を損ねるわけにはいかない。
まったく、忌々しい。

ひとまず部屋に戻り、熱いコーヒーを飲んだ十夜は、
「今夜は大丈夫でしょ。あいつも休むはずよ。私、帰るわね」と言い出す。
「そんなぁ・・・」

「準備しなきゃね。あいつ、あんたを殺すまであきらめないわ。
あんたが死ぬか、あいつが浄化されるか、二つに一つよ」
「実香子は、どうなるの?
あいつは、実香子じゃないんでしょ?」
「実香子さんのあんたへの憎悪の念があいつを呼び寄せたのよ。
実香子さんのあんたへの憎悪が消えるのが一番なんだけど」
「ねえ、実香子は自分が死んだのを納得していないけど、自分が死んだと納得したらどうなるかな?」
「そうね、死んだと分かれば、守護霊に導かれて、霊界にいけるわ。
今、あの人は、人間界と霊界の中間で彷徨っているの」
「でも、実香子の守護霊は隠れているのよね。どうしようもないなあ」

十夜は私の言葉に首を振る。
「霊はエネルギー体だから、それよりも強いエネルギーには弱いのよ。
しかも、負のエネルギーには特にね」
「そうなの」
「霊って、もともと普通の人間だったのよ。
霊になったからといって、スーパーマンになるわけじゃないわ。
現実の世界に干渉できるほど強いエネルギー体になるには、よほどの恨みとか、死ぬ瞬間の強い書き込みが無ければなれないの。
実香子さんの守護霊がそんなに強いとは思えないわ」
「そう言うもんなんだ」
十夜は真面目な顔になって、
「セリ、あんた、ホントに室生とか言う男が好き?」
「ああ・・・うん」
少し戸惑った。
「そうね、背は高いしハンサムだし、仕事が出来て将来有望だし・・・でも、計算高い、ナルシストだわ。
自己実現のためにはなんでも出来そう・・・見掛けは良いけど中身はとんでもない奴みたいな気がする。
・・・でも、彼は、私の人なの」
それをどう説明していいか判らない。
でも、私には判るのだ。
今まで恋人もいたけども、いつもこの人は私の人じゃないと思っていた。
何も話していないし、触ってもいないけど、私は室生と会ったときに、この人こそ、私の人だと思ってしまったのだ。

十夜はふんと鼻を鳴らし、頷いた。
「なるほどね、あんたの人か・・・そりゃ、どうしようもないわね」
「わかるの?」
「わかるわよ。どんなに好きでも、自分のものでなければ駄目だし、どんなに大変な奴でも自分のものなら、仕方ない」
「子供の癖に、どうして分かるのよ」
子供の癖にと言う言葉を無視できるくらい十夜は大人になったらしい。
「決まっているじゃない? 天才だもん」
と笑った。

「とにかく、解決するまで、あの桜の木の下を通らないでね。
私、対策を考えるわ。
部屋に来ても、アレを身に付けていれば、今くらいの力なら大丈夫。
でも、今よりも力が増したら、アレでも、防ぎ切れれないから、不味いけど」
「何が力を与えているの?」
「うん、たぶん、アレかなとは思うけど・・・はっきりしないから、もう少し調べないとね」
十夜がこんなに自信なさげなのは初めてだ。
私も不安になった。
「十夜、泊まっていってくれない?」
「いやよ、この部屋、物凄く不浄なんだもの」
「えー、そんなこと無いよ」
「あんた、親友と運命の人の結婚が迫っていて、どんどん、悪いものを溜めたわね。
それと、なんだか、この建物自体が歪んでいるように感じるわ。
ここの大家、何者?」
「さあ、不動産屋さんからはこの辺りの大地主のおばあちゃんって聞いたけど・・・」
「会ったことはないの?」
「うん、忙しくて、寝に帰るだけだもん」
「忙しいのも結構だけど、もう少し、お掃除しなさいね」
そう言うと、十夜はテレビ台をすうっと指でなぞる。
「ほら、こんなに埃だらけ!」
「あんたは、鬼姑か?」
「不浄なものを放置しとけば、不浄が集まってくるのよ。
あんたのためを思って言ってるんじゃない」
とにかく掃除しなさいと言い置いて、十夜は帰って行った。
仕方なく、私は掃除機をかけることにした。
掃除機がウィーンと音を立てた途端、寝室のほうの壁がどんどんと叩かれた。
そっちは無愛想な大学生の部屋。
あいつ、昨夜はあんなに騒いでいたくせにっと腹が立ったが、時計を見るともう、1時半、確かに不味かったと反省して、掃除機を止めた。

風呂に浸かって、十夜のことを考えた。
私は子供の頃からいろんなものが見えていた。
そんな私には病院はとても怖い場所だった。
そこら中に亡者がうろついている。
ところが、うちの母はそんなことをちっとも苦にしない人で、怖がる私を引っ張って親友のお産に付き添うために総合病院へ連れて行った。
彼女の夫は海外出張で帰って来れなかったのだ。

そのお産は難産で、長い間、私は震えながら待合室で座っていた。
私の前には血みどろの男が腕をぶらぶらさせたまま立っていて、私の隣には老人が腹を抱えて座っていた。
向こうの通路には寝巻き姿の女がふらふらしていた。
私は知っている限りの祈りの言葉を繰り返して、目を瞑っていた。

産室から、赤ん坊の泣き声が聞こえた瞬間、すべての電灯が消えた。

電灯はすぐに付いたが、その時には、私を脅かしていた亡者たちは消えていた。
それからも、赤ん坊の十夜と一緒に遊園地に行き、十夜が泣くと、そこにいた亡者がいなくなったり、自殺の名所といわれる観光地に行ったときも、黒く汚れて見えていた岩が、十夜が触ったところだけ白く輝くように見えたり、煤けていた親戚のおじさんが十夜に肩を揉まれて、煤が消えてすっきりしたりと、あいつの奇跡はいろいろ目撃している。

だから、十夜が高校受験をせずにその道の師を探し、弟子入りしたのを不思議に思わなかった。
なんでも、高野山の近くの神社だったなあ・・・
十夜の両親は、有名大学有名企業というエリートコースを十夜に望まなかった。
十夜は自分に関心の無いことは受け付けない我儘な奴だったから、仕方ないと諦めたのだろう。
十夜は7年間、その師の下で鍛錬し、去年、帰ってきて、銀座のど真ん中に小さな事務所兼住居を持った。
そんな事務所の費用を払えるのかと心配したが、どうも、大家さんも十夜に助けられた人のようで格安に借りることが出来たらしい。
それに、私のように霊に悩む人は多いようで、何の宣伝もしていないのに結構繁盛している。
たまに訪ねると、相談者と出くわすことがあった。
この一年で彼は、霊の見える仲間のアイドル状態になっている。

まさか、あんなオカマみたいになって帰ってくるとは思わなかったけどなあ。
結構凛々しい美少年だったのに・・・

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その春の桜の下  (Ⅰ)

「どうしたの? こんな朝早く・・・」

出勤しようと、アパートの軋むドアを開けると、実香子が立っていた。
三月とはいえ、今朝は冷え込んでいるのに、コートを着ていないし、バッグも持っていない。
普段着のような薄いセーターとスカートと言うおよそオシャレな彼女らしからぬ格好だ。

「ちょっと、セリの顔が見たくなって・・・」
「ごめん、ちょっと、遅れそうでさあ・・・」
時計を見ながら言うと、実香子は例によって気弱そうな笑みを浮かべた。
「いいの、顔見れたから、もう帰るわ」
その様子が少し気にかかったが、夕べ、隣の学生が騒々しくて、夜中に目覚めて、朝寝坊していたので急いでいた。
会計事務所に勤めていると毎日が戦争のような状態だ。
ある会社の決算が大詰めを迎えていて、今朝は早出するつもりだったのに、何時もより遅い時間になっている。
「ごめん、今日は急いでいるの」
「駅まで、一緒に歩いていい?」
「うん」

季節は春。
アパートを出るとすぐに、大きな古い洋館がある。
もう、誰も住んでいないらしい。
そこには桜の大木があり、道に張り出している。
そのサクラの蕾がぷっくりと膨れ、今にも咲きそうだ。
洋館を通り過ぎると下り坂になっている。
その坂を下ると5分ほどで駅に着く。

用事があってきたのかと思ったが、実香子は何も言わず、少し遅れて付いてくる。
この煮え切らなさは、よく言えば、おしとやかとか健気と呼ばれるのかもしれないが、実香子の場合、なんとなく、じっとりとした愚図に思えて、腹立たしいときがある。
「何か用があったんでしょ?」
「ううん、顔見たかっただけ」
 
実香子とは大学のサークルで知りあって、もう、7年の付き合いになる。
私は経済、彼女は文学部だった。
――茶道部。
田舎の母が茶道の教授をしている。
子供の頃からお茶は自然に生活の中にあった。
女同士のどろどろや、縦の関係の面倒くささに、母が悩んでいるのを知っていたので、あんな物やるもんかを思っていたのだが、いざ、都会の放り出されると、つい、心の拠り所にしたと言うわけだ。

実香子は私のように田舎モンではなく、都会のお嬢様なのだが、都会に生まれ育ったわりに田舎ものの私と付き合った。
「セリといれば安心できるの」
こちらは実香子の存在をほとんど無視しているに等しかったが、彼女は狭いアパートに押しかけてきては、泊まって行ったりした。
そのくせ、有名な高級住宅地に有るという自分の家に私を招いたことは無い。

「え?」
実香子がもごもご何かいっているのに気付き、振り返ると、彼女は桜の木を見上げて立ち止まっていた。
「桜、もうすぐ咲きそうね」
「ああ、そのこと・・・そうね、もう、三月だもんね」
とりあえず、相槌は打ったが、とにかく、私は急いでいた。
「ごめん、実香子、私、ちょっと急ぐの。また、電話する」
桜の下で頼りなげに立っている実香子に手を振り、私はダッシュした。
少し走って、振り返ると、実香子は桜を見上げた見たまま立っていた。
数歩歩いて、また、気になって振り返ると、もう、桜の木の下に実香子はいなかった。

「こんな朝っぱらから、なにやってんだか・・・」

どうしたのだろう?
実香子は先月の末、3年勤めた銀行を寿退社した。
今月末の結婚式まで、結婚の準備にかかりきりのはずなのに。

相手は同じ銀行の二年先輩の室生だ。
実香子が興奮して彼のことをは話したのは2年前。
「ハンサムで優しくて、仕事が出来るの」
紹介してくれたのは半年前。
「結婚が決まったのよ」
そう言って、ある居酒屋で引き合わせてくれた。

確かに一見ハンサムで優しい人のように見えるが、出会った瞬間、私には彼の本性が見えた。
彼は優しいが無条件なお人よしではない。
次に踏み出す一歩を自動的に計算できるシステムつきだ。
実香子は大人しくて可愛い妻として最適とコンピューターがはじき出したのだろう。
そのときには、彼女の背景もきっと計算条件に入っていたに違いない。

そして、室生も私の本性に気付いた。
「あの人、君とは随分違う世界の人だね」
実香子はその後彼にそう言われたと笑っていた。

ほんの数回しか、室生には会っていない。
彼との間に何かあったのだろうか?

会社に出ると、忙しくて実香子のことなど考えている暇はなくなった。
プリンターが吐き出すドキュメントに目を通していると、デスクの電話が鳴った。
「室生さんと言う方からお電話です」

「はい、池田です」
「仕事中にごめん。室生です」
「実香子のことですか?」
「君のところにいるのか?」
「いいえ、今朝、部屋の前で出会いましたけど、駅に向かう道の途中で別れました」
「実香子、何か言っていましたか?」
「いいえ、今日は忙しいので話は聞けなくて・・・」
「ああ、決算だね。申し訳ない」
「実香子、何かあったの?」
「いや、ちょっと、夕べ喧嘩して出て行ったんだ」
そういえば、二人はもう一緒に住んでいたんだと思い出した。
「夜、電話します。携帯を教えてください」

互いの携帯番号を交換し、電話を切って、仕事に戻った。
忙しい一日が過ぎ、10時過ぎ、同僚は皆帰ったので、室生に連絡を取った。
「仕事、大丈夫なの?」
「ええ、今、サマリーを打ち出しているところなので、時間があります」
「そうか・・・」
一瞬の沈黙。
「実香子と喧嘩したんですか?」
「ああ、ちょっと、僕もいらいらしていて」
室生にしては歯切れが悪い。
「合併の件ですか?」
「まあ、いろいろ」
「いつ、出て行ったんです?」
「夕べ、2時頃・・・上野毛の実家に帰っているとばかり思っていて、今朝、電話したら、帰っていなくて・・・」
「うちに来たのは、7時過ぎだったわ。5時間、どこかで時間をつぶしたのね」
「まったく、困ったもんで・・・」
「さっき、携帯に電話したんだけど、電源が入っていなかった」
「ああ、僕も夕べから何度もかけているんだけど繋がらなくて・・・まだ、上野毛にも帰っていないようだし」
「とりあえず、何か連絡が来たら、そちらに連絡するように言います」
「お願いします」
婚約者が夜中に出て行ったというのに、室生はそっけない。
冷静な声だ。
「喧嘩の原因は?」
「つまらないことで・・・理由にもならないんですよ」
「・・・・・・」
「・・・あなたと僕のことです」
「そう・・・それはつまらないわね。それではね」
「ええ、おやすみなさい」

私と室生のこと・・・?
私と室生はたぶん、5回くらいしかあっていない。
室生の勤務先もS銀行と言うだけで、支店勤務か本店勤務かすら知らない。
電話番号も、今朝、交換したばかりだ。
それなのに、実香子は私たちのことで室生と何を喧嘩したのだろう?

プリンターが止まり、私は帰ることにした。
明日はまた、忙しい。

守衛さんに鍵を渡し、外に出ると、冷たい風が吹いていた。
冬のコートからスプリングコートに着替えるのが早すぎたかと後悔するくらい、冷たい風だった。
だが、その風の中には春の匂いがする。
どこかで、沈丁花が咲いているのかもしれない。

駅を出て、アパートまでの道を歩きながら、電話をしたが、相変わらず、実香子の電話には繋がらなかった。
坂道を上がり、あの桜の木が見えてきた。
その下に人影が・・・

「実香子、何しているの?」
実香子は朝、うちに来た時のままの格好で、桜を見上げていた。      (続く)

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空の民と森の民

2004の春、花粉症の症状に悩んでいた頃に書いたSF。


 これは遠い昔の、ある星の物語……

警報が高い塔のガラス張りの部屋に響く。
人々は食事の途中だというのに、レストランの窓に近寄り、眼下を見下ろした。
白い雲が直ぐ下を漂っている。
その隣りに金色に輝く筋があった。

「これで、三回目ですね」
一緒に席に着いていたラボの後輩のマルーが横でその雲を眺めながら呟いた。
「ああ」
頷きながら、シーはすぐ近くの4号棟がその金色の筋の中に包まれていくのに気付いた。
「フィルターが持ってくれるといいが……」
周りの客達は、声も無くその光景を見つめている。

4号棟は、病棟だ。
身内が入院しているのか、初老の男があわててレストランから走り出て行く。
間に合うわけもないし、自分で何か出来るわけでもないのだが、何かせずにはいられないのだろう。

黄金の雲はあっという間に、4号棟をすり抜けて流れていった。
アナウンスが響く。
その内容で、4号棟は全員無事と知り、客達は安堵の声を上げた。
皆、元の席につく。食事が途中だった者は冷たくなった料理の残りを腹に収めている。初老の男もいつの間にか戻ってきていた。

――今日の雲くらいの花粉なら除去できるが、あれがさらに濃くなると、各塔に今ついているフィルターでは除去できない。
そう思いながら、シーはマルーと元の席に戻った。
彼らは来たばかりで、料理はまだ出ていなかった。
席に着くと同時に、注文していたパスタの皿がテーブルに並べられた。

海草で出来たパスタ……この海草は栽培種ではなく三千メートルも下の、海から運ばれた高級食材だ。
最近はこのミーヌの店でしか提供されない貴重なパスタをフォークに絡め取りながら、シーはため息をつく。

そのため息を聞き、周知の事実をマルーは口にする。
「あと、二年ですべての花粉がこの高さまで到達するそうです」
「建設局にも困ったもんだ。このままじゃ間に合わないかもしれないな」
シーの悲観的な言葉に、マルーは気休めを口にする。
「間に合わせると頑張っていますよ」
二人はそれきり黙りこみ、パスタをかっ込んだ。

あの黄色い筋雲が現れるようになって、2年。
人類は滅亡の日を迎えようとしていた。

始まりは五十年前、最初は風邪のような症状だった。
くしゃみが続き、鼻がむずむずする。
今年の風邪は長引くと人々は話し合った。
風邪が重篤な症状になり、やがて、アナフィラキシーショックで、死ぬ者が出始めた。
それが二十年前。

人間が環境ホルモンに汚染され、無害の花粉をアレルギー物質と身体が受け取るようになったのだという説が有力だった。
花粉を調べ、その中に、人類にのみ有効な毒素を持ったアレルギー物質を見つける十年前までは……

そのアレルギー物質は他の動物には何の害もなく、明らかに人間を狙い撃ちした植物からの攻撃だった。
最初、それを持っているのは一部の花だけだったが、次第にすべての花に広まり、この五十年で、人類は半減してしまった。

恐竜が絶滅した原因は花の出現のせいだという仮説が有ったが、そのまま、人間に当て嵌るような状態になった。
初期の頃には、枯葉剤を撒き火炎放射器で焼き払ったが、あらゆる植物を根絶するのは難しかった。
そして、その後に出てくる植物はもっと強力な毒を持つ花をつけ花粉を飛ばした。
人類は花粉の届かない上空に逃れるしかなくなった。

現在では、多くの人類は地上には居ない。
雲の上の高い塔に住んでいる。
だが、中には人種を超えてその症状の出ない者達がいて、彼らはジャングルと化した地上に小さな村落を作って住んでいる。

高い塔の住人が地上に降りるためには、マスクが必要だし、地上の民は高い塔に登ると、その薄い空気のために高山病になるため、事実上、人類は二つの種族に別れてしまった。

地上は太古の森を思わせるような緑に包まれている。
かつて、繁栄した街の道路やビルは、今は緑に埋もれて、高い建築物の残骸がその緑の海に島のように突き出ている。
落葉樹と微生物が、どんどん腐葉土を作り出し、すべてを土に還して行き、花は黄色い花粉を有毒ガスのように空気中に吐き出している。

 
地上千メートルの高さまで組まれた特殊合金の土台に乗っかり、上空二千五百メートルまで届く塔は、かつての都市の上に建てられ、かつての都市の名前で呼ばれている。
塔と塔は飛行機や飛行船により結ばれている。

五年前のある日、突然、その一つ、ナカ-クとの連絡が途絶えた。
一万人は居るはずの住人の誰一人、外からの呼びかけに答えない。
その朝、ナカ-クに着陸しようとした飛行機のパイロットからの通報で、管制官も呼びかけに答えないことが判明した。
その飛行機は隣のヒガシークに着陸したが、テロの可能性も考えられるため、ナカークには軍隊が派遣された。
完全防備の軍人たちは、その塔の飛行場に着陸した飛行機から降りた途端、いたるところに斃れている人々を見つけ、何が起こったかを悟った。
そこには凄惨な光景が広がっていた。
住人はすべて、様々な場所で、喉を掻き毟りもがき苦しみ死に絶えていた。
彼らのペットは元気だったところから、彼らが花粉のせいで死んだのは明らかだった。
その後の調査で、ナカークにはかなりの量の花粉が残留していることが判明した。
二万人は殺せるほどの強力な毒素の花粉だった。

どうやら強風で吹き上げられた花粉を含んだ雲が、この塔にぶち当り、この塔全体をあっという間に汚染したらしい。
貯水槽に落ちた花粉を飲み込んだ者、窓を開けていて直接吸い込んでしまった者、外に出て、塔の通路に溜まっていた花粉を含んだ空気を吸った者、それぞれ、飲んだり吸い込んだりした瞬間にアレルギー反応が出て死んだようだった。

ナカークの全滅は各塔の住人達に大きな衝撃を与えた。
その時までは、この高さには花粉は来ないとされていた。
しかし、もう、安心は出来ない。
強力なフィルターを開発し、各塔は花粉に対抗しようとした。
ちょうどその頃、この星系の外に出ていた観測船から、この星と良く似た気候の星が見つかったという連絡が入った。
その星にはまだ被子植物は出現していないという報に、空の住人は喚声を上げた。

宇宙船の建設が始まった。
その間にも花粉の雲は次第に数を増やし色を濃くしていた。
人々が黄色く染まった雲を、恐れ見守る日々が続いている。
塔全体が死滅した例も、この二年間に、十数例、報告され、その間隔が狭まってきていた。

シーとマルーはレストランを出て、塔の廊下をラボに向かう。
幅二十メートル以上もある道路には、電気自動車が走っている。
ラボに入ると、ルーラ教授が来ていた。
花粉の研究をしている森の住人だ。
数少ない森の中の研究所で、花粉の毒素についての研究をしている。
彼のワクチンで、一命を取り留めたものは多い。
シーもその一人だった。

「教授、お元気そうで何よりです」
「シー、君も元気そうだね」
「ええ、教授のおかげです」
教授はにやっと笑うと、手にしていたカバンから白い封筒を取り出した。
花粉検査済みのシールが貼ってある。
「アリアンナからだよ」

森では花粉のために精密機器は使えない。
通信手段は故障ばかりしている固定電話か、郵便だった。

手紙を受け取り、一刻も早くそれを読みたいと思いながらも、シーは教授との森の話をした。
森は春で、色彩々の花が咲き、動物達は繁殖の季節で、子供が生まれているらしい。
その話を聞きながら、シーは自分の遺伝子がその光景を見たがっているのを感じながら、自分にとってはその光景は死を意味するのだと思うと暗澹たる気分になった。
その思いは皆同じらしく、笑顔でその話を聞きながら、皆一様に寂しそうだった。

帰りがけに教授は言った。
「明日、森に返る前に寄るよ。アリアンナに返事があるならそのときに預かろう」
「ええ、ぜひ」

その夜、シーが3号棟の自室に戻ったのは0時を過ぎていた。
わざわざキャンドルを燈し、アリアンナの手紙を取り出し、読む。

「シー、お元気ですか?
私は前に書いたと思うけど、先月から、学校で植物学を教えています。
森の子供達は親が森のことを何も知らない世代なので、とても危ないの。
昨日も、一人の子供が野いちごと間違って、毒イチゴを食べようとしているのを見つけたわ。
あなたも一度食べかけたわよね?

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森は今、新芽の美しい季節。
花が咲き乱れているけれど、探してみると人間が食べられるものは本当に少ないの。
備蓄している食糧も底をついてきて、これからは自給自足の生活になりそうなので、食べられるものを見つけられるかどうかは、生死にかかわる重大問題になると思うわ。
子供達にはしっかりと教えてあげないとね。
私も、勉強することがいっぱい……

もうすぐ、シーは宇宙に行ってしまうのね。
シーが空の子供と分かって、空に行ってしまってから、もう、15年立つのよ。
私達、私やあなたの級友は、いつだってあなたのこと忘れたことないわ。
あなたのご両親とも、出会うたびにあなたの話をしているの。
お二人とも、とてもお元気よ。
来月、あなたに面会に行くって楽しみにしていたわ。
私も会いたい……
でも、私は花粉の浸透度が強くて、あなたに逢うと、あなたが死ぬ可能性もあるんですって。
残酷な話ね。

そうそう、私、時々、あの昔都庁だったビルの最上階に上って、あなたの住んでいる塔を見上げているの。
明るく輝く塔を見上げ、あなたがあそこで、元気に暮らしていると思うと、また、生きる力が湧いてくるわ。
でも、それも、もうすぐ終わり。
あなたは宇宙に行ってしまうのだもの。

ところで、森の人類の希望の星、29歳の天才科学者シー・ファオン・ルーカスが、私たちの同級生というのは、私たちにとってはかなりの自慢の種よ。
あの、いつも蒼褪めた顔をしていて咳込んでばかりだったシーが、人類の救世主になるなんて信じられないって、スーはいつも言っているわ。

スーのこと憶えている?
森に隠れ家を作っていたあの暴れん坊の2歳年上の男の子。
私、スーにプロポーズされたの。
返事は保留しているんだけれど……あなたが行ってしまったら、結婚するつもり。
私は彼と結婚して、たくさん子供を生んでたくましく育てるわ。
シーも誰かと結婚して、たくさん子供を作ってね。
あなたの子孫がいつか、ふるさとの星に還って、そこにいる私の子孫と結ばれたら、どんなに素敵かしら……
そう思わない?

飛散する花粉が酷くなっていて、教授がそちらに行けるのは、これが最後なんですって。
もう、私から連絡できないけれど、私はいつもあなたのこと考えていて、いつもあなたを愛している。
そのことだけ、忘れないでね」

アリアンヌの手紙は涙で掠れて読めなくなった。
14歳の春、花粉症で死にそうになって、空の病院、あの4号棟に運び込まれて以来、アリアンヌの白い顔を見たことがない。
あの頃は、自分の身体を恨んだものだ。
森の匂い、空気、森の生活をどんなに自分が愛していたことか……
そして、縺れた豊かな髪のアリアンヌを……

シーはベッドに仰向けになり、流れ落ちる涙をそのままに虚空を眺めていた。
だが、その時間も長くは与えられなかった。
すぐに、ラボからの連絡が入り、シーはその手紙を胸にしまい込んで出かける羽目になった。

次の日、教授に渡したのは、ただ、「おめでとう、元気で」と書いたメモだった。
教授はその封筒の薄さに、少し顔をしかめたが、何も言わず、去っていった。
教授とも、それが最後の別れだった。

この星の人類の遺伝子に組み込まれている情報は、すでに解読されている。
シーの仕事は新しい情報を組み込んだ遺伝子を作り出すことだった。
それは、この星に文明を残すためには必要不可欠な研究だった。
ジャングルに残った人類はもう退化し始めていた。
彼らは小さな単位で群れて、獣を狩り、畑を耕す生活に戻り、もう、文明と呼ばれるほどの生活をしていない。
彼らは、宇宙に旅立つとは言わなかった。
彼らにはその必要は無いのだから、それは当然だった。
花粉が落ち着き、また、人類が殖え始め、文明が有る一定の水準に達した時、つまり食べ物を得る為に汲々とせずに生きていける者が現れた時、遺伝子の情報は動き始める。
印刷や蒸気機関、物理学、量子力学……人類はまた科学の力を手に入れることが出来る。

――その時、また、植物は花粉を飛ばし人間を滅ぼそうとし始めるだろうか?

シーはラボのドアの認証装置に自分の手のひらを押し付けながら、ふっと、そんなことを考えていた。

ニ年後、予定より少し遅れて、生き残った人類は、地上者達を残し新しい星に旅立った。
その前に森の住人の希望者たちは、シーの遺伝子治療を受けた。

最後の夜、シーは昔の都庁を見るために、そこに近いある塔の最下層まで降りた。
見ると、都庁の屋上に赤々と炎が上がっている。
シーはそこにアリアンナがいると確信した。
見えないアリアンナにシーはささやく。
「アリアンナ、僕も、子供をいっぱい作って、この星に還るようにと教えるよ。
いつか、僕の子孫と君の子孫が結婚して、豊かな森に住めたらいいね」

そうして、空の住人はその星を離れ、その星の第一次文明は壊滅した。

高い塔も次第に朽ち果てて倒れ、ジャングルに沈み、土に戻った頃、星を覆っていた黄金色の雲は消えた。
もともと人間が農薬で害虫駆除をしたせいで、植物は花粉を飛ばすようになったのであって、昆虫が受粉してくれれば、花粉など飛ばす必要は無かった。
植物は人間を追い出し、星は他の動植物の楽園になった。

皮肉なことに、それは森の住人達にも幸いした。
豊かな自然のお陰で、残った人々は数を増やした。
彼らは精力的に働き、次第に数を増やしていった。 
やがて、彼らは国や階級を作るようになり、いくつかの地域戦争を起こした。

先祖たちが遠い星に旅立ってから何千年もたったある晴れた秋の昼下がり、ある男が満腹の腹をさすりながら、庭で、最近発明された印刷による本を読んでいて、ふっと目を上げると、たわわに実った林檎の木から、実が一つ落ちた。

 その瞬間、彼の中に、ある考えが浮かぶ。
 
 ―― 林檎が風も無いのに落ちる…林檎は何に引っ張られたのだ?

 その答えを彼は見つける。まるで、昔から知っていたことのように…

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