1万キロ現地調査第10回(山梨・長野・新潟)報告
【調査会NEWS1230】(24.8.30)
◎参加者(参加順)
調査会・支援する会・特定失踪者家族・美保さんの家族を支援する会・予備役ブルーリボンの会・庄内ブルーリボンの会・ブルーリボン柏崎・大澤孝司君と再会を果たす会他地元関係者
◎日程
8月25日(土)
●甲府駅南口駅レンタカー営業所前集合。調査開始。
●甲府駅南口の山本美保さん失踪当時バイクが発見された場所で状況の確認。
山本美保さんは昭和59(1984)年6月4日午前10時頃、家族に「図書館に行く」と言い残して甲府市長松寺町の自宅から原付バイクで出掛けたまま所在不明となる。2日後の6月4日に甲府駅前でバイクが施錠された状態で発見され、さらに6月8日、新潟県柏崎市の荒浜海岸で本人のセカンドバッグが発見された。しかし結局美保さんの行方は不明のままだった。失踪後度重なる不審な電話がかかってきた。不審な電話(意味不明な内容のものや無言電話、何らかの偽装と思われる電話など)が特定失踪者の家にかかってきた例は多数存在する。
失踪当日、美保さんが家族に「図書館に行く」と言い残して外出した件については、当時(昭和59年)の図書館運営要綱に「休館日は日曜及び第1・第3日曜日の翌日」と記されており、6月4日(月)は第1日曜日の翌日にあたるため、休館日となっていた。
休館日であることに気付かなかった可能性もあるが、美保さんが休館日のことを知っていて出かけたのならば、家族には嘘をついて出掛けたこととなる。「小さな嘘」をついて出たまま失踪するケースも特定失踪者に多数見られる。何らかの形で家族に説明できないような状況を作為され、誘引された可能性がある。
自宅を出た後の細部の行動については不明だが、山梨中央銀行甲府駅前支店で現金5万円が美保さん名義の口座から引き出されている。特定失踪者では失踪後本人名義の銀行預金が引き出されるケースが1990年代を中心にいくつかある。この預金引き出しが本人か別人かは不明。荒浜海岸で発見された美保さんのセカンドバッグには財布も入っており、現金約8,700円が残されていたが、甲府駅前で引き出された5万円との差額がどうなったのか、謎が残る。
今回は本調査とは別に前日24日に事前調査を行った。甲府市内で美保さんの当時の立ち寄り先であった喫茶店について調査を行った結果、現在は閉店となっている喫茶店の経営者宅を探し出すことに成功し、在宅中であった元経営者の実弟も当時、喫茶店で何度か美保さんと会っていたことが判明したため、今後継続して元経営者や経営者の実弟から当時の交友関係などについて聴取を行うこととなった。
また、家族からは失踪の前年、昭和58年の秋口か11月頃、甲府市内でバイクに乗車していた美保さんが信号停車した際に黒い服姿の男に「刑事さんの娘さんですね?」と声をかけられ、帰宅後その話を聞いた母親が「行動に気を付けるように」と注意を促していたことも新たに情報として提供された。山本美保さんの失踪には山梨県内に住む固定工作員ないし協力者の存在が想定される。その面からの今後調査をさらに進める必要がある。
●山梨県警本部前で山本美保さん及び非公開失踪者女性Oさんについて状況確認。終了後車両で移動。
Oさんは昭和54(1979)年6月4日正午頃、自家用車で自宅を出た後、甲府市内の勤務先病院で午後からの会議に出席した後、一旦外出して市内の百貨店に行き、再度病院に戻り17時30分頃に病院1階の待合室で同僚と立ち話をした後所在不明となる。約3か月後の9月10日、車だけが長野県松本市で発見されるが本人の足取りは依然不明のままである。
当時、山梨県内の報道ではOさんに関して「金に困っていた」、「同僚から借金」、「同僚を妬んでいた」旨の記事が新聞に掲載されていた。今回、Oさんの家族(母・弟)に聴取を行った結果、当時の報道記事とは全く違うことが判明した。
失踪当日、Oさんは病院での会議後、一旦外出して市内の「岡島百貨店」に景品交換に行っている。新聞報道では「百貨店には行ったが景品は受領してこなかった」となっているが、失踪後に家族が百貨店の駐車場管理者を探し出して話を聞いた際、Oさんのことを記憶していた。当時の出入記録と照合して「入庫して直ぐに景品を受領して出庫した」と証言しており、Oさんは間違いなく岡島百貨店に景品を受領に行っていたことが確認された。また、失踪後家族のもとに誰からもOさんの借金に関して取り立ての申し出もなく、「Oさんが借金していた」との記事は根拠のないものであることも家族の証言で確認された。
●山本美保さん自宅で山本文子さん・森本美砂さんのしおかぜ収録。
●川合健二さんの元自宅(甲斐市)近くで失踪状況の確認。終了甲府昭和インターから中央道で松本へ(途中各自昼食)。
川合健二さんは昭和54(1979)年4月4日夕刻、中巨摩郡内で運転中接触事故を起こし、被害者を病院に送り届けてから一旦自宅に戻ったが、すぐに車で家を出て所在不明となる。車も見つかっていない。失踪直前、10万円くらいずつ小分けにして300万円が引き出されていた。
川合さんには当時、「山ちゃん」と呼ばれる在日の友人がおり、川合さんが留守でも自宅に上り込み、借金を申し込むような人物であった。家族の話では、川合さんの失踪後に北に渡ったと聞いており、実際川合さんの失踪後は自宅に顔を見せなくなった。
家族が知らぬ間に合計で300万円の預金を引き出していたこと、川合さんの失踪後に顔を見せなくなった在日の人物が川合さんの失踪の謎を知っているのかについてさらに今後の調査が必要である。
●松本駅近くのOさんの自家用車が見つかった地点の調査及び状況確認。
Oさんの車両発見時の状況について家族は「失踪後、直ぐに車は乗り捨てられたのだと思う。何故なら車のドアから草が入り込み、3〜40cmまで伸びていたからだ」と述べ、数か月放置された車内に野草が入り込んだと推測しているが、Oさんの車両は失踪の約1か月前に車検を終了した際、走行距離が約1万9000kmだったのに対し、発見時は約21000kmの走行距離をメーターが示していた(正確には車検終了後から1,620kmの走行距離となっていた)。発見時の走行距離からOさんが通勤やドライブに行った際の走行距離を概算(多め)で計算しても実際には約400kmほど多く走行がなされており、失踪後直ぐに乗り捨てられたと結論づけるには謎が残る。
また、Oさんの失踪に関する山梨県警の捜査もかなり杜撰であったことが判明した。第一に車両発見時、家族が合鍵を持参して松本市まで行き、警察がOさんの車を自宅に持って帰るのを許可したため、家族が乗車して自宅まで持ち帰った。翌日になって所轄署が慌てて指紋採取や遺留品捜査のために自宅を訪れたが、車両には既に家族があちらこちらと触れていたため、結果指紋採取は失敗に終わっている。遺留品については、段ボール箱に詰めて所轄署に持ち帰ったが、後日家族が所轄署を訪れて遺留品の返還を求めると「どこにやったか分からない」旨の回答であり、今日までOさんの遺留品については所在不明のままとなっている。山梨県警は失踪翌年、自殺として捜査を打ち切っているが、前述の事実と異なる報道について、自殺説に誘導するためのリークでなかったかとの疑いも残る。
●菊地寛史さんご家族しおかぜ収録。終了後糸魚川へ。
菊地寛史さんは就職直後の平成10(1998)年4月5日、社員教育研修の宿泊先(長野市内)において2階の自室に靴を残したまま失踪した。窓下の庭に本人の眼鏡等が泥をかぶって落ちていた。本人は極度の近視で、眼鏡なしでは歩けないという。今回日程の関係上関連地域の調査は行わなかったがご両親が調査に参加されたのでしおかぜメッセージを収録した。
●青海の藤田進さん自宅訪問。お母さんの藤田フミさんしおかぜ収録。長靴が置かれていた海岸の調査。妹さんの榊原冷子さんしおかぜ収録。本人が自宅から向かったはずの映画館「北斗座」周辺調査。糸魚川で宿泊。
藤田進さんは昭和40(1965)年3月26日(金曜日)、猛吹雪の中、自宅から徒歩で15分位のところにある「北斗座」で開催されていた明治大学マンドリンクラブの演奏会に出かけたまま所在不明となった。
今回、妹・冷子さんから当日の状況について聴取を行った。家族は進さんが帰宅しないため、映画館まで探しに行ったが、受付にいた人は「来ていない」との回答だった。また、近所の住民が道路上の進さんを目撃していたとの新たな証言があったが、映画館に向かう途中で目撃されたのか、別方向に向かうところを目撃されたのかは不明である。
失踪の翌日か翌々日、進さんの捜索を行っていた住民が海岸に長靴が1足揃えて置かれているのを発見したが、冷子さんの記憶によれば発見された長靴には赤いラインが入っていたとのことで、進さんは青色を好んでいたことから海岸に置かれていた長靴は進さんのものではなく、更に進さんの性格は「気が小さい」ため、夜の真っ暗な海岸には足を向けるはずがないと考えている。この長靴は捜索をしていた人が見つけたものだが、誰かが自殺を偽装した可能性もある。
藤田さんの失踪の3年後、昭和43(1968)年1月に青海から親不知・子不知を隔てた富山県入善町で屋木しのぶさん、2月に朝日町で水島慎一さんと、同世代の男女が失踪しており地域的な関連も推測される。
8月26日(日)
●宿舎から親不知へ。海岸に下りて現地調査。その後柏崎へ
親不知一帯は工作員の上陸地点であり、水上勉の小説『砂の紋章』にも工作員がこの地域で暗躍する場面が出てくる。この小説は実話に基づいたものと言われている。地理的には隠れやすく、侵入しやすい場所である。
●柏崎中央海岸付近蓮池夫妻拉致関連現場調査
蓮池夫妻の拉致についてはすでに言われていることと実際は異なるのではないかという疑問が提起された。当時の現地は現在のように整備されておらず、少なくとも中央海岸からゴムボートで海へ出たとは考えにくい。今後本人たちの協力も求めてさらに調査することが必要と考えられる。
また、現地調査とは直接関係ないが、8月9日に東京で行われた救う会の集会で公開された蓮池祐木子さんから増元照明・家族会事務局長の質問に回答する手紙の中で次のような部分がある。
「るみ子さんとは、1978年秋から翌年の秋の10月25日まで、約1年間一緒に生活しました。
ピョンヤン駅からあまり遠くないアパート(幹部が多く住んでいて、ベンツが多く出入りして、歩哨も立っていました)で、私が他の招待所からそのアパートに引っ越した後、指導員がるみ子さんを連れて来ました。現地で作ってもらったワンピースを着て、荷物はスーツケース(外貨ショップでみんながひとつずつ与えられた)ひとつを持って」
このアパートは西独から騙されて北朝鮮に家族と共に入り、後に脱出した呉吉男博士が居住し、特定失踪者生島孝子さんと思われる女性を目撃したところではないかと思われる。生島さんと思われる女性もそこに居住しており、蓮池祐木子さん・増元るみ子さんとは時期が異なるが、3人がいたのであれば当然他の拉致被害者もいた可能性がある。アパートは日本人や在日朝鮮人もよく泊まる高麗ホテルの隣にあり、日本からの訪問者が拉致被害者を目撃していた可能性があり今後一層の情報収集が必要である。
これについて生島孝子さんのお姉さんである生島馨子さんは蓮池さん宛事実関係を確認する手紙を送ったが現時点では返信は届いていない。以上について状況確認の折説明した。
●越後線荒浜駅周辺調査。徒歩で移動し山本美保さんのセカンドバッグの落ちていた荒浜海岸調査。山本美保さんの同級生小野仁美さんのしおかぜ収録
仮に美保さんが荒浜海岸に行ったとするならば最寄りの荒浜駅から徒歩で移動したと推測される。荒浜駅から海岸までの道のりを徒歩で実際に移動した結果、現在の整備された道路でも約40分を要したことから、道路状況などを考慮すると当時荒浜駅から海岸までは真っ直ぐ向かったとしてもそれ以上の時間を要したであろうとの結論に至った。現地をよく知る人物は、「荒浜海岸は観光地でもなく、また自殺などの名所でもない。初めてこの土地を訪れる人が荒浜を目指すことは考えられない」と述べている。蓮池薫氏の実家にも近く、地元の協力者が自殺を偽装するためにここを選んでセカンドバッグだけ置いた(セカンドバッグの入っていたバッグなど他の遺留品は見つかっていない)と考えるのが妥当ではないかと考える。
●調査終了・解散。甲府から柏崎まで走行距離363㎞(累計2954㎞)。
※山本美保さんについては平成16(2004)年山梨県警が別の身元不明遺体をDNA検査の鑑定結果(非公開)を理由に本人であると発表(DNAデータ偽造事件)以来、そちらへの対応がほとんどになり、失踪自体の調査が十分になされてこなかった。この反省に立って今回は失踪自体の調査に力点を置いた。ただし、県警の担当者が家族に説明したと言っている内容と、家族や関係者が聞いた内容が著しく異なるため、今回にあわせて当時の担当者による説明を警備部長宛求めたところ、警備部参事官より「担当者は替わっているので自分たちが対応したい。2人からは話を聞いている。本人に会っても同じ話になる」との電話があった。そのやりとりの中で参事官は「山本家で山下先生(森本美砂さんの恩師で調査会理事)を廊下に呼び出したことはない。あのときが初対面でありそんなことはしていない」と話したが、これは事実に反する。25日の県警本部前での状況確認ではこのやりとりについて報告し山下理事から当時の状況についての説明があった。
なお、県警本部前での状況確認中に通行人を装った不審な人物が後ろを通りながら話を聞いているのが確認された.。
以上
| 固定リンク