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2010年7月26日

金賢姫来日と国情院

※7月25日付の「調査会NEWS」947号に書いたものです。

 自分が気がついた範囲ではほとんど報じられていないのですが、今回の金賢姫来日にあたっては、韓国の国家情報院(国情院。かつてのKCIA。その後国家安全企画部を経て現在に至る)の担当者による統制が非常に厳しく行われていたようです。

 具体的にどうだったのかは詳しく聞いていませんが、日本政府が自由に情報が集められる状況でなかったという話もあり、それならなおのこと「何で日本に呼んだのか」ということになります。

 しかも国情院からの規制についてあまり表に出てこないということは、規制をしていること自体が分からないように求められていたことの証拠でしょう。何だか、検閲をしていること自体を伝えさせなかった占領期のGHQみたいな話です。

 ここからは私の推測です。韓国政府は天安の事件で国内向けにはある程度強硬姿勢を取らざるを得ず、国際的にも北朝鮮が「逆ギレ」状態で引き下がることもできないために一定の原則的姿勢を維持しています。しかしこれ以上の緊張激化は韓国国内の国論の分裂のみならず、韓国から外資が流出し経済が悪化することにつながるため何とかして避けたいという意向があるのではないでしょうか。事件以後10年ぶりに再開すると言っていた対北拡声器放送や政府の風船によるビラ撒布の実施などを先送りしているのはその証拠でもあります。

一方日本は「天安」撃沈事件で韓国をかなりしっかりと国際的にサポートしており、韓国政府としてはある程度借りを返さざるを得ず、差し障りのない範囲で日本政府の求めに応じたと考えれば大体理屈は通ります。家族会の皆さんが金賢姫と会ったときに彼女から語られた言葉は大体そういう線に沿ったものだったのではないか。

 しかし、それは韓国側の理屈であり、情報収集をするために金賢姫を法的な特例措置まで講じて日本の領土内に入れたのならそれにふさわしいことをするのが当然でしょう。「始めに金賢姫ありき」で、呼ぶために何でも呑んでしまった結果が今回の来日だったとしたら本末転倒も甚だしいと言わざるを得ません。

 金賢姫自身、日本に来るからにはもっと話したい、あるいは聞かれれば話しても良いことはあったはずです。家族会の皆さんも聞きたい話を聞けず、政府も情報収集をまともにできず、特定失踪者の家族に至っては全く蚊帳の外では、報道の量が増えた以外の効果はほとんどなかったと言っても過言ではないでしょう。テレビで報じたニュースの時間をCM代金で換算すれば安上がりということになるのかも知れませんが。

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2010年7月23日

昨日の顛末など

※本日(23日)発信した「調査会NEWS」946号に書いたものです。

 ちょっと長くなりますがお許し下さい。

 金賢姫の訪日の話は前から伝わっていましたが、当初は飯塚さん、横田さんのご家族に会うだけで他の家族会の人にも会わないとの話でした。それなら日帰りか、1泊2日程度だろうと思っていたら23日まで滞在とのこと。

 ならば20日は飯塚さん、21日は横田さんに会うとしても、22日には目撃した可能性のある特定失踪者について何らかの動きがあるのではないかとほのかな期待を抱いたのですが、何もありませんでした。

 結局しびれを切らし、22日夕刻、事務所にある特定失踪者の写真ファイル13冊(数えてはいませんが公開非公開約400人の写真合計1000枚以上が入っています)を持って宿泊先の帝国ホテルに行きました。

 ホテルについたのは午後7時、ロビーで知人の政府関係者がいたので場所を聞いたら3階とのこと。上がって行ったら夕食会をしている宴会場の10メートル程前がロープで仕切ってあり、ホテルの人が立っていてそこから先には入れませんでした。そこで中にいる対策本部の関係者を呼び出してもらい、金賢姫にこの写真を見せたいと伝えました。これを伝え聞いた中井大臣からの伝言は「自分がやる」とのことでした。自分がやるから写真を貸してくれ、というわけでもありません。要は帰れということです。

 しかしそんなことで納得することはできず、せめて出てくるところをつかまえようと思って会食が済むまで1時間、その場で立って待っていましたが、金賢姫も中井大臣も裏から出ていってしまい、姿も見ることはできませんでした。表から出てきたのは平沼拉致議連会長と衆参の拉致特委員長でした。平沼会長はともかく、衆参の拉致特委員長は私自身が全く面識もなく、あいさつすらしませんでした。

 そこで直ぐに記者会見を開くことを決め、事務所に戻りました。そして出したのが昨日のニュースです。夜の10時に急にお集まりいただいたマスコミの皆さん、ありがとうございました。

 記者会見には生島孝子さんのお姉さんである生島馨子さんも参加し、ご家族の立場からのお話しもしていただくことができました。会見の内容の一部は新聞・テレビ等でも報道されましたので、その内容も含めて、今考えていることを整理すると次のようになります。

●金賢姫来日の法的問題や予算の問題は、本当に救出に必要なのであれば認められるべきである。北朝鮮の国家目的によって拉致された人を救うのだから、並大抵のことではできない。必要であれば政治判断として行われてしかるべきだと思う。

●最近拉致問題の動きがなく、報道も少なくなっていたときであり、金賢姫の来日によって久しぶりに拉致問題が大きく報道されたのは世論喚起の意味でもプラスであった。

●飯塚さん、横田さんのご家族に金賢姫が直接会って話をしてくれたことは良かった。少しでも情報が伝えられれば家族にとって何よりのプレゼントである。

●しかし一方で、特定失踪者については今回ほとんど顧みられなかったと言って良い。別に調査会を通さなくても可能性のあるご家族に直接声をかけるなどして面会させ、情報の確認を行うべきだったと思うが、そのような形跡はない。

●非公開の特定失踪者の写真など政府はほとんど持っていないはずである。しかし、提供を求めるどころか、それを見せることすら拒むというのは一体何のための情報収集なのか。私が行ったときに1時間半かけて会食をしていた国会議員で、拉致の細かい事情を知っている人はほとんどいない。酒を飲みながらの世間話で時間を費やすなら1時間半で何人の写真がみてもらえるのか。

●結論として今回の金賢姫訪日は情報収集及び飯塚さん、横田さん家族との面会なら大部分が韓国で済ませられることであり、厖大な予算をかけ法的な特例措置をもって行う必要はなかったと言わざるを得ない。

●また、「訪日はご家族の意向」とか「金賢姫が旅行したいと言ったからヘリに乗せた」とか、「韓国国情院の統制が厳しくて十分に話が聞けない」などとの話が出ているが、これらはどれも言い訳のように聞こえてならない。政治決断でやったならすべての責任は政治家が負うべきである。

 会見では金賢姫に見せようとしていたファイルを前に並べてお話ししましたが、そのファイルを見ているうちにこれまでの色々なことやご家族のことが頭の中をかけめぐり、言葉に詰まってお恥ずかしいところをお見せしてしまいました。この現状を冷静に認識し、どうやったら本当に救出できるのか、その目的に向かって努力してまいりたいと思います。今後とも何卒よろしく御願い申し上げます。

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聞きっぱなしはやめよう

※7月21日付「調査会NEWS」944号に書いたものです。

 本日軽井沢での飯塚耕一郎さんの記者会見で、金賢姫が田口八重子さんや横田めぐみさん以外に見たことがあるような気のする人物がいるという趣旨の(正確な言葉は分かりませんが)話をしていたと伝えられました。「詳細は警察当局に言っている」と金賢姫は語ったそうです。

 「警察当局に言っ」たのはもちろん今回ではなく、昨年飯塚繁雄さんと耕一郎さんが訪韓して金賢姫に会った前後のことです。つまりそれから1年間、情報があっても事態は何も動いていなかったということになります。警察は、そして政府はこの間いったい何をしていたのでしょう。まさか「確認ができない」とか言って隠蔽してきたわけではないと思いますが。

 これまでもそうですが、いくら情報を収拾してもそのままでは何の意味もありません。隠すなら具体的な救出の手はずを進めるか、それができないなら家族はもちろん、国民にも知らせるべきです。せっかく厖大な労力をかけて情報収集のために彼女を呼んできたのなら、明確な成果を出さなければ意味がありません。最も優先されるべきは「救出」であり、そのための情報収集です。そのことを忘れてはいけません。

 ご参考まで、前に流した田原総一郎氏の裁判における陳述書をもう一度引用しておきます。再びこうならないことを望むのみです。
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 私(田原氏)は、(北朝鮮から)帰国後の平成19年11月8日、外務省にて、外務省幹部4人と拉致問題について話し合いました。(中略)私が、ソン・イルホ大使が「8人以外に複数の日本人が生存している」と話したことを伝えたところ、外務省幹部は「同じ話を聞いているが、8人以外の複数の日本人が帰国しても、北朝鮮に対する世論が好転することはないと判断したため、その話はなかったことにした。」などと話しました。

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2010年7月14日

10月23日

 10月23日に東京都庁の「都民広場」で大集会を行います。

 東京都・都議会拉致議連などとの共催ですが、調査会が大集会を行うのはこれが最初で最後になります。その分インパクトのあるものにしたいと思っています。詳しくは今後逐次お知らせしますが、一人でも多くの方のご参加をお願いします。

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