はてなキーワード: 龍造寺とは
一応「越後の龍」がいるが……
上杉謙信が崇拝していたのは毘沙門天であって龍ではない(本当に?要調査)
龍造寺氏だって龍を信仰しているわけではない(本当に?要調査)
幼名が「龍王丸」の武将もいるけれど、別に成人後に龍アッピールしてるわけでもない
一方で、龍も風雨を操るとされるから「龍が風を起こした」と書かれた文献がひとつくらいあってもいいだろうに
元寇で吹いた強風が龍の仕業ではなく神風とされたのは何故なのか
いや、書いておいてなんだがなんとなく想像はつくがね……
龍は中国……特に中国皇帝のシンボルなので、日本側が龍に助けられたとすると都合が悪かったのだろう
ここらへんの話は「神国思想」について調べるのがよさそうか
だいたい昔の日本において龍は寺院……つまり仏教と紐づくものなんだ
龍の字を冠する寺院が何と多い事か
(前述の龍造寺氏は龍造寺村という地名由来でそう名乗っただけらしい)
仏教には「龍王」がいるから、これを守護神とした僧兵とかいたのかな
じゃあ「僧兵 龍」でぐぐってみよう
……
《龍鐘の僧兵/Dragon Bell Monk》というMTGのカードがひっかかって調べるのが大変そうなので今日はここで終わり
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蛇/龍信仰では人の姿を取らない相手を信仰の対象としていたが、時代が下るにつれて龍の属性を持った仏を信仰の対象とするようにした……といったところか
桶狭間度:★★★★★
海道一の弓取りと謳われた今川義元の大軍を、小勢の織田信長が打ち破った戦い。「桶狭間は谷だった」「いや山だった」「奇襲だった」「いや正面攻撃だった」など、その実態については今なお盛んに議論される。また、勝利した織田信長がこれをきっかけに勢力を拡大し、のちには天下人となっていったことから、「小大名が敵の大軍を破り、その後の飛躍に繋げた戦い」のことを「〇〇の桶狭間」と言うようになった。
桶狭間度:★☆☆☆☆
父親を殺された伊達政宗が、その弔い合戦として畠山氏の二本松城を攻めたところ、相手方の救援として駆けつけた佐竹氏・蘆名氏などの連合軍と戦いになった。兵力差四倍以上の相手に正面決戦を強いられることとなった伊達方はほぼ敗勢だったが、勝利目前の佐竹軍が急に撤退したため尻すぼみに合戦は終結した。壊滅必至だった伊達軍がそれを免れたという点では「勝ちに等しい引き分け」と見ることもできる。その後、巻き返した伊達政宗は二本松城を落とし、蘆名氏を滅ぼして南奥州に覇を唱えることとなる。
桶狭間度:★★★★☆
泥沼の争いを繰り広げていた古河公方・山内上杉・扇谷上杉らの関東勢が、勢力を急伸させた北条氏を恐れて連合し、北条方の要所・河越城を大軍で包囲した。それに呼応した今川義元も西から挙兵して挟撃の形となり、家督を継いだばかりの北条氏康は早くも絶体絶命の危機を迎えた。しかし手早く今川と和睦した氏康は、大軍に驕った連合軍に夜襲を仕掛けて撃破した。この戦いで古河公方・山内上杉・扇谷上杉はいずれも滅亡・没落し、関東は北条氏を中心として動くようになった。
桶狭間度:★★☆☆☆
甲斐に侵攻した今川の大軍を、武田信玄の父・武田信虎が迎え撃った戦い。荒川沿いの飯田河原を戦場に選んだ信虎は、数で上回る今川軍を地の利を活かして撃退、ひと月後に上条河原で再戦したがそれも打ち破り、敵の大将を討ち取った。一連の戦いにより武威を示した武田信虎は、敵対していた穴山氏などを服属させ、甲斐の統一を成し遂げた。
桶狭間度:★★☆☆☆
北近江の浅井氏は、越前・朝倉氏と南近江・六角氏という大勢力に挟まれ、当時は六角氏に従属する立場だった。父親を隠居させて浅井家の若き当主となった浅井長政は、すぐさま六角氏からの離反を表明した。それに対し、六角氏は当主・六角承禎自らが大軍を率いて攻め寄せたが、浅井長政は半数以下の兵力で迎え撃って勝利した。弱い立場だった浅井氏はこの勝利により戦国大名としての地位を固め、敗れた六角氏はお家騒動などもあり衰退していくことになる。
桶狭間度:★☆☆☆☆
備前の大名・浦上氏の家臣として頭角を現しつつあった宇喜多直家は、毛利氏に従属しながら備前へ進出しようとした備中三村氏の当主・三村家親を、日本史上初となる火縄銃の狙撃により暗殺した。怒れる三村氏は、弔い合戦とばかりに宇喜多方の明善寺城を攻め取ったが、宇喜多直家は素早く奪回し、逆にその救援にやってきた三村氏の大軍を待ち構えて打ち破った。この戦いにより影響力を増した宇喜多直家は、のちに主君に反旗を翻し、戦国大名として独立することになる。
桶狭間度:★★★☆☆
かの毛利元就の初陣。源氏の名門・武田氏の一族で猛将と謳われた武田元繁と、味方の城の救援に向かった毛利・吉川連合軍の戦い。寡兵の連合軍は劣勢を強いられたが、初戦で運良く敵方の武将を討ち取り、それに激怒して自ら前線へ打って出た武田元繁をも討ち死にさせた。この戦いにより、大内氏から独立して勢力を拡大していた武田氏は一転して衰退し、代わって毛利元就が歴史の表舞台に躍り出ることとなった。
桶狭間度:★★★★☆
毛利元就の戦いとしてはこちらのほうが有名だろう。主君・大内義隆に謀反し、大内家内を牛耳った陶晴賢だったが、その隙に離反した毛利元就によって安芸を奪われてしまう。大軍を率いる陶晴賢は要衝・厳島を拠点に安芸奪回を狙うが、毛利元就は嵐に乗じた奇襲でそれを打ち破り、陶晴賢を自害に追い込んだ。この勝利により、毛利元就は逆に大内氏を滅ぼしてその領土を併呑し、中国地方の覇者となっていくのである。
桶狭間度:★★★☆☆
肥前で勢力を拡大していた龍造寺隆信に対し、脅威を覚えた北九州の覇者・大友宗麟は大軍を率いて侵攻、数ヶ月に渡って佐賀城を包囲した。援軍の見込みもないなかで龍造寺軍はよく持ちこたえたものの、ついに大友宗麟は弟の大友親貞に総攻撃を命じる。大友親貞は総攻撃前夜に士気を高めるため酒宴を開いたが、それを見た龍造寺家臣の鍋島直茂はわずかな手勢を率いて夜襲を仕掛けた。油断していた大友軍は総崩れとなり、大友親貞も討ち取られてしまった。その後、和睦に持ちこんだ龍造寺隆信は、大友氏に従属しながら勢力を拡大し、のちに九州三強の一角に名を連ねることになる。
桶狭間度:★★★★☆
島津の当主・島津貴久が亡くなった直後、その隙を突いて隣国の伊東氏が島津領に侵攻した。伊東方が数千の軍であったのに対し、島津の軍勢はその十分の一ほどしかなかったという。だがそれを率いていたのは名将・島津義弘だった。島津軍の頑強な抵抗により、伊東軍はいったん退却して陣を立て直すことになった。しかし、島津義弘から指示を受けていた農民たちが太鼓を鳴らして伏兵を装うと、伊東軍は慌てて陣から飛び出し、そこで待ち伏せていた島津軍に四方から攻められて壊滅、総大将も討ち取られてしまった。窮地を脱した島津氏は、島津四兄弟のもと勢力を拡大し、九州を制覇していくのである。
古猪之助のもとを発ち、京へやってきた鹿之助が、たまたま入った居酒屋で狼藉者を退治したところ、
その店の女主人が、実は更科姫が昔に助けたことのある、お菊という娘だった。
お菊の勧めもあり、鹿之助はその菊屋に逗留することになった。
またある日、五条大橋の上で、貴族の輿が何やら武士に襲われているのを助けたところ、
その輿に乗っていたのはまさしく中御門宗教の息女・九重姫であった。
九重姫を中御門邸に送り届けたところ、宗教卿はその人品卑しからぬ鹿之助を気に入り、
さらには宗行の霊夢について語られると大いに喜び、その日のうちに鹿之助と九重姫は内祝言を挙げた。
そして宗教卿は、彼のもう一人の娘婿である播州の尼子義久が、毛利や龍造寺に囲まれて負け続けであるので、
その武勇で助けてもらえないだろうか、と鹿之介に頼んだのであった。
九重姫を宗教卿に預け、お菊から多くの路銀を貰い受けた鹿之助は、ひとり播州へ旅立った。
途中、大兵肥満の男が大きな板を持って、流れの早い川を堰き止めていた。
男は板を動かして川の水を溢れさせ、泳いでいる鮎を次々に川岸に打ち上げている。
そうしておいて川から上がると、男は打ち上がった鮎を残らず捕まえてしまうのである。
なんという怪力だと感嘆した鹿之助が声をかけて素性を聞くと、
七助と名乗るこの男は、先祖が武士であったものの、いまは落ちぶれて漁師をしており、
竿や網を買う金もないので、こうして工夫して漁をしているのだと言った。
西暦2040年。東京では新種の難病「細胞硬化症」に罹患した青年・水原怜人が、兄・龍、妹・まひる、幼馴染・橘絵理沙に見送られ、治療のためのコールドスリープに入る。5年後、目覚めた怜人の前に絵理沙似の専属担当官・周防美来が現れ、新種のウイルス「MKウイルス」によって男性の99.9%が死滅したことや、その免疫を持つのは細胞硬化症を治療した怜人たち5人「ナンバーズ」のみであることを告げ、女性たちとの子作りを要請する。
先に目覚めた青年・火野恭司が子作りにセックスのみで成功したことも告げられた怜人は、龍がコールドスリープ中、絵理沙が行方不明であることを、「UW日本支部」の施設で再会したまひるにそれぞれ知らされたうえ、コールドスリープ中の男性たちがあと1年でMKウイルスによって死亡することを、美来に知らされる。怜人が絵理沙を捜し出すまで1か月間の猶予を求める一方、早々に現状を受け入れていた恭司は、施設内で美女たちとの優雅な子作り「メイティング」の日々を満喫する。
そんな恭司の姿に複雑な思いを抱く怜人のもとには、大柄のナース・龍造寺朱音や小柄のボディーガード・翠が現れる。翌日、動物研究所で何者かによって解放されたクマに襲われるも翠に助けられた怜人は絵理沙の研究を知り、自分がMKウイルスの特効薬を作ることを決意する。
秋篠寺 あきしのでら
芦峅寺 あしくらじ
飛鳥寺 あすかでら
安寺 あてら
阿寺 あてら
天寺 あまでら
尼寺 あまでら
阿見寺 あみでら
荒寺 あれでら
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安養寺 あんようじ
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一条寺 いちじょうじ
一寺 いちでら
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久能寺 くのうじ
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恵林寺 けいりんじ
敬礼寺 けいれいじ
華蔵寺 けぞうじ
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建長寺 けんちょうじ
建仁寺 けんにんじ
源法寺 げんぼうじ
高安寺 こうあんじ
光悦寺 こうえつじ
高円寺 こうえんじ
光音寺 こうおんじ
光源寺 こうげんじ
高源寺 こうげんじ
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高山寺 こうさんじ
興聖寺 こうしょうじ
光寺 こうじ
国府寺 こうじ
國府寺 こうじ
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高専寺 こうせんじ
高專寺 こうせんじ
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皇徳寺 こうとくじ
高徳寺 こうとくじ
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國分寺 こくぶじ
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小寺 こでら、こてら
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金剛峰寺 こんごうぶじ
権寺 こんじ
金蔵寺 こんぞうじ
金胎寺 こんたいじ
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豪徳寺 ごうとくじ
五雲寺 ごうんじ
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極樂寺 ごくらくじ
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西大寺上 さいだいじかみ
西大寺中 さいだいじなか
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三大寺 さんだいじ
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生源寺 しょうげんじ
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相国寺 しょうこくじ
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淨法寺 しょうほうじ
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正明寺 しょうみょうじ
称名寺 しょうみょうじ
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勝竜寺 しょうりゅうじ
青龍寺 しょうりゅうじ
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青蓮寺 しょうれんじ
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真行寺 しんぎょうじ
真光寺 しんこうじ
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神松寺 しんしょうじ
神清寺 しんせいじ
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真如寺 しんにょじ
真福寺 しんふくじ
新福寺 しんぷくじ
真綾寺 しんりょうじ
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慈眼寺 じがんじ
慈光寺 じこうじ
持光寺 じこうじ
慈照寺 じしょうじ
地蔵寺 じぞうじ
実相寺 じっしょうじ
實相寺 じっしょうじ
実法寺 じほうじ
慈明寺 じみょうじ
神明寺 じみょうじ
甚目寺 じもくじ
十楽寺 じゅうがくじ
十樂寺 じゅうがくじ
十禅寺 じゅうぜんじ
十蔵寺 じゅうぞうじ
十藏寺 じゅうぞうじ
鷲林寺 じゅうりんじ
十貫寺 じゅっかんじ
寿福寺 じゅふくじ
順教寺 じゅんきようじ
浄圓寺 じょうえんじ
淨円寺 じょうえんじ
常願寺 じょうがんじ
成願寺 じょうがんじ
城光寺 じょうこうじ
定光寺 じょうこうじ
常光寺 じょうこうじ
常称寺 じょうしょうじ
定禅寺 じょうぜんじ
浄智寺 じょうちじ
浄土寺 じょうどじ
城南寺 じょうなんてら
浄法寺 じょうほうじ
上坊寺 じょうぼうじ
浄明寺 じょうみょうじ
常楽寺 じょうらくじ
常樂寺 じょうらくじ
定林寺 じょうりんじ
神宮寺 じんぐうじ
神向寺 じんこうじ
秦泉寺 じんせんじ
深大寺 じんだいじ
神武寺 じんむじ
水前寺 すいぜんじ
周船寺 すせんじ
須磨寺 すまでら
随応寺 ずいおうじ
瑞巌寺 ずいがんじ
瑞泉寺 ずいせんじ
頭陀寺 ずだじ
清閑寺 せいかんじ
清岸寺 せいがんじ
清河寺 せいがんじ
誓願寺 せいがんじ
青岸渡寺 せいがんとじ
清玄寺 せいげんじ
成勝寺 せいしょうじ
西伝寺 せいでんじ
青明寺 せいみょうじ
清涼寺 せいりょうじ
関寺 せきでら
泉正寺 せんしょうじ
浅草寺 せんそうじ
千提寺 せんだいじ
泉涌寺 せんにゅうじ
泉湧寺 せんにゅうじ
千音寺 せんのんじ
善応寺 ぜんおうじ
善久寺 ぜんきゅうじ
善慶寺 ぜんけいじ
善源寺 ぜんげんじ
善光寺 ぜんこうじ
善根寺 ぜんこんじ
禅昌寺 ぜんしょうじ
善通寺 ぜんつうじ
禅寺 ぜんでら
善導寺 ぜんどうじ
善如寺 ぜんにょじ
善能寺 ぜんのうじ
善福寺 ぜんぷくじ
善法寺 ぜんぽうじ
善養寺 ぜんようじ
善立寺 ぜんりゅうじ
禅林寺 ぜんりんじ
総持寺 そうじじ
崇禅寺 そうぜんじ
崇福寺 そうふくじ
造寺 ぞうじ
増上寺 ぞうじょうじ
太岡寺 たいこうじ
躰光寺 たいこうじ
大山寺 たいさんじ
大石寺 たいせきじ
泰泉寺 たいせんじ
太寺 たいでら
大寧寺 たいねいじ
太平寺 たいへいじ
当麻寺 たいまでら
太融寺 たいゆうじ
太陽寺 たいようじ
高田寺 たかだじ
高寺 たかでら
髙寺 たかでら
宝寺 たからでら
滝寺 たきでら
瀧寺 たきでら
橘寺 たちばなでら
舘寺 たてでら
館寺 たてでら
田寺 たでら
多門寺 たもんじ
誕生寺 たんじょうじ
大雲寺 だいうんじ
大雄寺 だいおうじ
大巌寺 だいがんじ
大願寺 だいがんじ
大京寺 だいきょうじ
題経寺 だいきょうじ
大宮寺 だいぐうじ
大源寺 だいげんじ
大光寺 だいこうじ
醍醐寺 だいごじ
大師寺 だいしじ
大正寺 だいしょうじ
大聖寺 だいしょうじ
大慈寺 だいじじ
大樹寺 だいじゅうじ
大乗寺 だいじょうじ
大泉寺 だいせんじ
大善寺 だいぜんじ
大通寺 だいつうじ
大徳寺 だいとくじ
大導寺 だいどうじ
大道寺 だいどうじ
大日寺 だいにちじ
大宝寺 だいほうじ
大楽寺 だいらくじ
大琳寺 だいりんじ
達磨寺 だるまじ
檀那寺 だんなでら
旦那寺 だんなでら、だんなじ
智恩寺 ちおんじ
知恩寺 ちおんじ
竹林寺 ちくりんじ
千見寺 ちけんじ
知見寺 ちけんじ
千葉寺 ちばでら
中元寺 ちゅうがんじ
中願寺 ちゅうがんじ
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仲元寺 ちゅうげんじ
中権寺 ちゅうごんじ
中在寺 ちゅうざいじ
中善寺 ちゅうぜんじ
中禅寺 ちゅうぜんじ
中尊寺 ちゅうそんじ
中堂寺 ちゅうどうじ
長安寺 ちょうあんじ
長栄寺 ちょうえいじ
潮音寺 ちょうおんじ
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長慶寺 ちょうけいじ
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長興寺 ちょうこうじ
長勝寺 ちょうしょうじ
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長泉寺 ちょうせんじ
重染寺 ちょうぜんじ
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長坂寺 ちょうはんじ
長峰寺 ちょうほうじ
長命寺 ちょうめいじ
長楽寺 ちょうらくじ
通元寺 つうげんじ
通法寺 つうほうじ
津寺 つでら
貞永寺 ていえいじ
天花寺 てんげえじ、てんかじ
天現寺 てんげんじ
天性寺 てんしょうじ
天正寺 てんしょうじ
天寧寺 てんねいじ
天王寺 てんのうじ
天籟寺 てんらいじ
天竜寺 てんりゅうじ
天龍寺 てんりゅうじ
伝法寺 でんぼうじ
傳法寺 でんぼうじ
東慶寺 とうけいじ
東光寺 とうこうじ
唐招提寺 とうしょうだいじ
当寺 とうじ
東寺 とうじ
東泉寺 とうせんじ
東禅寺 とうぜんじ
東大寺 とうだいじ
東長寺 とうちょうじ
塔寺 とうでら
東福寺 とうふくじ
灯明寺 とうみょうじ
徳大寺 とくだいじ
道光寺 どうこうじ
道寺 どうじ
道場寺 どうじょうじ
道成寺 どうじょうじ
導寺 どうでら
道明寺 どうみょうじ
道明寺粉 どうみょうじこ
中秦泉寺 なかじんぜんじ
中寺 なかでら
中山寺 なかやまでら
若王寺 なこうじ
那谷寺 なたでら
成相寺 なりあいじ
南禅寺 なんぜんじ
南林寺 なんりんじ
飯寺 にいでら
西秦泉寺 にしじんぜんじ
西寺尾 にしてらお
西寺方 にしてらかた
西本願寺 にしほんがんじ
西本成寺 にしほんじょうじ
仁頂寺 にじょうじ
日東寺 にっとうじ
如法寺 にょほうじ
忍頂寺 にんじょうじ
仁和寺 にんなじ
念仏寺 ねんぶつじ
能仁寺 のうにんじ
野寺 のでら
廃寺 はいじ
長谷寺 はせでら
畑寺 はたでら
鉢ヶ峯寺 はちがみねじ
八九寺 はちくじ
幅寺 はばでら
浜寺 はまでら
林寺 はやしじ
原寺 はらでら
梅津寺 ばいしんじ
梅林寺 ばいりんじ
番生寺 ばんしょうじ
日向寺 ひうがじ
東本願寺 ひがしほんがんじ
東山寺 ひがしやまてら
引寺 ひきじ
百済寺 ひゃくさいじ
白毫寺 びゃくごうじ
平等寺 びょうどうじ
富貴寺 ふきでら
福王寺 ふくおうじ
福音寺 ふくおんじ
福成寺 ふくじょうじ
福禅寺 ふくぜんじ
福寺 ふくでら
福田寺 ふくでんじ
普賢寺 ふげんじ
普済寺 ふさいじ
普正寺 ふしょうじ
藤井寺 ふじいでら
二ツ寺 ふたつてら
不動寺 ふどうじ
舩寺 ふなでら
船寺 ふなでら
古寺 ふるでら、こでら
峰定寺 ぶじょうじ
仏光寺 ぶっこうじ
仏国寺 ぶっこくじ
仏生寺 ぶっしょうじ
仏寺 ぶつじ
平安寺 へいあんじ
平泉寺 へいせんじ
平林寺 へいりんじ
報恩寺 ほうおんじ
方広寺 ほうこうじ
宝厳寺 ほうごんじ
宝山寺 ほうざんじ
宝積寺 ほうしゃくじ
寳積寺 ほうしゃくじ
法勝寺 ほうしょうじ
放寺 ほうじ
法寺岡 ほうじおか
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宝仙寺 ほうせんじ
宝泉寺 ほうせんじ
法泉寺 ほうせんじ
法善寺 ほうぜんじ
宝蔵寺 ほうぞうじ
宝藏寺 ほうぞうじ
寳蔵寺 ほうぞうじ
寳藏寺 ほうぞうじ
寶蔵寺 ほうぞうじ
寶藏寺 ほうぞうじ
法蔵寺 ほうぞうじ
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法傳寺 ほうでんじ
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本興寺 ほんこうじ
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松寺 まつでら
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万納寺 まんのうじ
萬納寺 まんのうじ
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三寺 みつでら
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明法寺 みょうほうじ
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室寺 むろじ
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龍光寺 りゅうこうじ
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了徳寺 りょうとくじ
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蓮覚寺 れんがくじ
蓮花寺 れんげじ
蓮光寺 れんこうじ
連光寺 れんこうじ
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蓮台寺 れんだいじ
楞巌寺 ろうごんじ
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鹿苑寺 ろくおんじ
六泉寺 ろくせんじ
六湛寺 ろくたんじ
六波羅蜜寺 ろくはらみつじ
和寺 わでら
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
目次 [非表示]
1 概要
1.2 書名の由来
2 脚注
3 刊本
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来[編集]
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。
天智・天武の生涯を通して「日本」が作られるまでの過程を描く。主人公は柿本人麻呂あたり。
国家の一大プロジェクトとしての平安京造営を、蝦夷討伐や藤原種継暗殺などを交えて描く。主人公は坂上田村麻呂あたり。
藤原良房による権力掌握の過程と、そのクライマックスとしての応天門の変を、スリリングな政争劇として描く。
藤原氏同士の権力争いや後宮の女房たちのエピソードなどを交えながら、藤原道長を気宇壮大な人物として描く。
北条時政を中心とした鎌倉幕府の創立とその後の政争を下敷きに、曽我兄弟の仇討ちを描く。
足利義満を主人公として、その半生を追いながら、南北朝後半の動乱と室町幕府の絶頂期を描く。
二階崩れから島津征伐まで、九州に鼎立した大友・龍造寺・島津の三氏の戦いを群像劇として描く。
http://anond.hatelabo.jp/20160918023926
ブコメ:ペアできた
wrss 青森岩手/秋山形/宮城福島/新潟群/栃木埼玉/茨城千葉/東京神奈/静岡山梨/長野岐阜/愛知三重/石川富山/奈良和歌/滋賀琵琶/京都福井/大阪兵庫/鳥取島根/岡山広島/香川徳島/愛媛高知/山口福岡/大分宮崎/佐長崎/熊鹿/沖縄北海道
改変案
http://anond.hatelabo.jp/20160919142837
山口 →嫌われてそう
さらに改変案
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