はてなキーワード: 水割りとは
もうおばさんと言われる年齢だ。職場で働いている中で悩みがある。将来のことだ。このままずっと、これでいいのか不安でしょうがない。
十年くらい、関西にある地元の市役所で臨時職員(※今は会計年度任用職員)として採用されて、働き続けてきた。
部署の異動は一度だけ。最初は水道の庶務の仕事だった。今の部署はさすがに言えない。ごめん。
会計年度任用職員、略称としては会任なんだけど、それになってからは異動がない。臨時職員がアルバイト・パートだとすると、会任は契約社員の位置づけである。
ずっと同じ部署にいても、民間みたいに正社員転換しないといけないルールはないらしい。長い人だと、地籍調査とか用地取得の部署で、正規じゃないのに15年以上働いてる人もいる。
私の人生の何がつらいのか、書き綴ろうとしたけどまとまらない。何がどう辛いのか、自分でわからないところがある。しいていうと、恋愛とか、結婚だろうか。世の中の一般の女性にとって大事なことだ。
私は女らしくないし、あまり可愛くもないし、なんならハムスターとか、チンチラに生まれたかった。あの子達の世界にもブサイクはいるのかもしれないけど、人間目線だとみんなカワイイ。
不安はたくさんあるけど、ここでは一つだけに絞って話をする。
不安の全体だと、恋愛や結婚もそうだし、生活のこともあるし、やや遠くで暮らしてる親のこととか、相続とか、自分の健康のこともある。
けど、一番は恋愛とか、結婚のことだ。アラフォーになったばかりだけど、正直結婚は難しいと思う。本当にそう思う。
私と同期で、約十年前に入庁した臨時職員の子達は、全員が自分の道を見つけている。適当な男性とくっついて離職した子もいれば、普通に転職した子もいれば、市役所から直接スカウトを受けて、コネ採用みたいな恰好で、公開競争試験じゃなくて個別試験をセッティングしてもらって、裏口のような形で正規職員になった子もいる。みんな、ちゃんとした理由があった。
入庁当時の私は、25才だった。美容の専門学校を卒業したけど、リーマンショックの関係で職が少なくて、フリーターを転々として、生活が貧しくて毎日泣きそうで、そんな私を最後に拾ってくれたのが生まれ故郷の市役所だった。
月給は額面13万円+残業代で、ボーナスは当然ゼロ。病気・傷病休暇もない。有給は年に5日だけ。私も皆も、風邪・インフルエンザでも普通に出勤していた。こんな私が働けるのはここしかなかった。
数年前に会任制度がスタートしてからは、ボーナスが年間二か月分出るようになって、まともに貯金ができるようになった。今でもこの職場に感謝してる。
話がまとまらなくなる前に、恋愛とか結婚の不安のことを話したい。わかりにくいところがあったらコメントとかで教えてほしい。できるだけ答えるので。
20代後半の頃は、結婚できるのかなって勝手に思っていた。男性の人が話しかけてくれるし、アプローチがあったし、同じ職場の人にデートに誘われたこともある。交際経験もあるけど、そんなには続かなかった。
しだいに焦ってはきたけど、私が三十路になる年のことだった。水道の部署から現在の部署に移ったばかりのことだ。この職場に、いいなって思える男の人(A君)がいた。私と同い年で、小学校・中学校が一緒だった。
当時の私は、残業や休日出勤が多い部署で、毎日地道に仕事をがんばっていた。イベントで使う資機材をまとめたり、パンフレットを作ったり、式典会場の準備をしたり、てんてこ舞いの日々だった。
私は当時、その男の人A君と一緒のペアになって仕事をしていた。心の距離が段々近づいていって、仕事帰りにラーメンをおごってもらったり、イベント帰りに家に送ってもらったり、辛い時に慰めてくれたりした。優しい人だった。
以上を一年目とすると、二年目にそれは起こった。
新卒で入庁してきた子がいた。大卒の子だった。おそらく22才のはずだ。この地域にある名門企業の代表者と同じ苗字だった。この子はSさん。年代は違うけど、私やA君と同じ焼酎学校の出身だった。
直属の上司である係長(※蛇足だけど係長も学校が同じ。Sさんとは出身高校も一緒)からは、「Sさんは大学出たばかりで、最初は全然慣れないだろうからフォローしてあげて」と言われていた。そうしてあげるのが先輩としての正しい道だと思ってたけど、後日別の意味で否定された。
Sさんは、仕事ができる子だった。難しい言葉を使うと、利発な子だった。都会じゃなくて、地元にある大学出身の子。別に、京都大学とか大阪大学とか、そういうレベルの大学出じゃない。
けど、頭の回転とか、コミュニケーションとか、気遣いとか、嫌いな相手とも表面上仲良くするとか、そういうのができる子だった。
あれは今でも覚えてる。私とペアになってたA君だけど、Sさんを目で追ってるのがわかった。
関係ある仕事でも、関係ない仕事でも一緒に話をしようとするし、Sさんと話してる最中は、私の時と比べて笑顔だった。
反面、私と一緒にいることは少なくなった。一緒にご飯を食べることはなくなったし、一緒の車に乗せてくれることもなくなった。同じ仕事をして、彼を補助する仕事は変わらなかったけど。
Sさんは人懐っこいとか、そこまでではないけど、皆とよく一緒に話していた記憶がある。若い子らしくて、さわやかな印象だった。よく笑っていた。ブサイクな方ではないと思う。
結局、A君はみんなが見てる時でも、Sさんに対して恋愛的にがっつく……は言い過ぎだけど、熱烈に会話をするようになってた。「あれはひどい、やばい」という次元だった。
上司である係長に「あれはよくないです!」と進言したこともあった。けど、係長も、そんな2人をむしろほほえましい感じで、ノホホンとした眼差しを送っていた。「増田ちゃん。あんなのイチイチ止めてたら、日本の少子化待ったなしだよ~」だって……。
その係長だって、Sさんには甘々だった。この部署の中では、Sさんは新卒とは思えないほどスキルがあったとは思うよ?私なんかとは別格の。係長は、そんなSさんを散々利用していた。
本来はベテラン職員がやる仕事まで、入庁一年目であるSさんに割り振っていた。イベントだって、ほとんど休みなくSさんを休日出勤させていた。
「こんなのおかしい。職場って恋愛する場所じゃないよ」、て言いたかった。なんでそんなに、Sさんばっかり使い倒すの。私だっているじゃん。私の給料、Sさんと同じくらいなの知ってるよね。私に休日出勤の仕事を割り振ってよ、残業代欲しいよと思っていた。そんなもやもやが一年以上、ずっと続いた。
※Sさんのことたくさん書いてるけど、彼女はもう職場にいない。A君も。
在籍中だったら、公共の場所にこんなことは書けないし、書かない。
さらに、その次の年度だった。
季節は春を過ぎたくらい。Sさんが朝礼の時、皆の前に出てきて、「私。今月結婚します。仕事にはもちろん支障ないので、これからもよろしく~」と皆の前で告げた。
A君の顔を見ると、茫然としていた。生気が抜けた表情だった。残念、みたいな表情を通り越した顔( ;∀;)だった。
ざまあみろ、ていう薄汚い感情が自分の中にあった。でも、ここは職場だから。そういう思いを出す場ではないから、と自分に言い聞かせた。
Sさんの結婚相手は、やっぱりというか、地元の名士の苗字だった。京都~和歌山の人なら、聞いたことがあるかもしれない。CLAMPの漫画に出てくるような、鳥系の氏だ。
入庁して二年目で、結婚かぁ……私が入庁して二年目の頃は、そんなこと考える余裕はなかった。恋愛のアプローチがあっても、応えるだけの生活の余裕がなかった。貧しかった。
月給13万円台で、京都市内での一人暮らしは不可能に近かった。実家を頼ろうにも、父母にそんな余力がないのは明らか。私は学生向けのボロアパートに住んでいた。
私が好きな少年漫画で、「ドン詰まり」という表現が出てきたのを思い出した。本当にこのドン詰まり、という状況だった。若い頃の私は。
でも、Sさんは違う。私と違って余裕がある。実家は太いし、皆から人気はあるし、私みたいな隠キャラとはわけが違った。生まれた瞬間からして違う。
それから今に至るまでの私は、ずっと同じような縮小再生産だった。
[仕事]…一般事務と、イベントのお手伝いの仕事。正規職員登用の声がかかる気配なし
[生活]…近所のスーパーで夜に割引食材を買う。奇跡が起こると、6.6割引になってることがある
[趣味]…たまにアニメ漫画・小説を読むくらい。作品イベントに行けるだけの余力なし
最後にSさんと会ったのは、同じ年だった。Sさんが妊娠後、もうすぐ育児休業で職場からいなくなるタイミング。
うちの部署のイベント大成功のお祝いで、みんなで夏にバーベキューをすることになった。係長が、お手頃な値段でたくさん食べられるというお店(というか山の中……畜産農家の圃場内だった)を紹介してくれた。私の少ない給料でも全然参加できる料金だった。そこにSさんも参加していた。
バーベキューだけど、みんなイベントの疲れを癒すというか、ねぎらうというか、和やかな雰囲気だった。広い車庫ガレージの中での立食形式のBBQだった。
私はやっぱり隠キャラで、食べたり飲んだりはしてたけど、会場の設営とか片付けとか、飲み物の氷の準備とか、お肉を焼いたりしていた。誰かが焼酎の水割りとかハイボールで使う氷を取りに来る時、その人の背後に付いて、「氷入れますよ」という案内をしていた。※「増田ちゃん、暗殺者かよ~」とツッコまれた
あとは、ほかの人のところを巡って、コップが空いてたら飲み物を注いだりした。そこまで飲み食いはしなかった。お肉とオニギリは本当においしかった。本物の食肉卸だった。限られたお客さんにだけBBQパーティのサービスをしてるとのこと。
その日も、Sさんはみんなに人気があった。焼肉と野菜を食べてお酒を飲みながら、ガレージ内でおしゃべりをしていた。ずっと。そんな時に私は、Sさん~~職場友達の話に聞き耳を立てることがあった。
こんなことを、話していた。
(早く結婚できてよかったねと言われて)
「えー。運がよかったんです。親の紹介で、京都御所の建物の中まで入れる限定の行事があって、そこで知り合って」
(仕事ができるねと言われて)
(育児休業どれくらいするの、と聞かれて)
「係長からは上限の3年まで取っとけって言われたけど、自分は1年半で十分です」
(Sさんが羨ましいと言われて)
「幸運があったので。ありがたく、この環境はもらっておきたいですけど、でも別に、ここまで恵まれてなくても、私は幸せになれるように頑張ったんじゃないかな」
嫌な感情が湧いた。
彼女は、Sさんは、私にはないもの、絶対に手に入れることができないものを持っていて、それが才能とか、環境とか、そういうのじゃないって、自分の力だって。絶対にそう思っている。
そういうのがムカつくって、あの時の自分は思った。ガレージの中で涙が出そうになった。焼肉の煙が目に入ったのもあるけど。自分はこんなに苦しいのに、Sさんは自分が恵まれた環境にいることに気が付いてるフリをして、実際には気が付いてない。
Sさんと自分との間には埋められない溝がある。でも、この時、こんなに人生で初めて、悔しい思い、誰かを憎んだのは初めてだった。
Sさんとその友達の空いたコップを見つけた時、「Sさん、何飲んでるの?」と聞いてみた。
すると、「あ~、じゃあ。私は焼酎の水割りにします。あそこの奥にあるやつで、焼酎少なめがいいです」とのこと。Sさんの職場友達は、「ありがとう。私はカルピスでいいです。お願いします!」と言った。
あそこの奥にあるやつ……その焼酎は、ガレージの奥のテーブルにあった。卓上の保冷ケースの陰に隠れていた。獺祭の高いやつだ。私も焼酎が好きだけど、こんなに高いのは飲んだことがない。
保冷ケースの裏で、私は焼酎を少し注いでから、テーブルの真下にあった開封済の農薬袋を見つけた。右手で、農薬の粉瘤を二掴み手に取って、Sさんが飲むはずの焼酎のコップにそれを入れた。
水じゃなくて炭酸水を入れて、攪拌用の割りばしでかき混ぜて、ニオイを嗅いでみると、何も感じなかった。味見した感想も焼酎のソーダ割りだった。カルピスは急いで作った。
「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」
何度、心の中で叫んだかわからない。気持ちを止めることができなかった。
あなたはだって、ここまでずっと人生幸せだったじゃん。不幸もないと、おかしいよ。
「人生には不幸があった方が幸せになれるよって、そっちの方がいいよ」って、この時思っていた。
2人のところに飲み物を持って行って、「暑いし氷溶けるし、早く飲んだ方がいいよ」と伝えた。
2人とも会釈だけして、Sさんが獺祭のソーダ割りを飲んでいた。こんな会話が聞こえた。
「え~、これ炭酸割じゃん!」
10分くらい経って、Sさんが別の男性に「獺祭おいしい、おかわりほしいです~」とねだっているのが見えた。
翌週、Sさんが職場にこなくなった。「体調不良です」と係長が上司に報告していた。
産休予定だったので、早めに開始することになった。それからまた日常が戻った。私の仕事内容は、今後もずっと変わることはないと思う。定年までずっと、いやきっとそうなんだと思う。
昇給だって、年に三千円だけ。しかも一定のところまで行ったら頭打ち。「こんなのっておかしい」と思うけど、ルールだから従うしかない。正規職員と違って身分保障がないのに、今までクビになってないだけ「ありがたい」と思わなきゃいけない。
今年に入って、育児休業中のSさんがベビーカーに子どもを乗せて職場に来た。みんな、生まれたばかりの赤ちゃんを間近で見ようと寄っていた。私もそうだった。
後ろの方には係長も来ていた。Sさんがいなくなったせいか、仕事量の負担が大きくて元気がなさそう。
Sさんに、ほかの皆と一緒に「元気に生まれてよかったね!」と伝えると、Sさんは幸せそうだった。でも、なにか違う気がした。
この、赤ちゃんを職場に連れてくるシチュエーションは、私が子どもの時も、学生の時も、社会人になってからも、何度もあった。その時、新しいお母さんは、みんな誇らしげな表情をしていた。安心がまざったような。
でも、Sさんの表情は悲しそうだった。もしかして辛いことがあったのかな。だったら、それでよかったのかもしれない。無事出産できたのはいいことだけど、人生にはつらさも必要だと思うから。
同じ職場の仲間として、Sさんが職場復帰する時が来たら、これまでと同じように一緒に仕事ができたらと思う。私は貧しい生活だけど、それを受け入れることができている。ここまで達観できるようになった。これも成長だ。これから人生どうなるかもわからないし、不安もあるけど。
ざっと調べてみたところをまとめる。
擦るな擦るな擦るな
安い化粧水をじゃばじゃば使え
まず根本はこれ。皮脂を落とすクレンジングや、化粧水を塗るために擦ったりは肌の刺激になってよくない。
極論、皮脂を落とすような洗顔を洗わなくていい。
ハトムギエキスだとかいろいろ含まれているが、肌につけて液体が作用するのは角質のみ。真皮などには到達しないので、人体への成分の効果はない。
じゃあなにが出来るか=何をしたほうがいいかというと、角質、皮脂が行なっている水分維持などを同じく+アルファする程度。
具体的には安全性が高いグリセリンなりワセリン(あとなんとか酸とかコラーゲンとか)。でもそれらはほぼ100%どんな化粧水にも入っているので、自作の水割りとかが面倒なら安い化粧品でいいんじゃないか。仮に何がしか他の成分がよいとしても、適当に選んだ化粧水にそれか類するものは入ってるよ。
極論、医薬品ではないし、殆どは医薬部外品でもないし、医薬部外品でもまあ…効果を個人で検証できるか?(個人の感想です ブラインドテストするほどやる気ないし)。
なお、これは「肌への効果」の話であって、肌と何かの間に作用するものに関しては別である。といってもとても限定的であるし、化粧水のほとんどの成分は関係ないと思われる。
(角質にしか影響しないということは化粧水の成分による"長期的な"肌への"直接的な"効能もないということと理解している)
水っぽいか油っぽいかの違いだけで、やってること(できること)は水と油での保湿。
ただ、よく言われる乳液の蓋をする的な効能はワセリンを塗ったりするとあるので、お気持ちで。
クレンジングで皮脂をがっつり落としたい人(メイクする人)は乳液を(も)塗ればいいんじゃないかな。気分的に。
女性は加齢で油量が減るから補う意義はあるけど油の多さで悩む一般中年男性にとってはねぇ。
(個人の感想です)価格差で言うと乳液使わず化粧水を気が向いたときに随時シュッシュスプレーしまくるのが一番だと思う。でも子供の頃、風呂上りに母親の乳液を塗ってみたときのにゅるにゅる感は好きだったので気分を上げる・スキンケアのやる気を上げる的に乳液使うのもありかな。
結局、エキスなりなんなりいろいろ成分が入っているけれど、個別の効能はもとより含有量なんてものは(薬効成分でも)説明されていないものが殆どなので、何がいいかは試して気に入ったものを使うしかないし、実際の影響は個人差があるので気に入ったものを使うことが精神衛生上健康なんじゃない。感覚や香りとか好きにしろ。
肌に塗った成分は角質にしか影響しないと先に書いたが、肌につけたものによって肌への直接作用をあれこれするものはあるよ。
たとえば天花粉・シッカロールは肌表面をさらさらにして、はだの"すれ"、刺激を低減することであせもなどを防ぐことができるよ。
普段は晩飯の時に炊き立てご飯をお供えして線香をあげてる程度のことしかしてないが、仏様の命日や生前の誕生日、記念日には仏花を仏壇に飾るようにしている
その割にお彼岸とかはやってないなー
ちなみにお花を上げる初日はオハギやコーヒー、焼酎の水割りなんかもお供えする
墓参り行けよって気もするがお墓の近くに住んでいる親戚とは不義理してて、さりとて挨拶も抜きに墓参りするのもなんだかなーと思ってたから全然墓参りしてない
法要も任せっきりだ、わはは
それはそれとして
いつも、お花は萎れるまでお供えしている
毎日水を取り替えてるけど、それでも下の方から腐っていくんであるな
そういや、ここ数年は発根させたことないな
茎の細い真っ赤な花が真っ先に腐るから、アレを別の花瓶に挿すようにすればまた発根するまでもたせられるようになるかも
それはそれとして
花びらが散っちゃったりして見栄えが悪くなっても、気にしなければお花は20日間とか平気で持ってしまうから、最近はあげてから一週間とかキリの良い所で片づけてしまうようにしている
どうしたものかなーと
この本しんどいな。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ最初の感想がそれだった。
土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンかカップスープの適当な昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。
鈴木美咲は1990年生まれの28歳。生まれは山梨県で、大学で上京するまでは地元で自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元の進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京の大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分が大学で上京することに特に違和感は抱かず、自然と東京の大学を目指した。根が真面目な彼女は高校時代も勉強に多くの時間を割き、国立大学は不合格となったものの、無事都内の私立大学に合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。
彼女の母親の時代は女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代に東京の4年制大学を卒業した美咲の母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物とお見合いで出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲の記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事は女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。
美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから、一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京の大学に行くことを賛成し、美咲が英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女の能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲が外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身の卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。
美咲は地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまり恵まれた容姿ではなく、自分のニキビをからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてからは男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲は勉強ができたが、それに対して男子と比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子は短大といった時代でもなかった。ただ文系のクラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやすい環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域ののんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学も経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。
自分が女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年の就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業とメーカーで、大手企業に就職が決まったことで、彼女自身も家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界はリモートワークなどの制度を生かして女性が活躍しています、と先輩社員がセミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。
美咲はソフトウェア製品の営業職として2013年4月に社会人生活をスタートさせた。自分の同じ部門と認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲はほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎の水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。
その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業。ハードウェアの営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分の製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子の特権なんだから、若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲はお酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。
入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件を複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日の飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門長である優秀な40代のマネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲はビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女の人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代の日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろ恵まれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。
この本しんどいな。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ最初の感想がそれだった。
土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンかカップスープの適当な昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。
鈴木美咲は1990年生まれの28歳。生まれは山梨県で、大学で上京するまでは地元で自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元の進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京の大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分が大学で上京することに特に違和感は抱かず、自然と東京の大学を目指した。根が真面目な彼女は高校時代も勉強に多くの時間を割き、国立大学は不合格となったものの、無事都内の私立大学に合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。
彼女の母親の時代は女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代に東京の4年制大学を卒業した美咲の母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物とお見合いで出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲の記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事は女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。
美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから、一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京の大学に行くことを賛成し、美咲が英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女の能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲が外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身の卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。
美咲は地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまり恵まれた容姿ではなく、自分のニキビをからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてからは男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲は勉強ができたが、それに対して男子と比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子は短大といった時代でもなかった。ただ文系のクラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやすい環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域ののんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学も経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。
自分が女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年の就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業とメーカーで、大手企業に就職が決まったことで、彼女自身も家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界はリモートワークなどの制度を生かして女性が活躍しています、と先輩社員がセミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。
美咲はソフトウェア製品の営業職として2013年4月に社会人生活をスタートさせた。自分の同じ部門と認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲はほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎の水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。
その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業。ハードウェアの営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分の製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子の特権なんだから、若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲はお酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。
入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件を複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日の飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門長である優秀な40代のマネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲はビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女の人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代の日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろ恵まれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。