国家=権力は人権を与えてくれ、僕たちを守ってくれる頼もしい「正義の味方」ではありません。憲法とは国家=権力に余計なことをさせないための法律です。憲法の条文に従うのは国民ではなく国家=権力です。憲法は公権力をコントロールして国民の人権を守るためのものなのです。
専修大学法学部の田村理教授は、『国家は僕らをまもらない』(朝日新書)で、憲法問題を語る上でもっとも重要な「立憲主義」についてこう説明しています。そして、田村教授は、『朝日新聞』(2007年10月6日付)の「鉄人28号と憲法 立憲主義なき国、日本」で、要旨次のように指摘しています。
「ある時は正義の味方/ある時は悪魔の手先/いいも悪いもリモコンしだい/鉄人 鉄人 どこへ行く」(「鉄人28号」三木鶏郎・作詞)
専修大学で担当する講義のリポートで、ある1年生は、横山光輝氏の「鉄人28号」にたとえて憲法を論じた。巨大ロボットを描いてガンダム等にも影響を与えたこの漫画の主人公・金田正太郎は、鉄人の強大な力を巡り悪の組織と熾烈な争いを繰り広げる。
「強大な力を持った鉄人は公権力という力そのもの。そしてその動きを制限・管理するためのリモコンが憲法であり、それを通じて公権力が国民の人権を侵すことの無いようにする、いわばリモコンの管理者が国民自身である」
憲法の本質を自分なりにしっかり感じとった、僕にはとても嬉しいリポートだ。
皆さんは、公権力が容易に「悪魔の手先」と化す存在だと知っているだろうか?
それでも、「行政機関は、そういうこと(違法行為)をしないことになっている」と述べたのは、官房長官時代の福田康夫・新首相だ(02年5月29日付東京新聞)。行政機関個人情報保護法に公務員への罰則がないことが批判されるなか、防衛庁が情報開示請求者の身元等を調べてリストにしていたことが発覚した日の会見での発言だ。
僕たちがあの発言に心のどこかで「そうだよね」と応じてしまうなら、憲法は一転して国民を規律するための法と化す。公権力は、それに背いた者を取り締まってくれる頼れる力だ。個人の尊重・幸福追求権の一つとしてプライバシー権を保障する憲法13条は、民法同様、他者のプライバシーを害さぬように僕たちが守るべき規定になる。こうして公権力の不正をただす法が一つ失われる。
「リモコンしだい」の公権力の危険性を自覚できれば、憲法は僕たちがこれを制御するための道具になる。「立法その他の国政の上で」幸福追求権を尊重せよと定める13条は、国政を行う公権力に対して不正に個人情報を得てはならないと命じる規定である。
特に公権力を制御するために憲法が必要なのは、公権力自体が鉄人のごとく強大な力だからだ。例えば、「民」ならハッキングでもしない限り住民基本台帳ネットワークの個人情報を入手できない。でも、日本最大の個人情報を持つ「官」は違う。そのことを意識している人は少ない。
数年来、講義などの聴講者に「憲法は何のための法か、国民は憲法を守る義務を負うか」など、憲法のイメージについて聞いている。憲法は公権力を制限するための法だから、それを守る義務を負うのは国民ではなく公権力だ。こんな立憲主義の理念を知っている回答は、千通を超えるアンケートの中で2通しかない。だから僕は、権力を制限するための規範の必要性を強調し続けるべきだと思う。
しかし改憲論は、この「権力制限規範性」ばかりを強調すべきではないと批判する。そして、憲法は国民と国家が協力するためのルールでもあることをアピールし、国民の義務を強調するべきだと主張する。
また、田村教授は、「キムタクの「目」と憲法」(『朝日新聞』2006年5月2日付)で、要旨次のように書いています。
「キムタク好きですか? 『HERO』見ましたか?」。必ず憲法の講義で問いかける。この夏、復活するというこのドラマのヒーローは、僕の講義では「権力を持つ者はすべてそれを濫用(らんよう)する傾向がある」と喝破したモンテスキューより重要である。
第10話(田辺満脚本)。木村拓哉さん演じる検事久利生公平は、女性ニュースキャスターへの暴行を警察で自白した被疑者を証拠不十分で不起訴にする。しかし再び彼女が襲われる。被害者も刑事も犯人は別人だと気づきながら、被疑者を追いつめ、自殺させる。納得できない久利生検事は、キャスターから犯人は別人だとの証言をとり、刑事に詰め寄る。そして言う。
「俺達(おれたち)みたいな仕事ってな、人の命を奪おうと思ったら簡単に奪えんだよ。あんたら警察も、俺ら検察も、そしてマスコミも、これっぽちの保身の気持ちでな、ちょっと気を緩めただけで人を簡単に殺せんだよ。俺らはそういうことを忘れちゃいけないんじゃないすか!」
けっしてこぼさぬ涙をたたえた木村さんの強い怒りの「目」は立憲主義の象徴である。
「簡単に人を殺せる」ほどの力=公権力に制限を課して濫用を防ぎ、国民の人権をまもる、その手段として憲法を定める。そういう考え方を立憲主義という。憲法の存在意義である。
学校で習う憲法の基本原理もすべて立憲主義とつながっている。公権力を少数者が勝手に行使しないようにみんなで物事を決める「国民主権」。公権力がしてはいけないこと(=人権)のリストを掲げて違憲審査制で保障する「基本的人権の尊重」。そして、国家のために公権力が国民の命を犠牲にしてはならないと命じる「平和主義」。憲法は公権力にしてもらっては困ることを定める法である。
日本の警察はどうか。確かに「HERO」は「ドラマ」にすぎないが、公権力の現実を絵に描いたように突いている。意に反する自白、被害者が「犯人は別人」だと告げても警察のメンツで歪む事実、いつのまにか無くなる物証……。これらが実際に「よくある話」だとしたら?
それでも公権力が「正義の味方」であり続けるなら、僕達の無防備な信頼が「簡単に人を殺す」ことを正当化し、憲法を改正しようがしまいが、立憲主義は無に帰すだろう。
「誰でもみんな最初はそう思ってたんだ。でもな、現実はそうはいかないんだよ。そんなのただの理想だよ」
久利生検事に反論する矢口刑事に僕は共感する。理想に燃えて公権力に携わる人も、皆がいつも憲法尊重擁護義務(99条)を果たせるほど「強く」いられるわけではない。
だから、公権力の不正を絶対に許さぬ「目」、「けっしてこぼさぬ涙をたたえた強い怒りの目」を支配される側にいる僕達の中に育てなければならない。
そして、田村教授は、『国家は僕らをまもらない』(朝日新書)の中で、自民党の「新憲法草案」などにみられる改憲を主張する人たちの憲法観を要旨次のように批判しています。
憲法とは、国家=権力に制限を課して濫用を防ぎ、個人の自由を守る手段としての法であり、これを「立憲主義」と呼びます。自民党の「新憲法草案」に見られる“新しい憲法観”は、これとは全く逆の「国民に義務を課す憲法」です。
自民党の「新憲法草案」(2005年10月発表)の前文では、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する」とし、さらに同草案12条の「国民の責務」では、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」としています。同草案の前文とあわせて読むと、この12条の規定は、他の国民個人に対する「責任」に止まるのではなく、「帰属する国家」を支える「責務」に反しないように人権が行使されるべきだとなっています。こうした憲法規定がおかれるのは、国家=権力と国民個人の人権が対立関係に立つものではないという考え方が基礎にあるからです。
自民党のめざすところは、国家=権力と国民の一体感、国民の利益と国益の同一性を強調している、2004年7月に発表された以下の「論点整理」に顕著にみられます。
「憲法とは『国家権力を制限するために国民が突きつけた規範である』ということのみを強調する論調が目立っていたように思われるが、今後、憲法改正を進めるに当たっては、憲法とは、そのような権力制限規範にとどまるものではなく、『国民の利益ひいては国益を守り、増進させるために公私の役割分担を定め、国家と国民とが協力し合いながら共生社会をつくることを定めたルール』としての側面も持つものであることをアピールしていくことが重要である。さらに、このような憲法の法的な側面ばかりでなく、憲法という国の基本法が国民の行為規範として機能し、国民の精神(ものの考え方)に与える影響についても考慮に入れながら議論を続けて行く必要がある」
そして、2005年5月3日に発表された「『21世紀の日本と憲法』有識者懇談会」(民間憲法臨調)の「新しい憲法概念の確立を」と題した「提言」には以下のように書かれています。
「国民は、よき国家とよき社会を築くために、権利のみならず、自己責任を負うことをなんらかの形で条文化することが考えられてよい。たとえば、愛国心の明記や国民の国防の責務の規定の導入も検討課題とされよう」
「自民党憲法調査会憲法改正プロジェクトチーム」の第9回会合「国民の権利及び義務について」(2004年3月)では次の発言が記録されています。
「私は徴兵制というところまでは申し上げませんが、少なくとも国防の義務とか奉仕活動の義務というものは若い人たちに義務づけられるような国にしていかなければいけないのではないか」(森岡正宏氏・当時自民党衆議院議員)
田村教授は再度こう力説しています。
憲法は、国家=権力に縛りをかけることで個人の自由を守るための法律です。したがって、憲法を尊重し、養護する義務を負うのは「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」だけであり(憲法99条)、この義務を負うリストには国民は含まれていないのです。しかし、以前より憲法を国家=権力への制限規範ではなく、国民の行動規範であるとする主張があり、改憲を目指す人々が示す“憲法観”は、まさにこの主張にもとづいているのです。
また、先日紹介した伊藤熟塾長の伊藤真弁護士の講演の中で、伊藤弁護士は、「立憲主義」について、要旨次のように話しています。
憲法と法律は、同じ「法」ということで、とても似たもののように思われますが、まったく性質を異にするものです。まず、法律というのは、国家権力による強制力を伴った社会規範、すなわち「規則」をいいます。国は法律により、私たち国民に対して命令やルールづけをし、守らないと国の機関から罰則を与えられます。
国家は私たちの自由や権利を、「社会の秩序」を守るため、法律によって制限します。しかし、好き勝手に法律が作られて、私たち国民の自由や権利=人権が不当に制限されるケースが出てこないとも限りません。
そこで、国家が国民の自由や権利=人権を不当に侵害してとんでもないことをやらかさないように、あらかじめ歯止めをかけておくために「憲法」があるのです。
憲法は、国家権力を制限して国民の人権を保障するものであり、国民が守るべき法律ではありません。憲法99条を読むとそれがよくわかります。
憲法99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
この条文では、憲法を尊重して守る義務を負うのは、天皇をはじめ、国務大臣、国会議員など公務員であり、この中に「国民」は入っていません。憲法を守るべき立場の人は、国民ではなく為政者たちです。
法律は国民がそれを守る義務を負うものですが、憲法は国家権力が守る義務を負うものです。法律が国民の自由を制限するものであるのに対して、憲法は国家権力側を制限して国民の人権を守るものです。法律は国民を拘束しますが、憲法はその法律を作る人、国家権力を拘束します。
(byノックオン)