20代と30代の死因の1位は自殺です。それも、他の死因の割合を大きく引き離して1位となっていることが、下のグラフで分かります。
▼2008年における年齢階級別の主な死因の構成割合
(2008年版『自殺対策白書』※緑色のところが「自殺」)
※画像の上でクリックしてください。拡大して見られます。
▼「日本」と「日本以外のOECD諸国」における自殺率の比較
【男性25~44歳の自殺率(10万人あたり)】
(※国際比較が知りたいとのリクエストに答えて、
4月8日AM10:30に追加したグラフです。
04年までのデータしかありませんでしたが)
ニートは、国や親の財産、年金などを食い荒らしていく存在です。まず、自分の内面的な崩壊から始まって、家族の崩壊、親や先生を殺すのはまれとしても、犯罪を伴うこともあります。それは社会の崩壊にもつながっていくという、ある意味での爆弾といえるでしょう。(浅井宏純・森本和子著『ニートといわれる人々』宝島社、2005年)
おかしな社会的過保護が強まるなか、「弱い心の若者」が急激に増えている。それが、若者のニート化にも拍車をかけていると思われる。(和田秀樹著『ニート脱出』扶桑社、2005年)
このような「ニート」言説をはじめとする若者バッシングが、「若年労働市場における二重の排除」をもたらし、若者の「生きづらさ」を深刻化させていると、東京大学教授の本田由紀さんが『軋(きし)む社会』(双風舎)の中で指摘しています。若者は、ロストジェネレーションなど客観的な〈現実〉面で排除された上に、さらに周りから〈言説〉面でも排除され続けています。20代と30代の死因の1位が自殺となる社会、若者を自殺に追い込む社会を、私たちはつくりあげてしまっているのです。(※以下、『軋む社会』から興味深いところをサマリーで紹介します。byノックオン)
90年代半ば以降、若年労働市場が急激に悪化し、非正規労働者・無業者にならざるをえない若者が急増した。これが、若年労働市場における客観的な〈現実〉面での排除だ。
この〈現実〉面での排除に覆いかぶさる形で、〈言説〉という、もうひとつの面での排除が生じている。
それは、若年労働市場における〈現実〉面での排除が生じている原因を、若者自身の職業意識の問題、すなわち意欲や努力の不足に求める言説である。それらは1990年代半ばから2000年代はじめにかけて多数あらわれ、「若者バッシング」が支配的となるような状況をつくりだした。
例えば、雑誌『AERA』(96年2月12日号)の特集記事「とりあえずスネかじり、若年失業率急上昇の原因」では、「職に対する切迫感の欠如は、若者に広く蔓延している」、「不況といわれても、餓死する人はいない。今の若い人に食うために働くという意識はほとんどない。だから、『自分がやりたいことがないから働かない』という考えが成立する」、「ぜいたくしないで、早く定職につけといいたい」などと書かれた。こうした「豊かな親に依存する若者」という「フリーター」観は、90年代末に「パラサイト・シングル」という言葉が登場し、普及したことによって、より確固たるものとなる。
さらに、非正規の形態でも就労している「フリーター」に対して、2004年ごろから、もうひとつの言葉が一挙に普及した。それは「ニート」である。この「ニート」という言葉は、日本ではその定義から失業者を除外していることから、就労をせず、また就労をめざしてもいない存在をあらわす言葉として、「意欲のない若者」の代名詞となった。
「ニート」という言葉は、それ以前から存在した「ひきこもり」という概念と合流することにより、消極的で自信がなく、足を踏み出せない若者像という意味合いを色濃く帯びた。それによって、「働くこと」に対する若者の内面の問題性を、「フリーター」よりも一層強く、社会に印象づける結果になった。
このように、1990年代半ば以降の若年雇用問題の原因に関する〈言説〉は、労働需要側ではなく、労働供給側たる若者の意識や心理にその原因を帰属させるものが大勢を占めていた。そして、それらはつねに、若者や、彼らが属する家庭・親への批判や非難をともなっている。
こうして、〈現実〉面で排除された若者は、排除の不当性を糾弾する声を奪われるだけでなく、社会に支配的な「ニートやフリーターはだめな若者」という図式を内面化した場合には、みずからを責め、否定するという自己排除へと水路づけられる結果となった。
それと表裏一体の現象として、「○○力」というように、様々な言葉に「力」という語をつけた言葉が登場し、マスメディアや政府の政策文書などで頻繁に使われるようになった。その典型が「人間力」であるが、それ以外にも「社会人基礎力」や「就職基礎力」など、様々な政府機関や団体が、それぞれに望ましい「力」を掲げるようになっている。
こうした「力」をあらわす言葉は、人間の内面のあり方に言及したものであると同時に、個々人がそれらの「力」さえ身につけていれば、いかに苦しい状況でも乗り切れるということを含意している。
つまり、「フリーター」や「ニート」などが若者の内面のあり方に関する負の極を想起させるものであるのに対し、「人間力」などの諸「力」は、正の極にあたる概念だとする。
こうして、日本社会では、両者を極とする数直線上に個々の人間を位置づけ、評価し、ときにはおとしめ、ときには称賛するような認識や感覚の構造が、強固に成立することになった。そのような構造により、負の極に近い場所にいると見なされる若者に対する意味づけ面での排除もまた、進行してきたのである。
以上が『軋む社会』からですが、本田由紀さんは、後藤和智さんの著書『「若者論」を疑え!』(宝島社新書)の中で後藤さんと対談し、「なぜ若者バッシングが起こるのか?」というテーマでこんなことも語っています。(※この指摘は、「公務員バッシング」の問題にもあてはまります)
「誰かがダメだ」というネガティブな定義をすることにより、権力が介入できる余地は広がります。人々の間の反目をあおり、対立させて、「御上」が「大岡裁き」みたいに裁定したかのような形で「正しいやり方はこうだよ」と介入する。そういうフリーハンドな介入が、非常にやりやすくなります。
私は、Nobody is perfect!(誰も完全ではない)という人間観が大切だと思っています。それは、「パーフェクトであることに対する期待や要請」が強いことの裏返しとして、「足りないところ、劣ったところ、気に入らないところを見つけるとあげつらう」というようなことが、起きているからです。そういう状況は、すごく問題だと思います。人間は誰だってパーフェクトじゃない。パーフェクトじゃなくて、愚かだったり、とろくさかったり、弱かったりする人間たちが、それでもなんとかかんとかそれなりにがんばって生きているのが、社会というものであると。でも人間にパーフェクトさを求める思想が、いつの間にか行き渡っている。
自分じゃない誰かが責められているときには、「やっぱりあいつらが悪いんだ」という痛快さを感じ、人のせいにすることもできますが、いつ自分がその対象にされるか分からないですよね。だから、すごく嫌な社会になっていると思います。これこそがテロリズム、恐怖政治と言っていいのかもしれません。恐怖政治はバッシング政治と一体です。
こうしたそしり合い、憎しみ合いの結果、得しているのは権力だけでなくて、資本もそうです。人間というものに対する敬意が社会的に剥奪されれば、資本は労働者を尊重しなくて済むようになるからです。労働者に敬意を払う必要がなくなるから、安価にこき使いやすくなる。権力は人々を従わせようとするし、資本は人々を安くこき使おうとする、それがどちらもやりやすくなるんです。