坂本哲志総務政務官(自民党衆院議員)の「年越し派遣村」批判発言や、みのもんたのTBS「朝ズバッ!」(5日放送)での派遣村の労働者は甘えているのではないかといった趣旨の発言、そして、このブログのエントリーにも同じようなコメントが寄せられています。
ブログなどネット上のコメント等は、以前のエントリー【「ネット右翼」はインターネット利用者の1%を下回る~近視眼的に過大評価されている「ネット右翼」】 の中でも指摘した「ネット右翼」と同じで、「近視眼的に過大評価」する必要はないと思っています。
でも、今回の“派遣村バッシング”の背景にある根強い「自己責任論」は、繰り返し批判が必要だと思っています。(実際、このブログでも「自己責任論」の批判は何度もエントリーしています)
ちょうどいま、「自己責任論」の批判を展開している本を読んでいたので紹介します。(ちょっと哲学的で抽象的な内容の本ではありますが、「坂本発言」への具体的な批判は、年越し派遣村実行委員の方々がさまざま主張されることと思いますので)
なぜ現在の日本社会は、これほどまでに死の欲動に取りつかれてしまっているのか?(※社会構造に対しては怒りが向かわず、自分を責めて自分自身を排除してしまう自殺が多発するのか?) なぜ暴力は常に弱い者に向かってしまうのか?(※行政もストップする年末年始の寒空のなか、仕事も住む所も失った派遣村の労働者というもっとも弱い立場の人たちにさえ、なぜ自己責任論をふりかざして攻撃するのか?) なぜ富と権力と軍事力を専有している者たちへの抵抗の方向ではなく、自分への虐待へと向かってしまうのか?(※自傷・自殺や、他者に対する自己責任論による弱者バッシングなど自らの足元を掘り崩し自分の首を絞めてしまうのか?)という問題をめぐる、雨宮処凛さん(作家・反貧困ネットワーク副代表)と小森陽一さん(東京大学大学院教授・「九条の会」事務局長)の対談集『生きさせる思想~記憶の解析、生存の肯定』(新日本出版社)の中の自己責任論批判に関わる一部をサマリーで紹介します。(※私の主観によるサマリーであることご容赦ください。byノックオン)
小森 湯浅誠さんが『反貧困~「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書) の中で指摘しているように、貧困は「自己責任」などではなく、社会構造上の問題からくる「5重の排除」によって生み出されます。①教育課程からの排除、②企業福祉からの排除、③家族福祉からの排除、④公的福祉からの排除、⑤自分自身からの排除--この5つの排除が絡み合って、人々を貧困に落とし込むのです。
1998年からこの国の自殺者は、3万人を常に超えています。自殺は、究極の「自分自身からの排除」と言っていいと思いますが、国家と資本が結託して、人間の生存よりも市場原理を優先する新自由主義による「棄民政策」をとった結果、そういう異常な事態になってしまった。
雨宮 しかし、「自己責任」論で、社会より自分に怒りが向くように刷り込まれてしまっているといえます。「社会のせいにするのは弱い人だ」とか、「問題をすりかえる人だ」というような言説がまかり通っている。
小森 メンヘラー(心を病み、壊れることによってやっと生きのびる人※雨宮さんによる定義)の若者や貧困にさいなまれている人たちが、「自分は生きていていい」と思えない社会になっている。
そして、どんなに理不尽な要求であっても、企業が要求してくることを、とにかくこなしていかないと、生きていくための最低限の給与も支払われないというところに置かれてしまっている。過労死するまで働かされてしまうということも湯浅誠さんが言う「ノーと言えない労働者」の問題 です。本来、法的レベルで労働者の権利や雇用する側の義務が定められていたはずの雇用が、事実上、奴隷的な労働にさえ至っているケースもある。そういう社会への異議申し立てを妨げてきたのが「自己責任」論です。
雨宮 仕事がないのも生きづらいのも「自己責任」だ、自分のせいだ、ということになれば、当然ながら社会構造には目が向きません。「自己責任論」は、社会構造に問題があるということを見えなくさせるために、財界や国によってふりまかれてきた言説だなと思っています。
小森 人が何かの行動をとった場合、その人は自らの責任においてそうしているんだというだけの話を、結果をもたらしたすべての原因に本人が責任を負うべきだという話にすりかえてしまっているのが「自己責任」論だと思います。ある行動を起こす原因には、その人が責任をとりようもないことがたくさんあるし、行動の選択肢が限られていたなら、その選択の前提は本人が決定しようもないことが大半なわけだから、「自己責任」論は現実には成り立たない議論です。
雨宮 ホームレスやネットカフェ難民、ワーキングプアといった問題を当事者の自己責任だという人たちは、そう思うことで自分は「許されている」、自分には責任はない、免責されているという面があるのではないでしょうか。当事者の自己責任になるわけですから、自分は何もする必要がない、心を痛める必要もない。そうやって自分は何もしないことが正当化されるわけです。実は、そういう問題に自分が関与している、場合によっては貧しい人を追い込んでいるかもしれないのに。
小森 そうです。何もしない。関心を抱かない。そして何より心が脅かされないことを自己正当化したいのです。メンヘラーが自分を責める心理構造は、その人たちを追い込む側が、自分の罪障感を感じないようにするためにしがみつく「自己責任」論と表裏一体で対応している。つまり、自分たちが歩んできたし、それに乗ってきた競争的な社会構造が、若者に生きづらさをもたらしていることをどこかで自覚しているのだけれど、そこを直視してしまうと、自分たち自身のそれまでの人生や生き方をも否定してしまうことになるから、それはできない。その結果、「若者」や「フリーター」を過剰なまでに攻撃し、本人の責任という形で責めつづけるわけです。