多忙継続中にて、今しばらくの間、更新頻度が落ちますm(_ _)m
今日はちょっとした雑感を徒然に。
今や日本を抜き、世界への影響力が無視できない大国に成長した中国。
その中国が国際社会の理念である人権尊重や民主主義に逆行する国であることは、世界にとって頭痛の種だと思います。
中国は何故民主化を拒み一党独裁政治にしがみつくのか、彼らには彼らなりの論理があります。その善し悪しは別として、その論理を知り、理解することは大事なことだと思います。
それはどのような論理なのか、それについて興味深いひとつの考え方を提供している記事がこちら。
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フランスの日々 中国に幸せな社会が出来れば世界はもっと幸せになる 内容についてここでは深く掘り下げませんが、一部引用して簡単にまとめますと、
中国政府と中国国民が最も恐れていることは、中央の統制が効かなくなり、国が混乱状態のまま分裂していくことです。(略)
人口を日本の10倍の13億人、国土が日本の25倍だったと仮定するとその難しさがわかると思います。この規模の国が急激に民主化した例は世界にないにもか関わらず、「出来るか出来ないか分からないけどやって見な。失敗したら大変なことになるがな。」というのは無責任だと中国人は感じているでしょう。中国の責任ある地位にいる人は最悪のシナリオを避けるために日々神経をすり減らしているのです。そういった意味で、中国の台頭を好まない人たちが、民主化を利用して中国を分解しようとしているのです。少なくとも被害妄想だとしてもそう考える中国人が多いのです。(引用ここまで)
もしそうだとすれば、中国が外国からの民主化要求を内政干渉だと激しく拒む理由もなんとなく分かります(くどいようですがこの善し悪しは別です)
彼らに言わせればやれ人権弾圧するなだのやれ民主化しろだのは「西側の価値観を押しつけだ、内政干渉だ」ということになるのでしょう。
一般論として、地域により異なる価値観や文化はどちらが優れているというものではありません。それは相対的なものであり、どちらも尊重されねばなりません。
例えば日本の食文化である魚の活作りも、オーストラリアに行けば虐待行為として罰金刑の対象になります。
これに対し、私達はオーストラリアに対して、罰金を科すのはおかしいと抗議すべきではないでしょう。刺身を食してこなかった彼らの価値観からすれば、麻酔無しで生きたままさばくのは非人道的な残虐行為なのです。しかし同時に、オーストラリアも日本で行われてる活作りに文句をいう筋合いはありません。我々の食文化なのですから。(クジラ漁やイルカ猟においてはこの価値観の押しつけが行われていますね)
しかし、こと人権や民主主義に関しては価値観の相対化を行ってはいけないと私は考えます。
独裁体制や人権弾圧もその国の独自の判断であり頭ごなしに否定されるべきではないし、それに対して抗議するのは内政干渉だという論理を私は否定します。
人類が長い歴史を経てたくさんの血を流し獲得した人権尊重や民主主義という価値観は、もはやブレてはならない「人類普遍の原理」であって、独裁政治や人権弾圧を肯定することがあってはならないと私は考えます。
(余談ですが同じ理由で、イスラム社会で行われている未成年者の死刑や女性の姦通罪の石打刑もイスラム圏の文化であり価値観であるから否定すべきではない、という意見には与しません)
中国は人権弾圧をやめ、ノーベル平和賞を受賞した劉暁波氏はじめ他の人権活動家達を解放し、チベット侵攻をやめ、ミャンマー軍事独裁政権の支持をやめるべきなのです。
枝野氏は尖閣諸島問題を巡って、中国を「悪しき隣人」「法治主義がない」と批判しました。
たしかに中国は進んだ法治国家とはお世辞にも言えません(もっとも枝野氏のような立場にある政治家が公の場でこういう発言をするのはどうかと思いますが。)
でも、日本は中国に対しこのような批判をする資格があるのだろうかとふと考えてしまいました。
例えば9条。
憲法の三大原則のひとつである平和主義を具現化した9条をあんなに骨抜きにしておいて、日本は法治国家だと胸を張って言えるのでしょうか?
また、例えば死刑について。
今ではアメリカや中国でさえ死刑は抑制気味になっているのに対し、日本だけが逆行して増加傾向にあり、国際的にも非難の的です。
それに対し、日本では古来から潔く自ら死を持って罪を償うという独自の文化というか美意識があるのだと胸を張って反論する向きがあります。
この論には、「日本の文化、価値観はよそ者には一朝一夕で理解できない一種特別なものである。お前らにはわかるまい」とでもいうような妙な自負心、もっと言えば一種の選民思想が垣間見えます。
日本が「死刑は日本の司法文化。キリスト教的価値観を押しつけるな」(これ、実は事実誤認です)などという理由で死刑廃止の潮流にますます逆らう態度は、中国が「西側の論理を押しつけるな」と人権、民主化、法治主義を拒否する態度とどこが違うのだろうか、と疑問に思うのです。
自分のことを棚に上げってヤツですね。
中国が非民主的であることを批判したいならば、まず日本自らが基本姿勢をあらためなければならないと私は思います。
その上で日本は中国に対し人権弾圧をやめ、国民に自由を認めるべき、法治主義も徹底すべしと要求する積極的な人権外交を行って行くべきではないでしょうか。
◆
HUMAN RIGHTS WATCH菅政権は人権外交を優先すべし
(引用開始)
多くのアジア諸国にとって主要な援助国である日本政府は、外国政府が引き起こす深刻な「不幸」をなくすため、リーダーシップをとりうる格好の立場にある。日本は、国連安保理をはじめとする重要な国際フォーラムでの議席を活用し、不幸を生む残虐行為を止めるべく、声をあげるべきだ。しかし、残念ながら、日本政府は、人権侵害の被害者のため声をあげることに、消極的な姿勢に終始してきている。
一方、急速に台頭する中国は、グローバルな人権の実現に対する障壁として立ちはだかっている。中国は、自らを「責任ある大国」であると主張するが、実際には、深刻な人権侵害に手を染めている。国内で検閲を行い、チベットやウィグルで少数民族の弾圧を続け、言論の自由を行使しただけの人々を投獄している。
(略)
こうした問題を抱える中国が大国として台頭しつつある現状であればこそ、隣国の日本が、経済力という「ハードパワー」のみならず、人権 及び法の支配を力強く促進する「ソフトパワー」外交で存在感を回復することが、ますます重要になってくる。しかし、現実には、日本政府はこれまで、中国を含む相手国政府との間で人権問題を公に取り上げることに後ろ向きであった。日本の外交官は、声をあげない理由を多数あげる。例えば、日本軍が先の大戦において中国をはじめとする地域で残虐行為をはたらいた過去ゆえ、批判しにくいとも言う。確かに、菅政権は、中国における日本の過去と向き合うべきである。しかし、だからといって、普遍的な人権基準に対する支持を弱める理由とはなるまい。逆に、過去に人権侵害を行った国であればこそ、日本は、現在進行中の人権侵害の被害から人びとを守る道義的責任があるというべきだ。
しかも、アジアにおける人権の保護・促進は、リアリズムの観点からも必要であり、日本の国益に合致する。菅政権は、マニフェストで「『東アジア共同体』の実現をめざし、中国・韓国をはじめ、アジア諸国との信頼関係の構築に全力を挙げます」とも約束して いる。 中国と真の信頼関係を築くためには、日本は、中国政府に人権を尊重した行動をとるよう促す必要がある。人権侵害に目をつぶるという中国政府のやり方を踏襲すべきではない。
(引用ここまで)
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