先日、裁判員を経験した人達のほとんどが裁判員になったことを「良い体験だった」と感じてることがアンケートでわかりました。
裁判員「良い経験」97% 分かりやすさ、検察に軍配2009年11月17日 21時23分
裁判員、終わってみれば「良い経験」―。9月末までに判決が言い渡された裁判員裁判14件の裁判員経験者らを対象に実施した全国11地裁のアンケートで、こんな受け止め方をしている人の割合が97・5%に上ったことが17日、分かった。
裁判員経験者で回答したのは84人中79人。参加前は「あまりやりたくなかった」「やりたくなかった」が合わせて半数以上を占めたが、参加後は「非常に良い経験」(64・6%)「良い経験」(32・9%)と逆転。「評議時間が足りない」などの注文も出たが、滑り出しは順調といえそうだ。
アンケート結果は、最高裁が同日開かれた裁判員制度の改善点を助言する有識者懇談会に報告した。最高裁が詳細な実施状況を明らかにしたのは初めて。
それによると「審理が理解しやすかった」との回答は74・7%。弁論などの説明は「分かりやすかった」との意見が多かったが、検察官と弁護人を比べると、19ポイントの差で検察側に軍配が上がった。評議は「話しやすい雰囲気」が86・1%、「十分に議論できた」が78・5%と高評価だった。
(共同)
裁判員は良い体験だったと感じるのは自然なことでしょう。多分私でもそう言うと思います、滅多に出来ない体験ですから。
裁判員制度は国民理解も賛成もないままいきなり降って湧いたように押しつけられた制度ですから、スタート当初は反対が圧倒的でした。
ですがもし、やって良かったという人が多いからと言って、今の裁判員制度の肯定に転じるのだとしたら、それには賛成できません。
やって良かったというのは単に「個々人にとって良い経験、良い思い出になった」「いままでできなかったことがやらせて貰えるようになった」「裁判させて貰えるのって面白い」ということに過ぎません。
刑事裁判を進歩させることには直接つながらず、今の裁判員制度が抱える問題を置き去りにしたまま、この制度が定着してしまうのを危惧しています。
以前
このエントリーで取り上げた小田中先生の話を再掲しましょう。
裁判員制度は開かれた裁判のイメージを与えるけれども、実は、裁判員の守秘義務と裁判員への接触禁止という規定で、逆に裁判員を法廷に囲い込み、一般の市民から遠ざける閉ざされた制度になっている。
(司法の国民参加を)制度化するならば、参加する者がポツンと社会から隔絶された形で参加するのでは無く、いろいろ勉強したり他人の意見を聞いたり、社会化された意見や経験を反映できる立場に立って参加できるものであるべきだ。そうでなければ反映されるのは「その人個人の意見」ではあっても社会化されたものとは必ずしも言えない。
裁判員を体験した人には、「個々人の良き思い出」にとどめず、裁判に参加してみて経験したことを是非社会に還元して欲しいと思います。それが実質的な「司法の国民参加」「裁判への社会化された意見の反映」の実現の第一歩だと思います。
例えば、評議会での話し合いの進み方で疑問に思ったこと(裁判官の誘導はなかったか、思ったことを存分に言えたか、議論の蒸し返しを嫌がられなかったかなど)をオープンに問題提起するのはとても大事だと思います。
また、最近強姦事件で被告人に対し
「ムカつくんですよね」と感情を露わにした裁判員がいましたが、そういうのは裁判員としてどうなのか、とか、
裁判員にショックを与えないため、
切断遺体の写真を証拠採用しないのは裁判員への配慮として頷けるものであったとしても、刑事裁判としてはどうなのか(というのは、もし裁判員裁判でなかったら当然証拠採用されていたでしょうから)とか、
市民が参加して考えるべき事はたくさんあります。
裁判員体験者や弁護士、検察官を交えての意見交換会も催されているようで、これは良いことだと思います。(但し、裁判員に課せられた罰則を伴う秘密保持義務は広範囲で曖昧なので、裁判員体験者は何をしゃべってはいけないのかわからず、こうした意見交換会でも萎縮傾向にはないでしょうか?疑問です)
ここで常に問い続けて欲しい課題は、
自分たちが参加するこの裁判員制度とは、一体誰のための何のためのものか、ということです。
以前
このエントリーで「裁判員制度は国民を統治主体意識に絡め取ることが目的」という安田弁護士の指摘を取り上げました。
事実、裁判員の参加する刑事裁判に関する法律の第1条では、この制度の目的を,
「この法律は,国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ」
としています。
いわば国民に裁判とはどういう感じか体験させて知って貰うためのものであって、
現実には非常にお粗末な被告人の人権保障を向上させ適正手続を実現させることは、目的として位置づけられていないのです。
しかしそこは法の趣旨から積極的に一歩進んで解釈させていただきましょう。
刑事裁判において最も大事な被疑者被告人の人権保障、適正手続。それを国民自身も裁判に参加することで学び、国民レベルでその理解を広めていくこと。それをより良き刑事手続の進歩にフィードバックさせることが裁判員制度の大切な目的と解釈して臨んでいくべきではないでしょうか。
裁判員制度は、「裁判てこんなかんじなんですよ」と知って貰うキッザニアのような「お仕事体験コーナー」じゃないはずです。この制度が刑事手続のあり方を進歩させる原動力にならなければ莫大な税金を溝に捨てているようなものです。
このための
法務省の出張法教育の試みには賛成できます。泥縄というか焼け石に水、という気がしないでもないですが、やらないより良いです。
私は今の裁判員制度には反対ですが、もしこの制度に期待するものがあるとすれば、国民レベルでの刑事裁判に対する理解の深まり、そしてそれが刑事手続の改善の後押しになることです。(まあ、現実にはかなり困難でしょうけれど・・・と悲観的で申し訳ないのですが)
もし「疑わしきは被告人の利益に」が、国民レベルで浸透すれば、弁護人は悪魔だとか、感情的になって極刑ばかりを望んだりしなくなるでしょう。
取調時間が長すぎではないかとか、もっと自由に面会できても良いのではないかとか、この報道はおかしいのではないかとか、そういう声が国民の側から自然と上がってくるようにならなければ、膨大な税金をつぎ込んで司法に参加させてる意味がないとひしひし感じます。
「推定無罪の原則」を一体どのくらいの裁判員が、裁判官から詳しく説明を受けたのでしょうね?一度アンケートを採って知りたいものです。
もう一つ、「分かりやすさ、検察に軍配」について。
以前も書きましたが、この裁判員制度は検察の方に有利にできています。
まず、検察は豊富な資金がありますから、裁判員裁判にむけて万全の準備をしてきました。
また、検察側の主張では、映像を駆使し、傷口を見せて視覚に訴え、被害者や被害者遺族から悲痛な言葉が漏れるなど、ダイレクトに感情に訴えることができ、非常に分かりやすいです。
対して弁護人の方は豊富な財源と準備期間を持つ検察と比べ、反証に映像を制作できるほどの時間的金銭的余裕もありません。
情状でよほど被告人に同情できる事情でもない限り「こういう可能性も考えられる」「この証拠はこうみるべきである」という展開になりますから、情にではなく理に訴えることが多くなります。
しかし、理は専門家でなければその重要性がわからないこともあります。
従って、わかりやすさはどうしても検察に軍配が上がるのでしょう。
下手をしたら、弁護人が手っ取り早くカウンターを取るのにひたすら情状面で感情に訴える劇場型裁判にもなりかねません。
裁判員裁判に臨む国民はあらかじめこのことを知っておいて法廷に入る必要があると思います。
でなければ、被告人側の方が不利に立たされます。
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