道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

「『公共的理性』の意義と、リベラリズムが信頼を失わないために必要なこと」(学会発表原稿)

 

pssj.info

 

 昨晩の科学哲学会・サテライトイベントで読み上げた発表原稿、昨年出版の『モヤモヤする正義』で自分が行った議論や出版後に変わった自分の意見・考え直したところなどを上手くまとめられたと思うので、こちらにもWordファイルからのベタ貼りで放流します。

 

 

 

 

 

1:「公共的理性」の意義

 

・公共的理性(公共的理由付け)とは何か

 

昨年に出版された私の著書『モヤモヤする正義:感情と理性の公共哲学』では、現代社会においてさまざまな立場の人の間の利害や自由を平等に尊重し、調整するために「公共的理性」または「公共的理由付け」が重要である、と主張した。

 

端的に要約すれば、自由主義・民主主義の社会では、特定の人々を優遇したり特定の人々に不利益を与えたりすることを求める主張を行う、または実際の政策や法的判断がされる際には、優遇されなかったり不利益を受けたりする側の人々でも理解できて納得できるような「理由」を提示して正当化する必要がある、という考え方だ。また、主張に反論したり制約や法的判断に反対する側も、なぜそれらが間違っているのかという理由を提示することが必要である。

 

・公共的理性について語った論者

 

公共的理性といえばジョン・ロールズの『政治的リベラリズム』における議論が代表的であるが、アマルティア・センやマーサ・ヌスバウムなど英語圏の代表的なリベラリストも「公共的理性」について論じている。『モヤモヤする正義』ではポール・ケリーやスティーブン・マシードといった論者による「公共的理性」や「公共的正当化」についての議論を、特に参照した。

 

また、ユルゲン・ハーバーマスが提唱した「討議倫理」の考え方も、立場や状況が異なる人々の間で「理由」に基づく合意や意思形成を目指すものであり、「公共的理性」とかなり近いものであるように思える。

 

・「議論」の場で起こっている問題

 

『モヤモヤする正義』で特に対象としたのは、公的・準-公的な場面で行われる諸々の「議論」「主張」のあり方についてである。具体的には、書籍や論文などで執筆される主張、新聞やネットメディアにおいてインタビューや寄稿記事の形で掲載される学者や著名人の主張、オンラインのブログで行われる主張、そしてSNSで行われる主張および議論などだ。

 

活字にせよネット上にせよ、議論や主張を行う際には、属性や立場の違いに関わらず全ての人々を理性的な議論の(潜在的な)参加者と見なしたうえで、相手が理性的であれば納得できるはずの理由を提示して自分の主張を正当化すべきである。

 

……しかし、実際には、ネット上の議論の大半と活字上の議論のかなり多くが「公共的理性」の規範に適したものではなくなっている、という点を『モヤモヤする正義』では指摘した。

 

2:「レトリック」の問題

 

・理性ではなく「感情」に訴える、理論や用語

 

『モヤモヤする正義』の第2部では、近年の哲学や社会学などで用いられる「理論」や「用語」、特にジェンダーの関わる問題やマジョリティとマイノリティとの立場・状況の差に関する理論や用語の使われ方が、対象となる相手の理性ではなく感情に訴えかけて、納得や合意を経ずに特定の主張を通そうとするものになっている、という問題を指摘した。

 

具体的に取り上げたのは、マジョリティの「特権」に関する理論、トーン・ポリシングという概念、そしてマイクロアグレッションという用語であるが、以下ではこのうち特権理論の問題について述べる。

 

 

・罪悪感を抱かせる「特権」理論

 

特権に関する主張は、「マイノリティが生きるうえで経験する様々な不利益を、経験することなく生きていけるというだけで、マジョリティには特権があるのだ」という論じられ方をすることが多い。

 

特権理論は、マイノリティに対して不利益を課す抑圧的な社会構造を問題視しているもの、と見なすこともできる。しかし、ネット上などにおける「議論」の場や、また一般読者を対象にした書籍や新聞・オンライン記事などにおいては、単に社会構造のあり方を示して問題視するだけでなく、個々のマジョリティに「あなたには特権があるのだ」と自覚させる、という目的で特権理論が使われることが多い。

 

このような場面では、「抑圧的な社会構造がある」という社会的・公的レベルの問題から、「自分には特権がある」という個人的・私的レベルの問題へと、議論のピントが狭められる。それにより、社会構造を問題視するための理論が、マジョリティ個人に「罪悪感」などのネガティブな感情を抱かせようとすることに転用されている。というのも、「特権」という単語には「それを持っていること自体が不当なモノ」というニュアンスが含まれているからである。

 

さらに、「なぜ抑圧的な社会構造が存在するのか」という問題や「それを変えるためにはどうすればいいのか」などの方針・方策について理性的に議論を行うことからは遠ざかる事態になりがちだ。というのも、特権を指摘されたマジョリティは、罪悪感を抱いて「この問題について自分が発言する資格はない」「黙っていた方がいい」と考えてしまうか、逆に、「自分は特権なんてモノを持っていない」と反発してしまうからだ。

 

・感情を操作する議論は「反発」を呼ぶ

 

上記のような「反発」の事態は、本来なら防ぐことができるはずのものだ。「マイノリティは社会で生きるうえで様々な不利益を経験する」という主張はほぼ反論の余地がないほど妥当であるし、「不利益の原因は抑圧的な社会構造である」という主張は議論を促すという点で生産的な主張だ。

 

一方で、「マジョリティは特権を持っている」という主張は、主張の内容そのものは上記2つとあまり変わらないのだが、記述や表現の方法を変えることで、マジョリティの感情を操作し議論を誘導するという「効果」を生み出し、それにより「黙らせる」または「反発される」という事態を引き起こしているからだ。

 

『モヤモヤする正義』では、「特権理論」の問題を上記のように指摘したうえで、聞く相手の理性に訴えるのではなく感情を操作する議論(または理論・用語など)を「レトリック」と呼称し、公共的理性の理念に反するものとして、批判した。

 

・レトリックの「悪用」と「物象化」

 

また、『モヤモヤする正義』では、レトリックが「物象化」するという問題も指摘した。ここでいう「物象化」とは、社会の状況や構造について他のかたちで表現や解釈をすることが可能であるにもかかわらず、特定の表現や解釈をそれが社会のあり方についての客観的な事実主張と見なしてしまうことである。

 

マジョリティに対してレトリックを用いることの問題のひとつは、上記したような「反発」を生み出すことだ。もうひとつは、レトリックの「悪用」をマジョリティに促すことである。たとえば、「男性特権」を指摘された男性が「女性特権」の存在を主張する、または「シス特権」を指摘されたシスジェンダーが「トランス特権」の存在を主張する、という場面は、少なくともネット上ではたびたび見かける。

 

深刻な問題は、「女性特権」や「トランス特権」を主張する人々は単なる意趣返しや嫌がらせで主張しているだけでなく、自分の主張は本当だと信じている…自分の主張を「物象化」させている…ように見えることである。

 

3:「社会の見方」のゼロサムゲーム化

 

・理論や見方は他のものと「併存」するはずだが…

 

本来なら、社会的な問題、または政治的な問題や道徳的な問題に関する「理論」や「用語」とは、問題について「このような見方ができるかもしれない」「このような観点から切り取る・掘り下げることができる」と提案し、その問題について深く考えることを促すためにある。つまり、理論や用語は、最善の場合には、個々人の思考を豊かにして、議論を生産的なものにする。

 

そのため、ひとつの理論が前もって「正解」であると定められているわけではなく、他の理論や見方と併存するものであることが前提となっており、あるひとつの理論を提示したところで他の理論を排他できるわけではない。

 

このことは、倫理学や政治哲学などの入門書・教科書を読めばわかりやすい。これらの本では、複数の理論を並べて比較考量することがスタンダードとなっている(「リベラリズム、共同体主義、リバタリアニズム、フェミニズム」や「功利主義、義務論、徳倫理、ケアの倫理」という風に)。 

 

個々の「~イズム」を主張する哲学者も、「自分のイズムが最も優れている」「他のイズムには欠点がある」と考えているだろうが、ある程度以上に説得力や妥当性のある「~イズム」が自分の支持する「~イズム」と並列・併存していること自体は認めているはずである。そして、この姿勢は哲学者に限らず社会学など他の分野の学者(または社会運動内の理論家など)にも共通するはずだ。

 

・理論が「唯一の解釈」として示されてしまう状況

 

しかし、実際には、ネット上に限らずほとんどの新聞・オンライン記事や、多くの一般向けの書籍などで、理論や用語が「社会についての正しい見方」や「唯一の解釈」であるかのように提示されている。そのため、議論においても理論や用語は議論を打ち切り正否を決定する「答え」であるかのように、断定的に用いられている(=物象化が起こっている)。

 

このような問題が起こっている一因は、単に「文字数」にあるように思える。SNSのみならず新聞やオンラインの記事も文字数は限定されており、ある理論や用語に解説する記事において「他の見方もある」「理論や用語はたった一つの答えとして提示されているわけではない」という前提を、毎回、解説するスペースを設けることはできない。

 

書籍の場合も、特に広く読まれる新書本ほどページ数を長くし過ぎることができないため、「複数の理論が併存する」という前提はカットされがちだ。

 

また、より意図的に、自分の主張の印象や説得力を強くする目的で、理論や用語が持つレトリックとしての効果を高めるために、「他の見方~」という前提をあえて説明しない場合もあるかもしれない。

 

・「見方」の押し付け合いは合意形成を遠ざける

 

いずれにせよ、理論や用語などで示される「社会の見方」が、ひとつが正しい見方であり他の見方は正しくないかのようなゼロサムゲーム的な形で示されていることから、理論や用語を使って行われる議論も「自分の見方のほうが正しい」「他の人々の見方は認めない」という押し付け合いのようなものになりがちである。

 

そして、他の人々の「見方」を認めないことは、他の人々の経験を考慮しないことにつながり、自分の立場や属性にとって利益になるような主張だけをして相手側の不利益を気にしない、という態度につながっていく。こうなると、立場や属性が異なる人同士でも納得できるような「理由」を提示しながら合意や意思形成を目指す公共的理性や討議倫理の理想からはかなり遠ざかってしまう。

 

そもそも、自分と立場や属性、または意見が異なる相手を説得する(そして相手の意見に理があるなら自分も説得される)というつもりがなければ、本来、議論を行うこと自体が無意味なはずだ。

 

しかし、実際には、自分と立場が同じであり意見も既に同じくしている人々からの支持や賛同を得るために、立場が異なる人々との同意形成を目的としない議論を行う、という場面は多い(ネット上において特に顕著だが、一部の商業的な雑誌や書籍にも見受けられる)。支持者が増えることには、金銭的利益につながる、知名度を向上させる、「社会的な感情」を満たせる、などのメリットがあるためだ。

 

・「弱者男性論」は合意を目指せるか

 

『モヤモヤする正義』の第3部では、特に日本のインターネット上で行われる「弱者男性論」では上記の傾向があることを指摘した。つまり、自己利益を目的とした男性の論者が、他の男性からの支持・賛同を得るために男性の立場や利益を考慮するように求める主張を行うが、実際にはその主張を他の立場の人(=女性)に納得させて合意形成することは目的としていない。

 

また、「男性(同じ立場の人)からの支持・賛同」が目的であるために、むしろあからさまに女性を侮辱したり罵倒したりすることをいとわず、そのために合意形成をますます遠ざけている。

 

『モヤモヤする正義』では、弱者男性について定義を行ったうえで、彼らの受けている不利益を具体的に表現したのちに、その不利益に社会的・政治的な配慮が必要な「理由」を提示して、異なる立場の人(=女性)にも意見を共有して合意を形成することを目指した。

 

なお、この際、ケイパビリティ・アプローチという政治哲学の「理論」を用いてはいるが、功利主義や平等主義的なリベラリズム(ロールズやドウォーキンの理論)と比較したうえで「弱者男性の不利益という問題を扱う場合にはケイパビリティ・アプローチがふさわしい」という限定を付けたうえでのことである。

 

上記の議論は、どこまで成功しているかはわからないが、公共的理性や討議倫理の「実演」というつもりで行ったものである。

 

 

4:リベラリズムが「悪用」される懸念

 

・リベラリズムは「理性」や「中立性」を重視する

 

ここまで強調してきた公共的理性や討議倫理は、基本的には、リベラリズムの理念にかなうものである。

 

つまり、無制限に自由を尊重するようなリバタリアニズムではなく、万人の自由や利益を平等に尊重するが、そのためにこそ、他者の自由や利益を侵害するような自由は認めない(危害原則)、行き過ぎた経済的不平等は最低限の自由や平等も破壊するので課税と再分配の必要性を認める……という考え方としてのリベラリズムである。

 

リベラリズムで重要なのは、上記のように特定の人々の自由や利益に制限を課すことも認めるが、その際にも人々を平等かつ中立に扱うこと、だからこそ万人が共有するものとされる「理性」に訴えかけた正当化や理由付けを行うことが必要とされる、というポイントだ。

 

そして、中立性も重視されるからこそ、特定の価値観を優遇することはないし、マジョリティであるかマイノリティであるかということに関わらず理由付けや正当化の手続きをスキップすることは認められない。

 

・「中立」や「手続き」の重視を疑うリベラリズム批判

 

ただし、リベラリズム自体が他の考え方から批判を受けてきたことを無視するわけにもいかない。

 

批判されているポイントも複数あるが(再分配や自由の制限を是とすることに対するリバタリアニズムからの批判、「公的な事柄と私的な事柄は分離できる」という前提に対する共同体主義やフェミニズムからの批判など)、ここでは、「中立性や正当化の手続きを重視するあまりに、立場の異なる人々の背景にある社会構造や権力関係の差を無視する」という、フェミニズムやマルクス主義、批判理論からの批判を取り上げる。

 

…むしろ、先述した「特権理論」はこのようなリベラリズム批判を前提とする考え方であるし、また「トーン・ポリシング」や「マイクロアグレッション」といった概念にも、社会の背景にある構造や権力差を問題視する前提が含まれており、その前提を無視するリベラリズム的な考え方に対する批判という意味合いも含まれている。

 

そのうえで、これらの理論や用語が「反発」や「悪用」を引き起こしているという問題を指摘して再批判を行い、リベラリズムの意義を強調する……というのが『モヤモヤする正義』で行った議論だ。

 

ただし、リベラリズムを支持して提唱するにせよ、これまでに指摘されてきた問題を無視するわけにはいかない。特に、現に存在している権力関係の差や、抑圧を起こす社会構造を等閑視して、中立性や手続きだけを重視していると、今度はリベラリズムが権力者やマジョリティに「悪用」される危険性がある。

 

・トランプ第二次政権化で疑わしくなった「表現の自由」

 

2022年にイーロン・マスクがTwitterを買収し、2024年にドナルド・トランプがアメリカ大統領に再就任した現在では、特に気がかりなのが、「表現の自由」というリベラリズムに関係する理念が「悪用」されている点である。

 

具体的には、それまでのTwitter上に存在してきた、デマや誤情報を規制・抑制するためのシステム(ファクトチェックなど)をマスクは撤廃した。またつい先日の報道によると、アメリカ国務省は、ヨーロッパ諸国で行われているヘイトスピーチ規制は「言論の自由の侵害」や「人権侵害」であるとみなす新規則を定めたという[1]。

 

一方でトランプは第一次政権の頃から気候変動などに関する科学的研究を抑圧してきて、第二次政権への就任直後には「過激なジェンダー思想」や「批判的人種理論」(とされる考え方)を公立学校で教えることを禁止する大統領令に署名しているなど、彼らの考える「表現の自由」が一貫していないご都合主義的なものであることは明白だが[2]。

 

 

5:「表現の自由支持者」の問題

 

・「思想と討論の自由」は適切な制度化で認めるべき

 

『モヤモヤする正義』の第1部(第2章)では、リベラリズムの古典とされているジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に基づきながら「思想と討論の自由」を擁護する議論を行う一方で、理想的な討論をSNSやインターネットで実現することは困難であり、大学や学会に代表されるような「制度」が必要である、という主張を展開した。

 

討論にあたって「制度」が必要とされる主な理由は、私たちの心理や認知には様々な制約があり、それらの制約は私たちが言論を受け取る際にも発信する際にも悪影響を及ぼすから、その影響を緩和・除去するための方策や手続きを取らなければならない、という点にある。

 

また、世の中にはマイノリティの尊厳も関わってくるような問題に関する「論争」が既に存在している。ネットや扇情的な雑誌のような粗悪な場で「討論」しても、マイノリティ当事者を傷付けるだけで実りがない。しかし、すでに争点が存在している以上、避けることも困難だから、どこか適切な場で議論される必要がある。

 

その「場」としてふさわしいのが学問である。査読などの手続きを経れば、人権否定や差別を目的とした主張は内容以前に形式の段階で排除されることが見込める。その一方で、形式的基準を満たす議論は、学問的規律のもとで正面から論じるべきである、とも主張した。そうして学問の場で一定の結論を出すことで、粗悪な場で展開される言説にいちいち付き合う必要がないことも正当化できる。

 

上記のような主張は、討論を行う「場所」は制度に基づいたものにすべきであるという限定を加えている一方で、センシティブな問題や人を傷付ける可能性のある話題についても討論自体は行われるべきであるとしている点では、ミルの『自由論』に忠実なものだ。

 

もっとも、「論争」や「争点」の持ち出され方や扱うタイミング・頻度にも、十分な注意が必要であろう。アメリカでは共和党が選挙戦略で「LGBTQ+の脅威」を誇張する言説や繰り返してきて、日本でも自民党や右派政党がやはり選挙戦略として「外国人の脅威」を持ち出している。

 

適切な討論が行われることはこれらの誇張を指摘し、政治的な言説の悪影響を緩和する効果がある(と信じたい)が、討論の対象として扱うこと自体が政治的言説に利用される可能性も否定できない。簡単に結論が出せるものではないが、慎重さが必要だとは言えるだろう。

 

・ミル『自由論』に対するウォルドロンの批判

 

当然のことながら、リベラリストの代表格であるミル自身もこれまで批判を受けてきた。「表現の自由」に関しては、ジェレミー・ウォルドロンが著書『ヘイト・スピーチという危害』のなかで、言論や討論のコストは人々の間で平等に課せられているわけではなく、つまりヘイト・スピーチの対象となって危害を受けるのはマイノリティに偏っているという事実を無視しているとして、ミル的な表現の自由論を批判している。

 

ウォルドロンの批判は『モヤモヤする正義』のなかでも取り上げたが、同書の出版前後における、アメリカや日本国内での「表現の自由」をめぐる状況を見るにつれて、私としては、以前よりもウォルドロンの批判をさらに真摯に受け止めるようになった。

 

ウォルドロンは、単に自らヘイト・スピーチを展開している人々のみならず、ヘイト・スピーチに囲まれたマイノリティの目には社会がどのように映るかに思いを馳せることなく表現の自由に関する原則論を並べる同僚の学者たちのことも、厳しく批判している。

 

 

・ウォルドロンの批判が当てはまる日本の事例

 

私がウォルドロンの批判に同意・共感するようになった一因は2023~24年における、『トランスジェンダーになった少女たち』の出版をめぐる一連の流れ(当初はKADOKAWAから出版される予定だったが産経新聞から出版されることに)に関して、「表現の自由を支持する」と自称している人々が取った態度に由来している。

 

同書について「刊行が中止されるべきでない」「間違った主張や不正確な主張が書かれているとしても、読者が主張に触れる自由を奪うべきでない」などの主張を行うこと自体は問題ではない、とは現在も思っている。

 

しかし、同書のマーケティングやタイトルなどがあからさまにトランスジェンダーの人々を危険視して偏見を煽るものであったことなど、刊行に際して発生した「コスト」がトランスジェンダーの人々に対して偏って発生していることを無視して「表現の自由」の理念だけを主張することは看過できない。

 

同様に、先述した、インターネット上での「弱者男性論」で展開される女性に対する侮辱・罵倒的な言説を、ミルの『自由論』を持ち出しながら男性が擁護している事例を目にしたことも、私が『自由論』自体の妥当性を疑ってウォルドロンの批判に同意するようになった一因である。

 

これらは、「リベラリズムの考え方は現実の社会の状況を無視している」という批判理論やフェミニズムからの批判を裏付けして、「表現の自由」の理念やリベラリズム全体の信頼性を失わせる振る舞いである。

 

自分自身がコストを支払う側ではないことが明白な状況で、自分とは異なる人々(女性)がコストを支払わせられることをあまりに容易く看過するような振る舞いや、その振る舞いを正当化する口実となるような著作・理論に問題がないと見なすことは困難だ。

 

そして、言うまでもなく、私が「表現の自由」を支持すると称する人々に対して抱いたような疑念を、女性やマイノリティの人々はより頻繁に、より根深く抱いているだろう。そして「表現の自由」に限らず、公共的理性・討議倫理やその他のリベラリズム的な理念に対しても、同様の疑念を抱く人々はいるはずだ。

 

そのため、フェミニズム・マルクス主義・批判理論に基づくリベラリズム批判は、これからも一定の説得力を持ち続けるだろう。

 

・リベラリズムを提唱する人こそ「徳」を持つべき

 

上記のような事態を考慮したうえで、それでもリベラリズムや公共的理性の理念を社会に浸透させていくことを目指すために重要となってくるのは、リベラリズムを支持すると公言する人々がどんな振る舞いをしてどんな言動をするか、である。

 

「ただのお題目として理論を唱えているだけだ」、「コストを支払う立場にない自分にとって都合の良い理論だから支持しているだけだ」などと思われてしまったら信頼を失うだろう。

逆に、リベラリズムを支持している人々は社会で起こっている問題を注視し、異なる立場の人々の状況についても配慮や想像をめぐらせているということが示せるなら、信頼を得られるはずだ。

 

結局のところ、リベラリズムとは相反していると見なされることも多い「徳倫理」の考え方が重要になってくるかもしれない……というのが、当座の結論である。

 

[1] https://news.yahoo.co.jp/articles/6fcd0817ec6407dcaf485666da3acd7ea877e55d

[2] https://www.jiji.com/jc/article?k=2025013000474&g=int

 

※下記も参考にどうぞ。

 

book.asahi.com

 

gendai.media

 

gendai.media

 

gendai.media

朝日新聞「じんぶん堂」で『モヤモヤする正義』に関する記事が掲載されました

 

 

book.asahi.com

 

 

 

 

第四章をベースとした議論になっています。よろしくお願いいたします。

大きな「壁」にぶつかって割れる「卵」の側に立つのは誰か? 4月25日に代官山蔦屋書店でイベント開催します

 


4月25日(金) 、東京の代官山蔦屋書店にて、『モヤモヤする正義』に関して応用倫理学者の奥田太郎さんやアーレント研究者の三浦 隆宏さんとトークイベントを行います。

 

題は『大きな「壁」にぶつかって割れる「卵」の側に立つのは誰か?』です。 

 

ZOOM配信もされるので、ぜひご予約や、まだ持っていない方は書籍『モヤモヤする正義』とセットでご注文ください。

 

store.tsite.jp

 

 

以下、イベントの告知分です:

 

 550頁に及ぶ大著『モヤモヤする正義』で正義について私たちが抱くモヤモヤに正面から、自身の立ち位置や見解も明らかにしながら取り組むクリッツァーさんは、その終章冒頭で、小説家の村上春樹がエルサレム賞受賞スピーチで言及した「壁と卵」の比喩に言及しています。

 そこでは、「卵」の側に立つことの難しさ、つまり、「卵」の側に立っている人自身が「壁」になって別の「卵」を割ってしまっていることがしばしばあること、だれを「卵」とみなして何を「壁」とみなすかをめぐって、「卵」と「壁」が都合よくふるい分けられがちであることが指摘されています。

 今回の人文カフェでは、著者のクリッツァーさんと一緒に、「卵」の側に立って語ることについて考えてみましょう。

 

【参加条件】
イベントチケット予約・販売サービス「Event Manager」にて、いずれかの対象商品をご購入いただいたお客様がご参加いただけます。

 

【対象商品】

■来店参加…65名様
・イベント [来店参加] 券(1,500円/税込)
・書籍『モヤモヤする正義』(晶文社・2860円/税込)+イベント [来店参加] 券(1,000円/税込)セット 3,860円(税込)

 

■オンライン視聴参加…400名様
・イベント [オンライン参加] 券(1,300円/税込)

・書籍『モヤモヤする正義』(晶文社・2860円/税込)+イベント [オンライン参加] 券(1,000円/税込)+送料(550円/税込)セット 4,410円(税込)

 

申し込みフォーム

 

よろしくお願いいたします。

 

 

 

講談社現代ビジネスで『モヤモヤする正義』の内容を紹介する原稿を執筆しました(3)

 

 

 

「SNSとネットこそが、民主的な言論の場である」…? トランプとマスクが進める「言論の自由」政策が、破壊しようとしている「重要な価値」

 

gendai.media

 

 

『モヤモヤする正義』の第2章「『思想と討論の自由』が守られなければならない理由」に基づきつつ、最近の問題について論じています。

『週刊文春』に『モヤモヤする正義』に関するインタビューが掲載されます

 

明日1月30日発売の、2月6日号です。電子版はもう読めるようです。よろしくお願いします。

講談社現代ビジネスで『モヤモヤする正義』の内容を紹介する原稿を執筆しました(2)

 

 

 

gendai.media

 

 ちなみに、6章と7章の目次は下記の通りです:

 

第六章 男性にも「ことば」が必要だ
1 男性の不利益や被害は社会から無視されている?
2 ひとりの男性としての経験と感情
3 なぜ現在の「男性学」は頼りにならないか
4 「弱者男性論」の有害な影響
5 男性のための「ことば」をどう語ればいいか

第七章 弱者男性のための正義論
1 「理念」に基づいた弱者男性論が必要な理由
2 恋人がいないことや結婚できないことの不利益とはなにか?
3 リベラリズムと弱者男性
4 フェミニズムと「幸福度」と弱者男性
5 潜在能力アプローチと弱者男性
6 「あてがえ論」と「上昇婚」
7 弱者男性の問題に社会はどのように対応できるか

講談社現代ビジネスで『モヤモヤする正義』の内容を紹介する原稿を執筆しました(1)

 

 

『勘違いしている人も多い…「ポリティカル・コレクトネス」と「リベラリズム」の関係をご存知ですか?』

 

gendai.media

 

 

『モヤモヤする正義』で論じた内容について「リベラリズム」と「批判理論」(フェミニズム)の考え方を対比させながら紹介しています。ご一読ください。また、次回は、本書における「弱者男性論」について紹介する原稿が掲載されるかもです。