豊かさを犠牲にしてまで・・
「豊かさを犠牲にしてまで、環境に配慮する必要があるのか?」・・と言う議論です。
曰く
「環境に配慮して工業生産を止めて物資が不足したら大変だ!」
「地域の人の生活を圧迫してまでも、環境の為に開発をストップするのはいかがなものか?」
この、「犠牲にされる」と言われる「豊かさ」について考えてみます。
この「豊かさ」とは、物質的な「豊富さ」や交通などの「便利さ」などを指すのでしょうが、物が有り余っている現在、精神論の範疇を超えても、もはや「豊かさ」とは呼べるものではなく「過剰」のレベルでしょう。便利さについても同様です。
売る側ばかりでなく、買う方も・・大抵の人が・・有り余る物の処理に時間と労力を費やしている事でしょう。物を捨てるのが嫌いな私などは、大して物を買わなくても次々に増えてくる現実に、強迫神経症で気が狂いそうなレベルです。(ちょっと大げさか?)
産業界は、物が有り余って買う人が減ってきたので、あの手この手で無理やり物を買わせようとしています。エコ替え、エコポイント、減税、補助金・・・どれも国の税金を投入してまで物を売りつけようとしています。買わない人が馬鹿を見るようなシステム作りに励んでいます。挙げ句の果ては、地デジ切り替えと言うモラル破壊の「規格変更」で、アナログテレビを使いものにならないスクラップにしてまで新製品を買わせようと目論んでいます。
その結果、廃棄物が増えて、処分場の問題は常に自治体を悩ませています。
そもそも、「豊かさ」と「環境」は対立する概念ではないでしょう。
例えば、森林を切り開いて開発して、リゾートを作ります。そのリゾートのゴルフ場でゴルフをしたり、人工的な施設で遊ぶ事が豊かな事でしょうか?その森林に入って遊ぶ方がよっぽど楽しいと感じます。・・そう感じるのは私だけではないでしょう。・・・それは個人の価値観だ・・と申しますなら森で遊ばなくても、その中で育まれている生態系が人間の生活を豊かに保つのです。水も空気もきれいにしてくれます。・・開発される前の森や林がある状態のほうがよっぽど豊かと言えるでしょう。現代人が、お金を払って人工的な施設で遊ぶ事が楽しい・・・と感じるのなら、それは洗脳と言えましょう。「豊かな心」と言うよりも「貧しい心」と言えるかも知れません。・・・これも個人の価値観でしょうか?
「豊かさを犠牲にしてまで環境を守るのか?」・・・と言う議論は産業を発展させたい人、開発を続けたい人の詭弁もいいところでしょう。
これは
「豊かさ」=「産業活動が活発で産業物資が溢れている状態」=「環境負荷」
と言う図式になろうかと思いますが、
「豊かさ」=「産業物資が溢れている状態」
と考える事自体が非常に貧しい発想でしょう。多くの人が冷静になって理性で考えれば、こんな発想はおかしいと、誰でも気付くと思うのですが・・。
死活問題となる極限状態では、環境を犠牲にしなければならない場合もあるかも知れません。・・・産業界が、たいした事のない問題を「死活問題」と言って騒ぐ場合も多々ありましょう・・・それは検討を要する特殊な場合です。
「豊かさを犠牲にしてまで環境を守るのか?」
のような「豊かさ」と「環境」を対立概念のように言う論法に騙されてはいけません。
「環境を守らなければ、豊かさも犠牲になる。」
「環境を守れば豊かになれる。」
・・これがまともな理性的な論法でしょう。
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