「マンガ」と「政治」概論というか試論1

http://d.hatena.ne.jp/i04/20071108/p1
に関連して

戦後マンガ史の最大の主題は、「マンガ=子供のもの」という図式の否定である。マンガ史は、人間を、大人を、青年を、内面を、性を、社会を、この街の風景を、その葛藤を描くために進歩し、それらは一定以上の成功をおさめた。

「オタク」という存在はこれらに対するノイズなのかもしれない。だが、「オタク」といえど、「子供のもの」を「子供のもの」として享受することはできない。ロボットアニメに「オタク」はガンダムやエヴァンゲリオンを見出さねばならなかった。私たちは幼児向けマンガにまで乗り出しては、そこに過剰な「性」を読み取らなければならない。オタクの開祖は、ホームレスになって、この世のリアルを抑制的に描かねばならない。

戦後マンガ史の最大の主題が「マンガ=子供のもの」という図式の否定であったとすれば、「マンガ」と「政治」の接近は正道である。「マンガは終わった」のが現代の状況であるとするならば、この状況下に「マンガ+政治」を過剰に掲げることは、「マンガの終わり」に対する抵抗でもありえる。

かくして、マンガ家たちは、急かされたように「権利」を主張し始めたりもする。それは「著作権」であったり、「表現の自由」という「権利」であったりする。利に疎いのが子供だとすれば、マンガ家達はそれを否定せねばならない。それは、マンガ家に課せられたマンガ家としての「マンガ」に対する義務である。

「マンガ」と「政治」概論というか試論2

同時にこれらとは別の局面も存在する。マンガにおける「ニューウェーブ」以降の問題と、「不条理ギャグマンガ」以降の問題である。価値相対主義の問題と言うべきかも知れない。

大友克洋というマンガ家がいる。彼は徹底したシニカルさと、異常な作画力でマンガ界における「リアルさ」を更新した作家である。「劇画のリアリズム」を否定し、「身も蓋もないリアル」を体現した彼の描く日本人達は、夏目房之介風(?)にいうと「ビゴーの描く日本人のような顔」でさえあった。

無論、現代のマンガ界における「リアル」は大友の「リアル」とは直結しない。現代における「リアル」の源流は、むしろ大友克洋にかつて追い出された作家たちにあると思う。例えば、かわぐちかいじであり、たなか亜希夫であり、谷口ジローという作家である。彼らは大友克洋によって、隅に追いやられた劇画家である。

80年代の風景に毒を吐いた主人公達を描いた彼らは、90年代に大友克洋がマンガ界から降りていったことと同調するかのように、「政治」や「社会」に接近していく。たなか亜希夫は『らっきーまん』で政界再編成を描き、谷口ジローは関川夏央と『坊っちゃんの時代』を完成させ、何よりもかわぐちかいじは『沈黙の艦隊』や『メデューサ』を描いた。

『沈黙の艦隊』は大友的なものに対する批判としても読める。核による世界の破滅という甘美さを底流に持ちながら、日米の摩擦や政界再編成という現実社会とリンクし、そこでニヒリズムと無縁の登場人物たちが「価値」を叫び続ける本作は、大友以降と言うべき何かを持っている。核戦争を必死で回避しようとするキャラクター達の姿は、『気分はもう戦争』で「いいかよく聞きゃあれ! 俺は好きこのんで戦争しているんだ あんたらと一緒にしねェでくれ!」と叫んだ人間とは、無縁だ。

話をギャグマンガ界にむけよう。小林よしのりが、ナショナリストであるのと同時に、一人のギャグマンガ家であることを私たちは思い出さなくてはならない。小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』を描き始めた当時は「不条理ギャグマンガ」がブームであった。おそらく現代もその勢いは衰えきっていない。そのような場所に、小林よしのりはいる。

竹熊健太郎が『<吉田戦車>以前・以降』で行った議論を私流にまとめてみよう。ギャグマンガ界(家)は以下のように進化した。まず、常識の中で常識を壊さないユーモア=「常識ギャグ」があった。例えばサザエさんがコレに当たる。次に、常識を壊そうとする「反常識ギャグ」が表れる。山上たつひこ『がきデカ』がコレにあたる。おそらく『東大一直線』もこの世代だろう。そして最後に表れるのは「非常識ギャグ」だ。これは常識に反するのではなく、常識をずらすようなギャグである。これがおそらくは「不条理ギャグマンガ」群である。

「不条理ギャグマンガ」の流行する世の中で、旧時代の作家になってしまった小林よしのりは以下のように発言し、「不条理ギャグマンガ」へのオルタナティブを提示している。

ギャグ漫画が行きづまってしまった状況が、今だ。吉田戦車、相原コージを経て、いがらしみきおの不条理ギャグまで出てきた時に、ギャグで既成の意味を解体していく作業をやり尽くしてしまって、その下の世代に対しては一回りして、ギャグをまた一つからやり直さなければしょうがないような時代になってしまった。(略)そこで考えたのが、直球のほうにちょっと力を入れてやってみて、ギャグをその中にうまく配分していきながら、ぐいぐい、ひねくれたギャグのほうへ引っぱっていっちゃうというやり方、これが『ゴー宣』なわけね。(略)

赤塚不二夫も見ていなければ、山上たつひこも見ていない。そういうひねりにひねったギャグ漫画の世代はもういない。そういう人たちはもっと上にいってしまった。四〇代とか五〇代になってしまった

だから今の若い人は立ちは、ひねればひねるほどわからない。そのかわりに、直球を投げればわかってくれる。ストレートでガーンといった時のほうが、反応がドーンとくる。

小林よしのり・浅羽通明『知のハルマゲドン』

捻くれたディレッタンティズムが横行し、価値は解体された後に表れてくる「ストレート」さ。「ストレート」を提示することによって、その上で「ひねくれ」てやろうという戦略。これらの行き着いた先が、今日のナショナリズムであり、ネット右翼である。

これと同じような「ストレートさ」は、左右の対立を無視する形で、アキハバラ解放デモ界隈にも散見できる。例えばこの文章。

もう我慢できない!
ボクらはエロゲーやギャルゲーを愛する。それのどこが悪い!
犯罪者がたまたま美少女ゲームマニアだった。だから美少女ゲーマーはみんな犯罪者予備軍?そんなバカな話がどこにある!だったら犯罪者がご飯を食べていたらご飯を食べている奴はみんな犯罪者予備軍なのか?ふざけるな!
ボクらはマスコミや政治家や自称知識人たちによる感情論だけに頼りデータも示さないままで語られるふざけた報道や差別発言に断固抗議すると共に、美少女ゲーマーの権利を断固として守り抜くために戦うことをここに宣言する!
全てのオタク・エロゲーファン・自由主義者・差別に反対する皆さん!私たちはあなた達と共に美少女ゲーマーに対する差別に反対し、全てのマイノリティーが思想・表現の豊かな自由を勝ち取れる日まで団結することを望みます。そして人としての良心に基づいて私たちのコミュニティに参加いただけることを願います。

☆当コミュニティは、あくまで「差別に反対」するコミュニティです。よって“差別されるのは当然”とか“差別されても仕方ない”という段階で思考停止される方の入会はお断りしております。またオタクでありながら同志を「キモオタ」などと呼び差別する汚い連中は敵として徹底して殲滅します☆

http://mixi.jp/view_community.pl?id=178483

あきれ返るようなストレートさ。「オタク→苛められている→マイノリティ→闘争」とでも言いたげな、爽快さと痛さ。その上で「殲滅します☆」と☆を付けてみる狂いっぷり。爛熟したオタク界隈と、新人をヌルオタ呼ばわりするディレッタントと、日々更新されていく複雑怪奇な性癖を前に、彼らは「ストレート」であった。

小林よしのりの発言を人は笑うことが出来る。しかし小林よしのりが対峙した世界と同形のものは、私たちの前にも広がっていて、小林よしのりの戦略を誰も笑えない。捻くれた世界で、敢えてストレートにやってみること。そして「敢えて」という部分を「敢えて」消去してみせること。こういった戦略に代案はあるのか、否か。

世田谷区(笑)

http://www.worldtimes.co.jp/wtop/education/071105/071105.html
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」
祇園精舎も娑羅双樹も日本じゃなくて、インドのものだわな。「乱れた日本語」ために、インドのものを持ち出すのはどうよ?

それ以前にだな、 
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」
って部分はベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』が否定的に取り扱っている部分であってだな(↑みたいに)、それを今もって来るあたりは、馬鹿といえば馬鹿だ。

まー、それ以前に載っている新聞が『世界日報』だという。あーあ。世田谷区もやべえなあ。

「マンガ」と「政治」概論というか試論補足。

かわぐちかいじ、谷口ジロー、たなか亜希夫は、大友克洋(のシニカルさ)に対抗した劇画作家といえる。んで、この三方と組んで、傑作を生み出した原作者がいる。狩撫麻礼である(まー、大友とも一度組んでいますけど)。狩撫麻礼はブルーハーツを絶賛してたりして。YMOとかニューミュージックをDisっていたりして。狩撫麻礼のPNの元ネタはいうまでもなく、ボブ・マーリー。「Stand up for your right」「Don't give up the fight」って歌った人ですよ。

ついでに大月隆寛はBSマンガ夜話で原作狩撫麻礼・作画たなか亜希夫『ボーダー』を絶賛してたりもする。いうまでもなく、大月隆寛は80年代流のポストモダニズムへの批判者であり、小林よしのりのブレーンであり、つくる会に入ったりした人である。

ところで夏目先生の『ボーダー』評は「価値相対主義VS決断主義」の参考になると思える。
http://www.ringolab.com/note/natsume/archives/001809.html

「マンガ」と「政治」概論というか試論補足2

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20071108%23p2
>ベタやストレートは、ある意味で価値を再考されるべきなのでは?そういうことは芸術では何度も繰り返されているように思うけれど。

「ベタやストレート」をある意味で再考したのが、かわぐちかいじ、谷口ジロー、たなか亜希夫、狩撫麻礼であると思っています。それと、おそらく彼らに影響された新井英樹とか、いましろたかしとか、福本伸行とか。それと雑誌の『コミックビーム』とか。
「ベタやストレート」な『コミックビーム』VS「ニューウェーブ」の末裔『アフタヌーン』という対立軸がちょっと昔にあったと思います。んでどっちが勝ったか?といえば、どっちも勝っていない。勝ったのは「オタク」。『エマ』と『げんしけん』が勝った。んで現代が始まる。でも「ベタやストレート」ってのは回帰してくるだろうなあ、回帰して欲しいなあ。ただし、昔のもののチープなコピーでなければ。と思っています。