(車など、)「AがBを抜く」ことについて、「Bを抜かそうとする」というのを耳にした。個人的には違和感がする。「Bを抜こうとする」が正しいのではないか。
まず、辞書を引いた。
抜く - スーパー大辞林
❸ 追い越す。
① 競走で,前の者を追い越す。また,上位の者よりもさらに上位になる。追い抜く。「ゴールまぎわで三人―・いた」「彼の実力は群を―・いている」
抜かす - スーパー大辞林
③ 追い抜く。「二台―・した」
どちらも「追い抜く」という意味がある。終了。はたしてそうだろうか。
検索してみると、同じような議論があった。
上で引用されているYahoo!知恵袋の一つの回答で、一気に自分の思考が進んだ。
間違いではありません。
他動詞「抜かす」(サ行五段活用) の未然形に受身の助動詞「れる」がついたものです。
「抜く」と「抜かす」の関係は、他動詞:自動詞→他動詞の「Uターン」型派生です。剥ぐ(他):剥げる(自)
剥がす(他)←剥げる(自)溶く(他):溶ける(自)
溶かす(他)←溶ける(自)抜く(他):抜ける(自)
抜かす(他)←抜ける(自)ちょっとパターンは違いますが、
繋ぐ(他)→繋がる(自)
繋げる(他)←繋がる(自)
もあります。これらの例で「剥ぐ/剥がす」「溶く/溶かす」「抜く/抜かす」「繋ぐ/繋げる」にはニュアンスの違いがあります。
なるほど、自動詞「抜ける」の他動詞化したものが「抜かす」ということか。
一方、同時に検索で「腰を抜かす」という言葉を見てわからなくなった。「腰を抜かす」は、「腰を抜く」とは言わない。
それについて考えていたら、あることに気づいた。もともと自動詞であったことを踏まえると、「抜く」は「抜けるようにする」だと考えるべきではないだろうか。
「腰を抜く」は、暗黙的に「(自分が)腰を抜く」という意味合いに取れる。それに対し、「腰を抜かす」は「(自然や何かが)腰が抜けるようにする」という意味を帯びてないだろうか。
英語で前置詞の後には単語が置かれるべきだが、「Time goes by.」のあとが欠落していることに似ている気がする。「it」が省略されていて、それは自然を意味するという考え方があるらしい。
「AがBを抜かそうとする」は「Aが、Bが抜けるようにしようとする」と置き換えられるので、Bが追い抜く動作の主体という感じが漂う。
実際に抜くのはAである。だから、おかしいと感じるのではないだろうか。
と、ここまで考えたのだが、私の考えは翻転した。「抜く」も「抜かす」もおかしいのだ。
「抜く」に追い抜く意味がついたのは、抜きん出る意味の「抜ける」からの転用ではないか。たとえば、「草を抜く」は何もおかしくない。抜くのは私で抜かれるのは草だ。
ところが、追い抜く意味で「Bを抜く」とすると、抜くのは私で抜かれるのはBと言いたいようだが抜けるのは私である。「Aが抜ける」「Bが抜かれる」をまとめて「AがBを抜く(抜かす)」と表現すること自体が、矛盾の原因ではなかろうか。位置関係と能動—受動関係の混同が生じている。
ちなみに、mixiの[7]氏によると「抜かす」の意味を「追い抜く」にしていない辞書もあるという。たとえば、デジタル大辞泉が見つかる。
個人的には「抜かそうとする」はおかしいと思い、「抜く」「抜かす」の違いは何か考察した。「抜かそうとする」とすると、派生元の「抜ける」のニュアンスにより位置関係感が強く出るためおかしいと感じる。しかし、「抜かそうとする」を認めないと「抜こうとする」もおかしいことになる、という結論に至った。