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有名なミンネジンガーの歌と生涯と世界。松村國隆『オーストリア中世歌謡の伝統と革新』
今日もちらちら雪が降りましたね。やっぱり雪が降る寒さは起きてすぐわかります。

45年間も使われていた戦車が海に沈没、兵士6人死亡(livedoorニュース)
http://news.livedoor.com/article/detail/3497414/
水陸両用の戦闘車両が「沈没」、死者多数 インドネシア(CNN)
http://www.cnn.co.jp/world/CNN200802050021.html
ソ連製の水陸両用戦車で、45年も使ってたそうです。何だろう。しかし、軍隊って兵器の物持ちがいいというか、転用したり改造したりで長くつかいますよね〜

4月に発売の『戦場のヴァルキュリア』がPS3のソフトなので、買うとしたらPS3も一緒に買わないと・・・とか思ってたのですが、よく考えたらゲームやるためにはテレビが必要だった。やりたいならテレビまで買わないといけないのか・・・どうしよう。
そんなわけで、すっかりテレビ無い生活に馴染んできたことに気づいたり。

それはともかく。


オーストリア中世歌謡の伝統と革新


『オーストリア中世歌謡の伝統と革新 ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデを中心に』

(松村國隆。水声社。1995年。4635円。299ページ。)
序章
第一章 中世オーストリアにおける恋愛歌
1 自然序詞の変遷と変貌(1 初期ドナウ流域恋愛歌人からヴァルターへ 2 オスヴァルト・フォン・ヴォルケンシュタイン)
2 ラインマルとヴァルター(1 ラインマルとヴァルターの対決 2 ヴァルターのラインマル哀悼歌)
第二章 ヴァルターの格言歌
1 格言歌とは何か
2 ヴァルターの生涯
3 『ヴァルトブルクの歌合戦』
4 ヴァルターとウィーン宮廷(1 ウィーン宮廷調 2 レーオポルト調 3 不満調 4 国王フリードリヒ調 5 皇帝フリードリヒ調)
5 ヴァルターのウィーン別離
第三章 ヴァルターの後継者たち
1 ラインマル・フォン・ツヴェーターの格言歌
2 デァ・シュトリッカーの世界
終章

ドイツ文学の第二の黄金時代は12世紀から13世紀にかけてのことですが(これは前に紹介した『十二世紀ルネサンス』でも話に出ましたね)、その時代に活躍したミンネジンガー(恋愛歌人)に有名なヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデという人物がいました。彼は当初オーストリアを支配するバーベンベルク家のウィーンの宮廷で歌人として活躍し、その後遍歴を重ね、最後は皇帝フリードリヒ2世から小さな領地を貰っています。彼自身の歌はレベルが高く、また恋愛歌人の枠に捕われない、この時代に異色を放つほど自由な作品だったようです。彼は彼の死後に作られた『ヴァルトブルクの歌合戦』の主要登場人物のひとりとしても知られています。
この本は、ヴァルターが歌った自然序詞や宮廷の人々を讃える歌や、ライバルのラインマルに対して歌った歌などの内容と生涯、そして当時の状況などを解説しています。

ヴァルターが仕えた当時のオーストリア公はレオポルト5世・有徳公(オーストリア国旗の由来になった人物)とその息子フリードリヒ1世・カトリック公で、フリードリヒ1世のときはよい待遇だったようですが、彼が十字軍に従軍し、1198年4月にアッコンで病死し、弟のレオポルト6世・栄誉公がオーストリア公になるとオーストリア宮廷から追放されてしまいます。
ヴァルターは平民ではなく少しだけ身分の高い出身だったようですが、芸によって身をたてていたので、パトロンを求めて各地を遍歴し、ドイツ王フィリップ・フォン・シュヴァーベンやオットー・フォン・ブラウンシュヴァイク(どちらも神聖ローマ皇帝になった。オットーはブーヴィーヌの戦いのドイツ側の総大将でもありますね)やテューリンゲン方伯ヘルマンやパッサウの司教などに仕えました。最後はあのフリードリヒ2世から土地を貰ったようですが、シチリアの宮廷に行ったとかいうわけではないようです。

12世紀末におけるオーストリア公の宮廷はウィーンにあったのですが、当時の「宮廷」は、なんとわずか数十人という程度だったようです。
「しかしウィーン宮廷と言うとき、われわれは華麗な宮廷生活を思い描いてはならない。ここにいう宮廷は、むしろ館と呼んだほうがより正確であろう。なぜなら、当時ウィーンはヨーロッパでも屈指の都市として発展しつつあり、当然のことながら為政者もこの町に相応しい居城を建設することを心懸けてきたが、それでもその規模となると、すでに言及したように、全体で、臣下の数は20名から30名、多く見積もっても50名に満たなかった。したがって、宮廷歌人もそれほど多くはなかったと考えられる。」(P146より抜粋。)
昔のヨーロッパの「宮廷」と言うと、絶対王政時代のフランスやらハプスブルク家の宮廷とかを思い描いてしまうのが普通かと思われますが、中世盛期の宮廷ってなこんなもんだったわけです。そういえば、ビザンツ帝国も国の大きさのわりには政府の官僚の数がわずか数百人しかいなかったとか。昔の支配者層についてはイメージが結構先行してしまいがちですが、実際にはこんなもんだったと頭にとどめておかないといけませんね。

ちなみにバーベンベルク家の宮廷はレオポルト3世が造営し、一時レーゲンスブルクに移ったあと、ハインリヒ2世・ヤゾミルゴットの時代にウィーンに戻り、さらにレオポルト6世がクロイスターノイブルクへ移しました。

しかし、一介の歌人の生涯が、当時の世界状況に影響を受けていく様が見れるというのはなかなか面白くみさせてもらいました。中世ヨーロッパというとかなり狭い世界のように見えても、かなり国際的で、関連してくる人物もかなりいろいろな国の人がいます。ヴァルターは1203年にレオポルト6世とビザンツ皇女テオドラ(イサキオス・コムネノスの娘。この本だとイザーク・コムネノスになってる)の結婚式にも出席してるかもしれないとか。ここらへんも第4次十字軍直前の状況としても面白い。

あと、バーベンベルク家といえば、ハンガリーと深いつながりがある家でもありますが(たとえばレオポルト5世の妻ヘレーネはハンガリー王ゲーザ2世の娘)、彼の死後に歌われた『ヴァルトブルクの歌合戦』における重要人物のひとり魔法使いクリングゾールがハンガリー人だというのも興味深いですね。当時のドイツ人・西欧人にとってハンガリー人というのはかつての異教時代の印象の名残なのか魔法使いとして扱われることが多いそうです。文化的差異がそうしたイメージを受け取らせたのかもしれませんね。

レオポルト5世の話で面白かったのは、「レーオポルト5世が亡くなったのは1194年12月31日のことで、十字軍遠征の最中であった。破門の身のまま不慮の事故で亡くなったため、当時、彼の死は神の審判として受けとめられていた。」(P52より抜粋。)というところ。中世ヨーロッパにおけるキリスト教の影響力の大きさは死の理由付けにも影響があって、このような「審判」の結果として受け止められたことはままあったようです。レオポルト5世といえばイギリス国王リチャード獅子心王を恨んで捕虜にして破門された人ですが、最後は落馬事故で死去。だけど神さまが罰としてそうしたとなるわけですね。聖職叙任権闘争の時のルドルフ・フォン・ラインフェルデンが宣誓するための右手を失って戦死すると、その死はやはり神の審判だと見なされたといいます。


参照サイト
水声社
http://www.suiseisha.net/main/index.html
ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E
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by xwablog | 2008-02-07 06:20 | 書庫
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