ニューヨークの世界貿易センタービルで2001年7月に撮影された1枚の家族写真。
帽子をかぶった男性は当時34歳。
その2か月後に同じビルで命を落とした。
衝突してきた旅客機によって・・・
それから22年。男性の遺族は、今もテロと戦い続けている。
(国際部 西河篤俊)
念願だったニューヨーク勤務
遺族の名前は住山一貞さん(86)。
冒頭の写真で、一番右に立っている青いシャツの男性だ。
長男の杉山陽一さんは、当時、銀行マンとして世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センター)で働いていた。
海外で働くことを目指していた陽一さんは、事件が起きる前年の春に、念願のニューヨーク支店勤務になったばかり。
当時、陽一さんには、住山さんにとっては孫となる2人の男の子がいて、妻は3人目の子どもを妊娠中だった。
世界に衝撃を与えたアメリカ同時多発テロ
2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件。
その日の朝、4機の旅客機が、ハイジャックされた。
2機がニューヨークの世界貿易センタービルに、1機が首都ワシントン郊外の国防総省に次々と激突。
もう1機は東部ペンシルベニア州に墜落した。
日本人24人を含むおよそ3000人が犠牲になった。
東西冷戦の終結以降、唯一の超大国とも言えたアメリカの中枢が攻撃された事件として、世界に衝撃を与えた。
行方不明者名簿に息子の名前が…
9月11日、日本時間の夜。
東京の自宅にいた住山さんは、テレビで事件の発生を知り、その後、行方不明の日本人の中に息子、陽一さんの名前があることを知らされた。
事件の4日後に、取るものも取りあえず渡米したが、現地の情報は錯そうしていた。
20以上の病院を回ったが、手がかりすら見つからなかった。
当時の心境を住山さんはこう振り返る。
住山さん
「どこかで生きているんじゃないかという、はかない期待を持っていました。
ビルのすきまとかにいるんじゃないか、とか。爆発で記憶喪失みたいになって街をうろついているんじゃないかとか。
泣くに泣けないわけですよ。泣くと死を認めることになるから泣けない。
霧の中という感じ。非常に不安な気持ちでした」
およそ7か月後。陽一さんが亡くなったことが確認されたと連絡を受けた。
見つかったのは手の一部だけだった。
検視官からは「残りは蒸発した」と伝えられたという。
見つけた調査報告書、しかし567ページはすべて英語
「息子はなぜ死んだのか」
アメリカ政府や日本政府から十分な説明がないまま時間だけが過ぎていった。
そうしたなか、2004年になって住山さんは、アメリカの独立調査委員会がまとめた事件の報告書の存在を知った。
追悼式典の帰り、ニューヨークの空港で偶然見つけたその報告書。
手に取ってみると、567ページはすべて英語だった。
日本語版はなかった。
しかも、航空用語や軍事用語など専門用語があふれていた。
イスラム原理主義や過激派グループの変遷など背景知識も不可欠で、英語の専門家でも読解に苦労するような内容だった。
「息子の死の真実を知りたい」
その一心から、住山さんは、英和辞書を手に翻訳に挑み始めた。
単語の意味を1つ1つ辞書で調べながら。
1日3ページくらいのペースで。
英語は中学・高校で習ったきり。今のようなAI翻訳の技術はない時代だ。
単語を日本語に訳せても、専門知識がないため、そこからその分野に詳しそうな知人に聞いたり、別の文献をあたったり。
文章1行の意味を理解するのに一晩かかったこともあったという。
いつしか最初に買った英語の原書はぼろぼろで読めなくなり、新たにもう一冊買わなければならなかった。
500ページを優に超える文書。翻訳をようやく終えたとき、10年の月日が過ぎていた。
思わぬ発見 事件は防げたのではないか
時に体調を崩しながらも読み進めた住山さんだが、思わぬ発見をすることになる。
なぜ、息子はビルから避難することができなかったのか。
報告書を読み進めていくと、事件当時、職場にとどまるよう、ビルに指示が出されていたことがわかった。
さらに。
▼「政府機関の間にあった『壁』」
▼「テロ計画についての兆候を把握していたにも関わらず『遅れた指示』」
報告書には、もしかしたら事件を未然に防げたのではないかといった、さまざまな問題点も列挙されていたのだ。
住山さんは、このテロがアメリカで起きた特殊なものではなく、どこででも起こりうる危険があると思うようになったという。
「多くの人に読んでもらいたい」と考えた住山さん。
クラウドファンディングで資金を募り、911から20年となった2021年、調査報告書の翻訳を出版した。
10年に及んだ翻訳作業 息子を奪われた父親の切なる願い
一方で、調査報告書を読み込めば読み込むほど、疑問も出てきた。
報告書は、事件について、オサマ・ビンラディン容疑者が率いる、国際テロ組織アルカイダのメンバーによる犯行と指摘していた。
ビンラディン容疑者はイスラム原理主義の流れをくみ、反米感情を募らせ、過激化していったと。
住山さん
「容疑者たちがなぜ事件を起こしたか、なぜ民間人を巻き込んだのか、その背景が十分書かれていない。これはアメリカ側からだけの物の見方ではないのか」
住山さんはカルチャーセンターなどでイスラムの教義や知識、中東の歴史を学んだ。過激主義などに関する専門書も読みあさった。
次第にこう考えるようになったという。
住山さん
「テロリストの論理も知らないと、と考えたんです。テロリストを生んだ社会や背景を知ることがテロをなくすこと、そしてテロリストを生む社会を変えることにつながるのではないか。
たった1人の、とても小さな『戦い』ですが、そう思ったんです」
翻訳を通じて得た知識や感じたことも盛り込んで、2022年には解説書を出版。
アメリカの同時多発テロ事件だけではなく、日本人が海外で巻き込まれたほかのテロ事件も紹介した。
さらに日本人が海外でテロや犯罪にあった場合の支援が十分でないことにも言及した。
日本には、犯罪被害者や遺族に給付金を支給する「犯罪被害給付制度」がある。が、国内での犯罪に限られ、海外で起きた犯罪の被害者は対象ではない。
「弔慰金」を支給する制度はできたが、国内と比べると一般的に水準は低い。
海外で被害にあうと「海外には自分の意志で行ったのだから」と「自己責任論」が浮上することもある。
そして、言葉も法制度も異なる海外で被害にあうと、圧倒的に不足するのが「情報」だ。
事件直後、ほとんど情報がない中で駆けつけたニューヨークの街をさまよったこと。事件の原因を知りたくても、知るすべもなく途方に暮れた経験が頭から離れなかった。
タイトルは「9/11の真実を求めて」と名付けた。
解説書のエピローグで、住山さんはこう綴っている。
「ともかく、宗教にしろ、思想にしろ『大義』の名のもとに、死んだり殺したりするような社会はいい加減止めにしたい。その意味で、かつて批判された『人命は地球より重い』との言葉は再評価されるべきだろう。それは人間が人間らしく生きる出発点となる言葉だ。今後の日本と世界が、自由で平和な、そして安全な社会であることを願わずにはいられない。これは、大きな歴史の流れの中で、大切な一人の息子を奪われた父親の切なる願いである」
取材を通じて
私(筆者)は、同時多発テロの前の年、留学生としてニューヨークに住んでいた。
2000年を迎えるカウントダウンを、タイムズスクエアの大歓声の中で祝った時には、まさかその翌年、あのようなテロが起きるとは予想もできなかった。
少し時期がずれたら倒壊したビルに巻き込まれたのは自分だったかもしれない。
事件直後、現地の友人にはなかなか連絡がつかなかったが、その後無事が確認できた。
が、穏やかで、外国人の私にも分け隔てなく接してくれていた友人は、イスラム教徒を激しい言葉で非難するようになっていた。
テロはなぜ起きるのか。
その背景を知りたくて、中東に特派員として赴き、様々なテロを現場で取材した。
アルジェリアの人質事件やチュニジアの博物館襲撃事件など、日本人が巻き込まれた現場も少なくなかった。
一方で、中東では、テロ組織のメンバーやその家族にも話を聞いた。シリアとイラクにまたがる地域では過激派組織ISが勢力を一気に台頭した時期だった。
彼らが口にしたのはイスラム教徒が虐げられてきた歴史。
その原因は、中東での様々な戦争に関わったり利益をむさぼってきたりしたアメリカの責任だ、という主張だった。
「テロは永遠になくならないのでは」と、なかばあきらめのような感情すら抱いた。
そんな私が住山さんに出会い、翻訳作業を取材させてもらったのは中東から日本に帰国したあとの2016年。
その後、アメリカに駐在し、帰国後も関西勤務でコロナ禍もあったため、直接は、住山さんには会うことができていなかった。
ことし8月、7年ぶりに会うことができた住山さんは、歩くのに杖が必要になっていた。コロナ禍の自粛生活の影響だという。
それでも、住山さんは今もテロと戦い続けていた。
テロと対峙してきた遺族がいま、思うこと
コロナで控えていた講演活動や展示会も再開した。
10年がかりの報告書の翻訳や調査でわかったこと、感じたことを地道に伝え続けている。
事件のあと、アメリカは「テロとの戦い」を掲げてアフガニスタンで大規模な軍事作戦を開始。2003年にはイラク戦争に踏み切った。2011年には、ビンラディン容疑者を殺害。
そして、テロの脅威を取り除くという目的は達成されたなどとして、2021年、アフガニスタンでの駐留に終止符をうった。
しかし、アフガニスタンでは、武装勢力タリバンが権力を掌握。再びテロの温床になる恐れもある。
中東での戦争で反米感情は高まり、テロ組織はアフリカなど世界各地に広がっている。
また、去年始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻では、お互いに相手の攻撃を「テロ」と呼んで非難の応酬が続いている。
2001年9月11日のあの日から、22年もの間、テロと向き合ってきた住山さんは、こうした状況についてどう考えているのか。
今月11日のテロ22年にあわせて、ニューヨークの世界貿易センタービルの跡地で行われる追悼式典に4年ぶりに参加するという住山さん。あらためて尋ねてみた。
住山さん
「私はもう86歳。これが最後のニューヨーク訪問になるかもと覚悟しています。
日本の人の中には22年前のことは忘れている人も少なくないかもしれません。でも私は忘れられない、忘れるわけにはいかないんです。
ウクライナとロシアの戦争が起きて、世界の大国の理屈や大義をよく聞きますが、どうすれば世界が平和になるのか、そんな難しい問いに対する答えを私は持ち合わせていません。
ただ、テロでも戦争でも犠牲になるのは何の罪もない民間人なんです。
そこにはひとりひとりの人生、家族や友人など多くの人生があるんです。
そのことはあらためて日本の人たちには知っていてほしい。そして次の世代の人たちにももっと考えてほしい」