「ロシア政策をめぐり自己批判すべきだ」
こう批判されているのは、ドイツのメルケル前首相です。
16年間首相を務め「ヨーロッパの事実上の決定権者」などと、その手腕を高く評価されてきたはずのメルケル氏。
ところが、最近、国がその功績をたたえる勲章を贈ったことが波紋を広げました。
メルケル氏はなぜ、批判にさらされているのか。ドイツで、何が起きているのでしょうか。
(ベルリン支局長 田中顕一)
メルケル前首相 勲章授与に批判?
ことし4月中旬。メルケル前首相にドイツの首相経験者としては最高の栄誉とされる「特装大十字賞」が授与されました。
この賞を授賞したのは第2次世界大戦後の西ドイツの初代首相アデナウアー氏と、東西ドイツ統一時の首相コール氏の2人だけ。
ところがメルケル氏にこの勲章が授与されたことをドイツメディアは軒並み批判し、波紋を呼びました。
メルケル氏といえば、4期16年に渡りヨーロッパ最大の経済大国ドイツの首相として在任。
ユーロ危機やシリアなどからの難民の流入など、数々の難局にも冷静に対応し、ドイツにとどまらず世界でもすぐれたリーダーとして「ヨーロッパの事実上の決定権者」、「世界で最も影響力のある女性」などと、高い評価を得てきました。
そのメルケル氏への勲章授与がなぜ波紋を呼ぶのか。その理由は、ウクライナへの軍事侵攻を続けるロシアと、首相を務めていた際のメルケル氏の関係にあります。
保守的な論調の新聞「ウェルト」は「アンゲラ・メルケルに賞を授与?いったい何で?」という見だしの社説を掲載。
メルケル氏について「ロシアのプーチン大統領に用心深く接していた。しかし、2014年のクリミア併合時に明らかになっていた帝国主義的な決意を見抜けなかった。この賞は必要なのか。メルケル氏を歴史上の人物にするには早すぎる」と書かれていました。
一方、リベラルな論調で知られる「南ドイツ新聞」は、「16年は長すぎた?」という見だしの社説で「彼女の高潔さは誰も疑わないが、政治的な功績はまだら模様だ。彼女は、特にロシア政策をめぐり自己批判をすべきだ」と勲章授与に否定的な立場を示しました。
さらに比較的中立な立場の公共放送ZDF。
オンラインの記事で「授与は“まちがい”」という見だしで、メルケル氏と同じ中道右派CDU=キリスト教民主同盟に名を連ねる保守的な批評家の「本当のまちがいは、プーチンを信じ続けたことだ。信頼できる相手ではないという兆候が出ていたのに」といったコメントを掲載し、批判的な意見が出ていることを伝えていました。
背景にある「メルケルとロシア」
ロシアの天然ガスに大きく依存してきたドイツ。
ロシアによるウクライナ侵攻が始まる前の2021年、輸入していた天然ガスのうちロシア産の占める割合は50%を超えていました。
ガスを通じた両国の結びつきを象徴するのがドイツとロシアを結ぶ海底パイプライン、ノルドストリーム。民間のプロジェクトではありますが、メルケル氏は国のトップとして推進してきました。
第2次世界大戦後、国家どうしが経済的な関係を深めることは互いにメリットがあり、紛争を予防できるという考え方のもと、ロシアとの関係を深めていったドイツ。
メルケル氏は9年前の2014年、ウクライナ南部のクリミアをロシアが一方的に併合した後もロシアへのエネルギー依存を減らすことはありませんでした。それどころか、2018年からは新たなガスパイプライン、ノルドストリーム2の建設を推進したのです。
しかし、ロシアに裏切られ、ドイツ国内では「考えは甘かったのではないか」という自己批判も出ています。
さらに、ロシアは侵攻後、ドイツへのガスの供給を大幅に減らし、ドイツで激しいインフレと供給不安が起きました。
「ウクライナ侵攻後のドイツの厳しい状況は、それまでのロシア政策が間違っていたからだ。メルケル氏は、プーチン大統領と何度も会談してきたのになぜ本心を見抜けなかったのか」
ドイツではこうした認識が広がり、在任中は高い評価を得ていたメルケル氏が批判の対象となっているのです。
国民に話を聞いてみると…
では、ドイツの人たちはメルケル氏のことをどう思っているのでしょうか?
首都ベルリンの街頭で話を聞いてみました。話を聞くことができたのは38人。
このうち、メルケル氏に勲章を授与することに「賛成」と答えた人は半数を上回る24人に上りました。
「どちらでもない」と答えた人は7人、「授与は早すぎる」と答えた人が2人。「反対」と答えた人は5人にとどまったのです。
「賛成」と答えた人たちは。
「もちろん賛成です。メルケル氏は、私とは政治的な信条が異なりましたが、16年に渡って安定をもたらしました」
「メルケル氏はドイツにとって難しい時期を冷静に対処しました。それだけでなく、彼女は初の女性首相です。それも偉大な功績だと思います」
「メルケル氏は社会のことを考え、分断を生み出すことはしませんでした。ロシア政策は間違っていたと言えますが、当時をふり返れば、みなそれが正しい道だと考えていたと思います」
賛成と答えた人たちに共通していたメルケル氏への評価は、戦後ドイツで最長に並ぶ16年もの在任期間を通じて、ドイツ経済や社会を安定させたというもの。“安定”を好むドイツの国民性も感じられました。
そして、メルケル氏がロシアへのエネルギー依存を進めたことには批判的な声はあまり聞かれませんでした。ただ、多くの人がロシアのガス無しで冬を越せるのかと不安を募らせていた去年なら結果は異なったかもしれません。
「反対」と答えた人たちはどうだったのか。
「彼女はドイツを“難民天国”に変えてしまいました。難民は受け入れるのに、教育施設もインフラも、何も新しくならない。私は人種差別主義者ではありませんが、すべてむだづかいです」
「誰でも彼でも受け入れる政策は受け入れがたいものでした。どんな人が入ってくるかわらかない。自分の家に誰でも受け入れるわけはないでしょう。それと同じです」
目立ったのは、いわゆる難民危機でメルケル氏が寛容な姿勢を示し、100万人を超える人を受け入れたことを巡る批判でした。
なぜメディアの批判と温度差?
ドイツ政治に詳しいトゥッツイング政治教育アカデミーのウルズラ・ミュンヒ所長に話を聞きました。
ミュンヒ所長は、たとえば旧東ドイツ地域では移民や難民の受け入れに否定的な人が多くメルケル氏の評価が低いなど、話を聞く地域で反応は異なるとした上で、メディアの論調について次のような見方を示しました。
ミュンヒ所長
「ロシアがウクライナに侵攻した後、メディアはメルケル氏を批判するようになり、それはデジタル空間でも同じでした。
しかしメディアは、メルケル氏の任期中、特に難民危機や新型コロナの感染拡大の際は、当時のメルケル政権の対応をとても肯定的に伝えてきました。
メディアというものは、やや誇張された熱狂的な報道から時間が経つと距離を置く傾向も見受けられますが、今回のケースでもメディアは(メルケル氏に賛成していた)かつてと距離を置こうとしているのだと思います」
メルケル氏は勲章に値する首相だったのか。
ミュンヒ所長は授賞は妥当とした上で、その功罪についてこう語りました。
ミュンヒ所長
「1つ目の功績は、メルケル氏がドイツで初の女性首相であり、権力闘争をうまく切り抜け、4期に渡って控えめながら力強い政治家であることを示したこと。
それから、非常にすぐれた外交政治家であったこと。特にヨーロッパの政治において重要な役割を果たしました。在任中には、世界的な経済金融危機でもあったユーロ危機がありましたが、冷静で思慮深く、性急な決断を下さず、ドイツだけでなく世界を救ったと思います」
「一方で失敗はエネルギーの転換が発表にとどまったことです。再生可能エネルギーの拡大は十分に進まず、ドイツはロシアの天然ガスと石油にさらに依存することになりました。
ロシアのウクライナへの侵略戦争を踏まえれば、非常に大きな問題です。
もうひとつは、難民危機への対応。確かに人道的な政策ではありましたが、ドイツ国内とEU加盟国の間に多くのあつれきを生むことに十分な注意を払いませんでした。さらに、そのなかから極右政治勢力がうまれ、いまも台頭しています」
メルケル氏は何を語る?
メルケル氏は、来年秋にも回顧録を出版する予定です。
メルケル政権で外相を務めたシュタインマイヤー大統領は去年4月、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、ロシアに対するエネルギー依存、プーチン大統領の評価が誤りだったと認めました。
シュタインマイヤー大統領
「ノルドストリーム2の推進にこだわったのは明らかにまちがいだった。
私は、帝国主義的な狂気のために、プーチンがロシアを経済的、政治的、道徳的に完全に破綻させることを選ぶことはないだろうという評価をしていたのだが、ほかの人と同様にまちがっていた」
メルケル氏は、おととしの退任後、何度か取材に応じたりトークショーに登場したりしていますが、「ロシア政策は誤りだった」と明確に認めたことはありません。メディアでは、メルケル氏のそうした姿勢が批判の対象になることもあります。
メルケル氏を直接取材し「女性首相」という伝記を出版したジャーナリストのウルズラ・ワイデンフェルト氏は、その功罪を議論するには、もう少し時間が必要なのではないかと話します。
ワイデンフェルト氏
「メルケル氏の政治信条は『間違っていたなら、いちからやり直して解決策を見つける』。
彼女はロシア政策をめぐり、失敗したと言えるかもしれません。しかし、彼女はもう首相ではなく、新たな解決策を見つけることができないのです。
メルケル氏が謝らないことへの批判には私は同意しません。メルケル氏の最終的な評価を下すにはまだ早すぎます」
ロシアのウクライナ侵攻に揺れるドイツ、そしてヨーロッパ。
メルケル氏への評価が揺らいでいるのも、プーチン大統領が始めた軍事侵攻による影響とも言えます。
ただ、16年にわたりヨーロッパを代表する指導者として活躍してきたメルケル氏が、2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻に至る経緯をどう見ていたのか。自分自身がとった選択をどう評価しているのか。
本人が執筆する回顧録にそうした疑問への答えが含まれることを期待したいと思います。