第1回 徳之島の子守唄

 母になってから、8年近くなるけれど、多分に天邪鬼の私は母親らしい子供の曲は作るつもりはなかったし、産んだとたんに「母性あふれる歌声」のようなことを言われるのも真っ平ごめんだった。もちろん子供と暮らす中で自然に生まれた歌があれば、歌おうとは思ったけれど、あえて意識して作ろうとは思わなかった。子供にインスピレーションを受けた曲はあるけれど、聴く人に分かるものはあまりない。

 その自分が、わらべ歌だの子守唄だの歌うようになったわけは、子供たちと「日本昔ばなし」のyoutubeを視聴していたことにさかのぼる。そのとき、私たちは山姥の話を見ていた。恐ろしい山姥のでてくる、「牛方山姥」だったか、「三枚のおふだ」だったか忘れたが、子供たちはこの恐ろしい老女に「追いかけられる」タイプの話にスリルを覚えるようで、よく見たがった。私は、この話をみながら、ふと、ほかに山姥が出てくる話があるのか気になった。そこで「日本昔ばなし 山姥」というワードで検索をかけてみたところ、10を超えるさまざまな話が引っかかってきたのだ。夢中になって一つ一つ見ていくと、その面白さに釘付けになった。そこには、恐ろしい山姥のほかに、仲人してくれる山姥、子供を生む山姥、孤児に糸つむぎを教えてやる山姥、飢えた子にたらふく食べさせてやる山姥など様々なやさしい山姥像が描かれていたのである。これは何を意味しているのだろうか。いったい山姥とは何者なのだろうか。こうして私の山姥研究が始まったのだが、この山姥への好奇心はたいそう美しい子守唄と私を巡りあわせてくれた。山姥についての論文が掲載されていて手に取った「子どもと昔話」という雑誌に、主宰の小澤俊夫さんが「徳之島の子守唄 ねんねぐゎせ」を直筆採譜したものが掲載されていたのだ。小澤さんは、音楽ファンならずとも名の知れたアーティスト「オザケン」のお父様で、この雑誌にはオザケンがコラムを書いている号もある。こうしてたまたま出会った楽譜をみながら主旋律のメロディを口ずさむと、すばらしく優しい和音が自分の中で鳴り始めるのがわかった。シューベルトの子守唄も、江戸の子守唄も適わない、切なく優美な旋律が耳慣れぬ方言の歌詞とともにそこに記されていた。

 子守唄にしろわらべ歌にしろ、単音の主旋律しか書かれていない楽譜を見たとき、左手で鳴らすべき音というのはかなり自由な裁量に任される。極端な話、ピアノがあまり得意でない幼稚園の先生が右手のメロディーを弾きながら、左手はずっとドミソのCの響きで済ましてしまう、というのと同じことをやってもいいわけで、わらべ歌というのはシンプルだけに一つか二つのコードを添えればそれだけで聞けてしまう曲も多い。しかし、アレンジする側としては、やはり色んな和音を添えて情感を増したり、意外な響きの中に美しさを表現したりしてみたい。そして、この「ねんねぐゎせ」はまさにそうしたさまざまな表現欲を駆り立てるような、シンプルで美しいメロディーを持っていたのだ。

なくなくな なくなよ
あんまがちぃから ちぃぬまさ(母さんがいったら乳のませるよ)
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

わんがふらんち なくなよ(私がいないからって泣くんじゃないよ)
あんまがこおからみゅじくみな(母さんはこれから水汲みだよ)
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
なきしゃむんぐゎどぅ なきゅりよ(泣く子は泣き虫の子だよ)
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
あんまとわってんや なぁじるべん(母さんとお前は実のない汁だね)
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

「gwa」というやさしい響きは「子」を意味する。ねんねこしなさい、というリフレインがひときわ心地よい。

 4連からなるこの子守唄はドレミソラドというファとシがぬけたいわゆる四七抜きと呼ばれる日本の民謡に多く見られる音階を使っている。あらためて徳之島の位置を確認すると、沖縄と鹿児島の間に位置し、屋久島、奄美、徳之島、沖永良部島、与論島、そして沖縄という並びになる。そして、徳之島と沖永良部島の間に音階上のはっきりした境界線がある。本土と共通する民謡音階は徳之島が南限で、沖永良部以南はドミファソシドの沖縄音階になるのだという。しかし、徳之島の言葉や生活様式、歌詞自体は沖縄にかなり影響を受けているそうで、そのいわば骨組みの音階の部分だけ、しっかり民謡音階を守っている点が面白い特徴らしい。徳之島には、男女の掛け合いで二部合唱のようになる民謡もあり、残っている民謡としては、「とびぬけて古い」形を残しているという。

 ここまで調べて私は少し意外な気がした。というのは、全国のわらべ歌の楽譜をざーっと眺めていったとき、「ねんねぐゎせ」のような明るい旋律のものはむしろ少数派のように感じていたからだ。多くは、「ねんねんころーりーよー」のフレーズで知られる「江戸の子守唄」のような、物悲しいものだった。それで、日本古来のメロディというのは、やはり短調になるのだろうか、と思っていた。しかし、実際は逆だった。明るい民謡音階が最も古い形、原形として存在しており、それが南限の徳之島に残っているのだ。しかも、一聴して強烈な個性を放つ沖縄音階の分布地域でさえ、それが広がる前は民謡音階が分布しており、沖縄文化が成熟する過程で、それを覆して北進し、沖永良部島まで支配した、という説もあるのだという。いずれにせよ、日本列島全体にそもそもあった音階というのは、明るい音階であったのだ。では、「江戸の子守唄」のような、短調の歌が広まっていった背景には何があるのだろうか。

 下総皖一は「日本民謡と音階の研究」(音楽之友社、1954)で雅楽の音階と民間の音階に差異があることを指摘し、短調の音階を「都節音階」と呼んで三味線や笙の音階としている。つまり自然発生の時点では長調の音階が雅楽の影響などを取り入れて短調化していったものが、現在多く残る短調の民謡やわらべ歌ということだ。下総さんは、日本の音楽はもともと明るい旋律だが、技巧的になると暗くなっていく、ということも言っていて、私はなんとなく、古今、新古今と技巧的になっていく前の万葉集の和歌たちが伝えているような太古の大らかさを、「ねんねぐゎせ」に感じていたのかな、という気もするのだ。

 それにしても、4連からなるこの子守歌の穏やかさに反してそこから伺える生活の苦しさが胸に迫る。島の暮らしというのは、北に暮らす者からするとおおらかに思えるが、水事情にせよ、食糧事情にせよ、どこの島も厳しい歴史を背負っているところが多い。沖縄も、飢饉のとき、有毒のソテツのでんぷんを求めて、多くの人が残留する毒で苦しんだ経験が「ソテツ地獄」として伝えられているが、徳之島も例外ではなかっただろう。大正7年生まれの老婆も食用にするためにソテツを山に植えていたことを証言している(本田碩孝「徳之島井之川の民俗誌覚書」『鹿児島民具』2010年10月)。水事情も、南西部に多い琉球石灰岩には帯水層がなく、井戸を掘っても水質が悪いという。加えて、石灰岩の上の石灰質の赤土は雨風で流されやすく、川は雨が降ると1、2時間で濁って飲めなくなり、常に水豊かな川もない(木立正嗣「奄美大島、徳之島の水事情」『水利科学』1966)。この子守唄の正確な発祥地域はすでに知る術がないが、赤子を置いて水汲みにゆくこの母親が、すぐ戻ってこれるのか、はたまた少し離れた川まで行かなければならないのか。後者とすれば切実さが増す。

 島には次のような歌も伝わる。

米倉ぬ有たんてんま くみぐらぬあたんてんま
米ぬ生き延びゆめ  こめぬいきぬびゆめ
物言ち生き延びゆし むぬいちいきのびゆし
初ぬ思め子 はつぬうめぐゎ

米倉があっても米が命をのばしてくれようか、物をいって命を延ばしてくれるのは初子だ。

 これは、米倉を持つ富める者の口から生まれた歌だろうか。私には違うように思える。「なぁじるべん(実のない汁)」をわが子とすすりながら、その尊い宝が、物言い、立ち上がり、駆け出す日を待ちながらなんとか育てようと日々奮闘する母親。のどから手が出るほど明日の米がほしい貧しさの中でも、それを忘れさせてくれるような宝を手にしている喜び、その宝を大切に育てていこうとする母親の意気込みがにじみ出ているように思えるのだ。

 この尊い強がりのような表現は、「徳之島の子守唄」にはない。むしろ、日々の貧しさの中では心細くなることも多かっただろう。安らかさと、心細さと、いとしさと。色んな感情がないまぜになった母親の心が伝わるように、演奏するときは、1、2連は原形のCの長調で始め、3、4連をAマイナーの短調に変えて演奏してみている。子どもと二人「実のない」汁物をすするしかなかった母親のやるせなさをどうやったら表現できるだろうか。


 4歳から7歳まで3人の女の子がいるので、もはや自転車に全員を乗せることは不可能に近い。そこで、保育園と小学校までの道のりを、草木や花の名をクイズのようにして教えたり、歌を歌ったりしながら荷物だけ自転車に乗せて子どもたちを歩かせ、行き帰りしている。あるとき、長女が「ねえ、この歌なんだっけ、お母さんが歌ってた」と節を歌ってみせる。

「ラーラララーラララーラララーララララ」

 そんなメロディの歌があったかなと、なかなかわからない。何遍か歌ってもらって、それが、「ねんねぐゎせ」の間奏部やアウトロで私のピアノがならした右手のメロディーだとわかった。小澤俊夫さんが徳之島のおばあさんから聴いた歌がシンプルな譜面になり、その美しさに触発された私のイマジネーションから生まれた間奏部のメロディー。当然譜面には書かれていない部分である、そのメロディーの動き、旋律が長女の記憶に強く残ったのだ。不思議だった。

 こどもたちが、保育園で手遊びうたなど覚えて帰ってきて家でやっていると、自分が幼稚園のころ、幼稚園の教室で教わった手遊び歌をやるときのわくわくした懐かしい気持ちを思い出し、ああ、この感じ、となんともいえない気持ちになる。自分の手のひらから広がる音、自分の手が作り出す形、自分の声と結びつく手の動き。すべてが新鮮で、当時の教室の空気と一緒に思い出す。

 私が今、子どもたちと歌う子守唄の言葉やメロディーを、将来子どもたちが忘れてもかまわないと思っている。大事なのは、それを再び耳にしたときに、全身に襲いかかってくるような感覚が心に残ることのような気がする。たとえば、私が年老いて、長女にもう一度「ねんぐゎせ」を歌ったとき、そのメロディーの心地よさとともに、幼いころ歩きながら見た空の色や、風のにおいをひょっと思い出してくれたら、もうそれで、十分なのだ。

11月23日上野Route Books オープニングライブ(electric piano)