歌謡曲が全盛だった1970年代から80年代にかけて、ジェイク・H・コンセプションは、サックスがフィーチャーされたヒット曲の過半数を、一人で吹いていたのではないかと言われるくらい、数えきれないほど多くのヒット曲で印象的な演奏を残している。
中でも名演と呼ばれているのが、松田聖子の「SWEET MEMORIES」である。そのときを振り返って、ジェイクはこう語っていた。
松田聖子さんの「SWEET MEMORIES」は特によく覚えています。CBSソニー信濃町でのレコーディングで、ダビングでした。譜面にはアドリブとだけ書いてあって、アレンジャーの大村(雅朗)から、「ジェイク、頼むよ!」って言われてね。楽勝だと思いました。リリースされているものは、テイク1のものですね。
当時、聖子さんのコンサートで地方行くと、コンサート終了後に、その地方のクラブで演奏しているプレイヤーが楽屋に訪ねてきて、「SWEET MEMORIES」のフレーズはどうしたらうまくプレイできるのか教えてほしい、なんて言われたこともけっこうありました。
こうしたジェイクの言葉を含む貴重なインタビューからなる労作、「ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち」には、ジェイク・H・コンセプション主要参加作品リストが載っている。
そこから目についた順にいくつかピックアップしてみただけで、歌謡曲が力を持っていた時代が浮かび上がってくる。
杏里「悲しみが止まらない」
石川秀美「愛の呪文」
岩崎宏美」聖母たちのララバイ」
欧陽菲菲「ラヴ・イズ・オーヴァー」
菊池桃子「もう逢えないかもしれない」
小泉今日子「なんたってアイドル」
郷ひろみ「お嫁サンバ」
近藤真彦「ギンギラギンにさりげなく」
西城秀樹「YOUNG MAN(YMCA)」
斉藤由貴「卒業」
坂本冬美「夜桜お七」
シブがき隊「100%‥‥SOかもね」
田原俊彦「ハッとして!Good」
中森明菜「飾りじゃないのよ涙は」
原田知世「時をかける少女」
本田美奈子「1986年のマリリン」
松田聖子「SWEET MEMORIES」
松任谷由実「時をかける少女」
森川由加里「SHOW ME」
わらべ「もしも明日が」
これらを全部、ジェイクが吹いていたのである。
ジェイクはまた、規模の大きなコンサート・ツアーにも参加しているが、特に有名なのは吉田拓郎だろう。
1979年12月5日に発表された吉田拓郎のライブ・アルバム『TAKURO TOUR 1979 Vol.2 落陽』では、ファンの間で伝説となっている篠島アイランドコンサートにおける「あヽ青春」「落陽」「人間なんて」のプレイを聴くことができる。
1970年代前半の日本では、ポップス系やフォーク・ロック系のシンガー・ソングライターたちが、それまでの歌謡曲とは明らかにテイストが異なる音楽で、若者たちの支持を集め始めていた。
中でも脚光を浴びたのが、吉田拓郎や井上陽水、赤い鳥や風、荒井由実などだった。彼らの楽曲やアルバムがヒットするようになったことで、それらを称して「ニューミュージック」という言葉が使われるようになった。
サウンドを重視するニューミュージックの影響は歌謡曲にまで及び、70年代の半ば頃からはレコーディングにおける編曲のレベルが上がった。それにともなってミュージシャンには、それまで以上に高い演奏技術が求められた。
そのために腕の立つスタジオ・ミュージシャンに仕事が集中するなかで、とりわけ引っ張りだこになったのが、フィリピン生まれのジェイク・ヘルナンデス・コンセプションだった。
1959年には23歳で単身来日したジェイクが、日本のジャズ・シーンで頭角を現してきたのは70年代に入ってからのことだ。
1973年には「やさしく歌って」「「明日に架ける橋」「我が心のジョージア」などのスタンダード・ソングを、前田憲男トリオをバックにして演奏したアルバム『エモーション』を発表している。
そんなジェイクがヒット・ソングに欠かせない存在になっていくのは、都はるみの「北の宿から」が1976年に大ヒットしてからだろう。
イントロに流れてくるサックスは、アメリカ人的な乾いた力強さとも、日本人的な湿った哀愁とも違う、独特のあたたかさが感じられる。それがいつもに比べて抑えた唱法だった都はるみの歌声を、大いに引き立てていたのだ。
これ以降、ヌケが良くて明るいサウンドが重宝されたことと、トータルの楽曲を理解する能力に長けていたことから、ジェイクはスタジオ・ミュージシャンとしての仕事が一挙に増えていった。
しかもメロディアスで切れのいいフレーズをアドリブで苦もなく弾いてくれるのだから、歌謡曲のみならずやポップスやロックの分野でも、ジェイクは新進気鋭の若手から大御所のアレンジャーたちの間で、引く手あまたの存在になったのである。
ジェイクは吉田拓郎、さだまさし、中島みゆき、松任谷由実など、日本を代表するアーティストのアルバムに参加する一方で、80年代アイドルも一手に引き受ける売れっ子になった。そして結果的にはジャンルの壁を取り払うという役割も果たした。
「ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち」の最後に、ジェイクはこんな言葉を残している。
改めて当時を振り返ってみると、音楽業界も上り調子だったし「楽しかった!」のひと言に尽きます。自分が関わったレコーディングの中で何がベストかって? 僕の中では、参加した楽曲すべてがベストですよ(笑)。
スタジオ・ワークスに携わる音楽人の間では、知らない人がいないくらい有名だったジェイクだが、いまでも接することができるのはサックス・プレイで、写真などはそれほど残されていないが、キリンラガービールのCMで姿を見ることができる。
ここではいかりや長介と二人、サックスではなくヴォーカルでベテラン・ミュージシャンならではの渋い味を出している。
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