「日本人の姓・苗字・名前」~人名に刻まれた歴史~
Ⅰ 姓と氏
1-1. 中国の「姓」制度の成立と東アジアへの伝播
「姓」制度の成立
- 紀元前1,100年頃、「周」の時代には、「姓」と「氏」が併存していた。
- 「姓」は血族の標識として発生、「周王室:姫」と「封建諸侯:公室」の血族集団の冠称。
- 「氏」は「土」の観念に基づく:封建制との関係のもと政治的支配権あるいは支配権の中心となる士族の冠称。として成立。「周」代には諸侯の有力臣下(卿:けい、大夫:だいふ)層除く集団の冠称となり、秩序化の機能を果たしていた。
- 春秋戦国時代には、「氏」族が政治的に台頭し、「氏」の「姓化」が進んだ。その後、「秦」「漢」の時代に「姓」に一元化される。
東アジアへの伝播
- 「冊封体制:東アジア周辺諸国の王に官号・爵位を授けて君臣関係を結び、朝貢を受けるという、「宗主国―藩属国体制」により国際秩序が形成されていった。
1-2. 日本における「姓」制度の継受と展開
「姓」制度継受と天皇の賜姓
- 5世紀、倭の五王が中国の南朝に朝貢し、「倭国王」の冊封を受け、「倭」を「姓」とし、「讃・珍・済・興・武」などの中国風の「個人名」を使用。
- 「武:ワカタケル大王=雄略天皇」を最後として、大和王権は「ウジ名(氏)*藤原・カバネ(姓)*朝臣」制度を創設し、豪族層を政治的に編成する。
- 大化の改新は、貴族の農民支配を廃止して全国の民を公民として国家の戸籍に登録した。
- 日本の「姓」は、王権との関係を示す表象とされた。そのため、中世以降、「苗字」=家名が生まれ、のちに「家」が先祖祭祀の単位になったことで、父系血族に沿って姓名は未来永劫に流れていくという、中国的な姓名観も根付かなかった。
姓の有無による身分区別
- 律令国家のもとでは、天皇から姓を賜与されたもの「良人」無いもの「賤」と「姓の有無」によって身分区別。「良人」は、「官人」と、「民」として調庸を負担する「百姓」に大別。
- 「王民」は、「朝臣」「宿祢」「忌寸」といったカバネの種類や有無によって階層化されていたが、9世紀以降、カバネが実質的な機能を失ったのでウジ名のみを称するようになった。
- 姓を持たない天皇は中国の王朝交代に関する「易姓革命」の適用を受けなくなった。
百姓と四姓
- 「百姓」は中国「姓」制度の下で生まれた語で、様々な姓(凡姓)を持つ一般庶民の意味。
- 古代には貴族の姓も多様であったが、源・平・藤原・橘の四氏が要職を占め(他、紀・伴・菅原・大江・中原など)、後世、実力の武士が四姓の氏に自分の系譜を結びつけて、それを姓として名乗るようになった。
- 中性末の下剋上を通じて、大名にのし上がった例は多いが、それによって古来の伝統的な尊卑の秩序が崩れたかというと、系図を偽証してまで古代の由緒ある氏の系譜を結びつけ姓を名乗っている。古代律令国家の位階・官職制度が、人々の社会的地位を公的に表示するシステムとして近世まで存続していたことに関わっている。
夫婦別姓
- 姓は父系血縁原理で継承され、その血統の標識となっていたので女性が婚姻によって姓を変えることはなかった。北条政子の名で知られる、平政子は、源頼朝結婚したのちも平姓。
1-3. 「家」の成立と「名字(苗字)」の発生
「家」の成立
- 中世において「家」が形成された。家は、「家名」「家業」「家産」を一体とした父子相承の永続を希求する組織体。
- 貴族や武士の上層では11世紀から形成が始まり、14世紀にかけて下層まで及び、中世後期には財産の嫡子単独相続制、家長の父子直径継承制が確立し、家制度が整った。
- 貴族にあっては官司請負制が家形成の契機となった。官職と業務が「家職」「家業」として特定の家に相伝されるようになり、業務に伴う収益が「家産」化し、所領も氏の財産から家の財産となり、権門貴族には荘園の寄進が集中して家産拡大していった。
- 土地を開墾して領主化した開発領主は、開発所領を「家産」として相伝するとともに、先祖開発所領の地名を「家名=名字」として名乗るようになる。
- 中世前期には、農業にしろ商工業にしろ百姓の経営は不安定で、継承性に乏しかったが、14世紀になると経営の安定性が強まり、定住して財産、生業を「家産」「家業」として継承する家が形成される。百姓も「家名」として名字を名乗り当主名を継承する。
- 17世紀に入ると、新田の開発が大規模に進められ、百姓の家の分立が進み、小家族が後半に成立した。この時代にはまた、都市の商工業者の間でも小経営体の家が成立する。
「名字」の発生と「苗字」への変化
- 家の成立に伴い家名としての「名字」が発生した。江戸時代には「苗字」と記される。
- 「名」は10世紀頃生まれた土地制度で、有力農民が土地を開発し、名前を付して自己の所有地であることを示したのが契機となっている。「名田」であり所有者が「名主」。
- 国司も開発地を「名」として把握し、やがて公地も含めて「名」に編入して、名主から徴税するようになる。11世紀に入ると有力名主層が在地領主化し、所領を守るために武士化した。開発本領の「名」の所在地名を冠し名乗ったのが「名字」の由来とされる。
- 地方の武士が、源頼朝と主従関係を結んで、御家人になる際には、「姓」ではなく「名字」で幕府に仕えた。一方、天皇との関係においては「姓」が機能し続ける。
- 名字発祥の地となった先祖伝来の開発所領は「名字の地」とよばれ、アイデンティティの根源であり、先祖の墓地や一族の寺院が置かれ一族結合の核となった。=「一所懸命の地」
「名字族=一族・一門(開拓した祖先を始祖)」
「家」の原理による「姓」制度の変質
- 「家」は組織体であり、実男子がいない場合、いても家の経営能力に欠ける場合には、養子をとって継がせた。中国「姓」制度を継承しても「異性不養」の規範は定着しなかった。
「氏」社会から「家」社会へ
- 家が形成されると、個人単位の父系血統の永続よりも家の永続が志向、系譜も「家系図」となる。本家・分家の同族結合、婚姻・養子縁組によって家相互の婚戚関係、主従結合、村・町・組・仲間など地縁や職縁に基ずく家々の結合と家を単位とした社会的結合を重視。
1-4. 苗字の由来
名字の種類の多様性
- 所領の地名、官職名、宅地の位置、天文・事物・動植物などにちなみ由来は多様。
- 日本の苗字の種類は約30万、中国の姓は約3500、韓国の姓は約250。これは家を基礎とした日本社会の特質を示している。
地名由来の苗字とその変遷―徳川家の場合
- 徳川家の元の苗字は「松平」で、三河国加茂郡松平郷発祥の地。元々の支配者は「加茂:姓」を名乗っていた。豪族加茂氏の伝統的権威を追うべく出自を求めた。
- 家康の祖父にあたる七代清康は、清和源氏新田流の世良田家に出自すると称し、苗字として「世良田」を名乗っている。今川家が遠江国にまで勢力を伸ばしてきたので、清和源氏足利流の今川家との争いを避けるためであった。
- 家康は、苗字は「松平」を名乗っているが、姓は「源」を称している。しかし、任官叙位にあたっては、関白の近衛前久に頼り、「藤原姓」で「従五位三河守」に叙任された。これにより家康は、苗字として「徳川」姓として「藤原」を名乗ることとなった。
- 徳川は、本来「得川」と表記し、上野国新田荘を開発して新田家の始祖となった義重(源義家の孫)の子孫が、新田郡得川郷に分家して名乗ったのが始まり。
- 三代家光の時、1645年に徳川家が元から清和源氏であったと偽装するために書き換えられ日光東照宮に記載。実際は「藤原家康」であった。
- 豊臣秀吉に恭順を誓った起請文には源家康と署名している。足利義昭が出家して足利将軍家が名実ともに消滅していたこと関東方面司令官の立場から支配の正当性を示した。
- 秀吉から「羽柴」苗字「豊臣」姓を与えられるが関ヶ原の合戦に勝利すると源姓に戻した。
- 1641年から43年にかけて、家光の命により、大名・旗本諸家の系譜集である「寛永諸家系図伝」が編纂されるが、これは武家の姓氏の秩序を徳川家を中心に再編成することを意図したものであった。「清和源氏」「平氏」「藤原氏」「諸氏」に種別されたうえで「清和源氏義家流」の筆頭に「新田嫡流得河松平家」の系図が置かれている。
*嵯峨源氏→渡辺党・松浦党・宇田源氏=近江の佐々木氏・村上源氏・花山源氏/桓武平氏
貴族の苗字
- 貴族では邸宅の地名を通称とし、当初は一代限りで父子の称号が異なっていた。平安時代中期まで男子は妻方の邸宅に住み、子供は妻方で育てられた。夫方邸宅居住に転換すると、称号は父子継承され「家号(家名)」化した。朝廷の官職が世襲されて「家職」化し、所領もまた氏族の財産から家の財産(家産)化した事態と関わっている。藤原氏から分流した「五摂家」の「近衛」「九条」「鷹司」「二条」「一条」/「山科」「醍醐」なども本邸所在地の地名。「西園寺」「徳大寺」「勧修寺」など先祖の建立した菩提寺の号を苗字とする。
- 朝廷に出仕する時「藤原朝臣」のよう、天皇から賜与の姓(ウジ名+カバネ名)を用いた。
地方行政由来
- 律令制下では国郡郷里という行政区画が設けられ「国府」苗字は国司を務めた由来。「大隅」「肥後」「筑紫」「伊賀」「伊勢」など国司を務めた国の名前由来。「郡」「郡山」「群元」などは群制に由来。郷里由来は「本郷」「大里」「中里」。平安時代末期、国衙領の再編成で「保」が地域的行政単位となり「新保」「安保」「神保」など生まれた。
土地制度由来
- 大化改新前、屯倉(朝廷の直轄領)、管理する役所、納める倉などを意味したが、廃されたのちも地名化し、「三宅」が生まれた。
- 律令制下においては、耕地は条理に区画されたが、地名化され、苗字にもなっている。「上条」「中条」「下条」「一条」「北条」など。
- 神領由来は「宮田」「宮代」「斎田」「神田」「神戸」「神林」など、寺社は「寺田」「寺岡」
- 荘園制の発展に伴い、それにちなむ名字が全国に多く発生した。「本庄」「古庄」「新庄」
官司名・官職名由来
- 「大蔵」「中務」「所」「監物:出納管理」「左近:左近衛府」「右近:右近近衛府」「税所」「調所」「太宰」など職を世襲した家の苗字。荘園を管理する役職「庄司」「田所」「公文」。関所を管理する役人「関」。
「官職名+姓」の苗字
- 藤原氏は中央・地方の要職を務めたが、官職名と姓を組み合わせた苗字:安藤(安房守)・伊藤(伊勢守)・加藤(加賀守)・遠藤(遠江守)・工藤(木工助)・斎藤(斎宮頭)・佐藤(佐渡守・佐野守・衛門佐)・首藤(主馬守)・進藤(修理進)・内藤(内舎人)・尾藤(尾張守)・武藤(武蔵守・武者所)
宅地の位置。方角・地形と田畑由来
- 「中村」「田中」「中田」は村を開発したものが村の中心部に住んで名乗った。
- 「森」「森下」「山本」「山下」「宮本」「宮下」鎮守の森宮の近くに住んで司祭した村有力者。
- 中世、山間の水流を灌漑用水として田を開き屋敷を構えて苗字「谷」「谷田」「迫」「迫田」
- 「豊田」「肥田」「吉田」などは、稲作の豊穣を祈願して付けたもの。
天文・動植物・事象由来
- 「日野」「日高」「日置」「日向」「大日方」などは太陽崇拝。
- 植物由来は「松」「杉」が多く「竹」「桜」「柏」「樫」「樺」「槻」「楠」「柳」「椿」「楡」など、屋敷内に植えられ家の象徴となっていた。
- 動物は、「犬養」「鳥飼」「鵜飼」などは大化前代の職業部にちなむ。
- 「鈴木」は刈り取った稲を積み、中心に神の依代として立てた棒を「すすき」と称した。熊野大社の神官は古代豪族の物部氏に出自する穂積氏であった。熊野信仰の広まりに伴い、その信者も鈴木に苗字を改めた。熊野漁民の海上貿易も広がりを支援した。
1-5. 苗字の展開と姓
苗字の伝播
- 名字は本来、居住地や所領と密接な関係を持っていたのであるが、様々な理由で人が移動したことにより、本来の「名字の地」を離れて伝播することになった。
- 源頼朝の御家人となった関東の武士が諸国の守護・地頭に任ぜられ、各地に移住した。その後、北条氏が勢力を拡大する中で、その家臣が諸国の守護・地頭に任ぜられ各地に移住。北条氏に圧迫されて地方に下る武士。蒙古襲来で西国所領のものが九州に下向。
- 足利氏とその家臣の発展によって、戦国期には、戦で敗れた武士が各地を流浪して新たな主君に仕えたり村落に土着した。近世には、大名への取立て、転封、改易による移動。
- 庶民レベルの移動も。関西の漁民は中世末から18世紀前半にかけて広範囲にわたって新たな漁場を求めて移動定住し独自の集落を形成した。これは新田開発や綿作などの商品作物栽培の盛行によって魚肥である干鰯の需要が増大したことによる。
- 近江商人は中世から行商をしていたが、近世には全国的に展開。伊勢商人が江戸に出店。
- 中世末・近世には鉱山の開発が盛んに行われ、鉱山技術者と労働者の移住も活発化。
- 近世後期になると、北関東や南東北で飢饉による人口減少で農業復興のため人口過剰であった北陸地方から移民を招きよせている。大部分は浄土真宗の門徒。
本家の分家への苗字授与
- 上位者が下位のものに苗字を授与することも行われ、それによっても同じ苗字が広まることとなった。先ず、本家が分家に授与し、同族の標識とした。
- 武家では、分家が本家と同じ苗字を名乗っている場合と、分け与えられた所領の地名を苗字として、その地の領主であることを示している場合とがある。
- 南北朝内乱後に惣領家が特定名字を独占し分家は多少違いをつけたが、戦国時代には統一された。二人惣領制の弊害の反省。「古閑・古賀・久我・古河」「金・今・今野・紺野・金野」「油川・湯川」「渡部・亘理・渡」「菊池・菊地」「足立・安達」「安住・渥美」。
主君の臣下への苗字授与
- 武士社会において、主君が臣下に自家の苗字を与え主従の強化を図ることも行われた。
- 徳川将軍は、外様有力大名との間に緊張関係のあった江戸時代初期、特に二代将軍秀忠の時期に、彼らに「松平」を授与し、徳川一門に組み込むことによって安定化を図っている。
- 関ヶ原の戦い後も「羽柴」を名乗っていた外様大名は、「松平」授与を機に苗字を変えている。「東照大権現」を領内に勧請して祭祀した。
- 伊達家は、留守・亘理、白石、岩城、田手といった中世には独立した領主で、戦国動乱の過程で伊達家に臣従し田有力家臣に「伊達」の苗字を与えている。
- 中世においては、村落領主が百姓に自家の苗字を与えて同族に准え、支配の円滑化を図るとともに、結束して外敵に抗した。
姓と苗字の使い分け
- 日本社会では、古代に中国から伝わった姓と、中世において独自に生まれた苗字とが混在していた。注目すべきは苗字が普及しても天皇との関係では姓が用いられていたこと。
- 古代律令国家の衰退によって官位制度はその実を失うが、官位はステータスシンボルとしてその後も機能し続けた。この官位を天皇から授与されるためには、天皇の臣下として由緒を有する姓を持っていることが要件となっていた。
外交文書での姓使用
- 足利義満は1402年「源道義」の名で日本国王に封じられ、冊封関係が結ばれた。秀吉の朝鮮出兵における日明講和交渉の過程で、明皇帝は、国書の中で「豊臣平秀吉」と表記されている。明皇帝は、現姓の豊臣と旧姓の平を国書に併記して、秀吉を日本国王に封じようとしたが、日明講和交渉は破綻したので、秀吉は日本国王になっていない。
苗字で外交した伊達政宗
- 1613年伊達政宗が遣欧使節支倉常長に持たせた書状では「伊達陸奥守政宗」と署名している。伊達家の姓である藤原ではなく、苗字を用いている。徳川秀忠から賜与された「松平」も使っていない。「奥州王」を意識していたとされる。
近世の身分制と苗字
- 近世社会は兵農分離によって成り立っており、兵=武士は主君の城下の武家地に集住され、村は百姓の居住空間として純化した。商工業者も武士の軍需・生活物資を調達するために城下に集められ、町方に居住し「町人」身分とされた。このような体制の下で、苗字は武士身分の象徴とされ、庶民の苗字公称は禁止された。村・町単位に宗門人別改帳によって把握されたが、名前しか記載されていない。(村・町の請負統治)
- 近世にあっては、庶民の苗字公称の禁を前提にして、体制維持のために苗字が運用された。
庶民の苗字私称と共同体
- 領主に提出する公的文書には苗字を記載することはできなかったが、私的な文書、奉加帳、棟札、石碑などには記載したものが多く見出されている。
- 村落共同体内部には独自の身分・権利関係が存在し、苗字を名乗ることは一種の特権となっていた。その権利を免許する権限を握っていたのは共同体の支配者である。
庶民の姓私称と「王孫」意識
- 古代律令国家においては、天皇から姓を与えられた者は「王民」とされ、そのうち様々な姓を持つ庶民は「百姓」と称されていた。日本におけるこうした天皇賜姓に由来する百姓の起源が、百姓は「王孫」であるという意識を、のちのちまで再生産することになる。
- 「源平藤橘」などの貴姓を尊ぶ観念は、究極的には天皇に収斂していく性格のものであり、こうした観念が社会的に根を張っていたことが、天皇を存続させたイデオロギー的基盤。
Ⅱ 前近代の名前
2-1. 名前の変遷
アニミズム的名前から人間表示の名前へ
- ①「広国」「国山」「石村」「村嶋」「石前」/②「熊」「犬」「牛」「猪」「馬」「羊」「虎」「竜」「蟲」/「稲」「桑」「栗」「麻」「林」*蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿・巨勢猿臣。
- 8世紀の奈良時代が、「麿(麻呂)」型が、貴族層、庶民層を問わず、あらゆる階層において流行。9世紀に入ると激減。嵯峨天皇の時代に名前の唐風化がなされたことによる。
- 女性名は、大和時代においては、上層では「姫・媛・比売」や「郎子・郎女(いつらめ)」、庶民では「女・売(め)」という接尾語を付している。ひめは美称。いつらめは親愛の情
- 奈良時代、貴族では「子」。「子」は尊称で、当初は身分の高い男性の名につけられていた。
- 大和時代には「彦」を付した男性名も多いが、これは美称である。しかし、「麿」の流行に伴って「子」や「彦」は脱落していき、「子」はもっぱら女性の名となる。
嵯峨天皇期の名前の唐風化
- 嵯峨天皇は唐風文化を摂取、名前についても唐風化を進めた。「童名=幼名」と「諱=実名(成人)」を区別し、実名に嘉字(縁起の良い)を使用し「系図」を導入した。
唐風名前の普及と女性名の変容
- 男性の実名は「嘉字2字」型が、女性名は「2音節一字+子」が9世紀から10世紀にかけて貴族、武家、さらには庶民まで普及していった。
- 14世紀以降女性名が変容。公家女性は、朝廷に仕える以外は、童名を生涯使用するようになった。庶民女性では「女」が脱落し仮名書きの2音節2字「まつ・たけ・はる・あき」といった名前が現われ近世に一般化する。これは女性の社会的地位の低下を反映。
系字から通字へ
- 嵯峨天皇は中国の「系字」も導入し、自身の皇子たちの系字を「良」とした。9世紀から10世紀にかけて、貴族層、地方豪族、上層農民層にも普及していく。ただ、中国では系字は、兄弟のみならず、従兄弟、又従兄弟と広い範囲に共有されているが、日本では兄弟に限定されている。例えば、藤原氏が南家、北家、式家、京家に分かれたように、氏族がいくつかの門流に分かれそれぞれが独自に使用したようなことによる。
- そして、11から12世紀に、父―子―孫と一字を継承していく縦列の「通字」に転換した。「家」の形成に関係している。
- 天皇家では、後三条天皇(1070年)が、三人の皇子に自信の字名「尊仁」の「仁」を継承させて以来、今日まで「仁」が通字とされている。
- 桓武平氏本流では「盛」を通字とし、北条氏は「時」、足利氏は「氏」
- 清和源氏頼義の分流である佐竹氏は、「源頼義の後胤」というアイデンティティを持っており、宗家、諸分家ともに男子全員に「義」と嘉字を組み合わせて使っている。家系を表わすとともに「氏=父系血統の系譜」も表示しているのである。
- 徳川将軍家では「家」を嫡子のみが継承し、家康の後継者と世継ぎのシンボルであった。
2-2. ライフサイクルと名前
誕生時の名づけ
- 名づけは、身分階層を問わず、誕生から7日目の「七夜の祝い」に際して行うのが慣例であった。それ以外の日でも奇数日(陽数)に命名(易学思想の反映)
- 正式の名づけ以前に産婆が「仮名」をつける風習も各地で見られた。これは、名前には霊魂が宿ると考えられており、異界から現世にやってきた赤子に速やかに名前を与えて、現世の存在として認知することにより、その魂をつなぎ止めておく呪術であった。
- 9世紀初めに嵯峨天皇が名前の唐風化を図ったのを機に童名と実名が分化し、実名には嘉字が使用され、前代のアニミズム的性格が払拭されたのであるが、童名にはそれが残った。 「熊」「虎」「猪」/「松」「竹」「鶴」「亀」「千代」「寿」/「岩」「石」「鉄」
- 戦国大名の童名「家康―竹千代」「信玄―勝千代」「謙信―虎千代」「利家―犬千代」「蒲生氏郷―鶴千代」「佐竹義宣―徳寿丸」
- 童名は中世には動植物名が半数以上にのぼっていたが、16世紀末以降の近世には、経済的な富の象徴である「蔵」「豊」「栄」「繁」、幸運を願う「吉」「幸」「福」「嘉」「喜」が登場し、「太郎」「八郎丸」「次郎法師」など出生順を表わす排行名も中世に比べ高まった。
命名の呪術
- 紀貫之―阿古久曽(不浄の名前が魔除けに)」、「麿(麻呂):便器のおまる」
- 「秀吉の子:棄丸(鶴松)」「拾丸(秀頼)」=子供を捨て拾ってもらう風習があった。
- これ以上欲しくないときは、「末」「留」「すえ」「とめ」「よし:もうこれでよし」
- 女子ばかり生まれて男子が欲しい時「わくり」「あぐり・阿久里(余り)」と命名。
- 庚申(かのえさる)に生まれた子には、盗癖があるので、金偏の字を選ぶか、獣の名を頭字につけるとそれが除かれる。夏目漱石:金之助
童名の通字と継承
- 北条氏は童名に「寿」を使用:「時頼=戒寿」「時宗=聖寿」「貞時=幸寿」
- 徳川家の嫡男「竹千代」秋田藩佐竹氏の嫡男「徳寿丸」
- 大店、酒造業など、童名と実名とも嫡男に継承される。童名にも家の継承原理が反映。
実名(諱)の付与
- 実名は人格の象徴、主君の偏諱を家臣に与えることは、主従の絆を強めることになった。
- 家康:今川義元が烏帽子親で「松平次郎三郎元信」このことで、人質から主従関係に。→「祖父:清康」の勇名をしたって「元康」と改名。→信長と同盟し「家康(源義家にあやかったもの)」に。*実名はを何度も改めることは珍しくない。
「忌み名」の習俗と「名実一体」観
- 実名を他人に名乗ることや、他人の実名を呼ぶことをタブーとする「忌み名」の習俗は、かつては諸民族に普遍的にみられた。「名実一体感」から生まれた。
- 他人の実名を呼ぶことはその実体=人格を支配することになり、実名を明かすことは服従の意思表示となる。入門や降伏の場合に実名を書いた名札「名簿(みょうぶ)」を提出。
- 主君であっても、家臣の実名を呼ぶことは非礼とされていた。
名を貶す。名を籠める
- 名を貶めることは、刑罰の一種:「和気清麻呂→別部穢麻呂」
- 名を籠める:習俗は、神仏の前に名前を籠めて、その人物を呪詛する「籠名」と表記。
- 名前という回路を通ってやってくるのが、呪詛の場合は災いで、祈願の場合は幸運。
戦国期の実名呼び捨て慣行
- 戦国騒乱の下剋上の世にあっては、その個々人の実力こそが重要な価値観であり、名字や仮名(通称)が省略され、実名のみである人物が特定されるにはかなりの程度、その人の存在が広く一般に認知されていなければならない。それゆえ敬意の表現とみなされた。
- そして、秀吉が天下統一を成し遂げ、官位制によって全国大名を統一基準のもとに編成するようになると「大納言様」「宰相様」という官職での表記に転化している。実力重視の戦国時代的価値観から秩序・儀礼重視の近世的価値観への転機が反映している。
字と通称
- 通称は「仮名」と言われたように、仮の名であった。男性は元服すると童名を成人名に改め、実名=諱と、仮名=通称の2つを持った。
- 通称の多くは排行名と律令制官職名を基本としている。「太郎」「次郎」「三郎」「二郎三郎(父親が二男で、その三男)・・・必ずしも実際の出生順に従っていたとは限らない。
- 「次郎」は「跡次」という意味で、嫡子の通称として使われている例も多い。
- 律令制の官職名にちなむ通称は最も多く見られ、近世には武家ならず庶民に於いても一般化した。「大石内蔵助(中務省内蔵寮の次官)良雄」
- 武士は「・・・右衛門」「・・・左衛門」「・・・兵衛」を通称として名乗っている者が多いが、武官として左右衛門府、左右兵衛府に勤務したり、武官職を買ったりした。
当主名の襲名
- 中世後期に百姓層の家が形成されるに伴い、当主=家長の名前が「家名」として代々継承されるようになった。
- 近世後期には、家内奴隷的な存在である「名子」「前地」「門屋」などと呼ばれる農民を従属させて、比較的大規模な農業経営を営む百姓も少なからずいた。
- 戦乱の終息した17世紀には新田開発が全国的に進展し、また単位面積に労働力と肥料を集中的に投下し土地生産力も高まった。それを基礎に、下人や傍系親族も自立してゆき、経営の主体となる。17世紀後半から18世紀にかけて小経営体の家が広範に成立した。
- 当主と直系親族を主体の5人前後の小家族によって構成され村はその家連合体となる。
- こうした農村構造の変化を基礎に、当主名=通名の襲名慣行は小農民層にも広まった。
- 庶民も私的には苗字を持っていたが、それは同族の標識でもあった。
- 近世には都市の商工業者の間でも、小経営体の家が広く成立した。大阪では経営の安定化に伴い、17世紀中頃より「家持」層から「屋号」の形成が始まった。
死後の名前―諡(おくりな)=諡号(しごう)
- 諱=実名は死後も敬避の対象であったので、死後の名として諡号を賜った。漢風「桓武天皇」和風「日本根子皇統弥照天皇」、「仁明天皇」以降は漢風諡号のみとなったが「光孝天皇」を最後にそれも中絶し、「崇徳天皇」「安徳天皇」「順徳天皇」など非業の死を遂げた天皇以外には、諡号は贈られなくなった。それに変わって贈られたのが追号である。
- 諡号は生前の功績を讃えて贈るものであるが、追号は生前の住所、ゆかりのある寺院名などにちなんで贈られ、「後鳥羽」のように以前の天皇の追号に「後」を冠したものもある。
- 「村上天皇」(967年)以降は追号は「冷泉院」のように天皇号は贈られなくなった。
- 諡号と天皇号が復活したのが、1841年で、900年ぶりである。これは、尊王思想の高まりを背景にした朝廷再興の動きの一環であった。
- 秀吉と家康には「豊国大明神」「東照大権現」という神号の諡号を贈られ、以降14代家茂まで、朝廷から諡号が与えられ死後の公的呼称となった。
Ⅲ 近世の名前と国家・社会・民族
3-1. 名前の管理と規制
近世の名前管理システム
- 古代律令国家は戸籍に良人は姓・名前・年齢、無姓の奴婢は名前・年齢を登録して、管理。
- 中世には戸籍は作られていない。この時代には権力が分散し、領主は村落に城館を構えて直接領民を支配していたので、戸籍は必要なかった。
- 秀吉によって天下が統一され、近世的な国家。社会体制が築かれるが、支配身分と非支配身分が空間的に分離して居住している体制のもとで、国家の公権力を担う武家領主が領民を管理・支配するためには、領民を帳簿に登録する必要が生じた。
- 近世初期には、一足役賦課の台帳として人別改帳、キリシタン摘発のため宗門改帳を作成していたが、1670年代合体させた宗門人別改帳を村・町単位に原則として毎年作成し、家ごとに家族と奉公人の名前と年齢を登録させた。
- 庶民上層の家では系図を作成していたが、成人男子については実名と通称が併記されていて、実名は、9世紀初期の嵯峨天皇の名前政策に由来する嘉字二字で付記。村役人・町役人で苗字の公表を許された者は、公的文書に苗字・通称とともに実名・花押を署している。
- 武士は、主君に親類書を提出し、改名も許可が必要で、各種帳簿類の登記名が変更された。
- 近世にはこのように、個々人の名前を管理するシステムが確立していった。人心管理のシステムであり「日本人」として公認された。
官職名の規制
- 室町・戦国期には律令官位性の形骸化が進み、武士に対する官位が乱発された。大名や有力在地領主は将軍の推挙を受けて朝廷から任官叙位され、公式に官途名=在京の官職名、受領名(国司名)などの官職名を得る一方、家臣たちに官途状で官職を与えた。
- 18世紀になると中下級武士や庶民の通称から、「右(左)衛門」「兵衛」のように通称として社会的に定着していた名前を除いて、国名・官職名は姿を消している。
参考資料
- 「日本人の姓・苗字・名前」 吉川弘文館 大藤修 著
- 「苗字の歴史」 吉川弘文館 豊田武 著
- 「名字と日本人」 文藝春秋 武光誠 著
- 「日本名字家系大辞典」 東京堂出版 森岡浩 編
- 「新選:漢和辞典(新版)」 小学館 小林信明 編