【保存版】世界史に影響を及ぼした人物ランキングベスト100【世界史入門】~歴史が苦手な人にこそ読んで欲しい~

俺は世界史の面白さをもっと世に広めたいと思っている。 

そう思って始めた「俺の世界史ブログ」だが、このブログのあらゆる方面からのトップ10記事に世界史の記事が並んだことはほとんどない。

上位に並ぶのはこのブログの看板と言ってもよい「ベスト100シリーズ」の記事であったり、日本の現状に物申す系の記事だったりする。

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これはこれでありがたいことなのであるが、やはり世界史ブログたるもの世界史記事をメインにしたいという思いがある。

そしてこのブログのキャッチコピーが「世界史を面白く」なので、できるだけ面白く読めるようにしたい。

そんな想いもあり、今回は当ブログ初の世界史をテーマにベスト100シリーズを作成することにした。

実際に作ってみるとある種今迄以上に大変だった。

なにせ映画にしても小説にしても自分が好きな順で並べれば良かったのだが、今回はある程度客観的な視点を重視しなければならない。

さらにテーマ選びも難航した。一口に世界史を題材にするにしても様々な切り口があるし、書いて見たいテーマは実は山のようにある。例えば世界史で活躍した軍師ランキングとか、戦闘に強い名将ランキングとか。

しかし今回は世界史をテーマとした最初のベスト100シリーズにして結果によっては今回が最後になるかも知れないということを考慮して表題にある通り「世界史に影響を及ぼした人物ランキングベスト100」というテーマに取り組むことにした。

実際に並べてみて苦労した。

苦労した点はいくつかあるが、まずは他のシリーズ同様100人に絞るのに苦労した。テーマに合致しそうな人物は軽く300人を越えるし、その中から特に影響力の強い100人を選ぶのは大変だった。案の定絞りに絞っても150人ぐらい候補が出てきてしまい、そこから50人を削るのが実に困難であった。

次にそれと絡むが、順位付けが非常に難しかった。

例えば日本史で考えて西郷隆盛と楠木正成のどちらの方がより日本史に影響を与えたかなんてかなり難しい問題だ。さらに世界史の場合分野が異なる人物が多く、例えば政治家と科学者を比較した時にどちらが影響を与えたのかを考えるのは非常に難しかった。

さらにそれに付随して特定の地域に偏らずあくまで「世界史」に対する影響度を考えた時、やはり特定の地域に集中してしまう問題も起きた。
 そもそも「世界史」とは何か?みたいな問題にまで発展し、一体どこからどこまでが世界史なのだろう?一体どこの地点を中心に考えればよいのだろう?そういった疑問が次から次に湧いてきた。

一応この記事においては紀元前2000年ぐらいから1989年の東西ドイツの統一、ソ連崩壊までを世界史にしたいと思う。それ以降は政治経済や現代社会の分野かなと思うし、現代史を中心にして考えるとスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツなどが大きな影響力のある人物ということになるが、もはやそれは世界史ではないだろうという判断だ。

そんな感じで四苦八苦して今回のランキングを作った。

 俺は幼い頃からせいぜい歴史関係ぐらいしか取り柄がなかった人間だ。それゆえに歴史に対する思い入れは誰よりも強い。

だから半端なランキングを作る訳にはいかなかった。

今回はテーマがテーマだけに歴史には全然詳しくない人、あるいは全然興味がない人、さらに言えば歴史が苦手、もしくは嫌いという人に向けて記事を書いた。このブログの最終的な目標は歴史嫌いな人が歴史に興味を持ってくれるようなブログを作りたいということでもある。

だからランキングを辿りながら読んでいけば世界の歴史がおぼろげながらも理解できるような構成にした。

この記事自体50000文字超とちょっと通常では考えられない規模になってしまっているが、それでも全部読んでもらえたらすごく嬉しい。

そして実際に読んでみて面白いとか参考になったとか少しでも思ってくれたならなお嬉しい。

さらになにがしかの方法で拡散されたなら究極的に喜ばしいと思う。

また前置きが長くなってしまった。

それでは世界史しか取り柄のない男が全力で作った記事を存分に楽しんでくれ。

*2019年12月28日から新しくyoutubeで世界史専門のチャンネルを開設した。良かったら登録して欲しい。

⇒俺の世界史chに登録する

第100位:豊臣秀吉(1537年~1598年)

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まずはご存知日本史を代表する天下人秀吉。

黄金の国ジパングと呼ばれた極東の島国日本の戦国時代を征し天下人となった人物で、その生まれは決して恵まれたものではなかったが、持ち前の知恵と人たらしの才能を生かして戦国の世を生き抜き、天下統一を果たした。

 秀吉が世界史に与えた影響としては戦国時代終結以上に朝鮮侵略の方が大きく、これを受けて万暦帝治下の明は朝鮮に援軍を出し、財政支出という面でこれがかなりの負担となった。のみならず、明軍の相手をしなくて済むようになった満州に住まう女真族の勢力がヌルハチのもとで強大化し、後に中国へ進出、ついには中国全土を支配するようになった。秀吉の朝鮮遠征が明王朝の死期を早めた面は大きいと言える。

 国内では検地を実施することで国家財政を潤し、刀狩令を出すことで反乱の可能性を抑えた。これらの政策が後に続く江戸幕府の礎となり、長く続く太平の世につながるのであった。

第99位:アルフレッド・ノーベル(1833年~1896年)

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ご存知ノーベル賞の創設者である。

ダイナマイトを開発したスウェーデン人で、死の商人と呼ばれる武器商人でもあった。戦争によって莫大な資産を築いたが、果たして罪の意識からだったのだろうか、ノーベル財団を設立し、科学や文学などで優れた功績を遺した人物に対して賞を与えるようなノーベル賞システムを構築し、現在まで続いている。

現在の自然科学や文学の発展はノーベル賞が存在したことによる部分も少なくないと言える。マズローの欲求ピラミッドではないけれど、人には承認欲求があり、ノーベル賞はそれをこれ以上ないほど満たすものであり、公には決してしないだろうがそれを得たいがために活動している者も少なくはないであろう。人は承認欲求を得たい生き物だ。だからSNSやブログなどが流行る。

財団の運営や受賞者への賞金などは生前にノーベルが築き上げた莫大な資産の利子で賄っていると言われていて、その話を聞くとノーベルは一体どんだけの資産を築いたんだよ…という気分にさせられる。古今東西富は再分配されずに一極に集中するように出来ているということだろう。

 ちなみにノーベルがノーベル財団を作ったのは自身が死んだと勘違いした新聞の見出しに「死の商人死す」と書かれていたのを見たことがきったけだったらしく、その新聞の記事には「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれており、これを見たノーベルは死後の評価を気にするようになったのだという。

第98位:アクバル大帝(1542年~1605年)

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ムガール帝国の第三代皇帝。

ティムール朝の流れを組む初代皇帝バーブルの孫で、父フユマーンが戦死するとわずか13歳で即位し、摂政のバイラームと共に領土を拡大、北インドをほぼその勢力下におくことに成功した。

アクバルの統治下ではイスラム教とヒンドゥー教徒が共存し、軍事官僚制度が整備され、才能のある者はペルシャ人、インド人など人種を問わず採用し、ムガール帝国を世界帝国として押し上げることに成功した人物だと言える。

アクバルの活躍した16世紀はイギリスでエリザベス女王、フランスでアンリ四世、スペインにフェリペ二世、オスマン帝国にはスレイマン大帝、サファヴィー朝ではアッバース一世、日本では織田信長が出るなど非常に優秀な君主が多数出た世紀であると言え、その中でもアクバルの支配領域は広大で、ポルトガル書物のペルシャ語への翻訳など積極的他国の文化を吸収した時代でもあった。

日本の織田信長もそうであるが、優秀な君主ほど門閥を気にせず優秀な人材を採用する。その面で見てもアクバルは名君であったと言えるだろう。

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第97位:マイアー・アムシェル・ロートシルト(1744年~1812年)

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世界皇帝。

そう言わている一族が現代には二組存在している。

そのうち一方、ロスチャイルド家の初代当主と言われているのがマイアー・アムシェル・ロートシルトその人だ。

現在1000兆円の資産を持っている、世界経済を裏から動かしているなどのオカルトっぽい話を話半分で聞くとしてもその影響力は絶大であり、その存在は常に世界の大きな局面で多大な影響を与えてきた。例えば英国首相ディズレーリがスエズ運河を建設する際にはロスチャイルド家から借入をしたことは有名であり、その結果イギリスは植民地インドまでのショートカットをすることが出来、世界の支配者となったのは周知のとおりだ。ロスチャイルド家はその後も帝国主義と結ぶつくことでその資産を増やしていくことになる。帝国主義派資本の投下を目的とした植民地経営をその旨とするが、その資本にあたるのがロスチャイルドを始めとした産業資本家、金融資本家なのである。

 金融だけではなくダイヤモンド事業や石油事業に初期の段階から参入しており、セブンシスターズと呼ばれることになるロイヤルダッチ・シェルが20世紀初頭にロスチャイルド家からアゼルバイジャンの油田を購入したことなども有名な話であり、この手の話はここに書ききれないほど存在している。

 ロスチャイルドの存在は世界史の流れを左右するとまで言われ、イギリスが悪名高いバルフォア宣言を出してパレスチナの地にユダヤ人国家を建設すると宣言したのも、ユダヤ系財閥であるロスチャイルド家の支援を取り付けたかったからだと言われており、ヒトラーのホロコーストもロスチャイルドに対抗するためだったという説さえある。

およそロスチャイルドに関してはどこまで本当でどこまでがウソなのかさえ分からないが、莫大な資本と高度な情報網を持っているのは確かであり、その基礎を作ったのがマイヤー・アムシェル・ロートシルトである。

ドイツに生まれた彼はナポレオン戦争に乗じて資本を増やし、5人の息子達をそれぞれフランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリに派遣して商館を作らせ、独自のネットワークを作らせて一族を反映させた。

このうちロンドンに行った三男のネイサンの一族がロスチャイルド(ロートシルトの英語読み)家として知られるようになり、大英帝国を陰から支えることになる。

ナポレオン戦争が終わるとオーストリア宰相メッテルニヒの仲介もあり中世ヨーロッパの支配者ハプスブルク家はロスチャイルド家の兄弟5人全てに男爵の地位を与え、その後も有力貴族との姻戚関係などを結び資産を増やし続けた。

特に大量のアメリカ公債をロスチャイルド家が引き受けたことは大きく、その結果アメリカの政治にも大きな影響を与えることになり、それが後に四度の中東戦争を引き金にもなる。

ユダヤ人排斥を標榜するロシアのロマノフ朝とは激しく対立し、クリミア戦争ではイギリスやフランスを支援、日露戦争においても代理人であるジェイコブ・シフを通じて日本の戦時国債を購入し支援、その結果極東の小国がヨーロッパの大国を破るという結果が生まれた。その先もレーニンに対し多額の資金提供を行いロシア革命を支援、結果ロマノフ朝は滅ぶことになる。

ロスチャイドル家はこのように代理人を通したりロスチャイルドの名前を出さないためその実態が分かりにくく、それゆえ陰謀論と結びつきやすい訳だが、確定している歴史的事実だけを見てもその存在が世界史に大きな影響を与えたのは確かである。

実際には二度の世界大戦や莫大な相続税により現在はかつてほどの力を持っていないという指摘もあるのだが、実際の所何が真実であるかが分からないため、この記事では非常に扱いにくい存在になってしまった…

第96位:ハンムラビ王(紀元前1810年頃~紀元前1750年頃)

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 「目には目を 歯には歯を」で有名な古代バビロニアの王。

現在より4000年近く前の人物であるが、古代メソポタミア文明には粘土板に様々なことを記録しておく風習があり、そのため比較的色々なことが分かっている。

例えば古代メソポタミアの貸し出し限度は前年の収入の約3割が上限であったり(現代日本の総量規制と同水準)、年利では20%前後(現代日本の貸し出し金利上限)であったりと現代とあまり変わらない水準で保護されていたことなどが粘土板に記載されており、ハンムラビ王が制定したと言われる「ハンムラビ法典」も残っているというから驚きである。

ハンムラビはバビロン第一王朝と呼ばれる巨大な王朝の6代目の王で、官僚制を整備し駅伝制や灌漑用水路の整備をし生産量を飛躍的に高め周辺諸国を統一、まさに世界史の基礎を作った人物と言えるだろう。

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第95位:シャルル・ドゴール(1890年~1970年)

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 第二次世界大戦が始まるとすぐにフランスは首都パリをドイツによって陥落させられた。その後ヒトラーは傀儡政権であるヴィシー政権を介してフランス支配に利用するのだが、シャルル・ドゴールはイギリスに亡命し自由フランス政府を樹立、ナチスに対抗する姿勢を見せた。

 二次大戦後はフランス大統領となり、第五共和制と言われる現在まで続く政体を創出し、アルジェリアの独立を承認、北大西洋条約機構(NATO)から脱退するなどド・ゴール主義と言われる独自路線に走り、以後のフランス大統領もこの路線に則りイギリスやアメリカなどとは異なる立場をとるようになった。

フランスでは非常に人気の高い大統領で、ド・ゴールの名は現在でも空母や空港などの名前として残っている。

第94位:アルフレッド大王(849年~899年)

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「イギリスの歴史はユリウス・カエサルが上陸した時より始まる」

というのは英国を代表する首相チャーチルの言葉だが、広大な領土を維持することができなくなったローマ帝国はゲルマン人の圧迫に耐え切れなくなりイギリスの領有を放棄した。

ローマが放棄した後のイギリスはゲルマン人達による終わりの見えない争いの時代に突入することになる。後にヘプターキー と呼ばれるようになる七王国も戦乱の中でやがて少数の王国に併合され、9世紀初頭においてはウェセックス王国の力が強まっていた。

イギリス史上唯一「大王」の称号が与えられているアルフレッドはこのウェセックス王国の国王である。

アルフレッドがウェセックス王となった時、イングランドの大半がデーン人と呼ばれるヴァイキングによって占領されていた。アルフレッドはデーン人との激しい戦闘を戦い抜き、ついに勝利をおさめ法典の整備などを通じてイングランドにおいて王権を強化、残念ながらアルフレッドの時代にはイングランド統一は叶わなかったが、彼の孫のアゼルスタンが見事にイングランド統一を成し遂げるのであった。

アルフレッドがいなければイギリスはデーン人の国となっていたかも知れず、そうなれば大英帝国は存在せず、アメリカ合衆国は英語を話していなかったかも知れない。

英国の歴史は実質的にアルフレッド大王の時代から始まったと言っても過言ではなく、西欧史においては外せぬ人物だと言える。

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第93位:ラムセス二世(紀元前1314年~紀元前1224年)

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アブシンベル神殿を建設し古代史最大の戦いと言われるカデシュの戦いでヒッタイト族と戦ったエジプトのファラオ。

生没年月日には諸説あり、24歳でファラオに即位し90歳で没するまでの66年間王位にあったことは分かっているが、生年については紀元前1314年説と紀元前1302年説がある。

大昔のことなのでわからないことが多く、例えばモーセがユダヤ人を引き連れて出エジプトした際の王がラムセス二世であると言われておりのだが、それが本当なのかどうかは不明で、さらにモーセ時代が実在の人物であるかどうかも不明である。もしモーセが確定的に実在する人物であればこのランキングに入るのだが、旧約聖書にしか名前が出てこないので今回はランク外となった。

一方のラムセス二世は各地にその記録を残しており、カルナック神殿やアブ・シンベル神殿などにその名前が確認でき、さらにヒッタイト側の資料にも登場していることからその存在は確実視されている上にラムセス二世のミイラまで見つかっており、伝承の通りその死期は90歳前後という結果が出たようで、その存在や事績は確定と言ってよいだろう。

子だくさんでも知られ、その総数は180人に上ったという。その数については現在まで論争があるのが、なんともはや元気な王様である。

第92位:グリエルモ・マルコーニ(1874年~1937年)

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無線電信の開発者。

1901年に大西洋を横断する無線電信に成功し、これによって世界の通信レベルは飛躍的に上がることになる。1909年にノーベル物理学賞を受賞。

 実はマルコーニはイタリアの大富豪の子供として生まれ、学校にはほとんど通ったことがないという。科学的実験は父が立ててくれた別荘で行っていたと言われ、無線電信の研究もそこで行っていたという。

ラジオの発明者としても名が上がるが、その際には複数の名前が挙がるためマルコーニがラジオを作ったとは言い難い面がある。それ抜きにしてもこのランキングに入るには十分な実績だと言えるだろう。

第91位:アッティラ大王(406年~453年)

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 ヨーロッパを恐怖のどん底に突き落としたフン族の王。

フン族は恐らくモンゴル系騎馬民族であり、漢民族に追い立てられた匈奴がモンゴル高原およびロシア高原を通ってヨーロッパまでやってきたと考えられている。

その戦闘能力は西洋諸国を圧倒し、ゲルマン人を圧迫。追い立てられたゲルマン民族が大移動しその余波でローマ帝国領に大規模な侵入を繰り返す。

もはや死に体のローマ帝国にそれを撃退する力はなく、ローマ領は次第にゲルマン民族の領土となっていく訳だが、そのような状況でもフン族はゲルマン・ローマ共通の敵と言え、アッティラの時代においてフン族VSゲルマン・ローマ連合軍との戦いであるカタラウヌムの戦いが起こりアッティラは敗北、そのままアッティラが病死するとフン族はいつの間にか歴史の表舞台から消えてしまうのであった。

中世のモンゴル帝国もそうだが、モンゴル民族は強大なカリスマのもとに集結する習性があり、そのカリスマがいなくなると霧散する特徴がある。霧散したフン族はハンガリーやフィンランドに移住したと考えられていて、ハンガリー人とモンゴル人のDNAは近いという。

フン族およびアッティラ大王がヨーロッパに与えた影響は大きく、ドイツの伝統的な戯曲である「ニーベルゲンの歌」にも登場し、ジークフリートの妻であるクリームヒルトが夫の仇を取るためにアッティラ大王と結婚するという話になっていて、19世紀にはこの話をもとにリヒャルト・ワーグナーは戯曲「ニーベルゲンの指環」を創り上げた。

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第90位:李隆基(唐の玄宗)(685年~762年)

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良い方面では「開元の治」と呼ばれる唐の全盛期を創出し、悪い面では楊国忠や李林甫と言った歴史に残るような佞臣たちを重用し、その結果安禄山の乱を引き起こし唐の衰退を招いた。

良い意味でも悪い意味でも世界史に与えた影響は甚大で、歴史の教科書はもちろん中学生の国語の教科書に出てくるような漢詩の作者、杜甫や李白などもこの時代の人物であり、文化的には非常に発展した時代でもあった。

さらにはタラス河畔の戦いでイスラム勢力と戦い大敗しており、その結果製紙法がイスラムに伝わり、やがてそれはヨーロッパに普及することになる。

治世の末期に起きた安禄山の乱によって国際都市長安は崩壊してしまい、唐王朝は衰退の一途をたどることになる。

故に玄宗皇帝は最高の名君でもあり最悪の暗君でもあるという世界史でも珍しいタイプの人物であると言えるだろう。

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第89位: ケマル・アタテュルク・パシャ(1881年~1938年)

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トルコ建国の父。

本名はムスタファ・ケマルと言い、オスマントルコを内側から改革しようという青年トルコ革命運動に参加、イタリアやバルカン半島諸国との戦いにおいて指揮を執り、やがてドイツやオーストリアなどの三国同盟側について一次大戦に参加、ガリポリの戦いにおいてイギリス軍を破るなど軍事上の活躍を見せる。

しかし終わってみれば三国同盟側は一次大戦に敗北。ケマル・パシャはトルコ革命を起こし600年続いたオスマン帝国を解体、トルコ共和国の初代大統領となった。

「アタテュルク」はこの際与えられた尊称で、トルコ人(テュルク人)の父という意味がある。

 現在でもトルコ料理専門店に行くと大体ケマル・パシャの写真が飾ってあるほどトルコ人に親しまれた人物。

第88位:アルベルト・アインシュタイン(1879年~1955年)

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 特殊相対性理論および一般相対性理論の提唱者。

と偉そうに書いておいて難だが、私自身科学に疎く正直アインシュタインが歴史に与えた影響について正確に考えることは出来ない。本当はもっと上位かも知れないし、あるいはもっと低いのかも知れない。だがその存在感はあらゆる科学者を凌駕しており、このテーマにおいてアインシュタインの存在を無視する訳にはいかなかったのだ。

一応謝っておく。

スマン!

アインシュタインの出した仮説はそれまでの物理学を根底から崩しかねないほど画期的であったらしく、アインシュタインは20世紀最高の天才と呼ばれるほどである。

ちなみにアインシュタインはマンハッタン計画には参加しておらず、アインシュタインが原子力爆弾を作った訳ではない。ただ、その開発にはアインシュタインの発見が利用されたようで、アインシュタインは原爆投下にショックを受け、科学の平和的利用を訴えるとともに軍事的利用に抗議し続けた。

一般的にはなぜか原爆を作ったアインシュタインがその後に突然それを否定したという風に誤解されがちだが、それは誤りである。

 なお、アインシュタインはユダヤ人であり、ナチスの迫害を逃れてアメリカに移住し、そこで生涯を終えた。

第87位:ウルバヌス2世(1042年~1099年)

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クレルモン公会議を開いて第一回十字軍を結成したローマ教皇。

聖都エルサレムの奪還を標榜しイスラム世界に攻め入り、エデッサ、アンティオキア、エルサレムなどの重要拠点の占領に成功しその威信を高めたが、エルサレムに住まうイスラム教徒やユダヤ教徒を虐殺し、財産を掠奪。その意義を次第に失っていく。

十字軍の成功はローマ教皇の権力伸長に寄与し、神聖ローマ皇帝やフランス王をも圧倒、ヨーロッパ世界の事実上の盟主となった。 

なおエルサレムを奪還したのはウルバヌス2世の死の二週間前であり、ウルバヌス2世自体はその報告を聞くことなく死んだという。

第86位:シモン・ボリバル(1783年~1830年)

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南米独立の父。

コロンビア、エクアドル、ベネズエラ、ボリビア、ペルーを独立に導いた人物。特にボリビアでは彼の名前にちなんで国名がつけられたほどであり、人名が国名に影響を与え現代でも残っている例はボリバルとコロンブス、フェリペ二世ぐらいである。

*アメリカはアメリゴ・ヴェスプッチから取れているが、国というよりも大陸名かも知れない微妙なライン。

スペインとの激しい独立戦争の結果グラン・コロンビア共和国の独立を勝ち取り初代大統領となり、その後も南米諸国独立のために戦った。

第85位:ジャンヌ・ダルク(1412年~1431年)

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イギリスとフランスの間で起こった100年戦争を終結に導いた女性。フランスの国民的な英雄であり、オルレアンの聖女という尊称で呼ばれることもある。

ある日天の啓示を受けたジャンヌ・ダルクはその神託を告げにフランス王太子シャルルのもとを向かう。そこでシャルルによってフランス軍の指揮官に任命され、兵士を率いてオルレアンを包囲していたイギリス軍を撃破することに成功。これが決定的となり100年戦争は終結に向かう。

しかしジャンヌ・ダルク自体は反国王派によって捕えられてその身柄はイギリス軍に引き渡されてしまい、最終的には魔女裁判によって有罪となり火刑に処されて死んでしまうことになる。

一方シャルル七世となった王太子シャルルはオルレアンの勝利を機に勢力を盛り返しイギリス勢力をヨーロッパ大陸からほぼ追い出すことに成功、100年戦争は終結することになる。

その後はジャンヌ・ダルクの復権を求める運動が盛んになり、19世紀においてはフランス国民の象徴として、第一次大戦後はローマ教皇が正式に「聖女」の認定を行うに至った。

第84位:エドワード・ジェンナー(1749年~1823年)

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近代免疫学の父と言われ、天然痘のワクチンを開発した人物。

天然痘は人類の天敵ともいえる病気で、南米でインディオが大量死滅してしまったのもスペイン人の侵略以上に天然痘によるものであったともいわれ、日本においても聖武天皇の時代に天然痘が流行ったことからその保護のために大仏を作ったという話があるほど人類の歴史には大きな影響を及ぼし続けた病気であった。

ある日ジェンナーは牛の乳搾りをする人たちが天然痘にかからないという事実に着目し、牛痘を接種させる方法を考案、これにより天然痘を克服するに至る。この発想は後にワクチンとして定着する。ワクチンという言葉はパスツールという科学者がラテン語で「牝牛」を表す「Vacca」という言葉にちなんでつけたと言われ、その由来は当然の如くジェンナーである。

 彼の発明したワクチンによって多くの人が救われた。その偉大なる発見の影響はあまりにも大きい。

第83位:ヌルハチ(1559年~1626年)

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女真族のハーン。清の初代皇帝とされる。

豊臣秀吉の遠征によってボロボロになった明の隙をついて勢力を拡大させ、女真族を統一すると後金を建国、この国が後に清となり中国最後の王朝となる。

八旗と呼ばれる軍制を整備し明を圧迫、サルフの戦いでは明を相手に歴史的な大勝利をおさめることに成功、一方ヌルハチに敗れた明は対女真族の防備を固めるため山海関に兵力を集中させ、内部で起きた李自成の乱に対応できずに滅亡してしまう。

まさに歴史が大きく動いた瞬間である。

第82位:キュロス2世(?~紀元前529年)

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アケメネス朝ペルシャの創始者。

現在のイランにおいてはキュロス2世(サイラス大王という呼び名も)は建国者として認識されているほどで、メディア、リディア、新バビロニアといったメソポタミア諸国を統一し、古代オリエントにおいて強大な帝国を築き上げた人物である。

「王の中の王」という尊称でも呼ばれており、ユダヤ人をバビロン捕囚(新バビロニアによってユダヤ人はバビロンに連れ去られていた)から解放した人物としても有名。

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第81位:ピョートル大帝(1672年~1725年)

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ロマノフ朝ロシア帝国を列強まで押し上げた人物。

ロシアと言えば大国のイメージがあるが、ピョートル大帝が出現するまでのロマノフ朝はスウェーデン王国やポーランド王国、オスマン帝国に圧迫され、領土は広いが勢力的には小国と言っても良いほどであった。

その現状をどうにか変えようとしたのがピョートル大帝で、彼は岩倉遣欧使節団よろしくプロイセン、オランダ、イギリスなどの列強各国を歴訪しその技術を学びに行く。その際ピョートルはロマノフ朝の皇帝でありながら造船所で技師見習いとして働いたという。

帰国すると外海に出るべく南下政策を実行、オスマントルコ領であった黒海の要所アゾフを攻略し(その後オスマン帝国に取り返され、ピョートル大帝の死後はロシア領となる)清の康熙帝との間にネルチンスク条約を結んで両国の国境を確認、バルト海の覇権をめぐってスウェーデン王国との間に大北方戦争を展開、戦いには敗れたものの近代化の必要性を再度認識しペテルブルクを建設、それと同時に日露戦争でも活躍したバルチック艦隊を整備する。

極東においてはベーリングを派遣しシベリアを探検させ、カムチャッカ半島を経てアラスカにまで到達しこれを領土とした。その後ベーリングの名はアラスカとシベリアの間にある海峡の名前になる。

国内においてはプロイセンの政体を模範とし、中央主権的な体制を強化、皇帝主義(ツァーリズム)を推し進めて領土拡大を目指した。

いうなれば明治維新後に明治政府が行ったことを100年以上も前に実行した人物だったと言えるかも知れない。農民が奴隷化してしまう農奴の問題などは解決できなかったが、ロシア近代化の道を開いた人物であり、この後ロシアはフランスやイギリスなどと並ぶ列強の一角として存在感を強めていくことになる。

余談ではあるが、ロマノフ朝の「ロマノフ」はローマから、「ツァーリ」はカエサルから来ており、古代ローマの影響力の高さがこの辺りからも伺えるようになっている。

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第80位:ニコラウス・コペルニクス(1473年~1543年)

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 天文学上最も重要な発見と言われる「地動説」の提唱者。

今でこそ常識だが、それまでは「天動説」が広く信じられており、地動説はまさに天地がひっくり返るような説であった。

もっとも、地動説が出版されるようになったのは彼の死の年であり、出版後もあまり信じる者もおらず、彼の正しさが受け入れられるようになったのは彼の死後100年は経った頃だったと言われる。

 しかしコペルニクスの後世に与えた影響は「コペルニクス的転回」と呼ばれるような常識を覆すような態度であり、その姿勢が数多くの発見を生み出したことにあるというべきかも知れない。

 「Revolution」という言葉も元は政治体制の変革ではなくコペルニクスのように常識を回転させてしまうようなことを指していたと言われていて、彼の存在が後の科学に与えた影響は非常に大きいと言える。

第79位:ノルマンディ公ウィリアム(ウィリアム1世)(1027年~1087年)

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元々の名前はノルマンディ公ギョーム。

ノルマンディ公ロベール一世の庶子として生まれ、伯父であるイングランド王エドワード証聖王が亡くなると遺言により後継者に指名され、その継承権を主張してイングランド諸侯と対決、最終的にヘースティングズの戦いで勝利しイングランド王ウィリアム1世として即位することに成功する。

日本人には少しわかりにくい感覚ではあるが、ウィリアム1世はイングランド王でもあると同時にノルマンディ公としての地位を継いでいた。ノルマンディが当時フランス王の支配下にあったことから、ウィリアム1世はフランス王に臣従の誓いをしていた訳であるが、それはつまりイングランド王がフランス王の臣下になるということでもあった。このことをイギリス史ではノルマンディ公による征服という意味でノルマンコンクエストと呼び、これ以降のイングランド王朝をノルマン朝と呼ぶようになる。

ウィリアム1世自身も英語は話せず、これ以降もイングランド王には英語を話せない王が幾人も就任することになる。

この頃の意識がフランス人の自意識に大きく影響しており、フランス人が英語を決して学ぼうとしないのはノルマンコンクエストの影響が強いと言われている。

 その自意識はアメリカに絶対に追従しないフランスとして現代でもフランス人の根底に流れていると言えるだろう。

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第78位:ハンニバル・バルカ(紀元前247年~紀元前182年)

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「史上最高の戦術家」と呼び声も高いフェニキア人都市カルタゴの将軍。

第一次ポエニ戦争で屈辱的な敗北を味わったハミルカル・バルカの息子で、ローマの意表を突いてスペインからアルプスを越えてイタリア半島に入り、カンネの戦いを始め幾度もローマ軍に完全勝利し、最強と名高いローマ軍を壊滅寸前にまで追い詰めイタリア半島を恐怖のドン底に突き落とした人物。

彼の戦闘センスはあまりにもずば抜けていて、戦闘においてローマ軍は壊滅するのにハンニバルはほとんど兵力を失わず、損害ばかりが出るローマ側は直接戦闘を回避する方向でなんとか危機を脱し、その間にローマからは天才スキピオ・アフリカヌスが誕生、スキピオはハンニバルを差し置いて北アフリカにあったカルタゴの本拠地に進軍しハンニバルをおびき寄せるとザマの戦いにおいて直接対決に臨む。結果はスキピオの勝利に終わり、第二次ポエニ戦争もまたローマの勝利となる。

ハンニバルの考案した戦術はローマに受け継がれ、ローマはそれをもってオリエント地方を席巻、地中海沿岸部のほとんどをその領地とし、名実共に世界帝国になっていったのであった。 

また、当時未開の地と言っても良かったスペインを開発したのもハンニバルで、以降イベリア半島はローマに接収され、五賢帝のトラヤヌスやハドリアヌスを生み出すに至る。

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第77位:チトー(1892年~1980年)

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 ユーゴスラヴィアの独裁者。

「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われたユーゴスラヴィアをまとめ上げた人物。

元々はクロアチアの農家出身で、一次大戦時はオーストリア兵として従軍するもロシア軍の捕虜になり、その途中でロシア革命が勃発、チトーはそのまま革命軍に参加、レーニン率いるボリシェビキ派との関係を深め、帰国してユーゴスラビア共産党の書記長になる。

第二次世界大戦中はドイツ軍に対するパルチザン闘争を指揮しナチス抵抗の旗印となり、戦後はソヴィエト連邦を模範とした社会主義国家の建設に着手する。

しかしソ連の指導者スターリンとは決別し独自路線で共産主義政権を運営。アメリカなどとも国交を結び非同盟国諸国会議を開くなど世界に大きな影響を与えた。

 良い意味でも悪い意味でも独裁的で、ユーゴスラヴィアという国はチトーのカリスマ性でもっていた国であった。チトーの死後ユーゴスラヴィアは激しい内戦に突入し、多くの悲劇と共にそれぞれの国に分裂することになる。

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特に民族同士の争いの激化は国連が介入する事態となり、憎しみの連鎖や強権的な指導者による「民族浄化(エスニッククレンジング)」など目を覆うような惨劇が各地で繰り広げられるようになってしまった。

第76位:フェリペ2世(1527年~1598年)

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 中世ヨーロッパの覇者ハプスブルク家の人間で、アラゴン王国、カステリャ王国、イングランド王、ポルトガル王などを兼任し、コンキスタドレスなどを擁してアメリカ大陸を侵略して領土を拡大。スペインを「太陽の沈まぬ王国」とした。

その治世中にはレパントの海戦、アルマダ海戦という二つの大きな海戦があり、前者はオスマン帝国に勝利、後者はイングランドに敗北という結果に終わった。

ヨーロッパ諸国がイスラム勢力であるオスマン帝国に勝利したのは実質的に初めてであり、ドン・キホーテの著者として有名なセルバンデスは片腕の自由を失ってなおこの戦いに参加したことを誇りにしたと言われるほどの歴史的勝利であったが、アルマダ海戦においては当時二流国家と思われていたイングランドに敗北し、以降制海権をイギリスが握るというこちらは歴史的な敗北であった。

さらに一貫したカトリック強制によりネーデルラントが独立運動を開始、最終的にはオランダとして独立、大きな経済拠点を失うことになった。

一方でアメリカ大陸の銀山経営において産出された大量の銀がヨーロッパ大陸に流入し価格革命と言われる事態に発展、あまりにも多く戦争をし過ぎたこともありスペイン王室は破産宣言を出すに至る。

フェリペ二世はスペイン最盛期の王であると同時にその衰退の始まりの王でもあった。

 

第75位:ライト兄弟(ウィルバー:1867年~1912年 オーヴィル:1871年~1948年)

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1903年に初の有人飛行に成功した兄弟。

よく言われるようにライト兄弟から二次大戦までわずか30年程しか経っておらず、零戦やB29などはこの時期からたった30年程で作られたことになる。

20世紀以降の科学技術の発達はもはや人類を置き去りにするレベルであり、いまや誰もが海外旅行を楽しめる時代になった。

飛行機の存在は産業構造はもちろん戦争の在り方そのものを変えてしまった面がある。

近世以前の戦争は数がものを言った。しかし近代以降の戦いは兵力よりも技術の差が戦局を左右するようになる。飛行機の誕生はその端緒になったと言える。

また飛行機の存在は「制空権」という概念を生み出し、空を征する者が戦争を征するようになり、戦争の在り方は大きく変化を迎えることになった。

はたしてそのことが人類を平和に導いたかどうか、それはまた別の話である。

第74位:インノケンティウス三世(1161年~1216年)

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最強のローマ教皇と言われる人物。

中世ヨーロッパの実質的な支配者であり、神聖ローマ帝国の皇帝を廃位、イングランド王ジョンを破門、さらにはヨーロッパ最強君主であるフランス王フィリップ二世をも破門とヨーロッパにおける各王権を屈服させ「皇帝は月、教皇は太陽」という言葉通りにローマ教皇庁の最盛期を現出した。

その力はあまりにも強大で、インノケンティウス3世はアルヴィジョワ十字軍に見られるように異端に厳しく、神聖ローマ帝国の帝位選定に影響を及ぼすなど誰もインノケンティウス3世に意見を述べることができなかったほどである。

ここまで教皇権が強くなったのにはいくつか理由があり、まずは十字軍を通じて軍事的に優位であったこと、次にヨーロッパ各地の司祭の任命権を各国王ではなくローマ教皇が持っていたこと、そして各王国の公式文書は全てラテン語で書かれる必要があったがラテン語を操れるのは司祭階級の人物だけであったことが挙げられる。

さらに当時は10分の1税と言って収入の10%は教会に寄付せねばならず、ローマ教皇を始めとした教会勢力の経済力は王権を遥かに凌駕していたのである。

第73位:チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ(1854年~1931年)

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 この名前を聞いてピンと来る人は少ないと思うが「蒸気タービン」を開発した人物である。

「蒸気タービン」は蒸気などを利用しやすい形でエネルギー変換するために重要な役割を担う部品で、発電、船、航空機などはこれがないとうまく稼働しない。

 従来のダイナモ発電が1000-1500回転/分だったのに対し、パーソンズのタービンでは18000回転/分を記録しており、まさにエネルギー革命と呼んでも差し支えないほどの変革を世界にもたらすこととなった。

 今現在これだけの電気社会になっているのはこの人物の功績によるところが大きいと言える。

第72位:セオドア・ルーズベルト

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アメリカ合衆国第26代大統領。

フランクリン・ルーズベルトのファーストレディであるエレノア・ルーズベルトの伯父で、こん棒外交と呼ばれるラテンアメリカ政策、ドイツとイギリスの間で持ち上がったタンジール事件の調停役など国際情勢に積極的に関与し、アメリカ合衆国の発言権力を大きく伸ばした。

国内では反トラスト法を盾に世界皇帝とまで言われるロックフェラー一族と対峙、労働者保護を目的とした活動を積極的に行った。

「テディベア」は「Theodore」のTの字から取られており、国民からは非常に人気の高かったことが伺える。

日本との関係においては中学生の教科書に出てくる日露戦争の講和会議であるポーツマス会議を主催しその調停役を買って出たことが知られる。

 良くも悪くもアメリカの帝国主義を推進した人物であり、それまで二流国と見られていたアメリカ合衆国を世界第一の国家へと推し進めた人物でもある。そのためアメリカ歴代大統領人気ランキングを行うと常に上位にいる。

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第71位:司馬遷(紀元前145年~紀元前86年)

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世界史上最高の歴史書と名高い「史記」の作者。

その生涯を歴史の編纂に捧げた人物であり、「坂の上の雲」や「竜馬が行く」などで有名な日本を代表する歴史作家司馬遼太郎が「我司馬遷には及ばず」という言葉を遺したことはあまりにも有名。

元々父が歴史を編纂する部署の官僚であり司馬遷はそれを継いだ形であったが、漢の武帝の理不尽な逆鱗に触れ宮刑に処され、それ以降歴史を遺すことに人生を捧げるようになった。

「紀伝体」と呼ばれる叙述形態で歴史を遺し、以降中国においては紀伝体の歴史書が主流となる。

「紀伝体」というのは年代別ではなく人物に焦点を当てた歴史編纂の仕方で、例えば教科書のように年代で歴史をまとめる編纂方法を「編年体」と言う。

「紀伝体」は人物に焦点を当てるため物語性が強く、簡単に言えば歴史が面白くなる傾向があり、歴史の教科書が面白くないのは編年体だということもあるかも知れない。

司馬遷の史記が後の歴史書に与えた影響は大きく、また司馬遷が歴史遺したことにより我々は中国の歴史を知ることが出来る面が大きく、もし司馬遷がいなければ中国文明は歴史を遺すことにあまり熱心ではなく、例えば日本で言えば卑弥呼などはいなかったことになっただろうし、下手をすれば古事記や日本書紀も存在しなかった可能性さえあった。

「日本史」が存在するのも遣隋使の時に自国の歴史が分からないという問題に直面した大和朝廷が国家の威信を高めるために歴史書の編纂を慌てて行ったという経緯があり、司馬遷がいなければそういったこともなかったかも知れない。

実際例えば歴史を遺す文化のなかったイギリスなどは7世紀以前の歴史はあまり分かっておらず、ドイツなどは9世紀辺りから歴史が本格的に始まっている。

中国において紀元前2000年あたりからの歴史がはっきりと残っているのは司馬遷の功績である。

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第70位:ヘロドトス(紀元前480年頃~紀元前420年ごろ)

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 英語で歴史のことを「history」という。このブログも「myworldhistory」というドメイン名な訳だが、その「history」の語源はヘロドトスの書いた「ヒストリア(historiai)」という著作である。

それゆえにヘロドトスは「歴史の父」と呼ばれ、西洋文化圏における歴史書においてヘロドトスの影響のない本はないと言われるほど後世に与えた影響は大きかった。

東洋史は司馬遷、西洋史はヘロドトスがいなければ成り立たなかった可能性があり、そのような存在のいなかった中央アジアの歴史などは現代にいたっても不明なことばかりである。

 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのはドイツ帝国の宰相ビスマルクの言葉だが、この二人がいなければ学ぶべき歴史そのものが存在しなかったかも知れない。

第69位:楊堅(隋の文帝)(541年~604年)

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後漢以降、400年近く中国は巨大な戦乱の渦中にいた。

三国時代、晋、五胡十六時代、魏晋南北朝時代、いつ終わるとも知れない戦乱にピリオドを打ったのが北周の有力者であった楊堅である。

楊堅は皇后の勧めもあり隋を建国すると周辺諸国を次々と征服、晋以来約250年ぶりに中華統一王朝を建国することに成功した。

 しかし息子煬帝が無理な政治を行ったこともあり隋はわずか30年ほどで滅亡。中国は再び戦乱に巻き込まれそうになるが、時代を越えた超世の傑ともいうべき人物により再び中国は統一され、300年に渡る平和な時代を享受することになる。

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第68位:アッシュール・バニパル王(?~紀元前627年)

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アッシリア帝国の王。

メソポタミアからエジプトという広大な土地を支配下におき、巨大な世界帝国を築いた人物。

首都ニネヴェに恐らくは世界最初の図書館を置いた人物でもあり、現在オリエント史について知るにはこの図書館に残された粘土板を解読するより他ないと言われるほど重要な記録となっていて、有名なギルガメシュ叙事詩などもこの図書館に残っていたとされる。

しかし支配地に過酷な政策を行ったことによりその死後に各地で諸民族が独立、オリエントは再び戦乱の時代へと突入することになる。

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第67位:カラカラ帝(188年~217年)

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 ローマが衰退し始めたのは明確にカラカラ帝の時代からである。

世界史においても五本の指に入るほどの暗君かつ暴君で、歴史的影響力を考えると暴君として知られるネロやカリギュラ、コンモドゥスなど比較にならないほど甚大で、暴政に次ぐ暴政で国家財政は底をつき、ついには帝国内に住まう全員にローマ市民権を付与するという愚策によってローマの根本を壊してしまい、その影響は徐々にローマを内部から破壊し始める。

暴君としても知られ、弟のゲタを殺したことに飽き足らず広大なローマ領内においてゲタの肖像画部分だけを削り取ることを強制させた。

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また自分の悪口を言ったと因縁をつけてはエジプトで大虐殺をし、財産が亡くなると人の財産を没収して自分で使い始めるという暴君の教科書のような生き方をし、最後は自分を守るはずの親衛隊によって殺され、後世の歴史家エドワード・ギボンからは「人類共通の敵」という評価が下された。

カラカラ帝の死後すぐに50年の間に25人の皇帝が死去するという3世紀の危機もしくは軍人皇帝時代と呼ばれる時代に突入することになる、古代ローマは暗黒期を迎える。それでもローマは再び輝きを取り戻すのだからやはりすごいと言わざるを得ないが、それでもカラカラ帝の遺した負の遺産を返済することはできず、幾人もの尽力にも関わらずローマ帝国は静かに衰退していくことになった。

当代の暴政および後に与えた悪影響を考えるに、世界史的に見ても指折りの暗君および暴君であると言えるだろう。

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第66位:メッテルニヒ(1773年~1859年)

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オーストリアの宰相としてウィーン会議を主催し、ナポレオン戦争後のヨーロッパをウィーン体制という名の国際秩序のもとにまとめようとした人物。

名誉革命、アメリカ独立宣言、フランス革命の世界三大革命において芽生えた自由主義への萌芽を反動主義において王政が跋扈する中世式封建主義に抑え込もうとしたが、既時代の流れには勝てず、フランスの7月革命、2月革命、ギリシャ独立戦争、ウィーン3月革命と言った自由主義の大きな流れの前に失脚、イギリスへの亡命を余儀なくされた。

 各国では自由主義の嵐が吹き荒れ民主主義政体が次々に成立したが、メッテルニヒにとっての本国オーストリアにおいては自由主義を抑え込むことに成功し、権力の座に鎮座することができた。

しかし結果として中世・近世の大国オーストリアは時代の流れに取り残され、ビスマルクとの戦いや第一次大戦に敗れハプスブルク体制は崩壊、第二次世界大戦時にはヒトラー率いるナチスに併合されることになる。

もしメッテルニヒが反動主義のもと自由主義の萌芽を摘まなければ、オーストリアは現在でも大国であったかも知れない。

第65位:クレオパトラ7世(紀元前69年~紀元前30年)

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 3000年続いたエジプト最後の女王。

「クレオパトラの鼻がもう少し低かったなら世界の歴史は大きく変わっていただろう」

というのは17世紀のフランス人学者パスカルの言葉であるが、その言葉をもってして如何にクレオパトラが世界の歴史に大きな影響を与えたかがよく分かる。

アレクサンダー大王の死後ディアドコイと言われる後継者戦争の結果、巨大な帝国は4つの国に分裂した。その中の一つエジプトを支配したのはギリシャ人のプトレマイオスであり、以後その子孫達がエジプトの王家となった。

プトレマイオス王朝は極端な近親婚の国家で、クレオパトラ自身弟と結婚しているほどであったが、兄弟仲というべきか夫婦仲というべきか、両者の仲は非常に悪く、政争の結果クレオパトラは国を追い出されてしまう。

そこへひょっこり現れたのがローマの英雄ユリウス・カエサルで、二人は手を組んでエジプトを奪還、ローマとエジプトは急速に近づくがカエサルはローマ元老院によって暗殺されてしまう。

カエサルの死後クレオパトラはその後継者を自称する有力者アントニウスを魅惑し自分の意のままに操るが、カエサルの正当な後継者であるオクタヴィアヌスとの戦いとなり、天下分け目の決戦であるアクティウム海戦に敗れて、アントニウスは自殺。クレオパトラはオクタヴィアヌスを魅了しようと試みるがこれは失敗、もはやこれまでクレオパトラは隠し持った毒蛇に自分を噛ませて自殺してしまう。

ここにメネス王以来3000年以上も続いたエジプト王朝の命運は尽きるのであった。

 クレオパトラはエジプト史、ローマ史に大きな影響を及ぼした人物と言え、その様子はシェイクスピアの戯曲のモチーフになるなど人口に膾炙する存在であり、ハリウッド映画においてはエリザベステイラーが主演した映画「クレオパトラ」がアカデミー賞各賞を受賞するなど非常に存在感のある女王であった。

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第64位:孫文(1866年~1925年)

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中国革命の父。

辛亥革命を主導し清を滅亡させ、2000年以上も続いた皇帝による中華支配にピリオドを打った人物。

華僑生まれのクリスチャンであり、ハワイや東京を拠点に活動をし、「民族主義・民権主義・民生の安定」を柱とした三民主義を掲げ中国の民主化に尽力。中国の近代化への門戸を開く。

初代中華民国総統に就任しそのカリスマ性を以て対立する国民党と共産党をまとめ国共合作を実現。その生存中は両勢力のバランスをとることに成功したが、死後は分裂してしまい中国は長い内戦の時代へと突入することになる。

死に際して言ったとされる「革命未だならず」という言葉は有名。

第63位:フーゴー・グロティウス (1583年~1645年)

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 国際法の父と呼ばれる人物。

世界史上で最もIQが高かった人物と言われていて、11歳でオランダの名門ライデン大学に入学し、13歳で卒業、21歳の時に国際法についてまとめたものが現在でも国際法の基礎になっているというおよそ考えられない天才ぶりを発揮する。

彼の書いた「自由海論」は論争に発展し、オランダはグロティウスの説を支持、対してイギリスはこれに反発し航海法を制定、その結果両国の間で戦争になったほどである。

 そんなグロチウスの最大の功績は著作「戦争と平和の法」であり、世界史上初の国際条約と言われるドイツ30年戦争の講和条約「ウエストファリア条約」はその著作を参考にして作られたといわれ、その結果「ウエストファリア体制」と呼ばれる均衡状態を生み出し、ナポレオンの登場まではヨーロッパの勢力均衡の基礎になっていたほどであり、現在のような主権国家を基調とした国際法のことをウェストファリアシステムと呼ぶこともある。

第62位:煬帝(569年~618年)

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隋の二代目皇帝にして隋最後の皇帝。本名は楊広。

中国の皇帝は死後にその廟号を与えられるのだが、あまりにも暴君であったことからその死後「煬帝」という忌み名を贈られてしまう。

 煬帝の失政は兄を殺して帝位を継いだことと大運河を作るために過酷な労働を民衆に強いたこと、および高句麗遠征の失敗ということになっているが、兄を殺した件と高句麗遠征の失敗は実は唐の太宗も同様であり、隋の後に続いた唐王朝が意図的に煬帝を悪く書いているのではないかと個人的には見ている。

というのも唐時代から歴史の編纂は国家事業になっており、当然唐の正当性を主張するには隋を貶めるのが手っ取り早かったのではないかと思われるためだ。

とはいえ実際に煬帝が行った運河の開発が民衆に多大な負担を強いたのは事実で、始皇帝の万里の長城建設と並ぶ巨大土木工事として知られるが、唐を始めとした後代の中華帝国はその大運河によって大いに発展したのも確かで、特に宋王朝は首都を大運河の要所開封に置いていたりもする。長江と黄河をつなぐことで中国における水運は発展し、そのことが大いに経済を発展させたのである。

日本史にも登場し、聖徳太子が小野妹子を派遣した時の皇帝が煬帝であった。かの有名な日没する国の天子と呼ばれた人物が煬帝であったわけだ。

でも、そんなことを言われてもちゃんと土産物まであげて国に帰してくれる時点でそこまで酷くないような気もするのだがどうだろう。

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第61位:エリザベス一世(1533年~1603年)

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イギリスを女王陛下の国にした人物。

「God save the Qeen」という国歌に象徴されるようにイギリスと言えば女王陛下の国というイメージがあるが、実はエリザベス女王以前イギリスは女王嫌いの国であった。中世時代にはエンプレス(皇妃)マチルダという人物のせいでイングランドが荒廃してしまったりメアリー1世がプロテスタントを虐殺し「ブラッディメアリー(血好きなメアリー)」と呼ばれるなどイギリスにとって女王の存在はむしろトラウマであったのだが、エリザベス1世の存在はそれらを全て覆したと言える。

彼女の時代はスペインとのアルマダ海戦に勝利するなどイギリスの国際的地位が飛躍的に高まった時代であり、大英帝国の歴史はエリザベス女王から始まったと言っても良過言ではない。

スペインは中世ヨーロッパの大貴族ハプスブルク家が支配する土地で、当時無敵を誇っていたオスマン帝国をレパントの海戦で破ったことから無敵艦隊という名で知られており、イギリスなどは問題としていないほどの勢いがあったのだが、エリザベス女王はドレークを始め海賊を支援しスペイン船を積極的に掠奪、アルマダ海戦においても小型船を多数使役し勝利を掴んだ。

 この勝利で勢いづいたイギリスは海洋国家として発展し、世界最強国家への道のりを突き進むことになる。

国内的には首長法を制定してイギリス国教会を完成させた人物でもあり、これに反発し信仰の自由を求めたピルグリム・ファーザーズがアメリカに逃れ、後のアメリカ合衆国を作ることになる。

もしエリザベス女王が首長法を制定しなければアメリカはスペインとフランスが争う土地になっていたかも知れない。そうなれば世界の歴史は大きく変わっていたことだろう。

なおこの時代にはシェイクスピアを始めとした文化の興隆期でもあった。大英帝国の黄金期は19世紀のヴィクトリア女王の時代であったが、その萌芽はエリザベス女王の時代にあったと言える。

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第60位:武帝(紀元前141年~紀元前87年)

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 漢の全盛期の皇帝。

武帝の時代は兎に角ド派手な時代で、漢帝国の全盛期であるとともに漢民族自体の全盛期であったと言えるかも知れない。

対外的には衛青や霍去病と言った勇将を派遣し宿敵ともいえる匈奴を散々に打ち破り、さらに西域と呼ばれる地域を獲得し漢を巨大帝国にしてその最大版図を築いた。

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国内的には五経博士と呼ばれる儒教の研究機関を置き、郷挙里選と呼ばれる人材登用制度を整備し、漢を官僚大国へと変貌させていった。

まさに漢の全盛期と言える時代であったが、晩年は巫蠱の獄と呼ばれる大事件を起こして冤罪において多数の人々を処刑したり、司馬遷の例に見えるように少しのことでも過酷な罰を与えるような暴政を行い、度重なる外征のために資金が足りなくなると均輸・平準および塩や鉄の専売などを行い民衆を苦しめた。

中華史上最強の暴君であるとに言え、武帝亡き後急速に漢は衰退していくことになる。

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第59位:ザーヒル・バイバルス(?~1277年)

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マムルーク朝の第五代スルタンにして実質的な建国者。

世界史の教科書に出てこないので日本での知名度はほとんどないが、十字軍とモンゴル軍の侵攻を撥ね退けたイスラム世界の英雄。その名声はサラディンに並び、実際にバイバルスの墓はサラディンの隣に作られている。

特に十字軍侵攻においてはこれを撥ね退け、マンスーラの戦いにおいて聖王と呼ばれたフランス王ルイ9世を捕虜にすることに成功。

エジプトに侵攻してきたモンゴル軍にもアイン・ジャールートの戦いで勝利、その後はシリア遠征に力を入れ、その生涯において38回のシリア遠征を行い十字軍と21回、モンゴル軍とは9回の交戦し、見事シリアをマムルーク朝の領土とし、その後も十字軍相手に勝利を重ねアナトリアにおけるキリスト教の重要拠点アンティオキアを散々に破壊しキリスト教勢力を中東から追い出すことに成功した。

国内的にはシリアからエジプトまでを結ぶ駅伝制を整備するなど内政にも力を入れ、その結果マムルーク朝は以後200年以上続く長期政権となる。

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第58位:マリア・テレジア(1717年~1780年) 

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18世紀のヨーロッパを席巻したハプスブルク家の女性当主。

ハプスブルク家は姻戚関係によってヨーロッパの様々な地域の王や皇帝を輩出した一族で、マリア・テレジア自体は神聖ローマ皇帝であった父カール六世の死去に伴い最初オーストリア大公の地位を引き継いだ。

しかしこれにプロイセン王が異議を唱え、シュレジェンという地域の割譲を要求、これに便乗する形でバイエルン公は神聖ローマ皇帝の継承権を主張し、先祖代々の宿敵ブルボン朝フランス王ルイ15世もこれに同調する姿勢を見せた。

これに対しマリア・テレジアは断固とした態度を見せ、諸国家との間にオーストリア継承戦争が勃発。

戦争の結果プロイセンにシュレジェン地方を奪われる形となったが、無事に父の地位を引き継ぐことには成功。神聖ローマ皇帝には夫のフランツ一世が就任し、マリア・テレジアはオーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王を兼任することになる。

しかしシュレジェンを奪われた恨みは深く、マリア・テレジアはハプスブルク家最大のライバルであった仇敵フランスのブルボン王家と手を結び、あまりの衝撃にヨーロッパではこれを「外交革命」と呼ぶほどであった。さらにはロシアとも同盟を結びプロイセン包囲網を形成、オーストリアとプロイセンの間に七年戦争が始まる。

ここにイギリスがプロイセン支援という形で介入し、まさに国際戦の様相を呈し、最終的にはオーストリア側はシュレジェンの領有権を放棄することになった。

この背景にはフランスがイギリスとのフレンチ=インディアン戦争に敗北したことや、ロシアの君主が変わりプロイセンよりの政治を行ったことなどがある。

この一連の戦争を通じてブルボン家とハプスブルク家のつながりは強まり、その結果マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットは後のフランス王ルイ16世の妃となり、フランスとオーストリアは強固な同盟関係を築くことなる。後のフランス革命においてこの関係は非常に重要なものとなのだが、それはまた別の話。

第57位:永楽帝(1360年~1424年)

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統一王朝明帝国全盛期の皇帝。

初代皇帝洪武帝の四男として生まれ、靖難の変と呼ばれるクーデーターを起こして皇帝に就任、都を北京において紫禁城を建設した。

 モンゴルやチベット、ベトナムや西域と言った周辺地域へ出兵を繰り返し、鄭和を提督に60を超える軍艦、3万に達しようかという乗組員を載せた大艦隊を率いさせ、15世紀の段階でアフリカ東岸にまでたどり着いていたという。

 日本の室町幕府との間で勘合貿易を始めたのも永楽帝であり、明を中心とした朝貢体制を作り、東アジアの覇者として君臨した。

しかし自身のクーデターにより儒教を修め科挙試験に合格した官僚たちとの相性があまり良くなく、その結果宦官を多用してしまい、そのことにより明王朝の屋台骨を崩してしまった人物でもあった。

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第56位:ダレイオス1世(BC522年~BC486年)

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古代ペルシャ帝国最盛期の王。

アケメネス朝ペルシャの始祖キュロス二世の娘と結婚することでペルシャ王となり、首都ペルセポリスを建造。王の道と呼ばれる街道を整備、貨幣や度量衡の統一などを行い内政を充実させながら国内を20の地域に分けてサトラップと言われる監督官を配置、強力な中央集権体制を確立した。

こう書くとあまり凄さが分からないかも知れないが、例えばタイとインドネシアとミャンマーとラオスとカンボジアが統一され同じ通貨を使って同じ単位を使って測量するような強力な王権ができたらどうだろう?

それでもピンとこなければ中国と日本と韓国と北朝鮮と台湾とフィリピンでもいい。

ダレイオス一世のしたことはそれぐらいインパクトのあることであったと言える。なにせその支配領域は現在のインド、パキスタンからトルコ、バルカン半島にまで及び、そして当時の最先進国であったギリシャにまで届こうという勢いであったのだから。

しかしそこでダレイオス1世に誤算が生じる。アテネやスパルタを中心としたギリシャ連合軍の前にマラトンの戦いやサラミスの海戦などで敗北、圧倒的戦力を誇ったペルシャ軍はペルシャ戦争に敗北するのであった。

 ペルシャ戦争はまさに世界の歴史を変えた戦いと言え、戦いを勝利に導いたアテネの民主制は模範とされ、後年多くの国の政治モデルとなった。

現在日本の政治制度も元を辿ればアテネの政治システムに行きつくほどであり、もしダレイオス一世が勝っていれば、そのような文化は断絶し、現在の政治システムにおいて民主主義が主流とはならなかったかも知れない。

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第55位:徽宗(1082年~1135年)

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歴史的暗君。世界史全体で見てもここまでヒドイ君主は指折りであろう。

「風流天子」と呼ばれ、政治に一切興味がなく、その結果として北宋を滅亡させ異民族に華北が支配されることになってしまった。

「花石鋼」と呼ばれる歴史的な悪政を行い、それがもとで宋江の乱、方臘の乱と言った大規模反乱が起こり、国力は大いに衰退。賢臣を遠ざけ、宰相の蔡京や宦官の童貫などの佞臣を重用するなど暗君の代名詞的な行動をとり国を大いに乱し、最後には北方から攻めて来た女真族国家である金によって首都開封が陥落、徽宗を含めた皇族など数千人が連れ去られる「靖康の変」を引き起こしてしまう。

その結果宋は滅び、たまたま生き残っていた次男が江南に逃れ南宋を建国することになるのであったが、徽宗(きそう)の滅茶苦茶な政治ぶりが混乱を引き起こしたと言え、中国四代奇書の「水滸伝」はこの徽宗の時代の混乱を背景にした物語である。蔡京や童貫などはそのまま出てきて史実そのままな悪役ぶりを発揮、水滸伝ではなぜか徽宗は悪くないことになっているが、どう考えても北宋の滅亡に関しては徽宗が悪い!

 そんな暗君徽宗の唯一の救いと言っても良いのがその芸術の才能だけは本物で、芸術的な功績だけを見るならば世界史における歴代君主の内でも断トツの一位であろう。

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この辺りは芸術の才能が一ミクロンもなかったネロとの違いかも知れない。でもネロはまだ善政を行った期間もあるし、徽宗に比べたら遥かにマシな存在だと言える。いや、どっちも酷いけどさ…

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第54位:オリバー・クロムウェル(1599年~1658年)

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清教徒革命の指導者。

鉄騎隊と呼ばれる軍隊を率いて武力的に革命を行い、国王の処刑という欧州世界にはほとんど見られなかった凶事を断行。

 反対派を悉く弾圧し、貴族や教会から没収した土地を再分配、スコットランドとアイルランドに侵攻しアイルランドを併合、ローマ帝国の護民官の制度に倣って終身護国卿に就任、圧倒的な独裁政治を行う。

エドワード一世による(1290年)ユダヤ人追放令を解くなど後世に与えた影響も大きく、これにより英国内でロスチャイルドを始めとしたユダヤ人の富豪が誕生し始め、やがて国政に影響を与えるようになった。

その死後には再び王制が復古するものの、1688年には今度は武力を伴わない名誉革命が起こり、以降「国王は君臨すれども統治はせず」の原理によってイギリスの政体は議院内閣制で安定し、王室は現在まで続いている。クロムウェルによる清教徒革命はその過渡期と見るのが良いかも知れない。

クロムウェルの評価に関しては、当代から現代まで賛否両論あり、独裁者で悪であるという意見もある一方イギリスにおける最大の英雄であるという評価もある。

個人的には、どちらかというよりどちらも備えた人物であったという評価が妥当なように思う。

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第53位:ニコラ・テスラ(1856年~1943年)

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 ニコラ・テスラと聞いてピンと来る人はほとんどいないと思うが、電気の発明者と言えばその影響力が分かると思う。

オーストリア帝国領だったセルビアの生まれで、後に渡米して発明王エジソンのもとで働くもすぐに対立して辞職。原因はエジソンが直流での電力事業を推進しようとしたのに対しテスラは交流の電力事業を推進しようとしたことにあったという。

現在全世界において交流電流が採用されていることや磁束密度の単位においては彼の名前をとってテスラという単位が使われていることを考えると、知名度はエジソンに遥かに劣るが、影響度はエジソンよりも遥かに勝ると言えるのではなかろうか。

第52位:西太后(1835年~1908年)

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歴史上最強の悪女。本名は慈禧(ジキ)。

実は自身は皇帝にも皇后にもなったことがなく、皇太子、そして皇帝の母として、その後はキングメーカーとして清王朝を陰から操り続けた。

元々は感豊帝の妃として後宮に入り、最初の男の子を産んだことで一気にその地位が上昇し、感豊帝の崩御後その子が5歳で同治帝として即位すると感豊帝の側近達を粛正し、権力を握ることに成功。息子が亡くなった後も親類を光緒帝として即位させると裏からその政治を操り、結局は死ぬまで権力の座を譲らなかった。

彼女が権力を握っていた間にアロー戦争(英仏にボロ負け)、義和団事件(欧米列強八か国にボロ負け)、日清戦争(日本にボロ負け)が起きており、その間に清の国力は目も当てられないほど衰退した。

特に日清戦争の際には日本との戦いよりも自身の誕生会を優先し、海軍の軍費を自身の誕生会の費用にしたほどである。日本が大国であった清に勝てたのはこの愚策のためという面もあり、このことが確実に世界の歴史を変えた。

あまりにも好き放題やりすぎたために「眠れる獅子」と恐れられた清はもはや「眠れる豚」と言われるほどの死に体となっており、事実彼女の死後3年後に清は滅んでしまった。

しかしそのような状態においても権力の座から転げ落ちなかったその権力欲と迫力、なんだかんだ清王朝を存続させた点だけは称賛すべきかも知れない。

ネロや徽宗などの暗君は暴政がもとで皇帝ではなくなってしまったり暗殺されてしまったが、西太后は死ぬまで権力の椅子に座り続けた分有能であったと言えるかも知れない。ただしそれは政治的な面ではなく、権力にしがみつくという意味においてだが。

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第51位:ウィストン・チャーチル(1874年~1965年)

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第二次世界大戦時のイギリスの首相。

連合国を勝利に導いた立役者の一人で、アメリカのルーズベルトやソ連のスターリンとともにヤルタ会談およびその後の世界の主役たる人物であった。

 二次大戦時にイギリス国民を励ますためにした「勝利のVサイン」は非常に有名で、「ダービー馬の馬主になることは一国の宰相になることよりも難しい」などの名言でも有名。

 チャーチルの人気は非常に高く、亡くなった後の葬儀には30万を超す人々が参列し、基本的に首相経験者の葬儀には参加しないことになっているイギリス女王エリザベス2世が葬儀に参加したことでも有名になった。

ちなみにロスチャイルド家とも関係が深く、イギリスロスチャイルド家の3代目ヴィクター・ロスチャイルドを自らの護衛隊に任命したいたことも知られている。それゆえか一貫して親ユダヤ主義者であり、ヒトラーのホロコーストを「この殺戮は恐らく世界史上最大かつ最悪の犯罪行為である」と言って激しく非難していた。

第50位:ソロン(紀元前639年~紀元前559年)

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ソロンの改革で有名なアテネの指導者。

負債の帳消しや債務奴隷の禁止、財産選挙の施行など今から2500年前の人物とは思えないほど先進的な改革を行い民主国家アテネの基礎を築いた。

 そうして芽生えた民主主義の萌芽は後に大国ペルシャを破り、現在の民主政治の基礎を創り上げることになる。

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第49位:毛沢東(1893年~1976年)

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中国共産党の指導者であり、国共内戦において国民党率いる蒋介石を追い出して中華人民共和国を作った人物でもある。

同じく共産党主義を掲げるソヴィエト連邦とは対立し独自路線を敢行。大躍進運動と呼ばれる農業政策においては現状を無視した改革を断行し数千万人と言われる餓死者を出してしまう。

それがもとでその権力は弱体化するが、復権を狙って文化大革命を行い、中国の伝統的な文化を徹底的に破壊しつくそうとする。特に孔子や孟子などの儒教は徹底的に攻撃され、「孝行」や「仁愛」「礼儀」と言った思想は中国から失われてしまう。

建国の英雄であり、闘争においては非凡な才能を見せた毛沢東であったが、政治面においては失策しかなく、それがもとで長らく中国の発展は遅れたと言える。毛沢東の死後、その頸木がなくなった中国の発展はすさまじく、ついに日本を抜いて世界第二位の経済大国へと成長した。

眠れる獅子が、ついに起きたのである。

第48位:ジョン・ロック(1632年~1704年)

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イギリスの啓蒙思想家。

無血革命であったイギリスの名誉革命の影響を受けて「市民政府二論(統治二論)」において社会契約に基づく革命権の正当性を主張、それが後のアメリカ独立宣言、フランスの人権宣言に多大な影響を与え、まさに伝統的な政体を革命的に変えてしまったと言える。ルソーやモンテスキューと言った啓蒙思想家およびその影響を受けた啓蒙絶対君主たちにも好んでロックの著作を読んだと言われ、ひいてはイタリアの統一やドイツ帝国の設立などにさえも影響したという。

ロックの思想は列強の基礎をなし、近代市民社会の根底を築いたと言っても良いだろう。

特に市民革命であったフランス革命とアメリカ独立戦争に正当性を与えたことは世界史の根本を変えてしまったとさえいえる。

フランス革命によりブルボン朝のルイ16世とその妻マリー・アントワネットは処刑され、続くナポレオン戦争によりヨーロッパ全体が激しい戦乱の時代へと突入していくのであった。

第47位:宋の太祖(趙匡胤)(927年~976年)

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南北合わせて200年以上続いた宋王朝の創始者。

後周の危機を救い、世宗を助け、その死後は禅譲によって宋を建国。戦乱吹き荒れる五代十国時代を終結させ平和な時代を創出した。

自身は武人でありながら極端な文治主義を採用し、中世の時代において珍しくシビリアンコントロールを実現させた。

そのため良い意味では平和な時代が続いたが、悪い意味では惰弱な政権が続き、北方の契丹族の国である遼や女真族の金には常に後手に回り、靖康の変によって華北を取られてしまう。

それでも王族が江南の地に逃げ延びたことにより南宋が建国され、金よりも長い間続いたのは特筆すべき事項かも知れない。

もし趙匡胤がいなければ、晋が滅亡した後の魏晋南北朝のように長く戦乱が続いていたことであろう。

なお余談だが北宋の王族は趙匡胤の弟の直系であるが、南宋の皇帝は趙匡胤の直接の直系子孫が代々皇帝となった。

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第46位:メフメト二世 (1432年~1481年)

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1453年、全世界に衝撃が走った。

紀元前8世紀以来脈々と続いてきたローマ帝国がその2000年以上に渡る歴史を閉じたのだ。

しかも滅亡させたのはイスラム勢力であるオスマン帝国であった。

元々死に体であったとはいえ東ローマ帝国の滅亡はヨーロッパ世界に大きな影響を与え、メフメト2世はその後もキリスト教世界への侵攻を続け、バルカン半島の大半をその領土とし、東方のイランにおいても覇権を握った。

まさに征服王の名にふさわしい活躍をした人物である。

しかしその真骨頂は文化の新興や財政の健全化などの内政面にあり、外征で消耗しきった漢の武帝とは異なりオスマン帝国はメフメト二世以降益々の発展を遂げることになる。外政と内政をバランスよく実行した君主であると言え、オスマン帝国はやがて力を増し、スレイマン大帝の時代にはヨーロッパ最大の大貴族ハプスブルク家の本拠地ウィーンが包囲されるに至る。スレイマン大帝が優れた君主であること以上に、メフメト2世の政策が実を結んだ結果だと言えるだろう。

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第45位:ナポレオン三世(1808年~1873年)

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ナポレオン1世ことナポレオン・ボナパルトの甥っ子。ルイ・ナポレオンという本名で呼ばれることもある。

 共和政に傾いたフランスにおいて、伯父のナポレオンに対する人々の信仰を利用して大統領になり、再び帝政を復活させた人物で、とにかく色々なことを行った。

 クリミア戦争に始まりイタリア統一戦争への介入、アルジェリア統治、西アフリカやマダガスカルへの侵攻、アジアの植民地化、メキシコ出兵、スペイン継承問題への介入など伯父も顔負けなほど国際情勢に首を突っ込む。

しかし最終的にはプロイセンの鉄血宰相ビスマルクとの戦いである普仏戦争にボロ負けし捕虜となった後イギリスに亡命、そのまま死んでしまった。

 宿敵であるビスマルクはルイ・ナポレオンに対してこのような言葉を遺している。

「ナポレオンは国内では次第に確信を失い、内政でありとあらゆる失策を犯した。その結果国民の不満が高まり、彼らの不満の矛先を逸らすためにますます戦争をせざるを得なくなっていった」

ボナパルティズムと呼ばれる伯父の権威をかさに色々やったがその実あまり成果はなく、プロイセン(ドイツ)との間のわだかまりは大きくなり、フランスの対ドイツ感情を悪化させ、その感情は第一次大戦後のヴェルサイユ体制を生み出し、やがてドイツでナチスの台頭するきっかけを作ってしまうことになる。

とはいえクリミア戦争やアロー戦争での勝利を通じてフランスの威信を強め、アフリカやインドシナにおいて植民地を拡大させた面もあり、その評価は非常に難しい人物でもある。

フランスという国に少なくない利益をもたらしているのも確かであり、少なくとも西太后よりは遥かに優秀であろう…

第44位:明の洪武帝(朱元璋)(1328年~1398年)

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紅巾の乱に乗じて各地の軍閥を統一していき、明を建国してモンゴル人の建てた元を滅亡させた人物。

宋以来の漢民族による統一王朝で、以後250年以上続く長期政権の樹立に成功した。

漢の高祖よろしく統一後は建国の功臣を粛正し続け、皇帝による絶対的な権力を確立する。西洋よりも200年以上も早く絶対王政を確立した人物であるとも言えるかも知れない。 

大帝国を建国した英雄であるとともに臣下を次々と粛正していった暴君であり、その評価は常に一定しない。ある人は歴史的名君だといい、またある者は歴史的暴君であるという。

後代に残されている二枚の画がそれを物語っているだろう。

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第43位:アブラハム・リンカーン(1809年~1865年)

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第16代アメリカ合衆国大統領。

専門家が好きな歴代大統領No.1!

あらゆる投票で歴代大統領の中でもトップ3に入るほどの人気で、まさにアメリカを代表する人物の一人である。

ドレッド・スコット事件以降、アメリカ全体が奴隷制賛成に傾く中、共和党を設立し真っ向から奴隷制を否定。

南部諸州はこれに反発してアメリカ合衆国を離脱し新しくアメリカ連合国を設立。アメリカは二分され、南北別々の国となりお互いに争うことになった。 合衆国において内乱が起きたのは後にも先にもこの一回のみであり、日本では南北戦争、アメリカでは市民同士の戦いを意味するシヴィルウォーが始まることになった。

勝負は奴隷解放宣言を出して国際世論を味方につけた北軍の勝利となるが、リンカーン自体は暗殺者の凶弾に倒れてその生涯を終えてしまう。

もしリンカーンがいなければ、アメリカは奴隷制を存続させ続けていた可能性さえある。それほどまでに当時のアメリカの世論は奴隷制賛成に傾いていたのである。

その存在はまさにアメリカの良心と言える。

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第42位:アイザック・ニュートン(1642年~1727年)

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近代科学の祖とも言える人物。

物理の教科書を開くとニュートンの発見した法則に溢れているのが分かる。ニュートンがいなければ後の世の科学の発展はなかったかも知れないというほどの人物であり、「万有引力の法則」や「微積分法」などを確立、科学の発展のみならず造幣局の局長として ニュートン比価および兌換率を定める活躍をし、これによって紙幣が安定して使えるようになった。

物理、数学、天文学、経済学などそれぞれの分野において革新的な発見をし、後世に与えた影響度はもはや計り知れないほどであり、もしニュートンが生まれなければ現在の社会はまるで違ったものになっていたかも知れない。

第41位:光武帝(劉秀)(紀元前6年~57年)

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 後漢の創始者。

王莽によって滅ぼされた漢帝国を復興させた人物であり、彼がいなければ中国は長い戦乱期に突入していたことであろう。

王莽に対する反乱であった赤眉の乱を平定し、各地の豪族たちをまとめあげ、雲台二十八将と呼ばれる名将たちと共に平和な時代を創出した。

周辺諸国に使いを送り、冊封体制を敷いたことでも有名で、その際委奴国王に金印を授けており、我が国日本の歴史は委奴国王が光武帝に使いを送った時点から始まる。

 戦乱にあっては英雄として、治世にあっては名君として活躍した。

古代においては珍しく奴隷解放などを行った先進的な君主でもある。

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第40位:ヨハネス・グーテンベルク(1398年~1468年)

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金属活版印刷機の考案者。

木版印刷機自体は東アジア地域に存在していたが、油性インクの採用などを含め活字量産体制を確立したのがグーテンベルクであったと言われる。

活版印刷機は火薬、羅針盤と共に中世三大発明の一つに数えられ、特にマルティンルターが起こした宗教改革の際には大活躍した。

それまで「聖書」は司祭階級のみが実質的に所持できるものでありラテン語で書かれているということも含め聖書を読んだことがないという者も多く、その解釈などは歪められることも多かった。グーテンベルク印刷機の発展で聖書が大量印刷された結果多くの者が聖書に触れることになり、教会と聖書の齟齬に気づいたものが増えたことが宗教改革の素地となった。

その後も啓蒙時代、産業革命とヨーロッパでは飛躍的に文明が発展し、そのことが西欧諸国を列強の地位まで押し上げた訳だが、その始まりは活字文化の発展による知的水準の底上げにあり、源流を辿ればその功績はやはりグーテンベルクに帰結すると言ってよいだろう。

まさに時代を、世界史を動かした人物だと言える。

第39位:蔡倫(50年~121年)

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 製紙法の開発者と言われている世界史上最も有能な宦官の一人。

この人物が現れるまでは竹などに文字を書くのが主流であったが、蔡倫以降は徐々に紙による記録が増え始める。この時代にはまだまだ紙は高価であったようですぐには実用されなかったが、技術の進歩によって次第に紙が普及するようになる。8世紀半ばに起きたイスラム勢力と唐の間に起きたタラス河畔の戦いを通じて製紙法はイスラム世界に伝わり、やがてそれはヨーロッパで発展、グーテンベルクの活版印刷機と共にルターの宗教改革や啓蒙主義、産業革命を後押ししたと言える。

第38位:ジョージ・ワシントン(1732年~1799年)

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アメリカ合衆国初代大統領。

「アメリカ建国の父」と呼ばれる人物のうちの一人で、大富豪となったマーサと結婚して大規模プランテーションの所有者になるとまだイギリスの植民地であったアメリカのヴァージニア植民地で指導的な立場になり、独立戦争時には連合司令官としてイギリス軍と戦い独立を勝ち取った。

 その後ワシントンは大統領になる訳だが、その際に連合司令官の職を辞しており、このことがアメリカにおけるシヴィリアンコントロール(軍人ではなく文人が政治を行うこと)の伝統を作り、さらに3回目の選挙を辞したことで2選した後はその人物は三度目の選挙には出ないという慣習を創り上げた。

ワシントンの功績はアメリカの建国以上に独裁者にならなかった点にあると言える。アメリカの政治制度は共和政ローマを真似て作られたが、カエサルやオクタヴィアヌスが独裁制を敷いたのとは異なりワシントンは自ら権力の座から降りるということをした。

その結果政治が安定し、独裁者や暴君、暗君の出現を抑制し、優秀な指導者を生み出すシステムが確立されたことにより現在のアメリカの繁栄につながっていると言える。

もっとも、ワシントン自身がプランテーションの経営者として黒人奴隷を使役する立場であり、奴隷制度を容認したこともまた後世に大きな影響を与えてしまったのもゆるぎない歴史的事実ではあるが。

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第37位:ディオクレティアヌス帝(244年~311年)

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50年に渡って続いたローマ暗黒期「軍人皇帝時代」を終わらせた男。

彼が終わらせたのは軍人皇帝時代だけではなく、アウグストゥス以来の伝統的なローマの統治制度「プリンキパトゥス(元首政)」をも終わらせ東洋的な「ドミナートゥス(専制君主制)」を採用した。これは建て前だけでもローマの元老院を尊重する議会制政治を行っていたローマが名実ともに完全なる君主制に移行した瞬間でもあった。

ディオクレティアヌスはさらに帝国を4分割して統治し、自身はニコメディアを首都として東方のバルカン半島を本拠にした。そのため生涯においてローマには立ち寄っていない。

さらにキリスト教徒への大弾圧を加えたことでも有名であり、キリスト教史観においてはネロと並んで最悪の暴君とされる。この後100年も経たないうちにキリスト教がローマ帝国の国教になるとは夢にも思わなかったことだろう。

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第36位:ジェームズ・ワット(1736年~1819年)

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蒸気機関の発明者。 

人類の歴史は「産業革命」以前と以後で大きく分かれる。

産業革命によってヨーロッパでは工業生産量が飛躍的に上がり、余剰生産が生まれたことによって市場の開拓および資本の投下先が必要となり、帝国主義が生まれ、列強は圧倒的な武力をもってアフリカやアジア各国を次々と植民地化していったわけであるが、その「産業革命」の技術革新の核ともいえるのが「蒸気機関」である。

ワットが蒸気機関の仕組みを発明したことでイギリスは世界に先立ち産業革命に成功し、大英帝国は太陽の沈まぬ国となり、世界史上最大の帝国となったのであった。

第35位:フビライ・ハーン(1215年~1294年)

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南宋を滅ぼした元の初代皇帝。

現在ではクビライハーン、国の名前は大元ウルスと表されることが多い。

チンギス・ハーンの四男トゥルイの次男で、兄のモンケが早死にしたためにモンゴル帝国内の対中国指揮官となり首都をモンゴル高原にあったカラコルムから大都(現在の北京)に移し、宰相バヤンに命じて南宋を滅亡させる。

国号をモンゴルから中華風の元(あるいは大元ウルス)に変え、南方のベトナムや大和民族が支配する東国の日本へも軍隊を派遣した。

その治世は漢民族には酷な「モンゴル第一主義」を採用しており、モンゴル人を頂点とした外来人を重用し、例えばマルコ・ポーロのようなヨーロッパ人などを色目人として漢民族より上の扱いにするなど多数派の漢民族の不満を溜めるものであり、更にチベットの僧侶バスパに独自のバスパ文字を作らせるなど徹底的に漢民族を弾圧するものであった。

そのため元は彼の死後100年も持たずに朱元璋によってモンゴル高原に追いやられることになる。

第34位:サラディン(サラーフ・アッディーン)(1177年~1193年)

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 アイユーブ朝創始者にして第三回十字軍を撃退したイスラム最大の英雄にしてクルド人史上最高の英雄と言われる。

ファーティマ朝の武将であったがこれを滅亡させ新たにアイユーブ朝を創始し、ヒッディーンの戦いにおいてテンプルナイツおよびヨハネ騎士団を駆逐し、キリスト教徒が建てたエルサレム王国を滅亡させ、聖都エルサレムを再びイスラム勢力のものとした。

この際捕虜を無償でかつ無傷で解放したことでキリスト教徒たちを驚かせる。

その後キリスト教勢力の威信をかけた第三次十字軍が侵攻してくるとイングランドの獅子心王リチャード3世との間に死闘を繰り広げ一進一退の攻防の末見事に撃退、エジプトからシリアまでの広大な地域の覇権を手にした。

 クリスチャンにも非常に寛大で、キリスト教徒に対し聖都エルサレムへの巡礼を認めるなど戦神の如き活躍を見せながらも慈悲深い君主であったと言える。

そのためか、イスラム世界はもちろんキリスト教世界においても非常に評価が高い。

第33位:ペリクレス(紀元前495年~紀元前429年)

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アテネの民主制を完成させた人物。ペリクレスのもとで民主主義の一つの到達点に達したと言え、民会を最高意思決定機関とし、人類の歴史上初めて直接民主制を実現させた功績は大きく、ある程度の規模と発展度をもった国家が直接民主制になった例は後にも先にもペリクレス時代のアテネのみである。これは現在のいかなる国家でも実現できていない快挙と言えるだろう。

しかしその一方でデロス同盟の資金を勝手に流用してパルテノン神殿の増築にあたるなど悪政も目立ち、アテネを中心としたデロス同盟の崩壊につながり、ついにはスパルタを中心としたペロポネソス同盟との間のペロペネソス戦争に発展。その際中にペリクレスが病気で死ぬとアテネは今までの繁栄がウソのように衰退してしまった。

 ソロンが基礎を作り、クレイステネスを経てペリクレスが完成させた民主制は次第に影を潜めたが、その制度はやがてローマへと引き継がれていくことになり、そのローマの政治制度はビザンツ帝国を経てイスラムに渡り、十字軍を経由することでヨーロッパに逆輸入、ルネサンスと共に政治制度に大きな影響を与えた。特にイギリスの植民地であったアメリカ合衆国に与えた影響は大きく、現在ではアテネに源流のあるその制度をもってアメリカは世界最強国家として君臨しているほどである。

全ての始まりはアテネにあったと言え、それを完成させたペリクレスが人類の歴史に与えた影響は計り知れない。

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第32位:ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(1917年~1963年)

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第35代アメリカ大統領。

アメリカを象徴する大統領と言っても良く、キング牧師の主導する公民権運動を支持したりマフィアとの関係が取りざたされたりアポロ計画、ピッグス湾事件、ベルリン危機、ラテンアメリカに対する「進歩のための同盟」などケネディが主体となって世界に与えた事件は枚挙にいとまがない。

特にキューバ危機においては米ソの対立が頂点に達し、核戦争の危機に世界が震撼した。

ケネディはそれらの危機に対して断固たる態度で乗り切り、超大国としてのアメリカを全世界に周知させたと言える。

最後は暗殺されて亡くなるが、実行犯のハーベイ・リー・オズワルドもまた暗殺され、実行犯のジャック・ルビーもまた刑務所内で変死する。ケネディ暗殺は20世紀最大の謎と言われ、今なお解決されない世界史上の謎として残っている。

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第31位:オゴタイ・ハーン(1186年~1241年)

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チンギスハーンの三男で、その圧倒的に広大な領地を継いで二代目ハーンの地位に就いた。

ワールシュタットの戦いやカルカ河畔の戦いなどに勝利し、モンゴル帝国の最大版図を実現させた。

チンギスハーンの路線を引き継いでひたすらに帝国を拡大させ、甥のバトゥをヨーロッパに派遣し、現代のブルガリアやハンガリー、ポーランドなどにも侵攻しこれを領有、さらなるヨーロッパ侵攻を前に54歳で病没。彼の死後巨大なモンゴル帝国は4つに分裂してしまう。

もしオゴタイがもう少し長生きしていたなら、モンゴル軍の侵攻はヨーロッパのどの程度まで広がっていただろうか?

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もしオゴタイが生きていたならあるいはウィーンを占領し、イタリアやドイツ、フランスをも侵攻し、大西洋にまで達していたかも知れない。

そうなれば世界の歴史は大きくかわっていたことだろう。

いずれにしてもその存在は世界各国に恐怖を与え、西欧においては後に「黄禍論」と言われるモンゴロイド忌避の原因を作ったとも言え、その影響は後代にまで及んだ。

第30位:ホメロス(紀元前8世紀頃)

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「イリアス」と「オデュッセイア」の作者。

叙事詩というジャンルを確立した人物であり、彼の著作は後のヨーロッパにおける全ての芸術に影響を与えたとさえ言われる。

一例を挙げればローマ最高の傑作「アエネアス」を書いたヴェルギリスに影響を与え、そのアエネアスはルネッサンスの巨匠ダンテの「神曲」に影響を与え、さらに神曲は後代ドイツの生み出した最高の天才ゲーテの「ファウスト」にも影響を与えた。 

叙事詩というジャンルを確立したのが彼であったと言われ、彼に影響を受けたと公言する作家はオレドノ・バルザックやヴィクトル・ユーゴー、ジョン・ミルトンなど枚挙にいとまがない。

その存在さえも疑問視されることもあるが、後世の文学に与えた影響は大きく、「ヨーロッパ文学の父」と呼ぶにふさわしい人物であろう。

第29位:ルイ14世(1638年~1715年)

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太陽王と呼ばれたブルボン朝最盛期のフランス王。

ルイ14世の治世は非常に長く、わずか5歳で即位してから76歳で亡くなるまで実に71年間もフランス王の地位にあった。

領土拡大に積極的で、スペイン継承戦争、ネーデルラント継承戦争、ファルツ継承戦争など周辺他国を巻き込んだ争い多数起こしたが、結果を見ればスペインを得たのみであった。

もっとも、そのスペインにおいてブルボン王朝は2019年現在まで存続している点を考慮するとその成果は非常に大きかったと言えるかも知れない。なにせスペインは長い間欧州最大の貴族ハプスブルク家の領地であり、それをブルボン家が得たというのはヨーロッパの勢力図を大きく変えた出来事でもあったからだ。

国内政策においてはプロテスタントを認めたナントの勅令を廃止するなど人材の流出を招き、さらにヴェルサイユ宮殿建設に代表されるように腐った真珠と評されるヴァロック文化に昏倒し、多大な負担を国民に与えた結果後のフランス革命の下地を作った人物であるともいえる。

始皇帝の万里の長城、煬帝の大運河、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿は世界三大国民に負担を与えた土木工事と言え、いずれも国家滅亡の原因になったと言える。

絶対王政を代表する君主の一人で、良くも悪くも非常に派手な人物であり、フランスの威信を高めた人物ではあるのだが、同時に相次ぐ戦争と土木工事で国力を衰退させた人物でもある。

「朕は国家なり」という言葉はルイ14世の人柄をよく表した言葉であろう。

第28位:ティムール(1336年~1405年)

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トルコのアナトリア東部からインド西部までを含む巨大な帝国ティムール朝を作った人物。 

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 伸長著しかったオスマントルコをアンカラの戦いで破りその勢いを止め、侵略につぐ侵略を行い全盛期のモンゴル帝国の約半分の広さをその領土とした。

元々はチャガタイ・ハーン国の将軍であったが、一代で身を起こし巨大な帝国を建国。

これだけの大きさの帝国を作ったにも関わらず、ティムールが伝記の編纂を嫌ったため現在でも分かっていないことの方が多く、征服地においても焼き尽くし破壊尽くす行為を行ったことも関係して記録が残っていないためその生涯は謎に包まれている。

ティムールは先天的に右足に障害があったと見られ、軍を指揮する時には神輿に載っていたと言われているが、その圧倒的な戦闘センスは本物で、勝率は100%。世界史上最強の指揮官の一人と言っても過言ではないだろう。

ティムールが生きた時代はちょうどルネサンスが起こった時期であり、かつヨーロッパはオスマン帝国の圧迫に悩まされている時期であった。もしティムールがオスマントルコを圧迫しなければオスマン帝国はバルカンよりも西側に侵攻していた可能性があり、そうなっていればヨーロッパそのものがイスラム化した可能性がある。

 また、後にインドを支配することになるムガール帝国初代皇帝バーブルはティムールの直系の子孫である。

「ムガール」はモンゴルを表す言葉で、その征服の遺伝子は確実に受け継がれたと言えるだろう。

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第27位:フランクリン・ルーズベルト(1882年~1945年)

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フランクリン・ルーズベルトの功績は二つある。

一つは絶望的であった世界恐慌をニューディール政策により解決したこと、もう一つは第二次世界大戦において連合国を勝利に導いたこと。 

フランクリン・ルーズベルトは史上唯一三選したアメリカ合衆国大統領で、アメリカ人が選ぶ歴代大統領人気投票においては大体3位以内には入る。

終戦の直前に死んだが、連合軍を第二次世界大戦勝利に導いた人間の一人であり、二度に渡るアメリカの危機を克服した人物でもある。ルーズベルトがいなければアメリカの歴史は大きく変わっていたであろう。世界恐慌の余波で衰退していた可能性さえある。

 それほどの功績のあるフランクリン・ルーズベルトだが、レイシストな一面もあり、日系人を強制収容所に入れるなどの行為も目立ち、ニューディール政策においても国家による経済介入であるとして自由主義経済の立場からは批判にさらされていることも確かである。

 また、直接原子力爆弾の投下を命じたのはトルーマン大統領であったが、マンハッタン計画において原子力爆弾作成を命じたのはルーズベルトであり、ソ連に対して日本侵攻を促したのもルーズベルトであると言われている。

なおセオドア・ルーズベルトの娘であるエレノア・ルーズベルトと結婚し婿入りしており、両大統領は義理の親子ということになる。

スターリンやチャーチルとともにヤルタ会談に臨み、アメリカを二次大戦後の世界の覇権国とした人物でもあり、同時に冷戦の扉を開いた人物であるともいえる。

いずれにせよフランクリン・ルーズベルトが世界史に大きな影響を与えた人物であるのは間違いないであろう。

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第26位:ウラジミール・レーニン(1870年~1924年)

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机上の空論とさえ思われていたマルクス主義における社会主義革命を実現してしまった人物。

ロシア革命がレーニンによって成功したことにより、世界の歴史はその形を大きく変えることになる。

 「帝国主義」の著者としても知られ、ロシア革命の勃発によりロマノフ朝は倒れ、各国はシベリアに出兵、その影響は多大なるものがあったと言える。

革命の際ロマノフ朝を嫌うロスチャイルド一族の支援を受けたことも知られており、また「帝国主義」の著者としても知られる。レーニンの名はペンネームであり、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフという。

世界史上初の社会主義政権を樹立した人物であり、ソヴィエイト連邦の創始者でもあるが、同時に世界を恐怖に陥れることになるある人物の台頭を許してしまった人物でもある。

第25位:劉邦(漢の高祖)(?~紀元前195年)

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 秦を滅ぼした項羽との楚漢戦争に勝ち再び中国を統一した人物。この人物の存在は中国の歴史を大きく変えた。

「漢字」「漢文」などの語源ともいえる漢王朝の初代皇帝であり、前漢と後漢合わせて400年も続く大王朝を創出した。

 400年という期間は中国の統一王朝の中でも最長期間に渡る政権であり、もし劉邦がいなければ秦滅亡後に春秋戦国時代のような大規模な戦乱に明け暮れるような時代が到来していたと思われる。

天下統一後には国士無双などの故事で有名な韓信など危険性のある部下を粛正し、劉氏による長期政権を樹立することに成功した。一方匈奴に対して戦争をしかけるもあっけなく敗北し、多額の賠償金を毎年払うことで赦しを得る。

良いか悪いかはともかく、これらの政策によって漢が平和な時代を享受できたのもまた確かである。

第24位:ユスティニアヌス帝(483年~565年)

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 東ローマ帝国ことビザンツ帝国最盛期の皇帝。

 一時的とは言えローマ帝国が失ってしまった地域の一部を取り戻すことに成功し、ビザンツ帝国の最大領土を達成する。

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 しかしユスティニアヌスが世界史に及ぼした影響については領土の拡張そのものよりも「ユスティニアヌス法典(ローマ法大全)」を編纂したことの方が大きい。

ローマ法についてはテオドシウス帝によって大部分が破棄されたと見られ、中世に至ってほとんど消失してしまったと言われている。それでも現代までローマ法が残っているのはこの時期にユスティニアヌスがローマ法大全を再編纂したことが大きい。

ユスティニアヌスが編纂したローマ法大全は後にイスラムとの戦いにおいてシリアに伝わり、十字軍によってヨーロッパに再輸入された。

そしてイタリアにローマ法を解釈するためのボローニャ大学が出来、ローマ法と共に伝わった文化はルネサンスを引き起こし、ローマ法は現在における先進国の全ての法の基礎となっている。

例えば日本の民法はフランス法の影響を受けていて、その方式は「パングテン方式」と言われているが、おおもとを辿ると古代ローマの法であるラテン法で使われていた方式である。

もしユスティニアヌスが法典を編纂しなければ、現代社会の法や政治システムは違ったものになっていたかも知れない。

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第23位:カール大帝(シャルル・マーニュ)(742年~814年)

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ゲルマン民族フランク族が建国したフランク王国の国王。 

偉大なるフランス王にして偉大なるドイツの王でもある中世ヨーロッパを代表する人物。

トランプのハートのキングのモデルとしても知られ、フランク王国を現在のフランスやベネルクス3国、ドイツへとまたがる大帝国へと成長させた。

文化面においても「カロリングルネサンス」と呼ばれる学術の振興に功績があり、アルクィンを始めとした有名な学者を保護し、文化レベルを上げた。

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 その功績によってローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」の称号を授かり、「カールの戴冠」によってゲルマン民族であるカールの権威が上がったとともに、ローマ教皇の権威も絶対的なものとなる。

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カール大帝の死後フランク王国は分裂してしまうが、教皇権は強くなり続け、後に十字軍を結成し西欧各国の君主を圧倒、誰もローマ教皇には逆らえない状況となり、カールの戴冠は教皇権の絶対性が確立された出来事であったともいえる。

なおカール大帝はドイツ語的な読み方であり、フランス語的な読み方であるシャルル・マーニュと呼ばれることもある(マーニュはフランス語で大帝あるいは大王の意味)。

その影響力から「ヨーロッパの父」という呼び名を世界史はカール大帝に与えている。

第22位:李世民(唐の太宗)(598年~649年)

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 長い中国の歴史において有数の名君として知られる李世民は、唐の建国者李淵の次男であるが、実質的な建国者ともいえ、隋末期の動乱をその手腕でもって鎮めた人物でもある。

李世民の活躍はなので建国前と後に分かれ、建国前は武川鎮軍閥出身の群雄達を次々に打ち破り、戦いの度に魏徴や李勣、尉遲敬德(うっちけいとく)と言った後に「凌煙閣二十四功臣」と呼ばれる名将たちを仲間にしながら強く、そして強力になっていき、隋末の動乱期を太平に導いた。

後半は玄武門の変にて兄や弟を殺害、父を追放し唐の二代目皇帝になると房玄齢や杜如晦と言った有能な宰相を重用して「貞観の治」と呼ばれる中華最盛期を現出した。

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その結果唐の都長安は当時としてはけた違いの100万という人口を抱えるに至り(同時代のロンドンは3万人ほど)、日本においても遣唐使を派遣し長安をモデルとした都の建造が始まるなど国際色豊かな都市として発展した。

さらにこの時代、西遊記のモデルともなった玄奘三蔵がインドに向けて旅に出て仏教の経典を持ち帰っている。

李世民の何より大きい功績は、唐がこの先も繁栄をつづけ、約300年弱という中華史上もっと長く続いた王朝になったということであろう。

総合的に見ても李世民は中国最強の名君にして最も世界史に影響を与えた人物の一人だと言える。

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第21位:スレイマン大帝(1494年~1566年)

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オスマン帝国最盛期のスルタン。

即位と同時に東欧の中心地ベオグラードを占領し、地中海の要所ロードス島を手に入れると早々に東ヨーロッパの覇権を握る。

その侵攻の激しさは征服王と呼ばれたメフメト二世を凌ぎ、モハーチの戦いにおいてはマジャール民族の血を引くハンガリー騎兵を破り、ヨーロッパ最強貴族であったハプスブルク家を散々に破り散らした後でその本拠地ウィーンを包囲してしまう。

海上戦にあってはプレヴェザの戦いにおいて大航海時代の覇者スペインをまるで寄せ付けない強さで圧倒し、東にあってはペルシャの重要都市タブリーズやアゼルバイジャン地方を獲得、フランス王とも同盟を結ぶなどオスマン帝国を世界帝国として他を寄せ付けない強さで世界を圧倒。

世界史においてはその功績からか「大帝」の名前で呼ぶことが多い。

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第20位:マルティン・ルター(1483年~1546年)

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マルティンルターが世界史に及ぼした影響もまた計り知れない。

ヨーロッパにおいて疑うことのできないほどの絶対的権威であったローマ教皇に真っ向から立ち向かい「宗教改革」と呼ばれる現象を引き起こした。

これによってプロテスタントと呼ばれる宗派が出来上がり、キリスト教はローマカトリック、ギリシャ正教、プロテスタントの三つ巴の戦いを繰り広げることになる。

 宗派の違いはやがて宗教戦争や魔女狩りを引き起こし、国家間の対立、民族間の対立などへと変貌していき、その影響は現代まで続いている。

また、宗教面のみだけではなく、ドイツの民族運動にも大きな役割を果たしており、神聖ローマ帝国としてカトリック教会の事実上の支配下にあったドイツ国民達の意識を変え、ドイツ農民戦争やドイツ30年戦争などにも遠因を与えたと言える。

特にドイツ30年戦争においては国民の3人に1人が亡くなったと言われるほど規模の大きなものであり、それによって大幅にドイツの歴史および世界の歴史が変わってしまった。

その講和条約であるウェストファリア条約は初の国際条約とも言われ、ウェストファリア体制と呼ばれる国際均衡を生み出し、国家を主権者ととらえる近代社会の基礎を形作ることになる。

第19位:テオドシウス帝(347年~395年)

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テオドシウス帝はローマ最後の大皇帝と言え、その死後には二人の暗君によってローマ帝国は東西に分裂し、そのうち西側は破滅へと一直線に進み、その死後100年もたたずに滅亡の憂き目を見ることになる。

テオドシウス帝の在位中、キリスト教を国教とする旨の詔が出され、領内にある非キリスト教的なものは悉く破壊された。

特にローマ伝統の神々の像や神格化された歴代ローマ皇帝の像は徹底的に破壊され、一神教であるキリスト教の精神のもと、寛容さの欠片も見当たらないほどの歴史上稀に見る文化的ジェノサイドを敢行した。

名実ともにローマを滅ぼした人物だと言えるだろう。個人的な意見としては、テオドシウス帝の文化的ジェノサイドをもってローマは滅んだと思っている。ローマがいつ滅んだかは諸説あり、476年に滅んだと考える人間は年々少なくなっている。なにせその時代にはローマ皇帝が廃されただけでローマの精神ともいえる元老院は存続していたからだ。

それはさておきテオドシウス帝の凶行によりローマの優れた文化は徹底的に破壊され、ヨーロッパは長い暗黒時代と呼ばれる時代に突入してしまう。

停滞期に入った欧州が再び光を取り戻すにはビザンツ帝国からイスラムに伝わったローマ文化が十字軍を通して再びイタリアに逆輸入され、ルネサンスが開花するまで待たなければならず、これはテオドシウス帝の時代より実に1000年も後のことであった。

文明の大いなる後退という意味で、テオドシウス帝の世界史に与えた影響は非常に大きいと言えるだろう。

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第18位:ガンディー(1869年~1948年)

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「非暴力・不服従」を貫いてインドの独立を勝ち取った偉大な独立運動家。

元々は南アフリカで弁護士をしていたが、インドに帰りインド独立の為に活動する。

「サティーヤグラハ」と呼ばれる思想を通じて1947年にはインド独立に成功。

しかしその際にヒンドゥー教とイスラム教の対立を抑えることはできず、インドとパキスタンは分離して独立することになってしまう。

 その後も双方の融和を目指したが、1948年そのことを裏切りと感じたヒンドゥー過激派によって暗殺されてしまう。

インドの独立は後に続く民族自決運動の走りとなり、1960年代にはアフリカ諸国が次々と独立、その思想は公民権運動で有名なキング牧師やダライラマなど多くの独立運動家も受け継がれ、後の世界の歴史に大きな影響を与えたと言える。

追記:プラトン

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はてブやSNSのコメントで「なぜプラトンが入っていないのか?」という質問を複数受けた。

結論を言えば私のミスである。

プラトンは古代ギリシャにおいて「国家論」や「ソクラテスの弁明」を著し、弁証法、数学、政治学、法学など現在では細分化した総合的な学究に精通し、その思想はローマのネオプラトニズムやルネッサンス諸文化、さらには社会主義の成立に深く影響を与えており、「パイドン」「国家」など現在でも読むことのできる多くの著作を残したことは人類史でも稀なほどの功績であるというべきであろう。

第17位:ゴータマ・シッダールタ(紀元前五世紀頃)

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釈迦、あるいはブッダと呼ばれる人物である。

インドあるいはネパールの王族として生まれたがその地位を捨てて修行の旅に出る。その後は各地を放浪し、沙羅双樹の下で瞑想に耽りながら悟りの境地に達し、その教えは後に仏教となり鳩摩羅什や玄奘三蔵などの活躍によって中国に伝えられ、遣唐使や朝鮮半島を通じて我が国日本にも伝わることとなった。

現在でも日本やタイなどの文化の一部となっており、極東文化圏においては人が死んだ際などには仏教式の葬儀を行うのが常である。

特に日本では葬儀は仏教式、結婚式は神道式あるいはキリスト式となっており、その国の歴史においては仏像などが多数作られ現在でも広く信仰されている。

 仏陀の思想はスティーブジョブズにも多大な影響を与えたと言われ、彼はのちにマッキントッシュというパソコンOSやスマートフォン、iPodなどを開発し、テクノロジーの分野で世界に革新を起こすようになる。

第16位:ヴィルヘルム2世(1859年~1941年)

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ドイツ帝国の第三代皇帝にして最後の皇帝。

ビルマルクを始め多くの宰相を採用し富国強兵につとめ、ドイツの軍国主義的性格を強めた。

日本に対する三国干渉、ベルリン、バグダッド、ビザンチウムを結ぶ3B政策、イギリスとの建艦闘争、二度に渡るモロッコ事件と積極的に国際情勢に首を突っ込み、フランスやイギリスと言った豊富な植民地を持つ列強を挑発したことで関係を悪化させ、その結果ドイツ同様植民地をあまり持っていないオーストリアやイタリアと共に三国同盟を結成する。

その後起こったサラエボ事件によってオーストリアとセルビアの関係が悪化すると積極的にこれに介入、このことが第一次世界大戦を引き起こすことになった。

結果は敗北。ドイツ帝国は解体、ヴィルヘルム二世は皇帝としての地位を失い、フランスを中心とした戦勝国側は天文学的な賠償金をドイツに課し、ヴェルサイユ体制を敷いていく。

しかしそのことはドイツ側の閉塞感を産み、ナチスの台頭という事態を引き起こし、やがて二度目の世界大戦へと進んでいくことになる。

ヴィルヘルム二世自体はナチスドイツのポーランド侵攻から二年後に亡くなるのだが、彼は一体どんな気持ちでナチスを見ていたのだろうか?

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第15位:クリストファー・コロンブス(1451年~1506年)

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コロンブス以前にアメリカ大陸にたどり着いていたヨーロッパ人は存在していたらしく、アイスランドに住むヴァイキングが既にアメリカ大陸に渡っていたという。

しかしルネサンスを迎えたヨーロッパがアメリカ大陸を「発見した」ということに大きな意味がある。

しかもスペインが。

コロンブスがアメリカ大陸を「発見」して以降、スペインは南米を瞬く間に支配し、現在でも南米はブラジルを除くとスペイン語が公用語であるのはこのためである。

ちなみにコロンブス自体はイタリアの海洋都市ジェノバで生まれたイタリア人であり、航海の腕を買われてスペイン王室から派遣されたという経緯がある。

コロンブスの新大陸発見はインディオに対するジェノサイドと大西洋における黒人の奴隷貿易を活発化させたという負の面を持つが、一方でトマトなどのナス科の植物がヨーロッパに持ち込まれたため、イタリアでは欠かせないトマト料理などもこの時に生まれている。

それがトルコやフランスなどにも広まって、華やかな宮廷料理などが誕生した。

その一方でコロンブスが持ち込んだ天然痘ウィルスは瞬く間にアメリカ大陸に広がり、パンデミック(集団感染)により先住民族の数は激減。それとは別にコロンブス自体もジェノサイドを行っており、その被害は数千から数万の単位になるという。

コロンブスは偉人であるのか?

果たしてただの略奪者なのか?

現代では大きな議論を呼んでいる部分である。

なおコロンブス自体は香辛料を求めて船出をしており、死ぬまで新大陸のことをインドだと思っていたようだ。

第14位:カール・マルクス(1818年~1883年)

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「共産党宣言」の著者であり、共産主義の生みの親。

その存在感はすさまじく、彼がいなければスターリンも毛沢東もチャウシェスクもポル・ポトもいなかったであろう。見方によっては世界史上最も多くの人を殺した人物と言えるかも知れない。

世の中に政党と呼ばれるものは数あれど、現在どの世界にも存在している政党は共産党のみであり、そのことを鑑みれば、カール・マルクスが世界史に与えた影響は計り知れない。

彼がいなければ、そのアンチたる冷戦もなければマッカーシズム、あるいは半社会主義を掲げるナチスも出てこなかったかも知れない。

ただ一人の生み出した思想は世界を巻き込んだ訳である。

ソヴィエト連邦に象徴されるように、現在ではマルクス主義を採用した国の多くは消滅しており、共産党が第一政党なのは中国と北朝鮮ぐらいのものである。

第13位:コンスタンティヌス帝(270年頃~337年)

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迫害され続けてきたキリスト教をローマ帝国で公認した最強無敗のローマ皇帝。

この人物がいなければ、ローマ教皇は力を持てなかっただろうしキリスト教がヨーロッパで支配的になることもなかったであろう。

ミルウィウス橋の戦いに代表されるように、圧倒的な武力でもって乱立する皇帝候補を次々と破っていき、ローマ皇帝になるやコンスタンティノープルを建設し遷都。312年にはローマ国内でキリスト教を公認するミラノ勅令を出す。

これによって弾圧対象だったキリスト教は文字通り市民権を得ることになった。

恐らくはコンスタンティヌス帝の母が隠れクリスチャンであったと見られ、その影響があったように思う。

いずれにせよミラノ勅令によりローマ帝国内の勢力は激変し、キリスト教勢力は急激に力を持つようになり、それが後にテオドシウス帝の大破壊につながっていく。

そういう面ではコンスタンティヌス帝は東ローマ帝国の創設者にして同時にローマ帝国の破壊者であり、そしてローマ帝国最後の名君ともいえる存在であろう。

キリスト教が支配した後の世において、コンスタンティヌスは聖帝、あるいは大帝の名称で呼ばれることになり、その評価が覆ったことは史上一度もない。

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第12位:スターリン(1878年~1953年)

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カフカス地方のグルジア出身。スターリンというのはペンネームであり、本名はジュガシヴィリと言う。

レーニン亡き後のソヴィエイト連邦の指導者で、レーニンからは疎まれていたが、その剛腕でもって指導者の地位に就き、世界恐慌の際には各国が生産量を落とす中ほとんど唯一工業生産量を拡大させた。

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二次大戦においては当初ナチスドイツと手を組むものの決裂し連合国側に参戦、ヤルタ会談ではチャーチルやルーズベルトと共に世界の覇権を握ることに成功。

ポツダム宣言受諾後の日本領に攻め入ったのもこのスターリンであり、戦争のどさくさで北方領土を奪っていったのもこの人物である。

国内をまとめあげるために圧倒的な恐怖政治を行った人物でもあり、秘密警察KGBを手足の如く使い、少しでも気に入らない人間がいると即座にシベリアの強制収容所送りにした。有名な作家ソルジェニーツィンもスターリンによってシベリア送りになった一人である。

粛正の対象は実に幅広く、スターリンの右腕と言われたキーロフを始めとした側近中の側近でさえもその例外ではなく、後に書記長になったフルシチョフによってスターリン批判が行われており、そこでようやくスターリンの行ってきたことが明るみに出たほど秘密保持が徹底していた。

その被害者の数は測定不能で、下手をするとその数は八ケタにのぼるのではないかという説さえあるほどだ。

そのような恐怖政治を行ったにも拘らず、近年でもロシア内での評価は高い。なにせ、ソ連という国をアメリカに対抗できる唯一の超大国にのし上げたのは他でもないスターリンであり、現在のロシアはBRICSと言ってブラジルあたりと並ぶほどの評価になっているのだから無理もない話であろう。

対外的には共産主義勢力を次々と拡大させ、ハンガリーやチェコなどの東欧諸国を衛星国とする一方で同じ共産主義国家である中国やユーゴスラヴィアとは対立。独自の共産主義路線をひた走った。

実際問題スターリンがアメリカをはじめとしたあらゆる国に対して互角以上に渡りあった強者であるのも確かで、良くも悪くも世界史に多大なる影響を与えたのもまた間違いのない事実であろう。

第11位:オットー・フォン・ビスマルク(1815年~1898年)

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 「ドイツ」という国がいつ出来上がったのか?

答えは19世紀半ば、ビスマルクの時代からである。

ドイツはイタリアと共に統一が遅れた国家で、近代化をしたのも国家が誕生したのも日本の明治維新とほぼ同期と言える。

19世紀の前半、ナポレオンによって神聖ローマ帝国が解体され、いくつかの小国に分裂した。その中で急進的な役割を果たしたのがプロイセン王国だ。

プロイセンは単独でナポレオンに戦いを挑むほどの国家ではあったが、ヴィルヘルム一世の時代、鉄血宰相ビスマルクが就任したことによってその国力を大きく増した。

デンマークとの間の戦争を契機に、オーストリアとの間の普墺戦争、フランスとの間の普仏戦争に勝利し領土を一気に拡大、国内においても産業の発展が目覚ましく、1871年に約4000万人だったドイツの人口は一次大戦が始まった1914年には約6800万人にまで増えており、同時に学問分野での伸長も著しく、19世紀後半における物理学の発見においてはイギリス751件フランス797件であるのに対しドイツ1886件と圧倒的な割合になっており、各分野でドイツ帝国が他国を圧倒している様子が見て取れる。

ビスマルク自体は1890年に宰相職を辞しているが、ドイツの近代化と発展はビスマルクの時代になされており、それによって軍国主義ドイツが誕生したと言っても良い。言い換えればビルマルクがプロイセンおよびドイツを列強にまで引き上げたと言ってよいだろう。

しかし普仏戦争を通じてフランスとの間の禍根は根深く残り、ビスマルクの死後においてはドイツがきっかけとなり世界大戦が勃発、その後のフランスのドイツ憎しによりヴェルサイユ条約の狂騒へとつながった。

因果関係を見ればそれが後のナチスの台頭にもつながっており、良くも悪くもビスマルクという人物の存在が後の世界史を大きく変えたのは確かであろう。

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第10位:ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)

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良くも悪くも兎に角ド派手な人物である。

ナポレオンが生まれる少し前までイタリアの一部だったコルシカ島の出身で、フランス革命の流れにのりオーストリア戦線やイタリア、エジプトなどで転戦し、そのたびに勝利し名声を高め、ついにはフランス皇帝を名乗り戴冠式まで行ってしまったフランス第一帝政の創設者。

民主主義に傾いていたフランスを再び絶対君主制にしてしまった彼には現在まで賛否両論の両方があり、戦闘にも滅法強くアウステルリッツの戦いやライプニッツの戦いなど数多くの戦いに勝利したが、一方でロシア遠征の失敗やイギリスのネルソン提督とのトラファルガー海戦、ワーテルローの戦いなど敗戦も多く、最後は絶海の孤島であるセントヘレナ島に流刑になりそこで生涯を終えた。

 ナポレオン亡き後はオーストリアの宰相メッテルニヒによる反動的なウィーン体制が敷かれるが、英雄を待ち望む声と民主化を望む民衆によってフランスでは七月革命、四月革命という革命が相次いで起こり、ついに共和政が誕生、しかしそれに飽き足らないフランス国民はナポレオンの甥を支持し、フランスは再び帝政に戻るのであった。

フランスだけではなく、ドイツやオーストリアなど多くの国の歴史に影響を与えた人物で、近代ヨーロッパの歴史はまずナポレオンに始まると言っても過言ではないだろう。

ナポレオンによって解体された神聖ローマ帝国はやがてプロイセンを中心としたドイツ帝国へと変貌し、両国の争いはやがて世界を巻き込んだ世界大戦へと形を変えてゆく。

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第9位:ユリウス・カエサル(紀元前100年~紀元前44年)

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ユリウス・カエサルの名前は知っているけれど具体的に何をした人かはわからないという人も結構いると思う。

カエサルの功績は色々あるが、一番の功績は現在のヨーロッパを作ったというところだろうか。カエサルはガリア地方に遠征してそこをローマ化した訳だが、そのガリア地方こそが現在のフランスであり、フランスの文化はローマが下敷きになっていると言える。

ウィストン・チャーチルは「英国の歴史はユリウス・カエサルのイギリス上陸から始まったと」という言葉を遺しているが、イギリスが現在でもローマの歴史や政治制度に大きな影響を受けているのもやはりカエサルの影響が大きいと言える。

カエサルは内乱の一世紀と呼ばれるローマの内乱時代を鎮め、皇帝まであと一歩というところで元老院議員たちによって暗殺されてしまった。

しかしその後継者となったオクタヴィアヌスは初代皇帝となり、以後皇帝の名には「カエサル」の名がつけられるようになり、それがロシア語になるとツァーリ、ドイツ語ではカイザー、彼の持っていた軍事司令権インペラトルは英語でエンペラーとなった。

「皇帝」は「王」の上位概念であり、最上級の君主を表す言葉な訳で、その言葉にカエサルの名前が使われるということが如何にとんでもないことか。

さらには七月を表す「july」はユリウス・カエサルから来ていて、ローマを通じて世界の至る地域にその影響を与えているのはよく分かる。

ドイツの歴史家テオドール・モムゼンはユリウス・カエサルをして「ローマが産んだ唯一の創造的天才」と評したが、個人的にこれ以上カエサルを的確に表した言葉を他に知らない。

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 第8位:孔丘(孔子)(紀元前552年~紀元前479年)

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東洋文化圏は別名儒教文化圏とも言われる。

中国の歴代官僚登用制度である郷挙里選、九品官人制度、科挙などは全て儒教的価値観もしくは儒教の教養を問う内容であり、中国で官僚になりたければ儒教の知識がなければならなかった。

「礼儀」「孝行」など現在日本で大事にされている価値観も元々は孔子が主張した考え方であり思想である。

孔子が生まれた時代は彼の著作をとって「春秋」時代とされているほどで、この一事を考えても中国で孔子の存在が如何に大きいかが分かる。歴代皇帝はどれだけ権力を握っていてもその影響は基本一代、あるいはその王朝の存続期間に限るが、孔子の思想は現在にいたるまで実に2500年もの間続いているのである。

第7位:アウグストゥス(オクタヴィアヌス)(紀元前63年~14年)

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現代の最強国家アメリカの政治制度は古代ローマの政治制度を真似たことはよく知られているが、その政治制度を完成させたのがローマ帝国初代皇帝アウグストゥスことオクタヴィアヌスである。

カエサルの後継者としてアントニウスと組んでブルータスなどのカエサル暗殺犯達を討伐するとローマの実験を握り、今度はクレオパトラと組んだアントニウスとのアクティウム海戦に勝利。敵がいなくなったオクタヴィアヌスは独裁を行おうとしたカエサルの轍を踏まないように元老院を尊重しながらも独裁政治を行うプリンキパトゥス(元首政)という特殊な政体を創り上げた。

アウグストゥスの治世より「パクスロマーナ(ローマによる平和)」と言われる時代が実現され、その時代は世界史上においても最も発展し、最も平和を享受できた時代の一つだったと言っても良い。

なお、七月を「july」と呼ぶのはカエサルに由来があるが、8月を「August」と呼ぶのはこのアウグストゥスから来ており、その影響力が垣間見られる事象の一つと言えるだろう。

テオドシウス帝によってアウグストゥス帝の功績は無に帰されたが、その文化や政治制度、法律などはビザンツ帝国のユスティニアヌス帝からイスラムに伝わり、十字軍においてヨーロッパに逆輸入、そのままルネサンスや現在の民主主義の基盤を作るようになった。

ローマの歴史には人類の全てが詰まっていると言われるが、そのローマの歴史に最も影響を与えたのがこのアウグストゥスである。

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第6位:アレクサンダー大王(紀元前356年~紀元前323年)

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 史上空前の大帝国を築きヘレニズム文明を創り上げたマケドニア王。

ギリシャからインドに至る巨大な帝国を王位を継いでからわずか3年という短期間で作り上げてしまった世界史上屈指の天才であり、あの戦の天才ハンニバルですら自分よりも優れた人物であったと認め、ユリウス・カエサルやナポレオンですら尊敬する人物として真っ先に挙げるほどであり、戦闘時には敵の甚大な被害に対しアレクサンダーの軍団はほとんど兵を消耗しなかったと言われている。

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仏像がどこかギリシャ人に似ているのはこのアレクサンダー大王の子孫がインドに住み着いたからであるという話もあるぐらいで、インドからヨーロッパに至る巨大な文化圏を形成したことはあらゆる面で後の歴史にも大きな影響を与えた。

わずか32年しか生きていないとは思えないほどの業績である。

第5位:始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)

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もしヨーロッパが全て同じ通貨で同じ言語を使っていたら?

それを中国で実現したのが秦の政王こと始皇帝である。

元々中国を形成する漢民族は黄河の流域に文明を築いていたが、それぞれの地域によって当然のように言語も貨幣も単位も違った。現在でもヨーロッパでメートル法やインチ、フィートなどが入り混じっていることや言語、通貨もユーロ以外が使われているのと同様であったと思って良い。

それを始皇帝はかなり強引ではあったが各地の度量衡、言語、政治制度、貨幣などを統一したのだ。

さらに、万里の長城の建設のために強勢労働を民衆に強いて民に多大な負担をかけたことで民衆の恨みを買い、秦は始皇帝の死後わずか15年後に滅亡してしまう。

世界史上稀にみる暴政を行ったと同時に世界史上でも稀に見るような功績を上げた人物でもある。

それゆえに始皇帝の評価は常に時代を左右し、かなり広い幅で上下している。

それでも彼が「中華文明」を創り上げた人物であるのは間違いがないであろう。

それにしても秦は春秋時代や戦国時代において数百年の歴史を持つ国であったのに、中国を統一してからは100年も持たなかった。このことは人類の歴史において示唆的なことかも知れない。

第4位:アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)

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世界を混沌と破壊に導いた独裁者。

人類史上断然ダントツで最悪の戦争だった第二次世界大戦は1939年ヒトラーがポーランドに侵攻したその日から始まった。

ヒトラーが世界史に及ぼした影響は計り知れず、ドイツを壊滅的な状態から復興させ、アウトバーン政策などにより国力を復活させたまでは良かったが、その後ヨーロッパを電撃的な奇襲攻撃であっという間に制圧、支配地においてはポーランドのアウシュビッツに代表されるようなおぞましき強制収容所にてユダヤ人を虐殺、その後も世界を破壊しつくす勢いで戦争を継続、イギリスでのレーダーの開発、アメリカの参戦、ノルマンディー上陸作戦などで追い詰められると自分はさっさと自殺、その後ドイツは東西に分裂することになる。 

およそ人の考えられる範疇を越えた行動力をしめし、まさに世界史上最悪の悪党と言って良いだろう。

世界史においても主に悪い方向に影響を及ぼし、一体どれほどの人の命を奪い、どれほどの人の涙を生み出したのか。

第3位:チンギス・ハーン(成吉思汗・テムジン)(1162年~1227年)

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「世界史」という概念はチンギスハーンの登場から始まったという考え方さえあるほど世界史に影響を及ぼした人物。

1人の人物が中国とヨーロッパ諸国の歴史に直接影響を与えたのはチンギス・ハーンが最初でそして最後であったことだろう。

チンギスハーン以前もシルクロードなどを通じて東西の交流はあった。しかし、ポーランドのあたりから朝鮮半島までを支配するような巨大な国は過去には存在せず、その範囲はアレクサンダー大王の建てた空前絶後の大帝国をも凌駕してしまった。

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現在では世界の人口の4人に1人はモンゴル族の遺伝子を継いでいると言われており、その影響の大きさの一端が伺い知れる。

元々中国の歴史は北方の騎馬民族と南方の漢民族という面があったが、内陸部の中原と北方の騎馬民族はお互いに牽制しあいながらどちらの勢力も大きくなりすぎないというバランスをとっていた。

しかし徽宗皇帝の失政により中原が女真族によって支配されると頸木のなくなった騎馬民族はテムジンのもとに強大化し、クリルタイと呼ばれるモンゴル高原の首脳会議によって騎馬民族全体がこれに従い、巨大化したモンゴルは西夏や金を圧迫、そしてついにはそれらの帝国を次々に滅亡させ、南に残っていた漢民族の帝国である南宋を圧迫しつつも西へ西へと進路をとった。

チンギスハンの時代においては中央アジアのサマルカンドまでの進軍であったが、その子孫たちによりシリアやペルシャ、ついにはヨーロッパにまでいたり、孫の代においては南宋を滅亡させ、南はベトナム、東は日本に侵攻し、そのことは日本において元寇と呼ばれた。

まさに世界のあらゆる国の歴史に多大なる影響を与えた人物だと言えるだろう。

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第2位:マホメット(ムハンマド)(570年~632年)

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 現在では「ムハンマド」と表記されることが多いが、個人的にはフランス語風の読み方である「マホメット」がしっくりくる。

メッカの名門クライシュ族のハーシム家に生まれたマホメットはシナイ山にて大天使ガブリエルより啓示を授かりイエス・キリストに次ぐ預言者として開眼。イスラム教を創始する。

その後はメッカで布教活動をするも同じハーシム家からの迫害を受けメディナへと移動。このことは聖遷(ヒジュラ)と言われ、イスラム暦ではこの622年をヒジュラ暦元年とする。

やがて勢力を拡大したマホメットはメッカを支配するとそのままジ・ハード(聖戦)に臨み、当時最先進地域であったシリア、エジプトなどを次々と征服、その死後は言葉をコーランにまとめられ、後継者たちはさらに戦線を拡大、やがてペルシャやイベリア半島までもがその渦に飲み込まれ、インド北西部からヨーロッパまでを含む巨大なイスラム帝国が誕生した。

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 イスラム教は現在では中東やアフリカを中心に15億人もの人間によって信仰され、インドネシアを始めとした東アジアにもその影響力を及ぼしている。

マホメットがいなければ十字軍もオスマントルコもタラス河畔の戦いもなく、サラディンやバイバルス、スレイマン大帝も歴史の表舞台には出てこなかったであろう。

「マホメットなくしてカール大帝なし」

その言葉が表す通りその影響力はあまりにも大きく、中東やアフリカのみならずインドやヨーロッパにも多大なる影響を与えた。

マホメットのいない世界史というのは考え難いものがある。

第1位:イエス・キリスト(紀元前4年~30年)

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 何度考えてもやはり1位はこの人しかいないという結論になる。

イエスがいなければ宗教改革はなかったし、十字軍もなかったし、十字軍とイスラム教の対立がなければ所謂大航海時代もなかったかも知れない。少なくともカノッサの屈辱はなかったしローマ教皇もいなかった。

イエス・キリストが世界史に与えた影響はもはや測定不能で、イスラム教はそもそもキリスト教の影響を多大に受けている訳だし、現在でも南北アメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカの多くの地域、ロシアなど世界の約半分に渡る地域において信仰され、その数は20億人を越えると言われている。

キリストの言葉がおさめられた新約聖書は世界の歴史においてぶっちぎりのベストセラー第1位であるし、所縁すらない日本人ですらイエスの誕生日をクリスマスとして祝う。

イエス・キリストの存在しなかった世界など想像することすら不可能に近い。

かつてローマ領であったパレスチナで生まれたイエス。その弟子であったペテロや元々は弾圧する側であったパウロなどの活躍で迫害されながらも徐々に広がっていったキリスト教は、やがて巨大なローマ帝国をも飲み込む大勢力となり、コンスタンティヌス帝およびテオドシウス帝を通じてついにはローマ帝国の国教となり、ゼウスやアポロンなどの伝統的なローマやギリシャの神々を駆逐してしまった。

しかしそうなると今度はイエスが神と同一であるかどうかで論争となり、コンスタンティノープルとローマのどちらの司教が正しいかで揉め、聖書の解釈を巡って戦争が起こるようになる。

敵のいなくなったキリスト教徒たちはカトリック、ギリシャ正教、プロテスタントに分かれお互いに非難しあい、殺戮しあい、自己の正当性を主張しあい、やがて産業革命によって進歩した文明を剣に変えて帝国主義を創出し、世界を覆いつくした。

二度に渡る世界大戦も視点を変えればキリスト教徒同士の争いともいえる。

そのような状況をみて、「博愛」の大切さを説いた当のイエス・キリストはどのような感想を持っているのだろうか? もし死後の世界があるのなら聞いて見たいところである。

個人的にはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に出てくる「大審問官」の話が好きで、イエス・キリストがロマノフ朝ロシアに転生するのだがギリシャ正教会はそれを異端とするという内容で教会の独善を皮肉っている訳だが、イエスの教えはドストエフスキーの言うように多くの者によって歪められているように思う。

そういった面も含めてイエス・キリストの存在ほど人類に影響を与えた存在はいないだろう。

追記:ランキングを終えて

記事を公開して、色々な角度からコメントや意見を沢山いただいた。

「〇〇が入っていない!おかしい」という意見も多数拝借しており、これはある意味予想通りだったなぁと思う。

特に政治分野に傾き過ぎていて自然科学分野を軽視しているという意見は公開する前から多いかも知れないなぁとは思っていた。

同じテーマで記事を作成した「Michael H. Hart」という人物が「The 100: A Ranking Of The Most Influential Persons In History」という本を著していて、そのランキングは以下のようになる。

www.aokiuva.com

今回のランキングを作成するにあたってこのランキングを意識しなかったと言えばウソになるし、全然違うランキングを作りたかったというのもある。特に中国史に対する重要度の認識の違いは大きくて、個人的に「世界史」は必ずしも欧米の歴史ではないという考え方が強く、このようなランキングになった面もある。

実際に「中国関連高すぎ」というコメントもあった。

これはある意味「現代から見た世界史」の視点によるところが大きいかと思う。

自然科学分野と政治分野のどちらを重視するかは非常に難しい。

「現代史」の観点から見れば自然科学の影響が大きいのだけど、「世界史」というのは必ずしも現代史を中心に考えてはならんという思いがあって、自然科学分野の評価は低くなった。

そこに不満を感じる人が多いのはある種当然だと思う。

冒頭でも述べたように、今回は現代史から見た世界史というよりも、できるだけ「世界史」として独立したランキングを作りたかったという面があって、そうなると自然に自然科学分野における人物のランキングが下がっていった。

本来ならパスツール、コッホ、フック、デカルト、ラボアジェ、ドルトン、スピノザ、アリストテレス、ファラデー、ボーア、ハイゼルベルク、フェルミ、ラザフォード、マクスウェル、イブン・シーナ、ヒポクラテス、扁鵲、ノイマン、エジソン、ガリレオ、ケプラーあたりも入れたかったのだが、このような想いから泣く泣く削除した。

現代史から考える人類史であればこれらの人物は確実に入っていた。

なので色々な批判はあるだろうが、「世界史」という面で考えた時に、個人的にはやはり上記のようなランキングになる。

ただ、さすがにプラトンだけは追記した。本当はルソーやモンテスキュー、フランシスベーコンやヴォルテールなどの思想家やスタンダードオイルの創設者ロックフェラー、コンキスタドレスであるピサロにマゼランやヴァスコダガマなどの探検家、イエスの弟子ペテロにキリスト教の伝道者パウロ、諸学の父と言われたアリストレス、も入れたかったが、代わりに削るべき人物というのが見当たらなかった。

最も迷ったのがゾロアスター教の開祖ツァラストラで、一神教の創始者とも言われ、本来ならランキングに入ってしかりであるが、その生年にすら数百年のゆらぎがあるなどあまりにも不確定要素が多く、その存在はもやは神話にさえ近いためこちらも泣く泣くランク外とした。モーセもランクインさせたかったがほぼ同様の理由で入れなかった。

載せたい人物は山のようにいたのだが、かといってランキングを拡張する訳にもいかず、この辺りの取捨選択は本当に難しかった。

でも個人的には満足している。難しいテーマだったが書いてよかったと思う。