無神論者、篤信家、不可知論者、どんな立場の人であれ、世界の宗教から学べる叡智があります。今回は、数々の聖典の中から、最も重要で万人に役立つ教えをご紹介します。
私は神学者ではありませんが、20年以上、比較宗教学に関心を持ってきました。フィリップ・ノヴァクの「The World's Wisdom」や、スティーブン・ミッチェルの「The Enlightened Mind」など、世界宗教の歴史に関する本をたくさん読んできました。私が最も興味を惹かれたのは、世界宗教に共通するテーマです。共同体の物語、他者を尊重する物語、人生の目的を見つける物語などのことです。
宗教によって信じるものは異なります(死後の世界、神性の捉え方、宗教上の儀式など)。とはいえ、古くから伝わる聖典の中には、大切な人生の教訓がたくさん詰まっています。ここでは、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教の書物から、特に目を引かれた教訓を紹介します(宗教人口の多さからこの4つを選びましたが、ユダヤ教やシク教からもピックアップしています)
1. 黄金律
多くの宗教に共通する普遍の真理、教えがあるとしたら、それはきっと「黄金律」でしょう。黄金律とは、「自分がしてもらいたいと思うことを他者にもせよ」という内容の教えです。TeachingValues.comが指摘するように、こうした教えは、キリスト教、儒教、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、ユダヤ教、道教、ゾロアスター教などで共通して見られます。
例えば、ユダヤ教の聖典タルムードでは:
あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。これが律法の全体であり、他の全てはその注釈である。
ヒンドゥー教のマハーバラータでは:
これが義務のすべてだ。人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも、他人にしてはいけない。
イスラム教スンニ派の教えでは:
自らに望むことを仲間に望まぬ者は真の信者ではない。
一般社会では、これは共感と呼ばれているものです。共感は、仕事や交友関係において、最重要のスキルです。それは、他者の感情を理解することであり、さらに重要なのは、自分がしてほしいように他者を扱うことです。
2. 他者の幸福のために働くこと、特に貧しい人や不幸な人のために
この教えも黄金律と似ていますが、特に、自分より貧しい人や不幸な人に目を向けるよう説いています。数々の研究によると、最も成功した人たちとは「もらうよりも与える人」なのだそうです。多くの宗教はこのような無私と奉仕の考えを提唱しています。
例えば、ブッダが残した最後の教えは「他者の幸福のために働け」でした。
自らの道を歩め、修行僧たちよ、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世界への慈しみをもって、神々と人々の利益と幸福のために。
聖書も不幸な人への思いやりを説いています。
もしあなたの兄弟で貧しい人ひとりでもいるなら、その兄弟たちに向かって心をかたくなにしてはならない。また、手を閉ざしてはならない。彼の人に向かって手を開き、必要とするものを貸し与えなさい。この国で貧しい人がいなくなることはない。だから私は命ずる。貧しい者に手を開けと。
アルバート・アインシュタインは、ユダヤ教は宗教ではない、すべての命の美しさを祝福する伝統であると主張しています。
ユダヤ教は私にとって、人生に対する道徳的態度を教えるものだ。(中略)人生に対するユダヤ教の教えの本質は、生きとし生けるものの命を肯定することだと思う。(中略) しかし、ユダヤ教の伝統の中にはそれだけではない何かがある。それは、詩篇の中で光を放っている。いうなれば、この世界の美しさと不可解な崇高さに対する、陶酔的な喜びと驚きのようなものだ。それは、手を触れるとはかなく消えるほのかな暗示のようなもの。真の研究者は、その感覚から強力な知性を立ち上げる。しかし、それはまた、鳥たちがくちずさむ歌の中にも現れているように見える。
不幸な人を思いやることは、シク教の根本教義のひとつでもある、とCNNが報じています:
「(創始者である)グル・ナーナクは、神に会いたければ、貧しい人々に仕えなさいと語った」とジョハー氏は話しています。
世界中にあるグルドワラ(シク教徒のお寺)は様々なかたちで病院、学校、宿泊施設、コミュニティーセンターの機能を果たしています。シク教徒によると、これは、この宗教が奉仕と平等を重視している証拠なのだそうです。
Zeeshan Rasool氏が教えてくれたのですが、イスラム教の預言者は、他者の導き手となることの重要性も説いています。
自らを押しつぶす手にさえ、その香りを与える花のようであれ。
─ イマーム アリー・イブン
今にフォーカスする
死後の世界と同じくらい、宗教は「今」を大切にせよと説いています。
仏教はマインドフルネスに重点を置いています。瞑想が最も顕著な例です。また、他の宗教も今という瞬間を味わい、意識を研ぎ澄ますよう説いています。
神学の学生だったTyler Lear氏によると、ヒンドゥー教では、人生には段階があり、その時々で優先事項が違うと説いているそうです。
ヴェーダ・ヒンドゥー教には、4つの人生段階があります。学生期、家住期、林住期、遊行期 (中略) この4段階は、必ずしも1回の人生で全うされるとは限りません。1つの段階を何度もの人生を通して達成する人もいます。
その段階にふさわしい行為をしているとき(例えば、家住期は懸命に働いてお金を稼ぎ、家族を養う。遊行期は他者との関わりを断ち、祈りと瞑想の日々を送る)、その人は宇宙の秩序に奉仕していることになります。言い換えれば、人はそれぞれの人生段階にふさわしい行為をすることで、宇宙を共に支えているのです。
結論:誰もが人生の異なる段階にいます。すなわち、それぞれで優先事項が違います。そして、それは良いことです。
ヒンドゥー教のシュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッドは、「ヨガをするための静かな場所を見つけること」を勧めています。
ヨガをするための静かな場所を見つけなさい。風から守られ、平らで清潔、ごみがなく、火の気がなく、見苦しくない場所を。水の音と風景の美しさが、思索と観想を助けてくれる場所を。
イエスは従者たちにこう言いました。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分だ。
言い換えれば、明日を憂うことは無益な時間の浪費なのです。人が死の床で本当に後悔することがあるとしたら、自分の気持ちを表現しなかったこと、仕事のために家族との時間を犠牲にしたことだけでしょう。
4. お金ではなく、何を達成するか
お金があるほど幸福、とは限りません。ほとんどの宗教が、幸福になりたければ、物質的な物を追い求めるのをやめろと説いています。キリスト教、シスラム教、仏教、ユダヤ教もそうです。
イマーム・アリー・イブン・アビー・ターリブはこう言っています。
この世界は、あなたの影のようなものだ。あなたが立ち止まれば、世界も立ち止まる。追いかければ、逃げていく。
お金はまた、大局を見る目を曇らせます。イエスは言います。
お金持ちが神の王国に入るよりも、ラクダが針の穴を通るほうがずっとやさしい。
物質的所有をすべて諦めろという意味ではありません。仏教は借金がないこと、キャリアパスを見つけることの喜びを説いています。もちろん、人を最も幸福にするのは、計算機で数えられる物でないのは言うまでもありません。
5. コミュニティに関わる
宗教を実践すると、自分の殻から出て他者と関わらざるをえなくなります。これは良いことです。なぜなら、宗教的信念を共有しているかにかかわらず、私たちはみな相互に依存しており、たったひとりで生きているわけではないからです。
ユダヤ教のラビ、タイラー・リア(Tyler Lear)氏は、コミュニティこそがユダヤ教の核心だと説いています。
ユダヤ人になる道はたくさんあります。無神論者のユダヤ人もいます。しかし、結局は人の集まりなのです。共通の歴史を持ち、(多くの点で)同じ文化を共有する人々の。
(これは、ユダヤ教に改宗するときの最大の障壁ともなります。改宗する人は、もともとユダヤ人のコミュニティーに属していません。つまり、ユダヤ人との共通の基盤を持たない人々です。このことがコミュニティーへの参加を難しくします)
つまり、人生とは、あなたが共に過ごす人々のことであり、彼らへの共同体意識のことです。それは、ほかの何よりも大切なものです。
ほかの宗教も同じことを説いています。例えば、イスラム教では、1日5回の礼拝を通して、教徒たちは共に時を過ごします。カトリック教会のミサでは、参列者が握手をしながら「peace be with you(平和があなたとともにありますように)」と挨拶を交わします。それは、こんな意味になります。私はあなたに平和を与えます、あなたは私に平和を与えます、少なくともこの瞬間は、すべてがうまくいっています。
コミュニティーの積極的な参加者になることは、多くの人にとって自然なことではないかもしれません。しかし、宗教は、少なくとも、私たちがひとりではないことを思い出させてくれます。
6. 自らの行為に責任を持つ
「自分の行いは自分に返ってくる」多くの宗教がこのカルマの教えを説いています。
カルマヨーガはヒンドゥー教バガヴァッド・ギーターの根本にある教えです。これは、行為そのものというより、行為の裏にある意識の質を問題としています。見返りを期待せず、行為のために行為することが大切なのです。
見返りを期待して行為をすると、その者は行為のパターンに捕らえられ、再びこの世に生まれる運命になる。そうではなく、真摯に行為し、結果を期待しないとき、すべての行為は神への奉仕となる。神だけが真の行為者であることを理解するとき、人は解放への道を歩む。
仏教の根本教義「八正道」は、次のように説いています。
生きとし生けるものは、行為(カルマ)の所有者であり、行為の相続人である。その者の行為は、その者が生まれ出る子宮だ...。いかなる行為も(善行であれ悪行であれ)行為者本人がその相続人となる。
GotQuestions.orgはカルマをキリスト教徒向けに翻訳しました。基本的には、自分が蒔いた種を刈り取るということです。
聖書には、蒔いた種を刈り取ることについての説話がたくさんあります。ヨブ記4:8「わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪を蒔く者は、それを刈り取っている」 詩篇126:5「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」 これ以外にも、種蒔きと刈り取りについて語っているものはすべて、自分が受け取る結果は、自分が成した行為に負っていることを説いています。また、現世で蒔いた種は、死後の世界で受け取る褒美と罰にも影響します。
7. 自分を知る(自分で決断する)
多くの人が、宗教を洗脳のようなものだと考えています。しかし、世界の主な宗教が説いているのは、自分を見つめ、自分で決断せよということです。それはおそらく、自分の中にスピリチュアルなコアを見つけろということでしょう。
私のお気に入りの禅の物語はこうです。
ひとりの僧が師に問うていわく、「仏とな何者か?」
師、答えていわく、「棒についた乾いた糞だ」
もうひとつ:
仏に会ったら仏を殺せ。
宗教は厳格な修行体系を持っていますが、同時に、自己反省を強く奨励しています。
神学者ジャン・カルヴァンの「キリスト教綱要」では:
われわれの知恵で、真理にかない、また堅実な知恵とみなされるべきもののほとんどすべては、二つの部分からなりたっている。神を認識することと、われわれ自身を認識することとである。(キリスト教綱要 1.1.1)
カルヴァンは、自分自身を知らずして、神を真に知ることはできず、神を知らずして自分を真に知ることはできない、と言っています。カルヴァンはこれに関するジレンマにも言及しています。「どちらが先に来るのかを知るのは難しい」
イマーム アリー・イブン・アビー・ターリブは次のように語りました。
よく考え、よく内省する者は、高い先見性と洞察力を得るだろう。
最後に。好奇心を失わず、問い続けること。そして、年長者の智恵には耳を傾けることです。
「やってみる」ではない。やるかやらないかだ。
─ マスター・ヨーダ
Melanie Pinola(原文/訳:伊藤貴之)
Photos by jeh_somwang (Shutterstock), oskay, San Jose Library, Moyan Brenn, North Charleston, Celestine Chua, Brian Hillegas.