伊藤亜和|「早起きできない自分」に後ろめたさを感じるのをやめた


誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は文筆家・モデルの伊藤亜和さんにご寄稿いただきました。

朝早くからの仕事には寝坊せず行けても、用事がない日はいつまでも寝てしまい、「なぜずっと寝ていてはいけないのか」と「早起きできないと人としてダメな気がする」の間で葛藤してきたという伊藤さん。

自分自身への期待値を見直し、「早起きができる自分」への幻想を手放すまでの過程を振り返っていただきました。

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朝が嫌いだ。アルバイトで長く水商売をやってきたせいだろうか。送迎車の中、窓の外の空が徐々に白んでくるのが分かると、泣き出したくなるような気持ちになった。

朝日は化粧の崩れた汚い顔を容赦なく照らす。太陽が完全に上る前に、私は一刻も早く布団に潜り込まなければならなかった。まるで『鬼滅の刃』に出てくる鬼だ。背後から迫る日の出が車のスピードに追い付いて、私は目を瞑(つむ)る。

朝帰りの生活を辞めた今だって、私は朝が耐えられない。夜が名残惜しくて、その面影が残っているうちにはずっと憂うつな気持ちでいる。夜遅くまで起きているから、朝のうちは頭もズンと重い。幼い頃はとくに何の疑問もなく朝早く起きていたと思う。真夜中の楽しさを知ってから、私は朝が嫌いになった。

理由がないから「朝起きない」のに、なんで後ろめたいんだろう

そもそも。朝起きるのが苦手とか、もはやそういうレベルではなく、私は朝そのものと共存できない体質なのだと思う。

今日もベッドから起き上がったのは昼の12時過ぎ。いつも10時ごろには目が覚めているのだけれど、無理やり目を瞑ってなんとか夢の続きに戻ろうとしたり、遮光カーテンの隙間から漏れる光を恨めしく睨んでいるうち、こんな時間になってしまう。

起きない理由を簡潔にまとめると「用事がないのに起きなきゃならない理由が分からない」に尽きる。会社に勤めているなら始業時間までに出社しなければならないが、大抵、今そうしているようにベッドの上でノートパソコンのキーボードを打っている私にはそれがない。

会社員をしていた頃、毎日7時に起きて出社していたら、私はいとも簡単に精神を病んだ。出勤前に立ち寄るプロントの店員さんが少々好みだった程度では、私の心の安寧は保てなかったというわけだ。学校を出て就職、退職し、私の昼までの睡眠を妨害するものはなにもなくなった。

最初の頃はようやく自分に合った生活が始まった!と、はりきって毎日日が暮れるまで眠っていたが、当時の恋人は、そんな私をうんざりしたように見つめていた。「君といると生活習慣が乱れる」と振られ、振られた私は「勝手に乱れたのはお前だろ」と思いながらそのまま開き直ったように水商売を続けた。

私のように「夜遅くまで起き、昼過ぎまで寝る」人に対して、世間はしばしば「自堕落で不健康な人間」という烙印を押す。私はその冷ややかな視線の中で「朝起きられない自分」を責め、少しずつふさぎ込んでいく。

罪悪感を抱えながら「起きたくないときは起きない」という願望を叶えたところで、心身が十分に休まるはずもない。みんなができていることが、どうして私にはできないのだろう。できないことが、どうしてこんなに後ろめたいのだろう。

朝が来る恐怖を酒でごまかして、”社会不適合者“に対する世間の冷たい無言の目から逃げるように眠り続けた。

不規則な生活が許されるのは、一部の天才だけなのか

だが、私は決して「寝坊してしまう人」というわけではない。モデルの仕事は早朝からのことが多いから、7時に渋谷集合と言われれば、私は23時ごろには寝て、早朝5時ごろに起き上がり、余裕をもって仕事に向かうことができる。体力がないので、役目が終われば死んだように眠ってしまうが、少なくとも、約束の時間が寝坊によって守られなかったことはほとんどない。

私はただ、起きる必要のないときはひたすら眠っていたいだけなのだ。

Pepper(ペッパー)だって、仕事がない間は電源を切って死んだように項垂れているのに、なぜ人間にはそれが許されないのか。私は毎日7時に起きると決めている人間より、ペッパーに親しみを感じている。

明確に禁じられているわけではないにしても、必要な作業のとき以外は眠っているというこの状態を人間に置き換えてみると、なんとも自堕落な感じがするというのは分かる。なんというか、精神的に健康ではないような、いわゆる“QOL”の低い、心豊かな生活には程遠い人間というような、そんな感じがする。

できることなら私もぺッパーのように、やるべきことはやって、あとは常に電源を切って横になっていたいと思うのだが、この「誰に迷惑をかけるわけでもないであろう願望」を実行に移すことは思った以上に困難だった。

他の国がどうかは知らないが、日本にはなぜか「用事がなくてもとりあえず立っていた方が偉い」というような風潮がある。専業主婦が家事の合間に横になっていれば「だらしない」と言われ、コンビニ店員は意味もなくレジの中で立たされ、仕事の席では重役が席に着かなければ他の社員たちは所在なさげに立ち尽くしている。

大切なのは「やったこと」ではなく「やってますよ」という姿勢だ。こんなことに大した意味などないとみんな分かっているはずなのに、誰もがそれに従っている。私も日本に生まれ育った以上、それに逆らううしろめたさのようなものを感じているのだ。

デカルトは長年朝寝の習慣があったらしい。三島由紀夫は、いつも昼過ぎに目覚め、夜中から執筆をしていたらしい。私は?私はダメなのか?私たち凡人は、身体と精神に鞭打ってでも朝起きて夜眠らなければならないのだろうか。

どうせできないのなら、「できない今の自分」を愛してみよう

私は私のそのままを愛したい。「こうあらなければならない」なんてつまらないことで、私は私を嫌いになんてなりたくない。社会のリズムから外れた生活習慣は、一部の天才にしか許されないものだという思い込みの呪縛から、私はどうすれば抜け出せるのだろうか。

おそらく、私の中でのいちばんの問題は「もし朝起きられていれば」と常に考え続けているということだった。

もし、人並みに毎朝起きることができていれば、一日にもっとたくさんの仕事ができて、義務ではない運動や読書などをする余裕があって、ひとつひとつのことをもっと丁寧に達成することができるのに、と獲得できたはずのものを獲得できなかった悔しさにばかり意識が向いている気がした。パラレルワールドにいる「朝起きられる自分」を、まるで完璧なスーパーマンのように想像していたのだ。

でも、よく考えてみてほしい。人から求められたこと以外熱心に取り組まず、学校の課題も毎回最終日の締め切り時間ギリギリに提出していたような私が、数時間早く起きられるようになったところで、本当にそんな超人のような習慣をこなせるようになるだろうか?もしかしたら私は、自分を買いかぶり過ぎているのではないかと気がついた。

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早起きのできる自分が100パーセントの存在だとして、昼過ぎに起きる今の自分を60パーセントくらいの存在だと思っている。自分にはまだ40パーセントの伸びしろがあると思っているから、私はそれが達成できない自分を責めてしまっていた。ならば、逃れる方法はその「40パーセントの幻想」を捨てることである。

私は今の状態で100パーセント。朝に起きられる自分が完璧な存在なのではなく、昼には起きることができて、仕事の集合にも遅れず、期限ギリギリでもきちんと提出できる自分こそがすでに完璧な存在であると考えよう。

とはいえ、100パーセントと言い切ってしまうと、それに甘んじて成長する姿勢を失ってしまうような気がするから、今の自分を97パーセントくらいに思っておく。40パーセントという大きな穴に絶望して卑屈になるよりも、あと3パーセント、埋められたらラッキーだなくらいの気持ちで、“努力”よりも敷居は低く“心がけ”くらいの頑張りを心に留めておこう。

「どうせできない」という言葉をポジティブに利用して、どうせできないなら、今の自分のままで、自分を愛せるように考えよう。

こうして私は、早起きしようとすることをやめたのだった。

編集:はてな編集部

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著者:伊藤亜和

伊藤亜和さんプロフィール写真

神奈川県横浜市生まれ。文筆家。noteに掲載したエッセイ「パパと私」で創作大賞2023メディアワークス文庫賞を受賞。ウェブサイト「晶文社スクラップブック」ほかでエッセイを連載中。6月に初著書「存在の耐えられない愛おしさ」を刊行予定。