エクリチュールの劇場と拘束特性が異なることで複合記憶される外側の体験

photo by Chris Smith/Out of Chicago

物理的な拘束を伴わないからこその身体性

 『ゲンロン1 現代日本の批評』において「演劇、国家、暴力」と冠した東浩紀と鈴木忠志の座談会文字起こしが掲載されている。この座談会はゲンロンカフェのイベントであり、ニコニコ生放送による配信もされている。本文中では「劇場」をキーワードに空間の記憶や身体性への回帰が語られるのだけど、だからネットではなく〜という単純な話にはならない。

つまり、いま、ゲンロンカフェは二重の劇場になっているんです。リアルの劇場、「いまここ」のゲンロンカフェに座っているひとは、二、三時間のあいだこの狭い空間に拘束され、無言で座っていなければならない。ところが画面のむこう側にいて、記号だけを眺めているバーチャルな視聴者のほうは、身体的にはまったく自由です。この対話を聞きながら、メールを打っているかもしれないし、ほかのサイトを見ているかもしれないし、食事をしているかもしれない。もしかしたら、真っ裸かもしれない。ふたつの空間、ふたつの身体が、同じ劇場の上に重なっている。

 これを東浩紀は「パロールの劇場」と「エクリチュールの劇場」と表現している。他者のパロール(話し言葉)を直接的に得るためには自身の身体を物理的に拘束する必要があるが、エクリチュール(書き言葉・記号)を得るだけなら自身を物理的に拘束する必要性はない。自身を拘束してパロールとしてのやりとりをしなければ「記憶の肉体化」がされにくくなるから「劇場」が必要であるという主張の一方で、物理的に拘束される範囲が少ないからこそ、コンテンツの外部にある「空間の記憶」と結びつく可能性もある。

四重の劇場のグラデーション

 拘束が少なくなることで到達可能性の母数が増えるのは勿論としても、旅行中に読んだエッセイに泣けてきたり、デート中に流れていた有線放送のフレーズがやけに残っていたり、疲れて食べるカップラーメンが妙に美味かったりすることもある。コンテンツ自体の純粋なミームとしての強度だけではなく、ある種の偶発性に基づいた郵便的な生存戦略によって記憶の自然淘汰を乗り越える言葉もあるということだ。

 本文中では「二重の劇場」と表現されているが、アーカイブ放送だから見れたひともいるだろうし、僕が読んでいるのは文字起こしされたエクリチュールそのものである。珍しくも紙の本で読んでいるので、布団のなかでは読めないし、汚れないように気をつけているし、本の重さも感じるという意味での物理的拘束はある。つまり「拘束がない」のではなく、拘束の特性が異なることによって必然的にコンテンツの外側の体験も変わってくる。

 ニコニコ動画のアーカイブ放送は非同期に入力されたコメントを蓄積してコンテンツ側の時間軸に並べ直すことで擬似同期感覚を造りだしており、エクリチュールの劇場に過ぎなかったコンテンツを出来る限りパロールの劇場に近づけようとしてきた歴史とみるのが一般的なのだけど、完全に近づいたら特性が消えてしまうのではないか。

物理的な拘束がないから複合記憶される外側の体験の影響

 以前から電車でスマートフォンを使い続けている人はいるし、ここ最近では定額有料動画配信サービスが隆盛化しており、スマートフォンで映画を観ている人も増えた。野外や「ながら」で消費される機会が増えていけばコンテンツ自体とは独立して存在する個々人の空間の記憶によるバイアスに影響される割合も増えていくことになる。3D映画や4DX映画による身体的拘束はそのカウンターであろう。

 これまでにだってそういうバイアスはかかっていたのだけど、「エクリチュールの劇場」と見なすべき体験が増えていくのであれば、物理的な拘束特性が異なるからこそ結びつきやすいコンテンツの外側の体験についての影響を全く考えないわけにもいかなくなっていくのだろうし、他者に敷衍する際にはいくつかの前提の明示がないとすれ違う可能性が増えていくのだろう。