月刊誌『新潮45』8月号での杉田水脈氏の論考と巻き起こった批判、同誌10月号での反論特集とさらなる批判、そして休刊という結末。LGBTをめぐる話題がメディアを席巻し、パンドラの箱が開いたごとく、課題が一気に飛び出しました。議論はいまも続いています。
ゲイで、年齢が50代以上の北丸雄二氏、小倉東氏、私の3人が、過去の見聞や経験、日米といった国の違いとの対比・参照もふまえて、一連の『新潮45』問題を語り合いました。

1回目は、「当事者」のなかでの見解の相違や反発はどこから来ているのか? 一般社会が知らない当事者間の「暗闘」を全部お話しします!(全4回)
※この記録は、語り手のひとり小倉東さんが新宿二丁目で経営する「ホモ本ブックカフェ オカマルト」で、10月6日に公開座談会として開催されたもののほぼ全容です。
※ 本座談会は、男性シスジェンダー・ゲイ指向の3人の視点で語る特徴と限界があります。性的マイノリティ全体を指す場合とゲイを指す場合が、区別なく「ゲイ」と表現されたり、自称として「オカマ」「ホモ」「レズ」が使われたりすることがあります。あらかじめご了承ください。
政治問題化への忌避感と当事者内部の反発
永易 はじめにこのかんの一連の騒動について、みなさんの感想や観察、見聞したことをお話いただきましょうか。
北丸 私は今回の件は、ツイッターで共感意見をリツイートする程度にとどめています。
こんなことは過去何度も経験して、それを繰り返し論難する時間がもったいなかった。日本で90年代にゲイパレードが始まったときも、クローゼットゲイ(自分がゲイだと他人に告げない人。タンスのなかに隠れている、という意味)から、「そっとしておいてほしい」「欧米型と日本型のリベレーション(解放運動)は違う」という反発がありました。
でも、そんな声にもかかわらず、パレードは現在まで続いているし、リベレーションのおかげでいろいろな問題が顕在化し、政治的な流れも生まれ、事態が前進してきた。つまり、すでにこうした種類の反発はカタはついていると思っています。
今回もおなじ反応がまた出ていますが、流れはすでに決まっている、あえてなにかを言う必要もないと思って静観しているわけです。
小川氏や杉田氏が書いたこともなにもいまさら新しいことではない、すでに批判されつくし、その結果も明らかなものです。ただ、なぜまだ日本ではこんな言説が有効として扱われ、それをときに支持するゲイもいるのか考えてみたいと思ってきょうは来ました。
小倉 主にツイッターやお店での会話より得た情報から印象深く感じたことに、次の3点があります。
人気のドラァグクィーン、ナジャ・グランディーバが杉田議員への一連の抗議活動を取り上げたテレビ番組で、「レインボーフラッグはLGBTのシンボル。そこに『FUCK YOU VERY MUCH』って書いてたのがショック。活動してくれるのはありがたいが、あたしらからしたら放っておいてくれたらいい」と発言。
Fuck youはもちろん卑猥語ですけど、これ、著名なドラァグクイーン、ディヴァインの決めぜりふで、それにインスパイアされた歌手リリー・アレンが反ゲイ差別をテーマとする曲で使ってるんです。

それに対してあるかたが、「なんでそもそもレインボーフラッグに“Fuck you”程度でショックを受ける人がドラァグをやっているの? 社会の常識を下品に挑発するのがドラァグの仕事だと思っていたのだけどw」とツイートなさっていて、我が意を得たりと思いました。
ドラァグクイーンはそもそも政治的な行為なんです。男のくせに女みたいなかっこうをして、されども女になろうとしていない、そんな「気持ち悪い」存在がドラァグクイーン。どんな規範や社会制度からも落ちこぼれる人間が、どっこいクラブという空間ではきらめきを放っている。
その存在感が、世の中の規範や社会制度を揺るがすインパクトを与える。つまり、とても政治的な存在だということです。それを自覚することがクイーンの条件。それを私は「王家の血」だと呼んでいます(会場笑)。最近はマスメディアにもドラァグクイーンがたくさん登場していますが、王家の血が流れている人はどのくらいいるんでしょうね?(笑)
ナジャの発言から、ドラァグクイーン当事者でさえ、自らの「気持ち悪い」とされている存在が政治的なものだという認識が抜け落ち、あまつさえ非政治化しようとする動きが出るんだな、という感想を持ちました。
つぎに気になった点は、なにか物事が起こるとかならずや対立構造に仕立てて面白がろうという層の存在です。
昔はリブガマ(ゲイリベレーションに参加する「オカマ」)と隠れホモ、いまなら右派と左派、保守とリベラル、普通のゲイとヘンタイのゲイ……などなど。
その名も「ふつー」を冠するあるゲイのツイッターアカウントでは、「尾辻かな子さん、文化大革命の紅衛兵みたい。一般ゲイはドン引きするばかり」(要旨)と書いていて、アクションする当事者とドン引きする当事者という二項対立にわざわざ分断していく動きが、今回の杉田問題ではハッキリと表れてきたのではと感じましたね。
そして三つめは、LGBTを商売として扱う動き。今回はLGBTが新潮社の「炎上商法」の素材になったけど、LGBTがいろいろなかたちで商材として使われてきたことを、この50年の歴史のなかであらためて考える機会になりました。
(※座談会の最初に小倉さんにより語られた「ゲイの50年史」は、整理のうえ、後日紹介の予定です。)
永易 今回の騒動で私が思ったことは二つありまして、一つは「バックラッシュ(反動)」ということ。
2020年オリパラを目指して日本でもLGBT課題を前進させるべく取り組む動きがあります。
ツイッターを眺めていて、40代後半の90年代以来の活動家レズビアンが「オリパラが来るまえに、先にバックラッシュのほうが来てしまった」といった悲観的なツイートをしました。
それをさらに年上の違う当事者が「そんな弱音を吐いてて社会が変えられるか! 弾の当たり役には私がなるから、若いもんは私のしかばねを超えてゆけ」みたいな檄を飛ばしているのを見て、なかなか悲壮感があふれていました。
でも、そもそもこれはバックラッシュなのか、そこも検討したい。そして、バックラッシュというなら、それはこのかんの「LGBTブーム」に対する反動ですから、LGBTブームとはなんなのか(だったのか)、なにを達成しえたのか、中間総括をする必要もあろうと思いました。
もう一つは、今回の騒ぎでいろいろなリアクションがあるなかで、LGBT当事者内部からの、運動するLGBT当事者への反発がスゴイなあというのも驚きでした。
もちろん、昔からパレードでもなんでも内部の反発の声はありましたが、今回は騒ぎが大きかっただけにその声も大きかった。そして、その多くはしょせん「便所の落書き」とも称されるネットの匿名発言で、さっき北丸さんが言われたように、すでに解決済みの論点ですから、また壊れたレコードが鳴っていると思っておけばいいのかもしれません。
ただ、今回は顔と名前をもったゲイ当事者で、しかも元国会議員という人が現れて、「抗議・糾弾ではダメだ」「対話と議論で訴えかけることが必要だ」と主張し、メディアを含め社会的注目を呼んでいる点は新しいなと思いました。従来の運動のあり方やスタイルを振り返り、なにか考えるきっかけになるかなと思っています。
これはバックラッシュなのか
永易 ということで、司会の特権できょうはこの二つ、「これはバックラッシュなのか」と「当事者内部からの運動批判にどう向き合うか」をテーマにしたいと思います。
これを読まれる一般読者のかたも、「へえ、当事者という人たちのあいだにも、いろいろな意見があるんだな」ということを知ったり、マイノリティの社会運動について立場や課題の違いを超えて考える機会になったらいいなと思っています。まず、バックラッシュについてですが、小倉さんからいかがでしょう。
小倉 杉田氏にせよ小川氏にせよ、彼らが言っている内容は、50過ぎのオカマならたいがいこれまで何度も言われたり耳にしたりしてきたことで、なにをいまさらという感じですね。だから、これをいまさらバックラッシュとかだとは思わない。
もちろん、私もそれに傷ついていた時期もありましたが、それに立ち向かう術(すべ)もしたたかに身につけてきたという自負もあります。ただ、そうした経験のない若いLGBTの子が初めて見たのがアレだと、ショックだったろうなと想像もできる。
でも、当事者側として、ツラい、生きづらい、といった被害者感情だけでLGBTの権利運動を語っていると、こうした論考が来たときに腰が砕けるかもしれないと思いますが……。
北丸 アメリカだとキリスト教右派からのバックラッシュがまず想起されますが、いまはむしろ「トランピズム(トランプ主義)」です。
ゲイムーヴメントは70年代に性の解放のなかで盛り上がり、80年代のエイズの時代にその対策に冷淡だったレーガン大統領による打撃があり、そのトラウマを90年代のクリントン時代に解消する。

2000年代に入りブッシュ2世の時代にすぐ9・11同時テロが起こって民族や宗教問題で保守化が進み、LGBTもそのあおりを受けるのですが、オバマによってその解凍が進み、2015年には同性婚の全米合憲化も達成される。そこにまたトランプが出てくるという一歩下がって二歩進むの繰り返しでした。で、どうなったか?
いま起きているのは、「マイノリティばかり救って、マジョリティの俺たちがどうして割りを食っているのか」という「非マイノリティ・ポリティクス」のような「すねた」運動です。
マイノリティ「でない」ことが損をもたらすというマジョリティたちのねじ曲がった不満が、LGBTをはじめ、イスラムや黒人、移民たちへ向かい、トランプを支えている。これがアメリカのバックラッシュの見取り図です。
一方、日本は、みなさんが90年代、あるいはそれ以前から、小さなものを積み上げ積み上げ、やっと政治の課題になるところまで来たところで起こったこの動きは、バックラッシュというよりはむしろ、あらかじめそこにあった「反発」が見えた、というものでしょう。
初歩的でナイーヴですらあるそうした無知からの不安や恐怖に対しては、これまでの歴史のなかで有効な答えがすでに用意されています。それらに対してこちらが不安や恐怖に駆られたりする必要はない。
永易 私もこれはバックラッシュなんかではないと思っています。バックラッシュというと、2000年代初めのジェンダーフリーや性教育への反対運動が想起されます。
当時フェミニズムの人たちはこの動きを過小評価して、一部のエキセントリックな人がやることで、学校も行政も政治も相手にしないだろうと放っておいたら燎原の火のごとく広がり、各地の男女共同参画の条例や行政施策、学校での性教育がかなり後退する痛手を喫しました。ツイッターでもフェミ界隈の人から、今度はLGBTの人たち気をつけて! という「忠告」を見かけたこともあります。
しかし、当時のバックラッシュ運動は日本会議や統一教会など宗教右派の組織が背後にあり、「新しい歴史教科書」の採択運動が失敗したあとの矛先として取り組まれたものです。

一方、いま起こっていることは、ビジネス右派の炎上商法が、ボヤのつもりが大火事になって母屋も焼いたのであり、どこかに司令塔があり、組織があり、行政や学校にLGBT研修や施策を止めさせる動きはない。第一、自民党もLGBTの課題の存在を認め、取り組みは必要だと言っている現状で、止めようはないと思います。
ただし、このかんLGBTに関していろんなことが早いスピードで起こるなか、「ついていけない」感覚や不安感を抱く人が広範囲に生まれ、それが極右ポピュリストにうまく刈り取られてへんな滞瘤ができているのでは、という印象はあります。
これは逆説的にLGBT運動が進展している証左でもあり、むしろ小倉さんなど古い人からお決まりのように「こんな時代が来るとは思わなかったわ〜」と感想が聞かれることには、私も同感です。
北丸 もちろん私は楽観的にやり過ごせばいいと言いたいわけではなく、二つの言説を用意しなきゃいけないと思っています。
それはちょうど80年代にエイズと向き合うなかでコミュニティ内部に向けては「エイズは怖い(だから感染予防や検査を徹底しよう)」という言説を用意し、同時に外部に向けては「エイズは怖くない(だから陽性者を差別排斥するのはやめろ)」という言説を広めたことと似ています。
この二つは矛盾しません。これは日本の今回の騒動についてもいえることで、放っておいても大丈夫というのと、放っておいたらダメだぞ、という二つの態度が必要なんです。
「ハッピーゲイライフ」世代が、「ゲイリブなんていらない」と言い始めた?
小倉 僕は1994年から『バディ』というニュータイプのゲイ雑誌の創刊に携わり、名義はどうあれ編集長的な働きをしましたが、そのキャッチフレーズに掲げたのが「ぼくらのハッピーゲイライフ」。
それまでの匿名、顔出しなし、セックス(ファンタジー)メインのゲイ向け雑誌に対して、ライフスタイルとしてのゲイを提示する編集方針を打ち出し、それは当時のゲイたちの自意識を変える、ある種の成功を収めたと自負はしています。
ゲイのビギナー期にバディに感化されたハッピーゲイライフ世代もいまや30代後半、40代になりました。
ところが、彼らの世代のなかから、「ふつーのゲイ」と自称して、自分たちはハッピーだ、自分たちは差別されていないと、むしろ杉田・新潮45的なものを支持し、それに抗議する人びとを批判する動きが逆に出ていることに複雑な思いがあります。
たとえば「松嶋圭」というツイッターアカウントは、バディが称揚したハッピーゲイライフの申し子のようで、自分を肯定し自信にあふれ、オシャレでカッコいいゲイ(のよう)です。
「同性愛に寛容な国、日本でゲイとして生きられることに感謝と誇り」と自己紹介し、僕らはふつーでハッピーで、なにも困ってなんかいやしない、活動家やメディアは騒ぎ過ぎだ、野党に利用されるな、とリベレーション活動を激しく非難するツイートをくり返し、かつ多くの賛同を集めています。
どうしてこういう層が現れたのか。バディの功罪や、バディで伝えきれなかったことや手渡せなかったこと、さらにはメディアの責任みたいなことをすごく考えさせられているんです。
それだからこそ、いまの僕は、ゲイや性的マイノリティの歴史の継承の重要性を痛感し、それを次の世代に伝え手渡していくためにこのブックカフェを始めたわけですが……。
北丸 いまハッピーなんだからいいじゃないかという人たちは、それがさまざまな人の運動の歴史の流れのうえにあるということを知らないのかなぁ。
すべての運動(行動)は、それが必要とされなくなるために存在します。走ることは走る必要がなくなるために走る。食べることはもう食べなくていいくらいにお腹がくちるまで続いて終わる。
反差別運動もそういう運動が必要じゃなくなるために行われるものです。自民党は「カムアウトする必要のない社会」というフレーズを使うけれど、それはあらかじめそこに用意されて在る訳ではなく、カミングアウトしつづけ、運動しつづけて到達する「理想」なんだということは覚えておいたほうがいい。
永易 でも、北丸さんがそう言えば言うほど、当の「ふつーのゲイ」の人たちからは、「自分がハッピーなゲイライフを送れているのは全部、活動家サマのおかげだから感謝しろっていうわけ?」「活動家、何様?」と反発するツイートも流れるわけです(苦笑)。本当にものの言いづらい時代になりました。
それに、「カムアウトする必要のない社会」というフレーズは、いまカミングアウトして主張をしていくことを解体し、むしろなにもしなくてもいいのだ(日本は性的マイノリティには元来寛容なのだから)という姿勢を誘発する作用があると思いますね。
【2回目】『新潮45』問題を古いゲイ3人が考えた(2) LGBTブームの「功罪」と、「過激な活動家批判」のゆくえ
【3回目】『新潮45』問題を古いゲイ3人が考えた(3) マイノリティの分断と内部対立を超えて
【4回目】『新潮45』問題を古いゲイ3人が考えた(4)あなたはここからなにを考える?
【北丸雄二(きたまる・ゆうじ)】
北海道江別市生まれ。毎日新聞記者、中日新聞(東京新聞)ニューヨーク支局長を経て、1996年にフリー。在NY25年ののち、現在は日本に足場を移す。評論著述多数、TBSラジオ「デイキャッチ」ニュースクリップ月曜担当等。小説「フロント・ランナー」翻訳のほか、劇作訳出も多い。小説家としては1983年、文芸誌『新潮』掲載がデビュー作(その後、同社より刊行)という因縁話も。
【小倉東(おぐら・とう)】
1961年東京生まれ。94年、新ゲイ雑誌『Badi』創刊にかかわり、「僕らのハッピーゲイライフ」路線が圧倒的支持を受け、現在の日本のゲイカルチャーの方向性を決定づける。ドラァグクイーン「マーガレット」としてもクラブ文化の中心で活躍。現在、その膨大なゲイ関連蔵書・資料を公開する「ホモ本ブックカフェ オ カマルト」店主。軟らか系ゲイリブの最重要人物のひとり。
【永易至文(ながやす・しぶん)】
1966年愛媛生まれ。進学・上京を機にゲイコミュニティを知り、90年代に府中青年の家裁判などゲイリベレーションに参加する。出版社勤務をへて2001年にフリー。暮らし・老後をキーワードに季刊『にじ』を創刊。2010年よりライフプランニング研究会、13年NPO法人パープル・ハンズ設立、同年行政書士事務所開設。同性カップルやおひとりさまの法・制度活用による支援に注力。