昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁さまが10月27日、亡くなられた。
陸軍の参謀として南京に駐在し、戦中から戦争を批判。戦後も「作られた歴史」への批判を貫いた、そのお言葉にあらためて注目が集まっている。
軍部を鋭く批判 「何とかして戦争を終わらせたい」
それは、1994年のことだった。当時、読売新聞が出版していた論壇誌「This is 読売」に史料が公開された。タイトルは「支那事変に対する日本人としての内省」(原文はひらがな部分がカタカナ)。
史料が作られたのは1944年。総力戦体制が進み、軍部批判が最大のタブーとされていた時期に、こんな言葉が綴られている。
軍人に欠如しているものは『内省』と『謙譲』とである。
(日本軍の毒ガス使用を指摘し)『聖戦』とか『正義』とかよく叫ばれ、宣伝される時代程事実は逆に近い様な気がする。
聖戦や、正義という一見すると正しい言葉に対する疑念とともに、日中戦争で「日本軍の暴虐行為、掠奪、強姦、良民への殺傷行為、放火等」があったとする記述もある。
明確な日本軍批判を展開した、この史料の筆者こそ、陸軍大学を卒業後、南京に赴いた三笠宮さまだ。軍内部、さらに皇族の軍部批判は「危険文書」として扱われ、没収、廃棄処分になったという。
なぜここまで軍を批判したのか。同誌のインタビューに率直な思いが語られている。
「何とかして戦争を終結させなければならない」と思い、やむにやまれぬ気持ちでまとめ、タイトルも自身でつけた可能性が高いことを認めている。
南京大虐殺「人数は関係ない」
「南京大虐殺」をめぐる議論についての質問にも答えている。
最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり人数は関係はありません。
戦時の中国でみた、衝撃的な映像についても述べている。
南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。
本当に目を覆いたくなる場面でした。これこそ、虐殺以外の何ものでもないでしょう。
貫かれたリベラルな精神
戦後50余年が過ぎようとしても、厳しく日本人、そして日本軍を批判した三笠宮さまの思いは常に一貫していることがわかる。
「私が感心するのは、外国の政治家には歴史をよく研究している人が多いことです。日本の政治家の方々にも、歴史を十分勉強して頂きたいと思います」
朝日新聞のインタビューに応じた三谷太一郎・東大名誉教授は「明らかに今でいうリベラルです」と、その姿勢を評している。
作られた歴史に向けた批判精神
リベラルな精神は、歴史観にも貫かれた。
戦後、オリエント史研究者として知られた三笠宮さまは、1951年には文藝春秋誌上の対談で「軍国主義的な傾向、あるいはまた、専制主義的な傾向、反ヒューマニズム的傾向が、いまだに残っているというより、むしろまた復活しかけている」という状況にある、という見方を示している。
1959年には、同じく文藝春秋に「紀元節についての私の信念」を掲載する。
その内容は、戦後、2月11日(いまの建国記念の日)が「神武天皇即位の日」だとして、戦前にあった「紀元節」を祝日として復活させようという動きに対して、歴史的な根拠がないと批判するものだった。
1959年は、神武天皇即位から2619年にあたるという主張を、後代の人の作為であったことは明らかになったとした上で述べる。
私はむしろ日本の建国を何年何月何日と規定することこそ、祖国の悠久な歴史をみずから否認し、なまはんかの外国かぶれをした論であると思う
「歴史研究者として、架空の年代を国の権威をもって国民に押しつける企て」に反対して、科学的根拠を求める。「学問研究の百年の計を一瞬にして誤るおそれのある」建国記念日の設置案には、深い反省を求める。それが三笠宮さまの姿勢だった。
歴史観の根底には、日本の建国が一人の英雄の手によって、一時にできあがったものではないこと。何万年という時代を重ねて、成し遂げてきた、複雑な社会的発展の結果という考え方がある。
架空の歴史を信じてはいけない理由
なぜ架空の歴史を信じてはいけないのか。それは架空の歴史を信じた人たちが、無謀な戦争を始めた人たちと重なったという日本の過ちに対する、深い反省からだろう。
この論文の最後に三笠宮さまが書いた、強いメッセージをそのまま引用する。
架空な歴史—それは華やかではあるがーを信じた人たちは、また勝算なき戦争—大義名分はりっぱであったがーを始めた人たちでもあったのである。
もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている。