いまから76年前の12月8日に始まった、太平洋戦争。4年間に及んだ戦いは、国土を焼け野原にかえ、多くの人びとの、いわんや全国民の人生を狂わせた。
その苦しみは、いまも続いている。戦争がもたらした心の傷により、PTSDに悩まされる人たちは、少なくない。
なかでも、国内最大の地上戦により、県民の4人に1人が犠牲になったとも言われる沖縄は深刻だ。体験者の実に4割が、症状を抱えている可能性を示した調査結果もある。
両親を失い、孤児になった男性もそのひとりだ。彼は、BuzzFeed Newsの取材にこう言う。
「ひとつの戦争で、こんなに人生が変わってしまうんです」と。
沖縄戦で戦災孤児となった内間善孝さん(81)は、1936(昭和11)年、本島南部の高嶺村(いまの糸満市中部)に生まれた。
5人きょうだいの長男。ちょっぴりと残っている幼い頃、つまり戦前の記憶は、どれもカラフルなものばかりだ。
大工をしていた父親、かつて沖縄に存在した「軽便鉄道」に乗ったこと、その「ハイカラ」な駅舎、近所にあった製糖工場、川でのフナ取り、原っぱでのトンボ取り……。
そんなすてきな思い出は、どれも戦時中のたった数ヶ月の記憶に塗りつぶされてしまった。それも、色のない。
「あの戦争のころの、話ですよ」。内間さんは、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
人間が、人間でなくなった
「太陽や青空の記憶は一切ないね」
3月下旬に沖縄戦が始まると、4月には父親が「防衛隊」に召集された。家の近くは激戦地となり、攻撃を避けて自宅近くの防空壕に逃げ隠れするようになった。
戦いが激しくなったのは、梅雨時だった。壕の中も外も、とにかくじめじめとしていたという。
簀代わりに木の板を敷いて寝ていたが、ノミやシラミが多く、衛生環境はよくなかった。食べ物はサトウキビやジャガイモのでんぷん、そして黒砂糖だけだ。
肌にまとわりつくような重たい空気、米軍に見つからないかという恐怖、空腹。壕の中にいる大人たちはいつも、殺気立っていた。
赤ちゃんが耐えきれず声を上げて泣くと、母親に向かって「出ていけ」と怒鳴る人がいた。些細なことで喧嘩をしている人たちも、よく見かけた。
「人間が人間でなくなるんですよ。戦争とは、そういうもんです」
忘れられぬ「異様な」におい
戦況が悪化した6月ごろ。父親の戦死が、伝えられた。
それでも、悲しみにくれる時間はなかった。もといた壕を去らなければいけなかったからだ。日本軍に提供を求められ、やむなく受け渡すことになったという。
一歩外に出れば、そこは「鉄の暴風」が吹き荒れる戦場だった。空からの機銃掃射や、海からの艦砲射撃をかいくぐりながら、壕を転々とする日々が始まった。
「砲弾が近くに来ると、カナブンの羽音みたいな音がするんですよ。近くに来ないと音がしない。気が付いたときには遅いんですね」
音を感じれば、サッとサトウキビ畑に隠れた。ただただ、怖かった。近くで手榴弾の爆発があり、破片が胸に当たる怪我も負った。
「逃げていたときにはわからなかった。壕の中で休んでいるときに気がついたんだよ」
豚の脂に塩を混ぜたものを、薬代わりに塗った。良くなることはなく、傷口からは蛆が湧いた。
少しでも安全なところに、と逃げ続けた。道中、たくさんの遺体を見た。赤ちゃんも子どもも、母親も老人も、防衛隊員も死んでいた。
あたりの景色は、戦争の前とは一変していた。畑の肥溜めからは火が出て、何日も、燃え続けていた。
「あの異様なにおいは、いまでも忘れられないね」
腐った死体と火薬、そして煙が混ざり込んだ空気は、とてつもなく臭かったという。
ぎゅうぎゅう詰めの孤児院
数日間潜んでいた壕に、米軍が煙弾を投げ込んできた。息苦しさのあまり、内間さんは思わず中から飛び出した。
「煙玉は、とにかく苦しいんですよ」
外には数人の米兵と、一緒に壕に潜んでいた人たちがいた。捕虜にされたのだ。中に残っていた母親たちにも声をかけたが、出てくることはなかった。
「捕虜になったら鼻と耳を切られ、白い薬を塗りこまれると聞いていた。ジープに乗せられたときは、不安でしたね」
内間さんはそのまま、捕虜収容所の孤児院へと連れて行かれた。
「たくさんの子どもたちがいたよ。何がなんだか、わからなかった。ボロボロの国民服を着たままでね。母親が布切れで作ってくれたボタンも、父からもらった革のベルトも、なくなってしまった」
孤児院は、瓦葺きの大きな家だった。ぎゅうぎゅう詰めで、空いたスペースに雑魚寝した。お風呂はなかったが「握り飯があった」ことを覚えている。
大人の捕虜たちが子どもたちの面倒を見ていた。みんな、「はぐれた自分の子どもがやってくるのではないか」と期待していた人たちだった。
「自分の子どもを探しにきた女性たちがたくさんいて、再会して喜ぶところを見ていた。みんなそうやって孤児院を出ていく。いつかは、うちの親も来るだろうと思っていた」
しかし、内間さんの母親が、迎えに来ることはなかった。
母親と、乳飲み子だった一番下の弟は、壕の前で米兵に射殺されていたのだ。内間さんが捕虜になった1週間ほどあとのことだった。
「飼い犬」と罵れらた戦後
もう一人の弟も、栄養失調で亡くなっていた。妹と2人、孤児になった内間さんは、まだ9歳だった。
家は焼けてなくなっており、戦争が終わると農家だった親戚に引き取られた。養父母には「飼い犬」と罵られるなど、いじめを受け続けた。
「差別ばかりされてね。母親のような愛情は一切ありませんでした」
戦前のような明るい日々を取り戻すことはできなかった。薪取りや水汲みなどの家事、さらに子守を任された。小学校にも通うことはできず、時計すら読むことはできなかったという。
中学を出ると、家を追い出された。一人暮らしを強いられ、道路工事やレストランの皿洗いなど、米軍の「軍作業」で食いつないだ。
仕事をしながら勉強をした。文字を満足に読むことができるようになったのは、成人してからだったという。内間さんは言う。
「戦後、楽しかったことは何もないですよ。鼻から息が出ているから、生きているんだと思えるだけでね」
戦場を思い出させる花火
長年、戦争経験による心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいる。
「昔からずっとね、戦場での記憶が頭に浮かんでしまうんです。日暮れになると、とても寂しくなるようにもなった」
不眠や鬱の症状だけではなく、戦場の景色がフラッシュバックすることがあるのだ。
たとえば、特攻機がアメリカの艦体めがけて突っ込もうとし、サーチライトを浴びながら撃ち落とされていく光景がよく蘇る。機関銃や戦車の音が聞こえることもある。
逃げ走り続けた戦場のにおいも、忘れられない。
「硫黄がだめなんです。爆弾が爆発したときと同じにおいがするから。死んだ人の腐ったにおいや焼けたにおいと一緒になって、思い出してしまう。だから、花火はずっと苦手だった。見に行ったこともない」
内間さんがPTSDの診断を受けたのは、2年前のことだ。沖縄戦について、国の責任を問う集団訴訟に参加したことがきっかけだった。
自分が長年苦しんできた症状の原因が、戦争にあるとはっきりとして「安心した」ともいう。治療を受けながら、暮らしている。
同じようにPTSDを抱えた仲間たちとの集団訴訟は、いまも続く。この11月末には二審の福岡高裁で敗訴したが、上告をする方針だ。内間さんは、諦めていない。
「戦争を始めたのは国だから。戦争が起きなければ、少しでも早く降伏していれば。沖縄はこんなことにならなかった。私だって、孤児にならなかった。家族たちが戦争で死んだと言うことを、国にしっかり認めてほしいんです」
おぼろげな母の顔
戦争でいちばん辛かったことは、なんですか。聞くと、内間さんはこう答えた。
「母親の愛情は天からの贈り物なのに、私はそれを受けることができなかった。それがいちばん、辛いですね」
母親の記憶は、断片的にしか残っていない。その顔だって、おぼろげだ。背中ばかりを見ていたからかもしれない。
よく思い出すのは、避難先の壕の中での立ち振る舞いだという。子どもたちの面倒を見るために、せかせかと動き回っていた姿だ。
「いつも忙しそうにしていたよ。30代で3人の子どもを抱えながら、戦場を逃げ回って、大変だったんでしょう。それなのにね、若くして亡くなってしまって……」
「私は、ずっとずっと、寂しいんですよ。戦争は、とっても悪いものですよね。私のようになってしまう人が、二度と出ないでほしい」
名前だけでもあれば
沖縄平和祈念公園にある「平和の礎」には、沖縄戦で戦死した「すべての人々」の名前が刻まれている。その数、24万以上。
ここには、内間さんの家族の名前も、しっかりと残されている。
「津波古充光」「マカト」「次郎」「三蔵」……。そう、孤児になる前の名字は、「津波古」だった。
「写真も何も、残ってない。手元にあるのは、遺骨だけだからね。名前さえこうして刻まれていれば、彼らも生きていたんだな、と思えるんですよ」
そうつぶやくと、内間さんは少しだけ、目を細めた。