村上世彰が帰ってきた。自伝「生涯投資家」を著し、いくつかのメディアの取材に応じた。あの事件以来、初めてのことだ。
5000億円の資金力で株を買い占め、経営陣に改革を迫る強面の投資家。資本の論理の権化。カネの亡者。そういった印象を持っていた人、今も持っている人が多いのではないか。
しかし、表舞台に再び姿を見せた村上の印象は違った。「生涯投資家」には、彼の投資哲学と共に、社会貢献活動への寄付について書かれている。取材には柔和な表情で応じた。
知人の紹介で本人に会って食事をした際、村上はこう言った。
「あのまま行っていたら、10兆円、20兆円のファンドに育っていたでしょうね。むちゃくちゃ儲かってましたから。この国の陣取り合戦をするゲーム感覚。自分の言うことがどんどん実現して、このために生まれてきたという実感があった。傲慢になってましたね」
現在も投資は続けているが、同時に取り組んでいる寄付活動についても熱心に語った。こんな言葉を何度も口にした。
「寄付すべき団体があれば教えて欲しい」
経営者たちを震え上がらせた「物言う株主」から、社会的な弱者を助ける「NPOの支援者」へ。何が彼を変えたのか。もしくは、何が変わっていないのか。
BuzzFeedは村上と、一緒にNPO支援に取り組む長女・絢の2人にインタビューした(敬称略)。
父の教え受けた投資家のサラブレッド
村上の経歴を振り返る。
1959年、大阪府生まれ。著書によると、村上の父は日本統治下の台湾に生まれ、太平洋戦争では日本兵として徴兵された。戦後に日本国籍を失ったが、1950年代に日本へ移り、結婚して日本国籍を取得したという。
投資家として財をなした父に「投資哲学のすべてを学んだ」と村上は語る。株を買い始めたのは小学3年生のとき。大学に入るまでの小遣いとして父から100万円をもらい、元手にした。
大学を卒業したら、すぐにでも投資家になるつもりだった。しかし、尊敬する父は「国家というものを勉強するために、官僚になれ」と勧めた。
1983年、通商産業省(現在の経済産業省)に入省。その頃に、社会貢献への関心を抱かさせる出会いがあったという。
「国家公務員というのは、ある意味でNPO(非営利組織)の親玉です。税金を使って国全体をどう良くするかを考える。NPOが大切であることは、役人をやっていたらわかります」
「僕らが学生の頃でも、アメリカに留学した連中は、そういう道を選ぶ人が向こうで出始めていると知っていた。でも、日本にはほとんどいなかった。日本にはなんでいないんだろう、と思ってました」
その疑問に答えた人物が、議員インターンシップを通じて政治への関心を高めるNPO「ドットジェイピー」の設立者・佐藤大吾氏だったという。
通産省で若い起業家らと交流を深めていた村上は、社会貢献活動をより大きな規模で実践するために奔走する佐藤の姿に感銘を受けたという。
「若いのに、世の中のことを一生懸命に考えていた。しかも、収益構造のことまで。こういう人たちがちゃんと日本にもいるんだと関心を持ちました」
だが、その関心が行動に移るまでには、長い時間がかかる。
「村上ファンド」の栄光と転落
16年の官僚生活ののち、1999年、村上は幼い頃からの目標であった投資家としてデビュー。「村上ファンド」は急成長した。
「むちゃくちゃ儲かっていた」というのは、大げさな表現ではない。
手数料だけで1年で100億円、運用で1千億円儲かると200億円入った。従業員は40人ほどだから、凄まじい利益だ。成長率は毎年30%に及んだと振り返る。
強大な資金力で株を大量取得し、経営陣に対して意見する姿は「物言う株主」として一躍有名になる。
その絶頂期の2006年6月、村上は逮捕された。
容疑はインサイダー取引。堀江貴文率いるライブドアによるニッポン放送株の大量取得について、事前に堀江から情報を得ていたと罪に問われた。
2007年7月、一審で懲役2年の実刑判決。二審で執行猶予がつき、2011年6月、最高裁で懲役2年執行猶予3年の有罪判決が確定した。
「堀江から実現可能性がほとんどない投資話を聞いていたことが、インサイダー取引とされるのか。今も違和感は残るが、裁判によって国が判断を下したのだから、受け入れる」
こう語る村上が、裁判の真っ最中に動き始めたのが社会貢献活動だった。
「助けないといけない人たちがいる」
絶頂からの転落。天職だったファンドマネージャーをやめ、髪は一気に真っ白になった。失意の村上を訪ねてきたのが、ドットジェイピーの佐藤だったという。
「『何があったんですか?』と心配してきてくれた。それからすぐですね。寄付の活動をしようといろんな団体を訪ねていくようになった」
社会貢献活動への寄付。通産省時代から関心があったことだが、出資者から資金を預かり、利益を最大化させていくファンドマネージャーだった頃には、他のことに時間を割く余裕がなかった。
最初に訪問したのは、罪を犯した人の社会復帰を支援する更生支援施設だ。
「この国で犯罪者として扱われた人は、どうやって社会復帰できるのか。再犯率のデータを見ても、とても難しい。そういう風に見られてしまう。自分自身が犯罪者の烙印を押されようとしていたので、ものすごく関心がありました」
「一緒に炊き出しや餅つきをした。そこには、社会復帰を助けようとしている人たちがいた。感動しました。助けないといけない人たちがいると感じました」
青森から九州まで、様々なNPOや関連団体を訪問して回った。どういう活動で、どういう結果を出しているのか。課題は何か。質問を繰り返した。
「素晴らしい活動をしている人たちがたくさんいた。でも、2つ大きな課題があった。マネジメント力と資金力。それが足りないから、大きな影響力を持てない」
資金について、何かできるかもしれない。村上は情報収集を続けた。
「偉そうにしたら嫌われる。自分は何も知らない。学ぶ立場ですよ」
「全財産を寄付したらええんちゃいますか」
大勢のNPO関係者と会う中で、村上が特に馬があったのが、ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)代表の大西健丞だった。
アフガニスタンやイラクで国際的な支援活動を続け、日本のNPOでも際立った存在だった大西。最初に会ったとき、大西は道に迷って2時間遅刻したという。
村上は初対面の大西に寄付活動について相談し、「これから何をしたらいいと思う」と聞いた。大西はこう答えた。
「全財産を寄付したらええんちゃいますか。それぐらいしないと信頼されませんよ」
大遅刻をしておきながら、ズケズケと直言する大西。「面白いと思ってもろたんでしょうね。それから、よく会うようになりました」。
大西は村上をPWJの関連施設がある小島に招き、共に過ごした。まだ、裁判が続き、実刑で収監されるかもしれない不安な時期。海辺で過ごすリラックスした時間が、村上に少しずつ活力を取り戻させた。
何を支援していくべきか。二人は語り合った。村上は災害対応への支援をしたいと申し出た。
「私が刑務所に入っているときに、大きな災害が起こったらどうしようと思ったんです。家族にも会えず、どうすることもできない。だからまず、災害支援に寄付をしようと思いました」
これが形になったのが大西を支援して立ち上がった「シビック・フォース」だ。災害時にNPO、企業、行政が連携して緊急支援にあたる組織で、東日本大震災でも活動した。
また、全国のNPO情報を公開する「チャリティ・プラットフォーム」を設立。さらに、クラウドファンディングでNPOを支える「ジャスト・ギビング(後にジャパン・ギビングに改称)」立ち上げも支援した。
東日本大震災での無力感
東日本大震災は、社会貢献に取り組み始めた村上にとって衝撃的な出来事だった。
シビック・フォースとジャスト・ギビングで合わせて9億円の支援金が集まった。自身も被災現場に向かった。料理が趣味の村上は炊き出し現場でスタッフとして働いていた。
「感じたのは、無力感ですね」と村上は振り返る。
多額の支援でも、自ら現場に立っても、どれだけの助けになるのか。絢は言う。「父はやり始めたら何事も一生懸命。自身の不甲斐なさに悩んでいました」
その村上が昨年、社会貢献の面で、チャリプラ以来、久しぶりに大きな動きを見せた。村上財団の設立だ。
本の執筆とほぼ同時期の財団の設立には、きっかけがある。
絢の死産と財団の設立
2015年11月、村上の事務所に強制調査が入った。金融商品取引法違反(相場操縦)の容疑だった。出資者を募るファンドはやめていたが、個人資金での投資は続けていた。
村上ファンド再び暗躍か、とメディアは一斉に報じた。当時、妊娠7ヶ月だった絢も調査対象となった。
調査の結果、結局は誰も逮捕されず、事件にはならなかった。しかし、突然のストレスに晒された絢は死産。家族は待望の子を失った。
「生きてきて一番辛い出来事で、何もする気が起きませんでした」
そう語る絢は、妊娠している女性への嫌がらせ(マタニティ・ハラスメント)を防止し、被害にあっている女性を支援する「マタハラNet」や病児保育に取り組む「フローレンス」との交流を深めていく。
「亡くなった娘がきっかけで生まれた交流。ずっと続けたいと思っています」
その言葉通り、父と協力して設立した村上財団の代表となった絢は、これらの活動を支援している。
投資と寄付に共通する哲学
村上は「投資と寄付は似ている」と語る。著書ではこう書いている。
非営利団体と上場企業は、似た立場にあると思う。投資や寄付という形で資金を託され、使途を明確にして報告をし、成果をリターンとして資金の出し手に届ける。あるべき姿の流れは同じだ。
投資のリターンは、経済的な利益だ。では、村上にとって、寄付のリターンとはなんなんだろうか。
「あなたの支援のおかげで、こんな成果が上がりました。こんなに喜んでもらえました」と伝える機会を設けること。そうした場で、さらに次の計画の紹介やそのために必要な資金協力の依頼、その寄付によって実現できるであろうことを紹介する。こうしたコミュニケーションが継続的な活動資金の確保に欠かせないし、自らの寄付で何かを変えることができた、だれかの役に立てたと実感できることが寄付者へのかけがえのない「リターン」になる。
村上は投資家としてそうであるように、寄付においても結果にこだわる。
「投資の世界では、私は『コーポレートガバナンス』を日本で先駆的に唱えた。その考えが根付いてきたことに、満足感を覚えている。寄付の世界においても、結果を残したい」
村上がこの10年で社会貢献活動に寄付してきた総額は十数億円にのぼるという。それでも「社会を変えることが全然できない」と悔しそうに話す。
本当に、そうだろうか。
大西に、村上について聞いたとき、彼はこう言った。
「私はよく村上さんに『ユニバースが小さい』と言われます。規模が小さくて、それでは影響力が限られるでしょ、と」
大西は複数のNPOの代表をつとめ、PWJだけでも事業規模は40億円を超える。それでも、村上から見れば「ユニバースが小さい」と映る。
「NPOの世界では長らく、『Small is beautiful(小さいことが美しい)』と語られてきました」と大西は指摘する。草の根活動の大切さを語る文脈においてだ。
「村上さんは兆円単位で考えることや、お金のフローをどう発生させるかを教えてくれた。そうしないと規模は大きくならないし、影響力を持てない。『Small is not always beautiful(小さいことが美しいとは限らない)』なんです」
社会のニーズやマーケット規模を見極め、寄付だけでなく銀行からも資金を調達し、事業を拡大させ、社会的な課題をより大規模に解決していく。
大西は今、村上の教えを次の世代のNPO運営者たちに伝えている。村上自身も気づかないところで、その影響は広がっている。
村上自身の話に戻る。
村上は今、小中学生への金融教育に取り組んでいる。本の収益を使い、「ライフワークの一つとして、投資に関する教育、啓蒙活動を新たな挑戦としてみようと思っている」という。
9月には宮城県南三陸町の志津川小学校で、初の授業を開いた。震災支援活動をした場所でもある。
小学6年生43人を相手に「きゅうりの値段はどうやって決まると思う?」などとわかりやすく、モノとカネの関係を説明する村上。今後、活動を全国に広げていく計画だ。
あの事件で「天職」と思っていたファンドマネージャーとしての道を絶たれ、苦悩の末に新しい道を見つけた。
取材の最後に聞いてみた。あの時と今、どちらが幸せですか。
どんな質問にも矢継ぎ早に答える村上が、少し考えてから口を開いた。
「どっちが幸せだったかを比較するのは、できないと思うんですよ。今の状況も幸せと考えながら、いる方がいいのかなと思っています」
横に座る絢が、言葉を引き継いだ。
「比較はできないと思うんですけれど、あの事件がきっかけで、ファンドをやめて、今まで触れ合うことがなかったいろんなフィールドの人たちと会って、生き方とか考え方とか変わったと思うんです」
「人生において、そうやって幅広いことを経験することは幸せなことだと思うし、父にとって良かったと思うし、父も本当はそう思っているんじゃないかな、と思います」