美食の数々を味わいながら南仏に生きた画家に思いを馳せる――河村季里の生と死を思索する名随筆『旅と食卓』の誕生秘話

対談・鼎談

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旅と食卓

『旅と食卓』

著者
河村 季里 [著]
出版社
角川春樹事務所
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784758414760
発売日
2024/12/03
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

河村季里の世界

[文] 角川春樹事務所

と南仏の街々を巡った旅の日々が綴られるなか、アヴィニョンでのパン窯焼きのハト、ゴルドの仔羊のロースト、カシのスープ・ド・ポワソン……。五感で旅を味わい尽くし、記憶を呼び起こし、生と死を思索する名随筆『旅と食卓』が刊行した。

著者の河村季里氏と角川春樹氏の対談で語られた誕生秘話をお届けする。

◆《第一部 「旅と食卓」執筆秘話》

――『旅と食卓』は「ランティエ」連載時から話題を集めていましたが、河村さんの執筆にはどのような経緯があったのでしょうか。

角川春樹(以下、角川) きっかけは、季里から旅のレポートを受け取ったことなんですよ。とても面白くてね、本にしたいと思った。だけど私の贔屓目もあるかもしれない。彼は長年の友人だから。出版するなら客観性を持たせなくてはと編集部でも読んでもらうと、全員が面白いと言った。それで話を持ち掛けた。でも、彼はうんと言わなくてね。

河村季里(以下、河村) そりゃそうでしょう。もともとは「ちょっと旅に行ってくるよ」「帰ってきたら話聞かせてくれ」、それだけだったんだから。四十日旅しているから、話そうと思えば二日でも三日でも喋ることはできるけど、話さなきゃいけないわけでもない。だけど言われたからね。一応、メモにでもしておくかと。だーっと書いて、知りたきゃこれ読んでと渡しただけのこと。それが面白かったから書けって言われても困るんですよ。

角川 メモといってもかなりの分量だった(笑)。大変だったと思うよ、あれを書き直すのは。しかし、初めて書くわけでもない。もう五十年くらい前になるか、私が小説を書かせたのは。

河村 初めて会ったのは僕が二十八か二十九歳の頃だね。

角川 角川書店時代に、新しい書き手を探していて紹介されたのが季里だった。私が編集者として関わったのは一冊だったが、それからしばらくして季里は小説から離れてしまった。四十年以上を経て再び書いてもらったが、この『旅と食卓』はとても新鮮だった。小説家ではない。エッセイストでもない。だけど、非常に教養の深い男が書き下ろしたエッセイという感じになっているんだね。もう六回読んでいるが、まったく飽きないよ。

河村 そんなに?

角川 飽きないね。読むたびに感じ入ることがある。「旅と食卓」というタイトルもそうだ。今回はパリと南仏の話だけれど、フランス語の「旅」という言葉は「食べる」から来ていると聞いたことがある。これを読むと「旅」と「食」が連動していて、二つは非常に深い関係にあると実感できる。

河村 本にも書いたけど、そのほかにも旅の語源の一つに「他火」がある。火は何かっていうと「食」。煮て食べること。焼いて食べること。つまり、旅っていうのは他所へ行って食べることでもあるんですよ。

角川 その「食べる」が入口で、訪れた土地土地の美味しそうな食が登場しているが、同時に書かれているサイドストーリーが良くてね。画家たちの生き様だね。モネに始まり、セザンヌ、シャガール、マティス等々。とりわけ、サン・レミ・ド・プロヴァンスを訪れた際のゴッホだ。『不穏な空の下のはてしない麦畑』を取り上げ、この絵画についての小林秀雄の言葉にも言及しながら、ゴッホの自殺について季里のコメントがついている。絵を描くことへの尋常じゃない執念と、そこにある思想や哲学も記していて、非常に引き込まれた。

河村 事前にテーマを決めていたわけではないけど、書くことによって自分が今思っていることや体の中にあるものが、どうしても出てくるんだと思う。まとめて読んでみると通底するものがあった。一つは老いの問題。もう一つは死の問題。画家を媒介にして、死のことを書いているんだ、ずーっと。自分の中にある死のテーマみたいなものを、画家の生き方に仮託してる部分がある。ゴッホは明快にそう。ゴッホは金色の麦畑そのものが死だと言ってる。プロヴァンスの光ってのはものすごく明るくて、その輝きこそが自分の死だと。例えるならそれは、三島由紀夫に通じるもののような気がする。ニヒリズムってのは、暗いものでも病んでるものでもなくて、ものすごく明るいんじゃないか、 あっけらかんとしたものじゃないかと僕は思うけど、そういうものがゴッホの中にある。それは惹かれるよね。

角川 聞きながら思い出したのが飯田蛇笏の俳句だよ。「芋の露連山影を正しうす」というのがあって、これは「サトイモの大きな葉についた朝露に連なる山々の姿が映っている」ということだ。影を映し出すわけだから、そこには光がある。光がないと影は生まれないから。光と影というのは実は一つで、光の中には初めから影が存在しているんだ。その光と影の、極端な象徴が生と死でもある。南仏の光の中に行くという行為も、やっぱり自分の持ってる影があるからなんだと思うね。

河村 まったくそうだろうね。ゴッホは生きようと思って描いているんだけど、最後の絵を描くとき、それはゴッホにとっては死でしかない。生きながら死んだ。ものすごく皮肉なことだけど。でも、まさに影は光で、光は影だ。

角川 それにしても面白いと思ったのは、画家がみな南仏に向かうことだよ。ルノワールもゴーギャンもね。しかもそこでは光に描かされているような気分になるわけだろう?

河村 光に唆されていたとも言えるだろうね。不思議な光ではあるけれど、画家を見てるとわかる。その光がどういうものかっていうのはね。

角川春樹事務所 ランティエ
2024年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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