日本で最も忙しい弁護士のうちの一人かもしれない。指宿昭一弁護士は労働事件や外国人事件に精力的に取り組み、闘ってきた。労働裁判や外国人技能実習生の裁判において、いくつもの重要な判決を勝ち取ったことでも知られる。
弁護士としてのスタートは46歳。以後は、怒涛の勢いで走り続ける。その原動力はどのあたりにあるのか。半生を聞くロングインタビューを前後編で掲載する。(弁護士ドットコムニュース編集部・猪谷千香)
●助けを求め、事務所の呼び鈴を鳴らした技能実習生たち
東京・高田馬場。学生や外国人が往き交う街に、指宿弁護士の事務所はある。さまざまな国の料理店が並ぶ大通りに面したビルの4階。一歩、事務所に足を踏み入れると、労働や外国人に関する書籍や裁判資料がところ狭しと山積みされている。
2007年9月、弁護士登録と同時に独立、ここ高田馬場に事務所を構えた。最初は、もう少し狭い事務所だったという。
「うなぎの寝床みたいなところを借りてましたね。この街が外国人の街だということは意識していませんでした。今ほどは、外国人が街にあふれていたわけではないですし。あとから、私にとってはいい場所、うってつけの場所を選んでたんだなって」
その「うなぎの寝床」だった事務所には、こんな思い出がある。約10年前のある朝、突然呼び鈴が鳴った。
「ドアを開けたら、中国人の技能実習生が6人立っていました。突然です。聞いたら、北関東から電車を3時間くらい乗り継いで来たというんです」
事務所に招き入れると、彼らは雇われている会社に、長時間の移動時間の賃金を支払ってもらっていないと打ち明けた。決死の覚悟で、指宿弁護士に助けを求めてきたのだ。
「彼らは弁護士に会いに来たなんてわかっただけで、強制的に帰国させられちゃうんですよ。『大丈夫なの?』って心配して聞いたら、『大丈夫。今日は東京に遊びに行くといってお休みしてきた』と。その場で委任状をとって、中国の自宅の電話番号とか全部聞きました。そうしたら、やっぱり約2週間後、みんな帰されちゃいましたね」
指宿弁護士によると、多くの技能実習生はこの「強制帰国」を恐れているという。技能実習生は母国を出る際、送り出し機関に保証金や渡航費用を払うために多額の借金をしている。そのため、借金を返し、少しでもお金を貯めるために、厳しい生活に耐えながら働かざるをえない。もしも、途中で強制帰国させられたら、保証金は没収され、借金だけが残り、さらに違約金も請求されることがあるため、雇用主には逆らえないのが現状だ。
事務所に駆け込んできた6人に対し、会社は「帰国しなければ、保証金を没収し、違約金も請求する」と脅した。もちろん、会社に強制帰国させる法的な権限はない。
「彼らは帰国するとき、『今後、何も請求しません』という念書まで書かされていました。でも、委任状があり、中国の電話番号もつかんでいたので、彼らに連絡を取り、会社に対して未払い賃金の請求をする訴訟を起こすことができました」
この裁判は会社が解決金を払うという形で無事に和解した。
「彼らの権利を守れたのは、例外的な事例です。多くの場合、技能実習生たちは泣き寝入りせざるを得ない。こんなことが21世紀の日本で起きているのです」
今でも、お正月になれば、彼らから必ず「おめでとうございます」とメールが届く。「いつも『先生、中国に来ませんか?いつでも連絡ください。食事しましょう』と誘ってくれます。うれしいですね」
●小説家志望の文学青年がバイト先で出会った理不尽
指宿弁護士は、2010年3月、外国人研修生の労働者性を初めて認めた三和サービス事件(名古屋高裁判決)や、2012年4月、精神疾患のある社員の解雇を無効とした日本ヒューレット・パッカード事件(最高裁判決)、2020年3月、歩合給の計算過程で残業代と同額を控除するため実質的に残業代が支払われないタクシー会社の賃金規則を労基法違反とした国際自動車事件(最高裁判決)など、労働裁判において重要な判決を勝ち取ったことでも知られる。
ところが、もともと弁護士になろうと思っていたわけではなかった。1980年、筑波大学比較文化学類に入学したころは、小説家志望。純文学やSFが好きな文学青年だったという。
当時、他大学のキャンパスにはまだ1970年代から続く学生運動の名残りがあった。指宿弁護士の目に映ったのは、自分が入学した大学が政治的・社会的活動を禁止し、ビラまきや集会開催にも許可を求めるという「管理大学」であることだった。
自由であるべき大学が、管理大学になっていく背景には、社会全体が管理社会になっていこうとしているのではないかと感じた。管理大学の中での学生運動を通じて、「社会に存在する差別や抑圧と闘う生き方をしたい」と考えるように。そんな思いを強くするきっかけが、アルバイト先での事件だった。
「大学5年生のとき、大手コンビニチェーンのフランチャイズ店で深夜のアルバイトをしていたのですが、パートの女性たちやアルバイトの中高生に対する管理の仕方に問題がありました。経営者は、『うちはボランティアでやってるんじゃないんだからちゃんと働け』と言ったりする。みんなで『辞めようか』という話になりました」
そこで、指宿弁護士が「どうせ辞めるくらいだったら、労働組合を作って改善を求めたほうがいい」と提案し、労組が結成されることになった。賃金・労働条件の改善もあったが、何よりもパートやアルバイトを尊重しない態度の改善を求めた。
ところが、経営者からの「逆襲」が始まった。パートもアルバイトも有期雇用契約。中心メンバーのうち2人が雇い止めされる事態に。指宿弁護士もその対象になった。
「その店では、本人が希望すれば契約は延長され、長く働けるようになっていました。これは、組合を潰すための不当な雇い止めだということで、裁判所に地位保全の仮処分申立てをして闘いました。そのとき、初めて裁判の当事者になったわけです」
結局、この裁判は、担当弁護士のアドバイスにしたがい、解雇撤回、自主退職、解決金支払いという形での解決を受け入れざるを得なかった。この経験から、中小零細企業では、働く人の立場はとても弱く、労組を作ることも困難であることを学んだが、一方で、労働運動に取り組むことに意義も感じたという。
●「活動家の中から弁護士を育てて」過労で倒れた労働弁護士からの伝言
それでも、すぐに弁護士を目指したわけではない。
裁判よりも、労働運動のほうに興味を覚えていた。大学卒業後、中小企業で労組を作る活動の支援を続け、20代は、労組の活動に没頭する日々。ところが、指宿弁護士が所属していた統一労評(現在の日本労働評議会)で労働裁判などを依頼することの多かった安養寺龍彦弁護士(東京協立法律事務所)が突然、倒れた。1988年、統一労評の労働委員会事件の審問中のことだった。
前年に、国鉄が分割・民営化され、国鉄闘争が巻き起こっていた。安養寺弁護士はその国労弁護団のメンバーとして激務をこなす中、統一労評の事件にも取り組んでいた。
「過労だったのだと思います。統一労評の幹部が安養寺先生のお見舞いに行った際、『僕は、もう労働事件はできないかもしれないから、統一労評の活動家の中から弁護士を育ててください』と話されたのです」
さあ、では誰を弁護士にするのか。統一労評で会議が始まり、末席の指宿弁護士はきょとんとしながら聞いていた。そのとき、誰かが「指宿くんがいいよ」と言い出した。白羽の矢は突然、立てられたのだ。
「嫌です。法律なんか興味ないし、弁護士なんかなりたくないです」
即座に断った。小説家になる志望は捨て、労働組合の活動によって社会を変えていこうと決意していたからだ。急に弁護士になれと言われても、実感がわくわけがない。しかし、仲間の「弁護士バッジをつけた活動家になればいいでしょう」という一言に心を動かされた。
「発想の転換でした。自分は何も変わらなくても良いわけで、なるほどと思いました。たしかに、弁護士になれば役立つというのはわかっていました。組合運動でも労働裁判でも、弁護士のお世話になってきましたから。自分は偉くなるのではなくて、弁護士バッジをつけた活動家として生きていけばいい。じゃあ、やってもみようかなと思いました」
27歳のときだった。思い切った決断にみえるが、「予備知識がなかったんですよ」と笑いながら明かす。
「司法試験の勉強がどれだけ難しいとか、合格までに何年くらいかかるとかも知りませんでした。ためしに司法試験予備校のパンフレットを見たら、『2年合格システム』って書いてあるから、それくらいで受かるんじゃないのって」
何より、若かった。目的意識を持って本気を出せば、すぐに合格できるとぼんやり思ったのだ。「甘い目算でしたね」と指宿弁護士。その後、まさか17回も司法試験にチャレンジすることになるとは、想像もしていなかった。
後編( https://www.bengo4.com/c_18/n_11756/ )に続く。
【指宿昭一弁護士略歴】 主に、労働事件(労働者側)・外国人事件(入管事件)に特化。日本労働弁護団常任幹事、外国人技能実習生問題弁護士連絡会共同代表、外国人労働者弁護団代表、一般社団法人弁護士業務研究所(ベンラボ)理事などを務める。「外国人技能実習生法的支援マニュアル 今後の外国人労働者受入れ制度と人権侵害の回復」(外国人技能実習生問題弁護士連絡会編、共著、明石書店、2018年)、「使い捨て外国人 ~人権なき移民国家、日本~」(単著、朝陽会、2020年)など