「いじめ」が社会問題化してからおよそ40年が経過したのにもかかわらず、なぜ「いじめ問題」はなくならないのか。
今もいじめに苦しんでいる子どもたちを救い出すためのヒントとして、立教大学名誉教授の北澤毅さんは「自己物語の書き換え実践」と「いじめ問題の成立背景を知る」という二つの方法を挙げる。
一体どういうことなのか。(全3回の2回目)
<【3章】人生は物語である>
3(1)事実とは何か:「客観的事実」という幻想
私達人間は、地球という物理的環境世界を生きていると同時に「意味の世界」を生きています。
ここで「意味の世界を生きる」とは、私達は、言葉を使って自分の周囲で起きる出来事に意味を与えることで生きているということです。
あなたは、自分の過去の出来事をすべて記憶しているでしょうか。そんなことはないはずです。1週間前に何を食べたか、友達と何を話したかなど、ほとんど覚えていないでしょうし思い出すこともできないはずです。
しかし私達は、何か特別なことがあった時のことは鮮明に覚えています。大切な記念日のこと、大災害があった日のこと、すごく恥ずかしい振る舞いをしてしまった時のことなど、いろいろな思い出があるはずです。
このように、特別な出来事について語ることで楽しかったり辛かったりの思い出となり、それが積み重なってあなたの人生が形作られていきます。
それだけではありません。長い間、恥ずかしい出来事だと思っていたことが、実はあなたの人生にとって貴重な経験になっていたことに、あとになって気づくことがあるかもしれません。
それは、あなたにとってその出来事の持つ意味が変化したということです。
つまり、起きてしまった過去の出来事を変えることはできませんが、出来事の持つ意味は、その後の人生のなかで変わることがある、変えることができる、少なくともいつでもその可能性があるということです。
ここから言える大切なことは、私達の人生とは「語ることで意味が与えられる物語である」ということです。ただし、ここで物語とはフィクション(虚構)という意味ではありません。
私達は、人生のなかで出会う様々な出来事のなかからその一部を切り取り物語ることで、その出来事を意味のある経験として記憶し人生を形作っていきます。
そういう意味で「人生とは物語である」と言いたいわけです。
その上で、物語にはもう一つ、出来事に意味を与える解釈枠組みとしての働きがあるということについて説明したく思います。
ここで解釈枠組みとは、カメラのフレームのようなものです。誰かの姿をカメラで撮影しようとする時、人物と背景とのバランスをどうするかを考えながら撮影すると思います。
いわば、何をどのように切り取りどのような構図にして撮影するかを常に判断しているということです。もちろん、撮影された内容は事実かも知れませんが、その事実は、撮影者の判断によって「切り取られた事実」です。
それと同じく、あらゆる「事実」は何らかの枠組みを通して「切り取られた事実」であるという特徴を帯びています。そして、私達1人1人の人生にとって、カメラのフレームと同じ働きをしているのが常識や物語ということになります。
つまり私達は、常識や物語という解釈枠組みを、時には自覚的に時には無自覚のうちに採用することで、身の回りで起きる様々な出来事のなかからある一部を切り取り、そうして切り取った断片を語ることで「私の人生」を作り上げているということです。
とはいえ、「人生とは物語である」「物語とは解釈枠組みである」という考え方に抵抗を覚える人も少なくないかも知れません。
というのも私達は、なにより学校教育を通して「正しい答え」や「正しい考え方や振る舞い方」を徹底的に教え込まれてきていると思うからです。
そればかりか、「事実」とは、言葉によって「語られた事実」であるとか、「事実」とは解釈枠組みによって「切り取られた事実」であるといった「事実」に対する考え方に接する機会もあまりないのではないでしょうか。
ただ、もしそうだとしても、「いじめ問題」に関心があるのでしたらもう少し私の話しにつきあって欲しいと思います。
なぜなら、事実や物語についてのここまでの議論を踏まえることではじめて、新たないじめ対策論が展開可能となるからです。
3(2)「自殺のSOS」という物語
「自殺のSOSに気づくはずだ」。これは、日本社会に広く浸透している考え方(言い換えれば「いじめ物語」の一つ)です。
例えば、中学生が自殺をしたとします。
そうすると、「なぜ生徒のSOSに気づかなかったのか」という語りがほぼ必然的に登場しますが、そうした語りが生まれるのは、私達が「自殺のSOS」物語を信じているからと言えます。
このような考え方を踏まえることで、「自殺のSOS」物語と「いじめ苦や孤独感とは意味の苦しみである」という考え方とがどのように関係しているかを明らかにしていきたいと思います。
まず考えてみたいのは、中学生や高校生が孤独を感じるのはどのような場合かということです。
その生徒の周りに誰もいないからでしょうか。そういう場合もあるかも知れませんが、身近に親や友達など沢山の人がいるにもかかわらず、「私のことを誰も分かってくれない」と孤独感を深めていく場合もあるのではないでしょうか。
だとすれば、このような心理的孤独はどのようなメカニズムが働いて生まれるのかということです。
いろいろな状況が想定可能でしょうが、ここでは「自殺のSOS」物語とのかかわりに焦点化し、「いじめ自殺」で子どもを失った親達へのインタビュー記録集(鎌田慧『いじめ自殺』岩波文庫、2007年)を手がかりに論じたいと思います。
鎌田の本のなかには、子どもを「いじめ自殺」で失った12人の親が登場しますが、なにより印象深いのは、自分の子どもがいじめられていたことに気づかなかった、自殺するなど思いもよらなかったと語っている親が相当数いることです。
ただし勘違いしないで欲しいのは、子どものSOSに気づかなかった親を批判したくてこのようなことを言っているわけではないということです。
そうではなく、親達が「気づかなかった」と語る背後には、「心理的孤独」や「他者理解」という問題を考える上で重要なヒントが隠されていると思うからです。
そのことを、1人の父親の語りを分析することで示してみたいと思います。
以下、引用します。
それで死ぬちょうど1週間前、月曜日の朝は「いってらっしゃい」と私が送ると、「行ってきます」っていってたんですよ。それが、火曜日の朝からはクルマのなかで、ずうっと前を見ていて、話しかけても、しゃべらなくなったんです。黙りこくって。 でもそのときは過去にもそういうことがあったものですから、そっとしておいたんです。たしか中学2年のときでしたか、1週間ぐらい黙ってしまったことがあるんですが、その後、挨拶するようにもなったし、笑顔も出てきましたから、このときもそういうことかなと思っていたんです(鎌田 2007年、p.93)。
この父親は、「黙り込む」という子どもの異変にはっきりと気づいています。しかし問題は、「黙り込む」という異変は、必ずしも「自殺のSOS」を意味するわけではなく、他の解釈も可能であるということです。
そして父親は、子どもの異変を、過去にも同じようなことがあったので今回も同じかもしれないと考えたと語っています。
この父親のように、何か異変を感じた時に、その異変を理解するために過去の経験に手がかりを求めるというのは、きわめて自然で妥当なことではないでしょうか。
私達は、家族や友達の異変に気づくことはしばしばあるはずです。そして、「どうしたのかな、体調悪いのかな、何かあったのかな」などと考えながら心配するはずです。
でも、「自殺のSOSかも知れない」などと普通は考えないはずです。
もちろん、「死にたい」と何度も呟いたり自殺未遂をしたりなど、よほど特別なことが異変の前にあったのなら「自殺のSOS」を疑うかも知れませんが、そうしたことがない限り、異変を「自殺のSOS」と捉えることはきわめて難しいと思います。
父親は異変に気づかなかったわけではありません。気づいた上で、その異変を過去のエピソードを手がかりに解釈したということです。
もちろん、子どもを自殺で失ってしまった親としては、「自殺のSOSに気づいてやれなかった」と語るしかないのかも知れませんが、少なくとも私達第三者が、「なぜ自殺のSOSに気づかなかったのか」などと親や教師を責めるのは、もしかしたら的外れかもしれないということです。
でも、もしそうだとすれば、大きな疑問が2つ浮かびます。
まず第1に、それではなぜ、かくも根強く「自殺のSOS」物語が説得力を持ち続けているのかということです。
そして第2に、「自殺のSOSに気づけない」とするなら、それ以外に自殺を防止する方法として何があるのかということです。
まずは1つ目の疑問についてです。
もし家族や親しい友人が自殺をしたとすれば、私達は驚き悲しみ途方に暮れ、「なぜ自殺をしたのか」と問わざるを得なくなります。
そして過去を振り返り、「あの時、もっと丁寧に話しを聞いてやれば良かった。どうして苦しみに気づいてあげられなかったのか」などと、いろいろと思い当たることが出てきて後悔するはずです。
しかし残念ながら、そうした気づきは、悲劇が起きてしまった後に過去を振り返った時に初めて可能になるのだと思います。
私達には予知能力などありませんから、大切な人の異変を感じた時には、それまでの経験を頼りに異変を理解しようとする以外に方法がありません。そして多くの場合、異変の後に続くのは「自殺ではなく回復」だと思います。
だから私達は、「思い過ごしで良かった。元気になって良かった」と思い、また元の日常生活に戻るわけです。そして少しすれば異変があったことさえすっかり忘れてしまうかも知れません。
しかしながら、本当にごくまれにですが、誰も予想していなかった突然の悲劇として自殺が起きてしまうことがあるわけです。
残された人達にとって、その時の出来事は強烈な記憶として残るでしょうから、「自殺のSOSに気づけたはずだ、気づくべきだった」と自責の念に囚われ続けることになるかもしれません。
しかしそれは、自殺という悲劇が起きた後だからこそ思うのであって、あらかじめ気づけることではないということもまた、どうしようもない私達人間の限界なのだと思います。
しかしでは、「自殺のSOS」に気づけないとするなら自殺を防止することは不可能なのでしょうか。
この第2の疑問に対しては、「自殺を防止する方法はある」とはっきりと言いたいと思います。
ただ、それを言うためには少し遠回りになるのですが、いじめで苦しむ子ども達もまた、大人達と同じように「自殺のSOS」物語を信じているからこそ孤独感を深めることになるという論理を説明する必要があります。
3(3)他人の気持ちのわかり方
まず確認しておきたいのは、「誰も私の苦しみを分かってくれない」と思い悩むのは、「分かってほしい、分かってくれるはずだ」と期待しているからとも言えます。
もしかしたら、すべてに絶望し他者に期待することを完全にやめてしまうことがあるかもしれませんし、そういう子ども達に私の話しが届くかどうかは自信がありません。
そういう限界を意識しつつ、「誰も私の苦しみを分かってくれない」という苦境から子ども達を救い出す方法について論じていきたいと思います。
さて、すでに「自殺のSOS」問題について論じたことですが、私達は他者の異変に気づくかも知れませんが、その異変の意味は様々に解釈可能です。
ですから、もしあなたが、いじめられて死ぬほど苦しいと思いつつ何も言わず自分の世界に閉じこもってしまうとすれば、両親や友達はあなたの様子がおかしいことには気づくかも知れませんが、異変の理由については、あなたが期待するとおりには理解してくれないかもしれません。
そうなれば、いじめに苦しみ、さらには「誰にも分かってもらえない」と思い悩むことで孤独感に苦しむという二重の苦しみを味わうことになり、ますます孤立感を深め窮地に陥ってしまうかも知れません。
だから、「あなたの苦しみに気づくこと」と「あなたの期待通りに反応すること」とは別であるということ、そしてなにより、あなたの思うようには伝わらないことには明確な理由があるということを理解して欲しいと思います。
さらに重要なのは、ここで展開している議論は「自殺のSOS」問題に限ったことではなく、他者理解をめぐる基本的な考え方の一部であるということです。
ですから、何がどう苦しいのかを、あなたにとって信頼できる相手にはっきりと言葉で伝えることが解決への第一歩であると、まずは言いたいと思います。
このように言うと、あまりに平凡な提案にがっかりするかも知れませんが、自分の苦しい思いが大切な人達に伝われば、もうそれだけで解決への大きな一歩を踏み出したことになる場合も少なくないはずです。
しかしもう一つ重要なことは、「言葉で伝える」実践だけではうまくいかない場合があるかもしれないということです。
なぜなら、先ほど紹介した事例と同じように、「いじめられて苦しい」「学校に行きたくない」「死にたい」と語ったとしても、周りの人達がそれらの言葉を異変の一部とみなし、あなたの思いとは別の方向にあなたの言葉の持つ意味を解釈するかも知れないからです。
これは充分に起こりえることですので、そこで絶望したりせず、生き延びるためのさらに別の方法を考え実践していく必要があります。ここで話しが終わるわけではないということです。
それに、「言葉で伝わらない」ことに絶望するのは早すぎます。
なぜなら、「私の苦しみを誰も分かってくれない」と言うのは簡単ですが、そう主張するあなた自身も、あなたにとって大切な誰かの苦しみを相手の望むとおりに理解できるかどうかは怪しいからです。
そういう意味でも、あなた自身が誰かの気持ちをどうやって理解しているかについて、ここでの議論を手がかりにあらためて考えてみて欲しく思います。
そうすれば、私達はお互いに、相手の気持ちを完全に理解することなどできないということ、分かったつもりですれ違うこともしばしばあるということに気づくはずです。
というより、自分の気持ちが完全に他者に理解され見透かされてしまうとすれば、それはそれで、自分という存在がなくなってしまうような不気味な不安を感じるはずです。
このように私達は、「私の気持ちを分かって欲しい。でも、私のすべてを分かられたくない」という何とも矛盾した思いを抱えながら生きる複雑な存在なのです。
こういう複雑さが理解できれば、それだけで少し気持ちが楽になるかも知れませんし、孤独感からの脱出への一つのきっかけをつかめるかもしれません。
もちろん、これが結論ということではなく、むしろ結論への第一歩と位置づけ、いじめ苦や孤独感とは「意味の苦しみ」であり、「人生とは物語である」という問題について、さらに考えていきたいと思います。
<【4章】「いじめ物語」を解体する(その1)-自己物語の書き換え実践>
4(1)自己を相対化するとはどういうことか
子ども時代に過酷ないじめられ経験をしたという精神科医の中井久夫は、学級という小集団を権力社会と捉え、その閉塞社会のなかで標的にされたいじめ被害者が、「孤立化」「無力化」「透明化」させられ自尊心を失い、いじめっ子に従属していく過程を鮮やかに描き出しています(「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』みすず書房、1997年、pp.2-23)。
ところで、学級集団を権力社会と捉えることに抵抗を覚える人もいるでしょうが、これは2(2)で論じた「学級集団がいじめを生み出す」という命題と同様、学級、会社、国家など多くの集団には同じような秩序維持メカニズムが働いているという考え方に支えられています。
そして、このような冷徹とも言える学級集団の捉え方は、生徒指導や学級経営にも大いに役立つ可能性があるのですが(映画『ザ・中学教師』1992年、はそうした視点から中学校を描いています)、この問題を詳しく論じようとするといじめ論から話しが逸れてしまいますのでここでは控えます。
また本稿で注目したいのは、「透明化」をめぐる議論ではなく、いじめ被害者の自衛策について述べられている最後の部分です。
中井は、子ども時代の過酷ないじめに耐えることができた理由として、「自分を乖離しいじめられている自分をひとごとのように外から眺める能力」を持てたこと、さらには、自分と同じようにいじめられていた疎開児童と「ペア感覚」を持てたことの二点に言及しています。
ここで「自分をひとごとのように外から眺める」とは「自己を相対化する」こととほぼ同じと言えますし、「ペア感覚」とは「同じように苦しんでいる他者と出会う」ことと言い換えて良いかもしれません。
例えば、学校に行かずに家に閉じこもるのではなく、不登校の子ども達が集まるフリースクールに通うなかで、同じような苦しみを味わう他者と出会うことで精神的に安定するとすれば、そこには「ペア感覚」と同様のメカニズムが働いていると考えられます。
このように中井は、孤立感から自らを解放し生き延びるための重要な戦略をさりげなく教えてくれているように思います。
ただ、「ペア感覚」を持てるかどうかは、同じような経験をしている他者と出会えるかどうかにかかっているのに対し、「自己相対化」は自分一人でもできる点が重要です。
とはいえ、どうすれば「自己を相対化する」ことができるかですが、ここで重要なのは、「自己相対化は大切だ」という「知識」を覚えるのではなく、自己を相対化する「方法」を身につけ実践できるようになることです。
では、どのような方法があるのかということになりますが、ここまでの議論を踏まえたうえで二つの方法を紹介したいと思います。
一つが、これから紹介する「自己物語の書き換え実践」、そして二つ目が、次節で紹介する「いじめ問題の成立背景を知る」という方法です。
4(2)自己物語を書き換える
まずは、「自己物語を書き換える」という実践方法についてです。
すでにおわかりと思いますが、これは「いじめ苦とは意味の苦しみである」「人生は物語である」という考え方から導き出される方法ですが、ここではテレビドラマの印象的な一場面の分析を通して、この方法の有効性を示してみたいと思います。
もう10数年前になりますが、中学校でのいじめ問題をテーマにした『わたしたちの教科書』というドラマが放映されました(フジテレビ系、2007年4月12日~6月28日の全12話)。
第1話のなかで、陰の主役である藍沢明日香が、校舎の窓から転落し死亡してしまいます。
その後、彼女の死が「いじめ自殺」であったかどうかをめぐって物語は展開していきますが、最終話で、明日香の親友だった仁科朋美が裁判所で重大証言をし、明日香は事故死であったことが判明するという展開です。
ドラマのなかには、学級内のいじめられっ子として、藍沢明日香、仁科朋美、山田加寿子という3名の生徒が登場しますが、この3名には自殺念慮に囚われるという重要な共通点があり、ドラマ全編にわたって「死」が充満しています(ただし朋美の自殺の試みは、いじめられ経験に関連してはいますが、「いじめ苦」を直接の動機としたものではありません)。
と同時に注目すべきは、自殺念慮に囚われた3名が、それぞれ異なった理由や事情から自殺を思いとどまることになるのですが、その理由や事情のなかにこのドラマの重要なメッセージが込められています。
なかでも、「自己を相対化する」というテーマにとって重要なのは藍沢明日香の事例です。
最終話の仁科朋美の証言のなかで、次のような重要場面が回顧的に語られます。
校庭で複数の生徒間で乱闘騒ぎが起き、生徒達が校庭に入り乱れているなか、明日香は一人教室の窓からその様子を眺めています。そこに朋美が入室してきて二人の間で会話がはじまります。
朋美には、クラスのなかのいじめられ役を明日香に代わってもらったうえに、いじめられる明日香を見殺しにしてきたという重い過去があり、明日香に対する罪悪感と自責の念で押しつぶされそうになり、2人の会話の流れのなかで自殺しようと意を決し教室の窓から身を乗り出そうとします。
その時、明日香が「私もおととい死のうと思った」と語りかけることで朋美は飛び降りるのを思いとどまり会話が続いていきます。
以下、引用します。
明日香:朋美!おとといさ、私もおととい死のうと思った。私が死んだって悲しむ人はいないし。ただ消えるだけだし。そう思ってさ。私、秘密の隠れ家に行ったの。でも、死ぬのやめちゃった。 朋美:どうして。 明日香:私はひとりじゃないってわかったの。私にも、私が死んだら悲しむ人がいるってわかったの。
この後も2人の会話は続きますが、明日香を自殺から思いとどまらせた「悲しむ人」とは誰なのかについてはこの場面では明らかにされません。
そしてエンディングで、私達視聴者は、明日香が秘密の隠れ家(小学生時代に朋美と遊んだ思い出の場所)の壁に書いた「明日香より。明日香へ」というメッセージに出会うことになります。
少し長くなりますが全文を引用したいと思います。
明日香より、明日香へ。 わたし、今日死のうと思ってた。ごめんね。明日香。 わたし、今まで明日香のことがあまり好きじゃなかった。 ひとりぼっちの明日香が好きじゃなかった。 だけど、ここに来て気付いた。 わたしはひとりぼっちじゃないんだってことに。 ここには8才の時のわたしがいる。 わたしには8才のわたしがいて、13才のわたしがいて、いつかはたちになって、30才になって、80才になるわたしがいる。 わたしがここで止まったら、明日のわたしが悲しむ。 昨日のわたしが悲しむ。 わたしが生きているのは、今日だけじゃないんだ。 昨日と今日と明日を生きているんだ。 だから明日香、死んじゃだめだ。生きなきゃだめだ。 明日香。たくさん作ろう。思い出を作ろう。 たくさん見よう。夢を見よう。明日香。 わたしたちは、思い出と夢の中に生き続ける。 長い長い時の流れの中を生き続ける。 時にすれ違いながら、時に手を取り合いながら、長い長い時の流れの中を、わたしたちは、歩き続ける。 いつまでも。いつまでも!
このメッセージを突きつけられた時、私は意表を突かれた思いがしました。と同時に、いじめられて孤立しているであろう多くの子ども達に届くだけの、充分に説得力のあるメッセージになっているのではないかとも感じました。
明日香は、いじめられて孤立し死ぬほど苦しいという思いを抱えながら生きてきたわけですが、そのような自分を見事に相対化し、「いじめは自死に値する苦しみである」という「いじめ物語」からまったく別の物語に自分の力で書き換えています。
「私が死んだら悲しむ人がいる」という明日香の言葉は、具体的な相談相手を探し当てることができない場合でも、誰にでも究極の相談相手として「過去の自分、未来の自分がいる」と語りかけていますが、これは、メッセージとして普遍的な力を持っているのではないでしょうか。
なぜなら、自分の死を悲しむ具体的他者は必ずしも存在するとは限りませんが(明日香は、両親と死に別れており天涯孤独という設定です)、悲しむ自分(「過去の自分」「未来の自分」)を物語世界のなかに立ち上げることはやろうと思えば誰にでもできることだからです。
4(3)苦しみの内容は人それぞれでも苦しみ方は同じである
とはいえ、所詮、ドラマのなかの話しに過ぎず、実際にいじめで苦しんでいる子ども達が自分の力で物語を書き換えるなど無理ではないかと思うかもしれません。確かに、現実的には難しいと思います。
しかし、そもそも子ども達は「いじめ物語」に絡め取られるからこそ「苦しい、死にたい」と思うのだとすれば、いじめ物語のメカニズムを理解することで「いじめ苦」から解き放たれる可能性が生まれるということは論理的には正しいはずです。
ですから、ここで確認しておきたいことは、実際には難しいかもしれないが論理的には可能であるということです。
そして問題は、論理的に可能なことを現実に可能とするためにはどうすれば良いかということです。
言うまでもありませんが、一番良いのは、今いじめで苦しんでいる子ども達が「いじめ物語」のメカニズムを理解し、自分が何に苦しんでいるかを理解できるようになることです。
しかし、いじめられて苦しいと思っている子ども達には自分を相対化する精神的余裕がないかも知れません。
そこで重要となるのが、今これを読んでいるあなたです。
あなたが中学生であるか大人であるか、いじめられた過去があるかないかにかかわらず、物語論の考え方に説得力を感じるとすれば、是非とも、いじめで苦しんでいる誰かに、「いじめ苦」や「孤独感」を生み出すメカニズムを伝えて欲しいと思います。
そしてできれば、「物語の書き換え」実践に協力して欲しいと思います。
では、どうすれば物語を書き換えることができるかですが、残念ながらマニュアルは存在しません。
ただ、少なくとも重要なポイントが2つあると思っています。
まず第1に、ここまで話をしてきた「人生は物語である」という物語論の考え方の基本メカニズムを理解することです。
私達は、いろいろな状況で「人それぞれでしょう」という言葉をしばしば口にしますし、その言葉に納得することも多いと思います。
確かに、あなたが出会う出来事はあなただけのものですし、誰も代わることのできないあなたの人生そのものです。
しかし一方、あなたが出会うユニークな出来事を「私はいじめられている」と理解するとすれば、その時から「いじめ物語」が発動し始め、「いじめ苦」という独特の苦しみを生きることになります。
「いじめられている」と思った時にはすでに、あなたに起きた出来事は個別性をこえた一般性を獲得し、「いじめられている」皆に共通する経験へと変質するということです。
だからこそ、「いじめ物語」のメカニズムを理解することが、いじめに苦しむすべての子どもを救う可能性を持つことになるのです。
とはいえもう一つのポイントは、いじめられるに至った経緯には、それぞれの子どもによって違いがあるはずですので、個別性も大事にしなければならないということです。
ですから、それぞれの子ども達の具体的な経験内容や友達との関係性などについて丁寧に話しを聞く必要がありますし、その上で、その子が充分納得して受け入れることができる「新たな物語」を、聞き手であるあなたも協力して紡ぎ上げていくことができるかどうかにかかっています。
つまり、「物語の書き換えのすすめ」とはいえ、一方で、物語のもつ普遍的なメカニズムを理解し、他方で、子ども達1人1人の経験の個別性を理解するという二重の理解がともなわなければうまく行かないかもしれないということです。
複雑で面倒な作業と思われるかも知れませんが、それができれば、いじめで苦しんでいる子ども達を救い出せる可能性が高まると思うのですがいかがでしょうか。
【著者】 北澤毅(きたざわたけし) 1953年 茨城県つくば市生まれ。茨城県立土浦第一高等学校卒業。東京大学教育学部学校教育学科卒業。筑波大学大学院博士課程終了。日本女子体育短期大学専任講師、立教大学文学部教授を経て、2019年4月から立教大学名誉教授。 専門は、教育社会学、逸脱行動論。主な著書:『少年犯罪の社会的構築』東洋館出版社、『文化としての涙』勁草書房、『いじめ自殺の社会学』世界思想社、『教師のメソドロジー』北樹出版、『囚われのいじめ問題』岩波書店など。