米アカデミー賞・長編ドキュメンタリー映画賞のノミネート作品を決めるためのショートリストに、ジャーナリスト・伊藤詩織さんの初監督作品『Black Box Diaries』が選ばれた。日本人監督が同賞のショートリストに選出されることは史上初という。
この作品をめぐっては、伊藤さんの性被害訴訟で代理人をつとめた西廣陽子弁護士らが今年10月下旬、この映画の中で、承諾のない映像や音声が使われているとして、内容の変更を求める記者会見を開いている。
その後、西廣弁護士のもとに伊藤さん側から内容証明が届いた。10月の記者会見の内容は「不正確」で、「伊藤さんの名誉を毀損するおそれがある」と指摘する内容だった。伊藤さん側は12月17日にも同様の考えをメディアに公表した。
西廣弁護士は、伊藤さん側の指摘に対して「会見の内容は間違っていない」と反論。「映像や音声の使用は、取材源秘匿や事実上の公益通報者を守っておらず、人権侵害にあたる映像が公開され続けることには問題がある」として、会見以降も変わりなく海外で上映が続いている状況を憂慮している。
一方、伊藤さん側は、西廣弁護士らが会見で伊藤さんの秘密を暴露したことは、弁護士職務基本規程違反にあたると批判。ホテルから承諾は得られていないものの、交渉を尽くし、プライバシーに配慮しながら、オリジナル映像とは異なる加工を施したもので、映画には公益性があるとする考えだ。(弁護士ドットコムニュース編集部・塚田賢慎)
⚫︎伊藤さんの元代理人ら記者会見でうったえ「映像の使用は誓約違反」
問題が指摘されているのは、伊藤さんが初監督をつとめたドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』。伊藤さんが受けた性被害事件をテーマとしている。
西廣弁護士と代理人の佃克彦弁護士が記者会見を開いたのは10月21日のこと。この映画には、「被害に遭ったホテルの防犯カメラ映像が使われている」などと指摘した。
伊藤さんと西廣弁護士は、映像を提供したホテルとの間で「裁判手続以外の場では使わない」という誓約書にサインしていたが、映画化においてホテルから許諾を得られていないことが「誓約違反にあたる」という。
西廣弁護士によると、ホテルから提供された映像では、ホテルのエントランスに止まったタクシーから伊藤さんが男性に抱えられていく様子が映っている。
この映像は性被害の民事訴訟で証拠として提出されて、伊藤さんは勝訴した。
西廣弁護士らは、映像を裁判以外に使うことは誓約違反であり、使うならホテルの承諾が必要であることを伊藤さん側に説明してきたが、それでも使われたと主張する。
それだけでなく、伊藤さんに捜査情報を漏らした捜査員らとのやりとりの音声や映像も使われているため、「取材源の秘匿」が守られていないとしている。
西廣弁護士らは、ホテルや捜査員の映像や音声が「承諾なく」使われることは人権侵害であると強調。
また、性被害事件は直接証拠に乏しく、状況証拠に頼るケースが少なくないため、このような無断での利用が許されれば、証言者や捜査員から協力を得られなくなってしまうのではないかとの危惧を示した。そのうえで、伊藤さんに対して、映画の内容の修正を求めていた。
⚫︎「裁判の証拠となった映像」と「映画で使われた映像」の違いとは
西廣弁護士と代理人の佃克彦弁護士は、弁護士ドットコムニュースの取材に、記者会見から10日後に伊藤さん側から内容証明(10月31日付)が送られてきたと明かした。
伊藤さん側は、この内容証明の中で、記者会見の内容に対して「映画の中で映像はそのまま使われておらず、ホテルから開示されたものをもとにプライバシーに配慮してCGを使って制作した」「すべての警察官の声を加工・変更して使用しています」などと反論した。
また、伊藤さんは協議の中で、新たな映像を制作し直し、映像はホテルからのオリジナルのものではないと映画で注意書きすることを提案するなど、西廣弁護士側と向き合ってきたと説明。そうした経緯が記者会見では説明されていなかったことから、伊藤さんが誠実に対応していないような印象をもたらしたと批判している。
この書面を受け取った西廣弁護士は「そもそも私たちは映像についてプライバシーの点だけではなく、ホテル側に承諾を得られているかどうかを問題にしています。いくら映像を加工しようが、ホテル側から承諾が得られていないまま公表されていれば問題と考えます」と説明する。
西廣弁護士らによると、映画で使われている映像は、承諾が得られていないだけではなく、CGでゼロから作られているものではないという。
裁判に証拠提出された映像との違いは、ホテルエントランスに停まったタクシー車体の天井部に「あんどん」が付け加えられたほか、全体的な色味の変更や一部でぼかしを入れた以外に見受けられず、「本質的にそのまま映像が使われていると言うほかない」という。
⚫︎元代理人「公益通報者保護の観点からも警察官とのやりとりを公開することは問題」
また、西廣弁護士は、警察官とのやりとりの映像や音声は、映画の中で加工・変更しているとは確認できなかったと説明する。
映画で登場した警察官の中には、上層部からの指示で男性を逮捕できなかったという情報を伊藤さんに伝えた捜査員との会話も登場するとして、「隠し撮りしていた捜査員の顔は見えないが、その姿は晒されていた。取材源であり、事実上の公益通報者である警察官の保護の観点から大きな問題になる」とうったえる。
伊藤さん(左から2人)と並んで会見に臨む西廣弁護士(左)/2017年5月29日/弁護士ドットコム
今回送られてきた内容証明の中には、伊藤さんへの誹謗中傷が引き起こされる可能性があるとわかったうえで記者会見に臨み、会見後にはネット上で伊藤さんへの中傷が投稿されているという指摘もあった。
こうした指摘に対して、佃弁護士は「今回の映画の問題と、伊藤さんの受けた性被害は別の問題であり、会見でもメディアの前で説明しています」として、メディアや読者にも誹謗中傷はしないでほしいことを会見で伝えたと説明。
「伊藤さんの映画が評価され、ジャーナリストとして活躍してほしいと思います。しかし、人権侵害にあたる問題は解決されなければいけません」(西廣弁護士)
●伊藤さん側の見解 承諾は得ていないができる限り元の映像と違うものにした
伊藤さんの代理人を記者会見以降つとめる師岡康子弁護士と神原元弁護士が、弁護士ドットコムニュースの取材に応じた。
映画化にあたり、伊藤さんは、ホテルの説得にあたってきたが、現時点で承諾を得られていないという。しかし、2回のCG加工を施し、できる限り元の映像と違うものにしようとしたと説明する。
映像の中で、男性が伊藤さんをタクシーから抱き抱えてホテルの入口に連れていく動きが事件の一番の要であり、かわりにアニメなどを使う手段をとりえないと判断。
「男性がタクシーから自力で降りることも困難な伊藤氏をタクシーからかついで降ろし、その後も自力で歩けない伊藤氏をホテルのドアまで引きずって歩いた映像は、性暴力の決定的な証拠であり、この部分の男性と伊藤氏の実際の動きそのものを変更することは、事実を捻じ曲げる恐れにつながる懸念があります」(発表されたコメントより・一部編集)
提供を受けた映像をそのまま使用することはせずに、男性の髪型やホテルの床の模様などにCGで変更を加えたと説明する。また、英語の注釈でオリジナルとは違うことを示しており、日本公開に向けても日本語で注釈を入れる予定だという。
性暴力事件において、どのように相手と戦うか、いかに証拠が重要か、伊藤さんが性暴力被害者だと信じてもらうためには、映像は使わざるをえなかったとの考えを示した。
また、伊藤さんが性被害を受けたホテルの情報はすでに公に広く知られた事実だとして、映画で明らかになったわけではないとも説明。今回のケースでは、映画がもたらす公益がさまざまな事情よりも上回ると考えているという。
また、神原弁護士らは、西廣弁護士らは警察官の音声について記者会見で「変えていない」と言っていたが、それは事実ではなく、音声を加工しているという。加工の度合いについては議論の余地はあるとした。
西廣弁護士らは、警察官の映像や音声が映画で使われ、取材源や公益通報者を守ることができていないと指摘していた。一方で、神原弁護士らは、警察官は私人ではなく、さらに映画公開以前から、少なくとも警察内部では該当の警察官はすでにほとんど特定されていたが、それでも西廣さん側からの要望を受けて声を加工してきたという。
伊藤さん側は、伊藤さんが西廣弁護士らと「誠実に」やりとりを続け、その中で受け入れた提案もあり、決して自分勝手に映像や音声を使ったものではないと説明する。
加えて、元代理人の西廣弁護士が、依頼者であった伊藤さんをめぐる問題を記者会見の場で明かし、依頼者の守秘義務を破ることでもあり、弁護士職務基本規程違反にあたると指摘した。
「弁護士は依頼者との信頼関係を保ち、紛議が生じた場合は所属弁護士会の紛議調停で解決するように努めることが定められています」(発表されたコメントより)
「西廣弁護士は、(今年)7月31日の協議の場で、伊藤氏が映像の一部を使うことについて、伊藤氏に対し、やっていることはレイプと同じと非難し、本件会見でも同趣旨の発言をしました」(前同・一部編集)
●ホテルと伊藤さんの問題と、ホテルと西廣さんの問題は、別だという主張
伊藤さん側の見解としては、ホテルとの間で伊藤さんと西廣弁護士は誓約書にサインをしているが、ホテルと伊藤さん、ホテルと西廣弁護士、2つの約束が生じているという解釈だ。
伊藤さんがホテルから承諾を得られないことは、あくまで伊藤さんに責任があり、そのうえで映像が使用されたとしても、西廣弁護士の責任は問われず、西廣弁護士が伊藤さんにホテルとの約束を守らせるいわれはないのだという。
神原弁護士と師岡弁護士は、弁護士として、依頼者の守秘義務を守ることは絶対であり、今回の記者会見でのうったえの中に、その絶対的な原則を超える理由は見つけられなかったとしている。