【解説】 シリアの反政府勢力とは 首都掌握と主張

武器を構える若者たち

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セバスチャン・アッシャー中東担当編集長

シリアで8日、反政府勢力が首都ダマスカスに入場した。バッシャール・アル・アサド大統領は、国から脱出したと言われている。

反政府勢力はこの日、テレビを通じて、ダマスカスが「解放され、暴君バッシャール・アル・アサドは倒された」とのメッセージを発した。

さらに、「ムジャヒディン(イスラム戦士)と市民は、自由国家シリアの資産を守るよう」呼びかけ、「自由で誇り高いシリアよ、永遠に。所属する分派を問わず、すべてのシリア人に」と強調した。

シリアの反政府イスラム武装勢力は11月下旬に北部アレッポをいきなり制圧した後、電光石火で南進を続けた。反政府勢力はわずか2週間足らずで、アサド政権打倒を実現したもようだ。

国内各地で政府軍の兵士たちが次々と、職務を放棄するか、反政府勢力の側についたと報告されている。

11月末の最初の攻勢を主導したのは、イスラム武装勢力ハヤト・タハリール・アル・シャーム(HTS)だった。HTSはシリア内戦に長年かかわってきた。

そしてHTSは国連のほか、アメリカやトルコなどの政府から、テロ組織に指定されている。

HTSはアレッポ奇襲を機に首都へ進攻した

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画像説明, HTSはアレッポ奇襲を機に首都へ進攻した

HTSは2011年に「ジャバハト・アル・ヌスラ」(別名アル・ヌスラ戦線)という名前で設立され、イスラム武装組織アルカイダの直系組織として活動を開始した。

いわゆる「イスラム国(IS)」の指導者だった故アブ・バクル・アル・バグダディ容疑者も、その設立に関与していた。

HTSはアサド大統領に対抗する組織の中でも、特に強力で攻撃力の高い組織の一つと見なされていた。

しかしその勢いを突き動かすのは、革命への強烈な希求というよりは、イスラム聖戦主義の様子だっただけに、「自由シリア」のために集まった反政府連合の中では、異質に見えることもあった。

2016年になると、この一派のアブ・モハメド・アル・ジョラニ代表がアルカイダと公然と決別し、「ジャバハト・アル・ヌスラ」を解散した。新組織を設立し、翌年には複数の類似グループと一緒になり、「ハヤト・タハリール・アル・シャーム(HTS)」を名乗るようになった。

HTSはそれ以降、シリア北西部のイドリブ県に権力基盤を確立し、事実上の地方行政機能を担うようになった。正当な統治組織として認められるように取り組んできたものの、人権侵害の疑いも続き、悪名は消えていない。

他グループとの激しい内部抗争も続き、イドリブ県の外に影響圏を拡大するつもりなのかも不透明だった。

アルカイダと決別して以来、ISが目指して失敗したような広域に及ぶカリフ制の確立を目指したりはせず、HTSはシリアにイスラム原理主義的な統治を確立しようとしてきた。

シリア内戦を大々的に再燃させ、アサド政権に再挑戦しようとする動きは、ほとんど見られなかった。今回の事態になるまでは。

シリア地図

なぜシリアで内戦が起きたのか

中東各国では2010年末から、専制支配に抵抗する民衆蜂起が相次いだ。これに触発される形でシリアでは2011年3月、南部ダルアーで民主化要求デモが始まった。

アサド政権が政府軍を投入してこれを弾圧すると、大統領の辞任を求める抗議が全国に広がった。

混乱は拡大し、弾圧は激化した。反政府運動を支持する人たちは武装した。最初は自衛のためで、やがて治安部隊を排除しようと戦うようになった。アサド大統領は「外国の支援を受けたテロリズム」を粉砕すると誓った。

数百の反政府グループが生まれ、外国勢力が様々な勢力を支援するようになり、イスラム国やアルカイダといったイスラム聖戦主義の過激派組織が関与するようになった。

暴力は急速に激化し、シリアは全面的な内戦に突入した。中東各国と世界の大国が次々に介入した。

50万人以上が死亡し、1200万人が家を追われ、そのうち約500万人が国外で難民または亡命希望者となった。

反政府勢力の攻勢はどう展開したのか

シリアの戦争はこの4年ほど、事実上終わったかのように思われていた。

国内にはアサド政権の支配が及ばない地区もあったが、シリアの主要都市でアサド大統領の支配に挑戦する者はなかった。

政権の支配が及ばなかった地区とはたとえば、内戦開始当初からほぼ独立状態を続けた東部のクルド人多数地域がある。

2011年に反政府蜂起の出発点となった南部では、根深い不満による不穏な動きが静かに続いていたが、大きく表面化することはなかった。

広大なシリア砂漠では、いわゆる「イスラム国」の残党が依然として、治安を脅かした。特にトリュフ狩りの季節には、高価な珍味を探しに砂漠へ向かう人が「イスラム国」に殺される事態が相次いだ。

さらに、内戦の最盛期に北西部へ追いやられた複数の武装勢力が、北西部イドリブ県を拠点にした。

そしてそのイドリブ県の最強勢力だったHTSが、11月末にアレッポ奇襲を仕掛け、今回の攻勢を主導した。

シリア政府は数年にわたり、イドリブを奪還しようと攻撃を繰り返したものの、アサド政権を支援したロシアと反政府勢力を支援するトルコが仲介し、2020年には停戦合意が得られ、その後も停戦はおおむね続いていた。

イドリブの人口は約400万人。その多くは、アサド軍が反政府勢力から奪還した町や都市から避難してきた。

アレッポは激戦地となり、反政府勢力にとっては大敗の象徴でもあった。

アレッポで勝つためにアサド大統領は、装備不足で士気が低い徴兵軍に頼るわけにはいかなかった。政府軍はたちまち手薄になり、反政府勢力の攻撃に反撃できないこともしょちゅうだったからだ。

このためアサド大統領は、ロシアの空軍力とイランの地上部隊に大きく依存するようになった。イランの地上部隊とは多くの場合、イラン政府が支える民兵組織のことで、これにはヒズボラも含まれていた。

イスラエルが今年夏からレバノンでヒスボラを徹底的に攻撃し続けたことで、ヒズボラは大きく痛手を受けた。またイスラエルはイランの軍幹部をシリア国内で次々に攻撃した。イスラエルによるこの大攻勢が、シリアでの今回の事態に大きく影響したことは疑いようもない。ヒズボラとイラン軍の弱体化を見ながら、イドリブのイスラム武装勢力や反政府勢力は、予想外のアレッポ奇襲に打って出たのだ。

この数カ月でイスラエルは、イラン系の組織とその補給線への攻撃を強めてきた。ヒズボラを含めたイラン系民兵組織がシリアで活動できるように支えていた、さまざまなネットワークも、イスラエルの攻撃によって大打撃を受けていた。

その結果、アサド大統領のシリア政府軍は、無防備になっていたのだ。

(追加取材: マイア・デイヴィース)

(英語記事 Who are the rebels in Syria?)