点在する東京のマーケット──再び都市の資源になりうるか
東京の風景が劇的に変化しつつある。今に始まったことではないが、近年加速していることは確かだ。それにともなって、東京の風景を肯定する言葉を耳にする機会が増えた。東京の開発を積極的に取り上げるメディアも多く、東京を賞賛する言葉と都市改造の関係は深いようである。
その一方で再開発によって消えていく、戦後的あるいは昭和的な横丁などの都市の共空間(common space)に注目が集まり、これまで一般に行なわれてきた評価基準とは異なる指標から都市空間を評価する試みも行われている★1、2。
東京で横丁と呼ばれる飲屋街には、戦後復興期の闇市を起源として形成が進んだものがいくつかある。そうした闇市を起源にもつ横丁を構成している建物の形式はマーケットと呼ばれる形態で、戦後復興期に建設され、現在までに増改築が繰り返されてきたものである。
本稿では、東京に点在するマーケットという建物類型に注目し、その形成過程と現在までの変化をみることで東京の〈際〉性を見出し、そして今後の東京における空間資源としてのマーケットの可能性を議論したい。
戦前から東京には小売市場があり、そのなかには「〇〇マーケット」という名称を持つものもあったが、そうしたものはごく一部で、マーケットという言葉が一般に使われるようになるのは、闇市の空間として、マーケットが東京だけではなく全国に爆発的に建設された戦後復興期である★3。終戦直後のマーケットは平屋建てがほとんどであったが、1950年代半ば頃からは木造2階建てで1階を市場状の商業空間とし、2階を住居とするものが特に郊外において建設されていく。
マーケットという言葉を、闇市と同義として捉えている読者も多いだろう。整理すると、闇市とは統制経済下において、公定価格を逸脱した闇値で取引を行なう店が集まった場のことを言い、空間形態を示さない。建物の形態としては、闇市は露店あるいはマーケットとして現われた。そのため、価格統制が解除された1950年以降も、マーケットは戦後の商業空間の一類型として多数建設されている。特に郊外においては、拡大する住宅地の暮らしを支える日常的な買い物の場として建設され、文字通りスーパーマーケットが台頭してくるまでの木造低層の建物でできた都市における、きわめて一般的な商業空間の開発方法であった。昭和戦後期を代表する都市建築の一類型であると言える。
戦後復興期の東京のマーケットを、位置・規模・店舗構成から大別すると、ターミナル駅周辺で闇市として形成が進んだ大規模なマーケットと、郊外の鉄道沿線の駅前や駅前からつづく商店街の一角、あるいは商店街の外れに建設された小規模なマーケットに分類することができる★4。前者のターミナル駅周辺の大規模なマーケットは、飲食店を中心とした盛り場的な店舗が並ぶ「ハレ」のマーケットであり、対して後者の郊外のマーケットは日用品を売る戦前からの小売市場のような店舗構成を持った、「ケ」のマーケットが中心である。
戦前戦後の主要都市を住宅地図レベルで描いた地図に、都市整図社が製作した「火災保険特殊地図」があるが、その一種に「新興市場地図」という地図がある。東京23区内を対象に、全138枚、281の新興市場(マーケット)が描かれている★5。筆者はこの地図に描かれたマーケットを対象に現在地を特定し、フィールドワークすることをライフワークとしている[fig.2]。ただ「新興市場地図」が戦後の東京のマーケットすべてを記録しているかといえばそうではない。1953年以降に建設されたマーケットや、「新興市場地図」に描かれていないマーケットも多数存在し、フィールドワークには「新興市場地図」以外から発見したものも組み込んでいる。以下、フィールドワークにもとづき、戦後に建設された東京のマーケットの現在と、これまでの変化を見る視点から東京を捉え直したい。
戦前の時点では、新宿や渋谷は東京のなかでは周縁に位置した。現在のように東京において重要な位置を占めるようになったのは、戦後の闇市の発生とマーケットの形成が契機となっている。戦後復興期に形成が進んだ巨大なマーケットは、1950年以降の戦災復興土地区画整理事業や、その後の再開発事業(防災建築街区造成事業・市街地改造事業など)によって整理されていった。この時期の再開発では、マーケットの権利者を別の場所へ移動させたり、もとの位置に建設されたビルのなかに抱え込むことで、再開発後もマーケットの性質を継承していった★6。
現在、こうしたエリアは2度めの再編の時期を迎え、再々開発が行なわれようとしている。開発主体にとってはますます中心性が強化されつつあるエリアであるが、中心性が増す代わりに、1950年代から1970年代にかけての再開発が持っていたマーケットの空間を引き継いだ界隈性は、今回の再々開発では薄まり消えつつある。
一方、戦後に市街地化が進むことになるエリアの駅前や、戦前から存在する商店街の外れに建設されたマーケットは、住宅地形成と深い関係を持っていた。こうしたエリアでは、住宅地の形成が進む際に不足していた、日常的な買い物を行なう場としてマーケットが建設されている。終戦直後は闇市として機能したマーケットも多く存在したと考えられるが、1950年代以降、経済統制が解除されてもマーケットは住宅地拡大を支える商業施設として建設されていくこととなる。こうした点は、新規の建設が闇市の時代に限られたターミナル駅周辺のマーケットとは大きく異なる。1950年代以降に建設されたマーケットをごく一部を紹介すると、呑んべ横丁[fig.7]、共悦マーケット[fig.8]、亀有食品市場[fig.9]、味楽百貨店[fig.10]、木根川商店街[fig.11]などがある。
こうした性質のマーケットは団地が建設される際にも同様に建設され、急激に増える人口に対応する「ケ」の商業空間をつくっていった★8。例えば富士見台団地が建設された際に誕生した、富士見台ストアーなどがこの例である★9。
郊外のマーケットのうち駅前のものは、高度成長期以降に日用品を販売するマーケットから、飲食店が集まるマーケットへ変化するものが多く、飲屋街として親しまれてきた。しかしこうした場所にも近年は再開発の圧力が押し寄せている。武蔵小山飲食店街「りゅえる」が再開発のために取り壊されたことは記憶に新しく、また京成線立石駅北口でも区役所建設をともなう再開発計画があり、呑んべ横丁が取り壊されようとしている。
先に見たターミナル駅周辺は、東京における中心性を強化するため都市再生特区に指定され、民間事業者による積極的な都市計画提案が行なわれている★10。これに対して、武蔵小山や立石で行なわれている再開発は、そうした先駆的再開発の縮小再生産と言わざるをえないような計画である。区役所建設とタワーマンション開発を抱き合わせて事業性を担保しようとする立石駅北口の再開発計画に類似した例に、豊島区役所や渋谷区役所の開発がある。しかし、豊島区役所や渋谷区役所は既存の大規模な公有地を中心に再開発が行なわれたのに対し、立石の再開発はマーケットを含む既成市街地を大規模に刷新する計画であり、その意味は大きく異なる。こうした武蔵小山や立石など近郊の駅前における再開発には、一種の〈際〉性が漂っている。
では、建設時に商店街の一角や外れに位置していた郊外のマーケットは、今どのような状況にあるのか。駅から離れた場所に位置するマーケットは商業的なポテンシャルが下がると、店舗ごとに建物が分譲され建物の形態を残しながら専用住宅化したものや、建物が取り壊され集合住宅や分譲地となったものもある。ただ現在も商店街の一角に位置するものは、マーケットの奥に位置する店舗が歯抜けとなっているものが多いが、面路部の店舗や、面路部に近い店舗が営業を続けてマーケットとして存続しているものが多くみられる。建物としては魅力的なマーケットが残っているが、建物奥にはどのような店があるか商店街からは見えにくく、一般的な小売業は営業が難しく不動産価値も低下している。しかし、こうした状況のマーケットにこそ東京の今後の居住を考えるうえで重要な可能性があると筆者は考えている。
まず岡部は、アテネ憲章以来の近代都市が閉じられた系としてつくられてきたのに対して、セネットのオープンシティ論は、都市は「不完全で開かれた」ものであり、21世紀の都市は多数の穴を持つものであると捉えていることを確認している。オープンシティ論の先達にはJ・ジェイコブズがいる。そうした21世紀のオープンシティの穴は、計画されずに残されたものであり、アクターが自発的に関与できる開かれた場となっている。こうしたセネットのオープンシティ論を、日本の状況に照らし合わせて考えると、オープンシティの穴は不動産市場に見放された空き地や空き家として見えてくる。行政はそうした空き地・空き家を必死で不動産市場へと戻す努力をしているが、一方でそうした空き地や空き家では、子ども食堂や認知症カフェ、コミュニティ菜園など、市場的競争から解放された、地域の居住に深く関わる居場所づくりが多様に展開されていると岡部は指摘している。そして、「巨大超都市に巣食う無数の穴と、ささやかな日常の共空間とが結びついた先に、21世紀超都市の公空間が立ち現れるかもしれない」と言う。
商店街の一角に位置しているものの、道路に近い店舗を除いて奥の店舗の歯抜け化が進むマーケットをオープンシティの穴として捉えるならば、マーケットは大いに自由な居場所として利用されうる東京の共空間としての可能性があるのではないかと筆者は確信している。市場競争原理が働く一般的な商業的利用ではなく、地域の居住に関わる利用をはじめ、ささやかな小商いの場として転換することで、地域の拠点的な空間資源になりうるのではないか。
こうした利用の実験的な事例として「アフターファイブガバメント」と、「8K musashisakai」がある。
「アフターファイブガバメント」は、くにたちアートビエンナーレ2015に際して開かれた地域自治を考えるアートプロジェクトである★12。富士見台ストアーを庁舎と見たてて改装し、参加者が職員になって議会で想像を膨らませ、地域の暮らしをささやかに変貌させる公共実験が行なわれた。夕暮れ時に、あるかもしれない地域社会を構想するのだ。アートプロジェクトながら、地域の象徴的な建物としてマーケットが選択され、居住に関わる実験を行なっている状況は示唆的である。
「8K musashisakai」は、武蔵境にある野口ストアーの一店舗分につくられた8人で使うシェアキッチンである★13。その場でパンやケーキをつくって販売することも、マルシェへ持ち出す商品をつくることもできる。一人でお店を開くことのハードルを下げ、食の小商いを行なう場を提供している★14。利用者同士の協働も行なわれ、地域の人が気軽に小商いを始められる可能性を持った場所として大きな可能性がある。
こうした例を参照しつつ、実践的にマーケットを地域の拠点として利用していくべきであろう。東京にはマーケットが点在している。かつて郊外のマーケットが地域の日常の拠点的な場であったように、点在する東京のマーケットは緩やかな居場所として、それぞれの場で再び地域の拠点的な空間資源になることができるのではないか。そこにはいくつもハードルがあるが、筆者は再開発とは異なる東京の都市資源の使い方として、マーケットに実践的に取り組む準備をしている。
その一方で再開発によって消えていく、戦後的あるいは昭和的な横丁などの都市の共空間(common space)に注目が集まり、これまで一般に行なわれてきた評価基準とは異なる指標から都市空間を評価する試みも行われている★1、2。
東京で横丁と呼ばれる飲屋街には、戦後復興期の闇市を起源として形成が進んだものがいくつかある。そうした闇市を起源にもつ横丁を構成している建物の形式はマーケットと呼ばれる形態で、戦後復興期に建設され、現在までに増改築が繰り返されてきたものである。
本稿では、東京に点在するマーケットという建物類型に注目し、その形成過程と現在までの変化をみることで東京の〈際〉性を見出し、そして今後の東京における空間資源としてのマーケットの可能性を議論したい。
マーケットとは?
そもそもマーケットとはどのような建物なのか。戦後復興期から1960年代半ばまで、マーケットと呼ばれる商業施設が東京の都心部から郊外までの主要な駅前や商店街の一角、あるいは宅地化が進みつつあるエリアに多く建設された。マーケットとは、道路から敷地へ通路を引き込み、通路に沿って長屋状の木造建物を建て、そのなかに商店を並べた市場状の建物のことである[fig.1]。個別に「〇〇マーケット」「〇〇百貨街」「〇〇ストアー」「〇〇デパート」「〇〇商店街」「〇〇市場」「〇〇百貨店」「〇〇横丁」「〇〇小路」といった名称がつけられている。- fig.1──闇市として1946-47年頃に新宿駅東口に建設された和田組マーケット。1940年代後半。[提供=東京都建設局]
戦前から東京には小売市場があり、そのなかには「〇〇マーケット」という名称を持つものもあったが、そうしたものはごく一部で、マーケットという言葉が一般に使われるようになるのは、闇市の空間として、マーケットが東京だけではなく全国に爆発的に建設された戦後復興期である★3。終戦直後のマーケットは平屋建てがほとんどであったが、1950年代半ば頃からは木造2階建てで1階を市場状の商業空間とし、2階を住居とするものが特に郊外において建設されていく。
マーケットという言葉を、闇市と同義として捉えている読者も多いだろう。整理すると、闇市とは統制経済下において、公定価格を逸脱した闇値で取引を行なう店が集まった場のことを言い、空間形態を示さない。建物の形態としては、闇市は露店あるいはマーケットとして現われた。そのため、価格統制が解除された1950年以降も、マーケットは戦後の商業空間の一類型として多数建設されている。特に郊外においては、拡大する住宅地の暮らしを支える日常的な買い物の場として建設され、文字通りスーパーマーケットが台頭してくるまでの木造低層の建物でできた都市における、きわめて一般的な商業空間の開発方法であった。昭和戦後期を代表する都市建築の一類型であると言える。
戦後復興期の東京のマーケットを、位置・規模・店舗構成から大別すると、ターミナル駅周辺で闇市として形成が進んだ大規模なマーケットと、郊外の鉄道沿線の駅前や駅前からつづく商店街の一角、あるいは商店街の外れに建設された小規模なマーケットに分類することができる★4。前者のターミナル駅周辺の大規模なマーケットは、飲食店を中心とした盛り場的な店舗が並ぶ「ハレ」のマーケットであり、対して後者の郊外のマーケットは日用品を売る戦前からの小売市場のような店舗構成を持った、「ケ」のマーケットが中心である。
戦前戦後の主要都市を住宅地図レベルで描いた地図に、都市整図社が製作した「火災保険特殊地図」があるが、その一種に「新興市場地図」という地図がある。東京23区内を対象に、全138枚、281の新興市場(マーケット)が描かれている★5。筆者はこの地図に描かれたマーケットを対象に現在地を特定し、フィールドワークすることをライフワークとしている[fig.2]。ただ「新興市場地図」が戦後の東京のマーケットすべてを記録しているかといえばそうではない。1953年以降に建設されたマーケットや、「新興市場地図」に描かれていないマーケットも多数存在し、フィールドワークには「新興市場地図」以外から発見したものも組み込んでいる。以下、フィールドワークにもとづき、戦後に建設された東京のマーケットの現在と、これまでの変化を見る視点から東京を捉え直したい。
- fig.2──新興市場地図に描かれたマーケットをGoogleマップにプロットした図。マークの色の違いは、すでに取り壊されたもの、建て替えられたが痕跡が残っているもの、一部が残っているもの、原型に近いもの等、変化の様態を示している。[筆者作成]
ターミナル駅周辺の大規模なマーケット
戦前に私鉄や市電が敷設され駅のターミナル化が進んだ新宿、渋谷、池袋、大塚、五反田、大井町、蒲田、錦糸町駅周辺や、戦中期に巨大な疎開空地がつくられた新橋、上野駅周辺では、終戦直後から巨大な露天の闇市が発生し、しばらくするとマーケットへと姿を変えていった。こうしたエリアの戦後の形成過程を考えることは、闇市の場となったマーケットの形成とその整理の過程を捉えることと同義であるといっても過言ではない。拙著『戦後東京と闇市──新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』(鹿島出版会、2016)で、筆者は新宿、渋谷、池袋駅周辺を事例にそうした過程を克明に明らかにした[fig.3]。- fig.3──1949年の新宿駅近傍に広がるマーケットと露店。新宿駅が取り囲まれていることがわかる。マーケットと露店いずれも1940年代後半は闇市の場となっていた。「〇〇組」はマーケットや露店を差配していたテキ屋組織の名称。このうち、同地において大きく姿を変えずに残っているのは現在の思い出横丁のみ。[筆者が「火災保険特殊地図」を合成のうえ加筆]
戦前の時点では、新宿や渋谷は東京のなかでは周縁に位置した。現在のように東京において重要な位置を占めるようになったのは、戦後の闇市の発生とマーケットの形成が契機となっている。戦後復興期に形成が進んだ巨大なマーケットは、1950年以降の戦災復興土地区画整理事業や、その後の再開発事業(防災建築街区造成事業・市街地改造事業など)によって整理されていった。この時期の再開発では、マーケットの権利者を別の場所へ移動させたり、もとの位置に建設されたビルのなかに抱え込むことで、再開発後もマーケットの性質を継承していった★6。
現在、こうしたエリアは2度めの再編の時期を迎え、再々開発が行なわれようとしている。開発主体にとってはますます中心性が強化されつつあるエリアであるが、中心性が増す代わりに、1950年代から1970年代にかけての再開発が持っていたマーケットの空間を引き継いだ界隈性は、今回の再々開発では薄まり消えつつある。
郊外のマーケット
東京を歩くなかで今も現役のマーケットを目にすることが多いのは郊外においてである。戦前期、すでに住宅地として市街地化が進んでいたエリアにおいて、戦後に建設されたマーケットのなかには、戦前の小売市場を引き継いでいるものがある★7。例えば京王線下高井戸駅前の下高井戸駅前市場は、昭和初期に私設小売市場として建設され[fig.4]、戦中期に疎開空地として取り壊されたが、戦後にはバラックで再建され[fig.5]、1950年代前半に現在のコンクリートブロック造に建て替えられている[fig.6]。- fig.4──昭和初期に建設された下高井戸驛前市場。[提供=商業協同組合下高井戸駅前市場]
- fig.5──戦後復興期の下高井戸駅前市場。[提供=商業協同組合下高井戸駅前市場]
- fig.6──現在の下高井戸駅前市場。駅前広場造成のため取り壊される計画がある。[筆者撮影]
一方、戦後に市街地化が進むことになるエリアの駅前や、戦前から存在する商店街の外れに建設されたマーケットは、住宅地形成と深い関係を持っていた。こうしたエリアでは、住宅地の形成が進む際に不足していた、日常的な買い物を行なう場としてマーケットが建設されている。終戦直後は闇市として機能したマーケットも多く存在したと考えられるが、1950年代以降、経済統制が解除されてもマーケットは住宅地拡大を支える商業施設として建設されていくこととなる。こうした点は、新規の建設が闇市の時代に限られたターミナル駅周辺のマーケットとは大きく異なる。1950年代以降に建設されたマーケットをごく一部を紹介すると、呑んべ横丁[fig.7]、共悦マーケット[fig.8]、亀有食品市場[fig.9]、味楽百貨店[fig.10]、木根川商店街[fig.11]などがある。
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- fig.7──1953年に立石デパートとして建設された呑んべ横丁。飲食店が集まるマーケット変化し、現在は呑んべ横丁として親しまれている。京成線高架化にともない今月(2017年9月)末を持って南側が閉鎖される。北側は区役所移転をともなう再開発事業によって立ち退きが進められようとしている。[筆者撮影]
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- fig.8──松陰神社前から続く商店街に位置する共悦マーケット。[筆者撮影]
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- fig.9──亀有駅前から続く商店街に位置する亀有食品市場。[筆者撮影]
- fig.10──旧目白通りの商店街に位置する味楽百貨店。[筆者撮影]
- fig.11──東四つ木の木根川商店街。銭湯の門前に建設されたマーケット。銭湯は廃業し駐車場となり、マーケットのみが残る。[筆者撮影]
こうした性質のマーケットは団地が建設される際にも同様に建設され、急激に増える人口に対応する「ケ」の商業空間をつくっていった★8。例えば富士見台団地が建設された際に誕生した、富士見台ストアーなどがこの例である★9。
郊外のマーケットのうち駅前のものは、高度成長期以降に日用品を販売するマーケットから、飲食店が集まるマーケットへ変化するものが多く、飲屋街として親しまれてきた。しかしこうした場所にも近年は再開発の圧力が押し寄せている。武蔵小山飲食店街「りゅえる」が再開発のために取り壊されたことは記憶に新しく、また京成線立石駅北口でも区役所建設をともなう再開発計画があり、呑んべ横丁が取り壊されようとしている。
先に見たターミナル駅周辺は、東京における中心性を強化するため都市再生特区に指定され、民間事業者による積極的な都市計画提案が行なわれている★10。これに対して、武蔵小山や立石で行なわれている再開発は、そうした先駆的再開発の縮小再生産と言わざるをえないような計画である。区役所建設とタワーマンション開発を抱き合わせて事業性を担保しようとする立石駅北口の再開発計画に類似した例に、豊島区役所や渋谷区役所の開発がある。しかし、豊島区役所や渋谷区役所は既存の大規模な公有地を中心に再開発が行なわれたのに対し、立石の再開発はマーケットを含む既成市街地を大規模に刷新する計画であり、その意味は大きく異なる。こうした武蔵小山や立石など近郊の駅前における再開発には、一種の〈際〉性が漂っている。
では、建設時に商店街の一角や外れに位置していた郊外のマーケットは、今どのような状況にあるのか。駅から離れた場所に位置するマーケットは商業的なポテンシャルが下がると、店舗ごとに建物が分譲され建物の形態を残しながら専用住宅化したものや、建物が取り壊され集合住宅や分譲地となったものもある。ただ現在も商店街の一角に位置するものは、マーケットの奥に位置する店舗が歯抜けとなっているものが多いが、面路部の店舗や、面路部に近い店舗が営業を続けてマーケットとして存続しているものが多くみられる。建物としては魅力的なマーケットが残っているが、建物奥にはどのような店があるか商店街からは見えにくく、一般的な小売業は営業が難しく不動産価値も低下している。しかし、こうした状況のマーケットにこそ東京の今後の居住を考えるうえで重要な可能性があると筆者は考えている。
点在するマーケットは地域の拠点的空間資源になりうるか
建築家、東京大学教授の岡部明子は、社会学者リチャード・セネットによる欧米都市から構想されたオープンシティ論を、東京を含めたアジアモンスーン地域のメガシティに押し広げて再考し、その可能性を語っている★11。まず岡部は、アテネ憲章以来の近代都市が閉じられた系としてつくられてきたのに対して、セネットのオープンシティ論は、都市は「不完全で開かれた」ものであり、21世紀の都市は多数の穴を持つものであると捉えていることを確認している。オープンシティ論の先達にはJ・ジェイコブズがいる。そうした21世紀のオープンシティの穴は、計画されずに残されたものであり、アクターが自発的に関与できる開かれた場となっている。こうしたセネットのオープンシティ論を、日本の状況に照らし合わせて考えると、オープンシティの穴は不動産市場に見放された空き地や空き家として見えてくる。行政はそうした空き地・空き家を必死で不動産市場へと戻す努力をしているが、一方でそうした空き地や空き家では、子ども食堂や認知症カフェ、コミュニティ菜園など、市場的競争から解放された、地域の居住に深く関わる居場所づくりが多様に展開されていると岡部は指摘している。そして、「巨大超都市に巣食う無数の穴と、ささやかな日常の共空間とが結びついた先に、21世紀超都市の公空間が立ち現れるかもしれない」と言う。
商店街の一角に位置しているものの、道路に近い店舗を除いて奥の店舗の歯抜け化が進むマーケットをオープンシティの穴として捉えるならば、マーケットは大いに自由な居場所として利用されうる東京の共空間としての可能性があるのではないかと筆者は確信している。市場競争原理が働く一般的な商業的利用ではなく、地域の居住に関わる利用をはじめ、ささやかな小商いの場として転換することで、地域の拠点的な空間資源になりうるのではないか。
こうした利用の実験的な事例として「アフターファイブガバメント」と、「8K musashisakai」がある。
「アフターファイブガバメント」は、くにたちアートビエンナーレ2015に際して開かれた地域自治を考えるアートプロジェクトである★12。富士見台ストアーを庁舎と見たてて改装し、参加者が職員になって議会で想像を膨らませ、地域の暮らしをささやかに変貌させる公共実験が行なわれた。夕暮れ時に、あるかもしれない地域社会を構想するのだ。アートプロジェクトながら、地域の象徴的な建物としてマーケットが選択され、居住に関わる実験を行なっている状況は示唆的である。
「8K musashisakai」は、武蔵境にある野口ストアーの一店舗分につくられた8人で使うシェアキッチンである★13。その場でパンやケーキをつくって販売することも、マルシェへ持ち出す商品をつくることもできる。一人でお店を開くことのハードルを下げ、食の小商いを行なう場を提供している★14。利用者同士の協働も行なわれ、地域の人が気軽に小商いを始められる可能性を持った場所として大きな可能性がある。
こうした例を参照しつつ、実践的にマーケットを地域の拠点として利用していくべきであろう。東京にはマーケットが点在している。かつて郊外のマーケットが地域の日常の拠点的な場であったように、点在する東京のマーケットは緩やかな居場所として、それぞれの場で再び地域の拠点的な空間資源になることができるのではないか。そこにはいくつもハードルがあるが、筆者は再開発とは異なる東京の都市資源の使い方として、マーケットに実践的に取り組む準備をしている。