祝祭とポルノグラフィー
──磯崎新『偶有性操縦法 』と蓮實重彥『伯爵夫人』をめぐって
──磯崎新『
文学史と建築
日本近代文学は「建築」との──なかば意図を超えた偶然のような──接近とすれ違いを繰り返してきた。だが、そこからなにか積極的な出来事が生じることは、ある時期までほとんどなかったように思える。奇妙な出合い損ねの歴史は、夏目金之助が青年時代に建築家志望を挫折して英文学に転向したことに始まる。その漱石が生前最後に公の場に姿を見せたのはフランス文学者の辰野隆の結婚式だった。つまり漱石は死の直前に隆の父親である辰野金吾とすれ違っていたことになる。辰野隆は東京帝国大学仏文科で教鞭をとり、同科からはのちに大江健三郎が師と仰いだ仏文学者・渡辺一夫や文芸評論家の小林秀雄らを輩出している。辰野隆の同僚の鈴木信太郎は建築計画学者の鈴木成文の父親である。辰野隆と中学で同窓だった谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は、今日では建築エッセイの世界的な古典に数えられるが、坂口安吾『日本文化私観』のブルーノ・タウト批判は八束はじめが冷静に指摘するとおり 、いささか的をはずしている。立原道造には詩人としても建築家としても成熟する時間が許されていなかった。小説に登場する建築家もまたどこか影のうすい存在である。原田康子『挽歌』から渡辺淳一『ひとひらの雪』をへて松家仁之『火山のふもとで』にいたるまで、主人公の建築家はいずれも不義の恋に煩悶するいけ好かない二枚目のインテリである。建築家という職業人の実態を知っている読者には苦笑を誘う設定だろうが、金井美恵子は『恋愛太平記』や『快適生活研究』でそうした「紋切型」のイメージを巧みに「引用」して皮肉っている。
磯崎新は新都庁舎コンペのプロポーザルに村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』から「やみくろ」を引用した。しかし村上が磯崎に関心を抱いたという形跡はない。磯崎には大学の一時期、渡辺一夫の自宅で住み込みの家庭教師をして糊口を凌いだ経験がある。つまり磯崎新と大江健三郎は渡辺一夫をめぐって兄と弟のような関係にあるのだが、大江の『さようなら、私の本よ!』にはその関係性が色濃く投影されている 。『燃えあがる緑の木』や『宙返り』には原広司との交流から着想されたと覚しい建築家が登場し、その一方で原は『空間〈機能から様相へ〉』で大江の小説の空間モデルを分析している 。これらは文学が建築との遭遇に成功した稀有な例である。
それまで文学に登場する建築が表象してきたのは、テクノロジーと社会の進歩、民主主義、個人主義のような「近代」という価値観への素朴な信任だった。それはもっぱら文学の側からの建築史に対する無知と無関心の表明にすぎなかったのだが、しかしだからこそ「近代への「疑惑」」(中村光夫)に傾斜しがちだった文学の本流において建築の影がうすいのは当然だったともいえる。
転機となったのは1965年に発表された小島信夫の『抱擁家族』だった。この小説にあっても住宅建築は主人公にとって「近代」が約束する幸福の象徴である。だが、「ケース・スタディ・ハウス」に似た試みとして設計されたこの家は 、家族が暮らしはじめた当初から雨漏りがし、室内に射し込む強い陽射しに悩まされる。そこには当時の日本の施工や工業技術の性能などさまざまな原因があったはずだが、作家がその住宅を描く際に選択したのは、主人公の妻の身体を蝕むがんという病とのアナロジーだった。ところが彼女が亡くなったその後もなお存在し続けることになる住宅は、たんなる文学的な病のシンボリズムを超えて、作家とともに長い──崩壊しながら増殖し続けるがん細胞そのもののような──「晩年」を生きはじめる。『抱擁家族』以降、その異形の続篇といっていい『別れる理由』から『残光』にいたるおよそ40年にわたる膨大な作品の軌跡はそのまま──1970年以降の日本の建築史がそうであるように──「近代の終焉」という時代の抗いようのない軌跡と重なっている。それは建築を「解体」(磯崎新)の相において語ることで初めて可能になったのである。
文芸批評と建築史
建築が仮想存在ではなく物質的な実在である以上、かならずそこには歴史のさまざまな無言の証言が刻印されている。たとえば後藤明生の「団地」小説をめぐる磯田光一や前田愛の読解は、そうした歴史性を文学に導入する方法として提出されていた。にもかかわらず、かれらの文芸評論に決定的に欠落していたのはモダニティそのもの、つまり「近代」が私たちの思考に強制する認識のフレームであったというしかない。前田愛は『都市空間のなかの文学』で多木浩二の『生きられた家』を引用して次のように述べる。
- 前田愛『都市空間のなかの文学』
(ちくま学芸文庫、1992)
[...]記号的虚体としての「家」を解体して行くために生きられた家の意味するものを解読しようとしている多木にとって、統一的な人間像の回復を約束してくれる小宇宙としての好もしい家のあり方はもはや自明の理ではなくなっている。そこで先ず問われなければならないのは、消費の記号を無限に増殖させている現代の都市そのものであり、内部の家に外部の都市が裏返されてしまう空間の歪みであるはずだからだ。
多木の説くところによれば、現代の生きられた家は、社会的な人間の抑圧された欲望から生じて、社会的イデオロギーに構造化されるという。たとえば、建売住宅の外装がまとっているピカピカの修辞法は、実質的には獲得できない文化の所有についての記号的な模倣である。私たちが現在眼にするほとんどの家は、こうした消費の記号におおわれた虚体としての性格をまぬがれることができなくなっている。この記号の「家」が表現されているテクストは、おそらく住いという「場所」の濃密な意味性を暗喩的に語っていた立原の「私のかへつて来るのは」とは対照的なテクストであるにちがいない 。
前田がここで批判の対象としているのは「消費の記号におおわれた虚体としての性格をまぬがれることができなくなっている」という、このテキストが執筆された1980年前後の日本の住宅のあり方である。なかんずく「問われなければならないのは、消費の記号を無限に増殖させている現代の都市そのものであり、内部の家に外部の都市が裏返されてしまう空間の歪みである」という表現には、同時期の伊東豊雄に類似した感性があらわれているとも思う。だが、前田が批判の根拠として引く立原道造の詩「私のかへつて来るのは」 が描いているのは、それからおよそ40年前(1938年)の東京でひとり暮らしをする独身者の仮寓、つまり「消費の記号を無限に増殖させている現代の都市」そのものである。そこはハイデガーが『芸術作品の根源』でパルテノン神殿に仮託した本源的な「場所」であるはずもなく、むしろ「故郷喪失」した「ダス・マン」のための仮住まいである。しかし前田自身はなぜかその事実にまったく無頓着なのだ。
この詩の時代背景について補足すると、当時の立原はすでに石本喜久治の建築事務所に勤務するホワイトカラーだった。1937年の盧溝橋事件の勃発で「日中戦争」に突入していた日本の各都市は、農村からの大量の労務者の流入によって急激な住宅難に見舞われていた。政府は住宅不足緩和のため、専用、併用住宅以外にアパートや下宿屋、貸間、工場寄宿舎などの供給を進めていた。つまり「私」が暮らしていたのはすでに「総力戦体制」下にあった東京の、そうした「準住宅」に分類される居住空間であったはずである 。そこは磯崎新のいう「《ダス・マン》収容所」の「蚕棚」にすぎない 。
特性のない「私」は「街のなか」を「歩き疲れて」「窓のない 壁ばかりの部屋」に帰宅する。「古ぼけた鉄製のベッド」と「固い木の椅子が三つ」あるだけの「天井の低い 狭くるしい」屋根裏部屋で「私」をやさしく迎え入れてくれるのは「ランプ」であり「ちいさい炭火」である。「私が歩く」と「私の歩みのままに 光と影とすら 揺れてまざりあう」......。時代風俗的な細部さえ差し替えれば、これは私たちが現在CMでさんざん目にする紋切型の情景、労働と喧噪に疲れきったサラリーマンやOLが帰宅してのんびりと風呂につかり、リビングでテレビを見ながらリラックスする癒しの時間そのものである。むしろ立原のこの詩こそ、前田が批判する田中康夫の『なんとなく、クリスタル』のような「記号化された」空間の起源なのである。顧みれば多木浩二が撮影した「中野本町の家」の「光と影」の交錯する室内空間は、そうした「記号的虚体としての「家」」を正確に表現していた。「内部の家に外部の都市が裏返され」ることをあえて積極的な方法論として選択したのがこの当時の伊東豊雄だったからである。
あるいは「建売住宅の外装がまとっているピカピカの修辞法」に「バラック浄土」で対峙した石山修武にも同じことがいえるだろうが、「根源」への回帰の不可能性を自覚したうえで「近代」を徹底し、その内部から「近代」を突破しようとしたこれら同時代の建築家たちの取り組みの果敢さと比較しても、前田のテキストがどれほど杜撰で批評的な強度を欠いているかは明らかだと思う。文芸評論としても江藤淳『昭和の文人』の堀辰雄批判の水準にすら達していないのである。もっとも江藤の「近代」批判もまた、結局のところ「近代」をめぐる前田と同根の無知と誤解にもとづいていたのだったが。
だからその当時、ほとんど「近代以前」というしかない「純文学」業界の微温的な環境にあって『隠喩としての建築』の柄谷行人のみが、その理論的凶暴さによって突出していたのは当然だった。もちろん柄谷行人は磯崎新の『建築の解体』を読んでいたはずである。
蓮實重彥と『偶有性操縦法』
- 石川義正『錯乱の日本文学──
建築/小説をめざして』(航思社、2016)
- 磯崎新『偶有性操縦法──
何が新国立競技場問題を
迷走させたのか』
(青土社、2016)
さらなる国家的問題としての「安保法制」における憲法解釈もまた「解釈」の偶有性に帰着することは明らかである。九九パーセントの憲法学者が違憲としながらも一〇〇パーセントでないことを理由に政治的決定に持ち込む策略が練られている。こちらでは偶有性問題を知り尽くした官軍共同体がイノセントな政治家をあやつっているとしか思えない。国際信用問題も一線を踏み越えていることを承知のうえで政治的決定させようとしている。偶有性が不可避的に決定不可能性を導くと、『現代思想』誌に登場していた論者達も早くから指摘していたのではなかったか。今日のテクノクラート官僚達はこの論者達が教育した
。「『現代思想』誌に登場していた論者達」として磯崎が誰を想定しているのか定かではない──彼自身もけっして無実ではない──が、その『現代思想』の1979年1月号から1986年1月号まで連載された『凡庸な芸術家の肖像──マクシム・デュ・カン論』の著者で元・東大総長の蓮實重彥がその資格を満たしていることはまちがいあるまい。奇しくも『偶有性操縦法』が刊行された今年3月に『伯爵夫人』と題する蓮實の長編小説が文芸雑誌「新潮」に掲載された。蓮實がいったいなぜこの時期に太平洋戦争開戦前夜の「12月7日」の東京──「私のかへつて来るのは」から3年後──を舞台としたポルノグラフィーを発表したのか、真意はいっさい不明である。
この問いをめぐって考える前提として、蓮實の二つの評論作品に触れておく必要がある。一つは、蓮實の最初のまとまった著作である『批評 あるいは仮死の祭典』に収められた、「テマティスムの廃墟」という副題が添えられたロブ=グリエ論である。蓮實はそこでロブ=グリエ作品にみられる言語とイメージの「表層」性を──『消しゴム』がオイディプス神話を下敷きにしていることに基づいて──「饒舌なスフィンクス」と命名する。「表層」はドゥルーズの『意味の論理学』に由来する蓮實の初期著作のキーワードの一つだが、要するにイメージを「意味」の表現とみなす言語の「表象=代行作用」に対して、けっして「意味」にたどり着かない言語の物質性の優位を示唆している。磯崎の文脈に倣うなら「表象=代行作用」が「近代の工学的ロジックである唯一の解」であり、「表層」が「偶有性」に相当する。
もう一つは2014年6月に刊行された『「ボヴァリー夫人」論』である。そこでは「テマティスム」や「フィクション論」といった方法を批判的に駆使しながら、フローベールの『ボヴァリー夫人』を「意味」に還元せず、徹底して「テクスト」の「表層」──すでにそうした語彙は用いられていないが──の水準で読み解くことが試みられている。『批評 あるいは仮死の祭典』の「あとがき」で予告されていながら、以来半世紀ちかく経過したのちに刊行されたこの大著には、その成立過程と歳月に日本のポストモダンのすべてが包含されると表現してもけっして過言ではない。にもかかわらず、蓮實はその最終章においてフローベールの言説に否応なく介入する「深さ」、すなわち「歴史」について論じているのだ。それは蓮實自身による「表層批評」批判ともみなしうるが、それ以上に驚くべきなのは「テクストと歴史」を論じた本の刊行が、まさにある歴史的な事件の推移と並行していたという事実である。
『「ボヴァリー夫人」論』と安保法制
ある歴史的な事件とは「「安保法制」における憲法解釈」、つまり2014年7月の「集団的自衛権」の閣議決定にほかならない。磯崎のいう「「解釈」の偶有性」とは、憲法の「意味」は「解釈」によってどのようにも決定できるということである。憲法は字面、つまり「表層」にすぎず、それ自体に「意味」はない。したがってその「表層」にどんな「意味」でも与えることができる、と内閣総理大臣は考え、実行した。このとき解釈のニヒリズム、あるいは「意味」の絶対的な相対主義とでもいった状況が日本のポストモダンの帰結となったのだ。解釈改憲=ポストモダンの帰結というここでの「解釈」は、日本のポストモダンの総決算ともいうべき著作の刊行とたまたま同じ時期に「解釈改憲」がなされたという歴史的事実に依拠している。このたまたまそうであることの歴史性こそポストモダン的「偶有性」の核心に存在している。フローベールと小津安二郎がともに12月12日を誕生日としていることへの蓮實のこだわりを思い起こしてもいい。なにより蓮實自身が『「ボヴァリー夫人」論』にかんしてこう記しているのだ。
フローベールと小津の誕生日が同じであることは、もとより偶然の一致にすぎません。小津とデュ・カンの誕生日がともに命日でもあるのも、同様だというべきでしょう。だが、はたしてそれはとるにたらない些事でしかないのでしょうか。どうもそうとは思えない。散文のフィクションには、偶然としか思えぬ意義深い細部の一致があふれているからです。『「ボヴァリー夫人」論』の著者は、何かに憑かれたように、偶然の一致としか思えぬテクストの思いもかけぬ響応ぶりを分析しております。それがつまらないはずはなかろう。一二月一二日に憑かれた男は、理由もなくそう確信しております
。- 蓮實重彥『伯爵夫人』(新潮社、2016)
『伯爵夫人』と「錯乱」の帝都東京
なぜポルノグラフィーなのか、という問いについても「偶有性」という視点から解釈することができる。『伯爵夫人』で伯爵夫人とのみ呼ばれる姓名不詳のこの日本人女性は、その実体が何者なのか最後まで明らかにされない 。もしかすると主人公である少年の母親であるかもしれないという疑惑が口にされるが、彼女自身によって明確に否定される。ただしその否定は必ずしも信用することができない。伯爵夫人は少年に対して、さらに読者に対して謎をかける「饒舌なスフィンクス」である。だが小説の終局で、彼女の正体がどうやらヨーロッパからアジアを股にかけて活動しているスパイであるらしいことが推測される。伯爵夫人はどこからか極秘裏に「開戦」という情報を得、その直前に日本から船で出国するのだが、つまりこれは──「テクスト」の論理に従うならば──彼女の中身と表面がたまたま一致してしまったことが戦争という事態を呼び寄せたということなのだ。伯爵夫人は小説の冒頭で「ばふりばふり」と回る「回転扉」と同じく、中身と表面、内部と外部をつなぐ「機械」として描かれている。この小説がひたすら伯爵夫人の性体験を描いているのは、彼女自身のセックスが内部と外部、シニフィエとシニフィアンを一致させぬまま通底させる「エクリチュール」という装置として存在するからである。したがって『伯爵夫人』にみられる「変装」というモチーフは、ここでは「偶有性」の操作として理解されなければならない。伯爵夫人の御用達であるらしい、帝都東京のとある名門ホテルにある秘密の「更衣室」からは「どう見ても皇族としか思えぬ無口な紳士」が「魚屋さんのご用聞きに変装」して「晴々としたお顔で出て行」く。「この更衣室は、変装を好まれたり変装を余儀なくされたりする方々のお役に立つことを主眼としております」と──「帝国ホテル」と名指されることのない──そのホテルの従業員である──のかどうかもじつはわからない──「ルイーズ・ブルックス」似の女はそう少年に語る。三島由紀夫『仮面の告白』のエピソードが仄めかされるのもその一環だが、要するにこの小説空間では──「二朗」と呼ばれる主人公の少年を除く──登場人物たちのアイデンティティいっさいが確定不能なのだ。「変装」とは中身と関わりなくどんな「見せかけ」をとることもできる、中身と表面を一致させない操作のことのである。つまりこれが『伯爵夫人』における「偶有性操縦法」にほかならない。「ここを設計された合衆国の名だたる建築家の方も、ご自分の設計とは異なる密室が組織の意向で内部に作られることを、よく承知しておられます」と「ルイーズ・ブルックス」似の謎の女が語るこの「更衣室」について、コールハースが「ダウンタウン・アスレチック・クラブ」に捧げた次の言葉が記してあっても不思議ではない。「このような建築は、生命そのものを「プランニング」する偶然性の形式なのである」 。
「開戦」という事態は、しかし「偶有性」を維持する側にとってみればその「プランニング」に失敗したことを意味する。かれらにとって戦争はあくまでも資本主義を円滑に作動させるための疑似餌にすぎないはずだからである。だが、スロットの絵柄が揃う日は確率的にいつか必ず到来する。いつか必ず絵柄が揃うことを知りながらスロットを稼働し続けてきたことが「今日のテクノクラート官僚達」の根源的な罪科である 。周知のように『オイディプス王』ではオイディプス自身が父親殺しの真犯人であることをみずから解き明かすことで悲劇の結末を迎える。伯爵夫人の中身は「今日のテクノクラート官僚達」の教育者としての元・東大総長だったのだが、それを解き明かしたのもまた小説家としての蓮實重彥その人ということなのだ。
しかし二朗はみずから進んで「不能」に陥ることで、伯爵夫人の身元を明かすという罠を回避しようとする。それは「偶有性」のオペレーションが必然的に到達する「唯一の解」に対する「否認」である。だがその「否認」は48時間という限定的な「不能」にすぎず、いずれは戦争という「唯一の解」を迎えるほかない事態になんら変化はない。『ボヴァリー夫人』が蓮實にとって「偶有性」それ自体としてあるのに対し、『伯爵夫人』はたかだか「偶有性」のオペレーションに失敗した「仮死の祭典」にすぎない。それがこの小説の「テクスト」としての絶対的な限界となっているのだが、そのことにさえ三島由紀夫賞の受賞記者会見で強調していたとおり、この狡智きわまりない「新人」作家は自覚的である。
「偶有性」の操縦者としての責任という問いが最後に残っている。いうまでもなく責任とは行為と結果の一致を肯定する「唯一の解」のことである。自分で自分の目を潰すことを選んだオイディプスに対して、蓮實は露骨きわまりないポルノグラフィーを公表した。『伯爵夫人』が批評家としての名声にも東大総長の名誉にも相応しからぬ徹底的に無意味なポルノグラフィーであるという点で、これはオイディプスの自罰に相当する。しかも「近代の工学的ロジックである唯一の解」に逆らって「偶有性」を擁護し続けるとそこで表明しているのである。それは「偶有性」の帰結について責任を認めないというのに等しい。だが、責任などという「唯一の解」への拒絶を表明することによって、改めて自分自身の責任に言及しているともいえる。「偶有性」の帰結としての戦争を「否認」し、知識人としての責任などというものはけっしてとらないと表明すること、それが日本を「代表」するポストモダン知識人として蓮實がポルノグラフィーを書いた「意味」である。蓮實はここで無責任さにおいて一貫しようとする姿勢によってみずからの責任を表明しているのである。
「コロノス」の磯崎新
では、もう一人の盲目の老いたるオイディプスである磯崎新はどうなのか。2020年東京オリンピックの開催会場の代替案として発表された「プラットホーム2020」は「偶有性」をめぐる無責任さへの断固とした肯定であり、国立競技場跡地の「空地」で「コト(事)的思考を介して都市的祝祭を構想する」 というのもそれと同じことである。どちらも「偶有性」それ自体を擁護するための時限的な存在である点では一貫しているのだ 。磯崎がポストモダンの「偶有性」を操作してきた第一人者であるのはもとより自明だが──それゆえに「偶有性操縦法」批判に違和を覚える向きも多いだろう──、しかし磯崎には『コロノスのオイディプス』のようにコロスに向かって「おれは掟の前では潔白だ」 と弁明する権利がたしかにある。磯崎にとっての「掟」とはもちろん「偶有性」それ自体の擁護である。「大阪万博」での敗北によって「近代の工学的ロジックである唯一の解」をもはや首肯しえなくなったとしたら、「きみの母を犯し、父を刺せ」と叫ぶよりほかにどんな方途があったというのだろうか。『偶有性操縦法』、そして皇居前広場での電脳祝祭構想は、この「偶有性」のアーキテクトがそれから半世紀かけてたどりついた現在という「廃墟」の輪郭を告知しているように思える。註