自己組織化は設計可能か──スティグマジーの可能性

濱野智史 (株式会社日本技芸リサーチャー/情報環境研究者)
今回筆者が編集部から依頼されたテーマは、「きたるべき秩序とはなにか」というものだ。その論考に入る前に、自己紹介もかねて、本稿を執筆するに至った背景や経緯について簡単に記しておきたい。
昨年から筆者は、さまざまな場所でウェブ上の新しい「秩序」に関する論考を発表する機会に恵まれてきたが★1、そこでキーワードにしてきたのが「生態系」や「生成力」といったある種の生命論的・生態学的なメタファーであった。インターネットの大衆的普及からはや10年以上が経過したが、そこでは種々さまざまなコミュニティやそれを支えるアーキテクチャ(人工構造物)が日々発生・成長・淘汰を繰り返しており、その全容を見渡すことは極めて難しくなっている。筆者はまずその現象に切り込むための解読格子として、「生態系」をはじめとする生命論的なメタファーを採用したのである。



しかし、ただちに注釈しておかねばならないのは、こうした生命系のメタファーに基づいて「新秩序」を捉えること自体は、けっして目新しくもなければ独創性があるわけでもないということである。よく知られているように、20世紀を通じて情報論と生命論は幾度となく蜜月な関係をつくってきたからだ。
拙著『アーキテクチャの生態系──情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版、2008)でも触れたように、2000年代前半には、英語圏のネットワーカー系の論者らが盛んに「創発」や「自己組織化」のメタファーを用いてブログやWikipediaの「新秩序」を肯定的に論じ★2、「ニューエコノミー」の研究者たちはAppleやGoogleといった西海岸企業のプラットフォーム経営戦略を「エコシステム」と名づけ注目してきた★3。
こうした直近の事例に目を向けるまでもなく、そもそもノーバート・ウィーナーの「サイバネティクス」やルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィらの創始した「一般システム論」は、生命システムと人工システムを同一の眼差しの下で捉えるパラダイムであったし、その後も「人工生命」「遺伝的アルゴリズム」「カオス」「複雑系」といった諸研究へと雪崩れ込んでいったのは周知の通りである。またドイツの社会学者ニクラス・ルーマンの社会システム論もまた、生物学者マトゥラーナ=ヴァレラの創出した概念「オートポイエーシス」を全面的に採用しており、この潮流のひとつとして位置づけられる。
いずれにせよ、自然科学一般に通底する「要素還元主義」に対し、全体論的(ホーリスティック)なシステム論が対峙するという構図は、20世紀後半の学問史を貫く基本中の基本といってよい。ただし、ここで念のために付け加えておくならば、後者のシステム論的なパラダイム(の源流にあたる諸思想)は、政治・社会思想の文脈においてまた別のイデオロギー的な色彩を帯びてきたことでよく知られている。
なぜならホーリスティックな全体論的志向を持つ生命論・生気論のパラダイムは、かつてはハーバート・スペンサー流の社会進化論と野合することで、政治思想的には「社会全体の有機的な統合」を称揚する全体主義に、政策的には(あるいは「生−政治」的には)「優生学」へと近接したからだ。現在では、およそこうしたファシズム的志向とシステム論的パラダイムが結びつく危険性は少ないとはいえ、歴史的には以上のような経緯を持つゆえに、思想界においては鋭く警戒されてしまう傾向にある。
あるいはファシズムとまではいかないまでも、システム論/生命論的なパラダイムが科学的言説の域を超えて受容されるようになると、とたんに疑似科学的な言説に接近してしまう傾向にある。なぜならそれは全体論を強調することで高度な専門知/分析知を軽視する方向へ、また創発論を強調することである種の不可知論を正当化する方向へ、さらには進化論を強調することで実証なき壮大な歴史観を提示する方向へと繋がってしまうからだ。具体的には、ニューエイジ思想をはじめとする神秘主義・オカルティズムへと容易に回収されてしまう傾向がある(たとえばティエール・ド・シャルダンの「オメガポイント」やジェームズ・ラブロックの「ガイア仮説」、ヴァーナー・ヴィンジやレイ・カーツワイルらの「シンギュラリティ(特異点)」論など、枚挙に暇がない)。その意味でいえば、皮肉なことにシステム論はつねに疑似科学として一般化してしまう「汎システム論」的な状況に置かれているのであり、そのミームとしての繁殖力の高さ自体が分析対象にもなろう。



さて、常識的なことがらの確認はこれぐらいにしておこう。そもそもの問題は、それでは筆者が現在分析の対象としているような情報環境上の新秩序が、果たして上でさらったような観点から再検討したとき、それでも「新しい」と呼べるのかどうか、これであった。対する筆者の回答は、「秩序そのものの内容については新しくはないが、むしろその秩序の設計可能性・操作可能性に関する新たな知見が溜まりつつあるという点で、「新しい」と呼びうるのではないか」というものだ。言い換えれば、現在の情報環境上で起きている注目すべき現象は、「きたるべき秩序」そのものというよりも、「新しい秩序を生み出すための具体的方法に関する知見をもたらす」という点で着目に値するというのが、筆者の考えである。
それはどういうことか。より具体的に見ていこう。筆者はかねてから、近年の情報環境における2つの特徴、すなわち第1に「情報の人為的な淘汰を促している」という点、第2に「人間行動のアルゴリズム化を促している」という点に着目してきた。前者は具体的には、2ちゃんねるであれば「dat落ち」と呼ばれるようなスレッドの生存期間制限、ニコニコ動画であればコメントやタグの生存数制限を指しており、そこでは情報は半永久的に保存されることなく、むしろ有限の生が人為的に与えられている。
これは一見すると奇妙に思われるかもしれない。誰もが知るように、アナログとデジタルとが対比されるとき、後者のデジタル情報はそれが半永久的に保存可能である点に価値が認められてきたからだ(それゆえにこそアナログ媒体資料・芸術作品のデジタル・アーカイヴ化がこの数十年にわたって精力的に進められてきた)。しかし、近年の情報環境においては、情報学研究者の大向一輝が紹介するように★4、生まれたその瞬間からデジタルな「ボーン・デジタル」な情報が大半を占めており、むしろそこでは「永遠にアーカイヴされること」よりも、「コミュニケーションをつねに新鮮な状態に保つべく新陳代謝すること」のほうが重視される傾向にある。つまりいまウェブ上のコミュニケーションにとって、メタボリズム(新陳代謝)やダーウィニズム(自然選択理論)は極めて実践的な価値を帯びつつあるのだ。
この事態をまた別の視点から確認してみよう。哲学者のダニエル・C・デネットは、浩瀚な大著『ダーウィンの危険な思想──生命の意味と進化』(青土社、2001)のなかで、ダーウィニズムの本質は「アルゴリズミック・デザイン」──設計図や設計者が存在せずとも、単純なプロセスの堆積と淘汰によって、複雑で多様な工学的デザインがなされていくこと──にあると指摘しているが★5、いまインターネット上で起きている着目すべき現象の特徴は、(これがさきほど述べた第2の点に関わるのだが)「アルゴリズム的」ということができる。
それはこういうことだ。建築家・藤村龍至との対談のなかでも指摘したように★6、たとえば検索エンジンのGoogleは、いわゆるAI(人工知能)的な意味において高度で複雑な計算を行ない検索精度を高めているわけではなく、むしろ人間をアルゴリズム化することで検索エンジンとして成功した。その基本設計は極めてシンプルだ。「人間は良いと判断した情報にはリンクを貼る。だとすれば、そのリンクされたページに関するログを全部集計すれば、何がいいページかはおのずと分かる」というものである。ここで興味深いのは、むしろGoogleという検索ロボットの側こそが、人間を「情報収集ロボット」のように扱っているということである。すなわち、人間こそがアルゴリズム的に、つまり単純で反復的な「リンクをはる」という行動を取ることで、そのログの集積がそのまま検索エンジンの高性能化につながるということ。これこそが検索エンジンの基本的なインパクトであることは、改めて確認しておきたい事実である。



『生物にとって自己組織化とは何か
──群れ形成のメカニズム』
さて、ここで情報環境における「人為的な淘汰」や「アルゴリズム化」に対する理解をより深めていくうえで、取り上げてみたい一冊がある。それは『生物にとって自己組織化とは何か──群れ形成のメカニズム』(スコット・カマジンほか、海游舎、2009)という昆虫学者・行動生態学者らによる専門的な著作なのだが、ここで特に着目してみたいのは、なかでも重要視されている「スティグマジー(stigmergy)」なる概念である。それは「社会性昆虫」と呼ばれるアリやハチの群れ行動やコロニー建設行動のメカニズムについて、非常に明快な説明を与えている。
たとえばシロアリがコロニーを形成するとき、それはどこかにリーダー的存在がいて大局的な状況を判断したり、あらかじめ設計図を描いたうえで指令を出していたりするわけではないことが──それこそ創発現象の代表的一例として──よく知られている。しかし、それでは具体的にはどのようなメカニズムによって秩序立てられているのか。それを説明するのが、「Stigma(刻印)」と「Ergon(仕事)」からつくられた「スティグマジー」なる概念だ。同書によれば、シロアリたちは相互にコミュニケーションを取っているわけでもなく、それまでになされてきた仕事の産物、すなわちコロニーの建設途中の状態(たとえばシロアリたちが堆積したペリット[食物中の不消化物を吐き出したもの]の厚みや配置)こそが、建設者であるシロアリたちに対する情報源となるという。同書の言葉を使えば「創発した構造自身からもたらされる刺激が、個体にとって貴重な情報源となりうる」ということ。すなわち建築過程のログに依拠した間接的なコミュニケーション。それが「スティグマジー」なのである。
こうした「スティグマジー」に基づく自己組織化現象★7は、正のフィードバックと負のフィードバックの組み合わせによって特徴づけられるという。ここで興味深いのは、それぞれのフィードバック・メカニズムの由来である。たとえばシロアリのコロニー形成であれば、正のフィードバックは「すでに何か作られている所に作れ」という単純な規則によってもたらされる。これはおそらくシロアリの遺伝子にコードされた本能的なルールであろうと著者たちは推測する。これに対して負のフィードバックは、正のフィードバックによって際限なく拡大していく建設行動にブレーキをかけ、自己組織的秩序を安定させる役割を果たす。たとえば、「他の柱のそばに柱をつくるな」といった規則がそれにあたる。しかし、こうした負のフィードバックを引き起こす規則自体は、遺伝的にコードされている必要はないという。なぜなら負のフィードバックは、端的に近辺にいるシロアリ数の減少や、資材の枯渇といった「物理的な限界」によってもたらされるからだ。
繰り返せば、自己組織化のメカニズムにおいては、正と負のフィードバックが拮抗し、前者はなんらかの明示的ルールの結果として、後者は物理的な限界によってもたらされる。『CODE──インターネットの合法・違法・プライバシー』(翔泳社、2001)におけるローレンス・レッシグの言葉を使えば、前者の正のフィードバックは「規範」(ただしここでの規範は遺伝子上にコードされた先天的ルールだが)、後者の負のフィードバックは「アーキテクチャ」によって規制されていると言い換えることができるだろう。そしてこの換言からも明らかなように、筆者の考えは、情報環境においてはこの負のフィードバックをもたらす物理的限界を、アーキテクチャ上の機構として人為的に設計することができるようになった、というものである。
言うまでもないことだが、これまで人類は自然を制御する力を発展させてきたとはいえ、物理法則や自然法則そのものに根本的な修正を加えることはできなかった。しかしヴァーチュアルな情報空間であれば、その制約は取り払われ、ある種の擬似物理的な限界を人為的に設計できる。それゆえ情報環境においては、自己組織化メカニズムであるところの負のフィードバックの操作可能性が高まるのである。
さらに情報環境においては、諸々の履歴情報が保存されることによって(いわゆる「ライフログ」化の進展にしたがって)、「スティグマジー」のリソースを広範に提供することが可能になる。これも今後の大きな可能性のひとつであり、どのような履歴情報にしたがってアルゴリズミックに行動すれば(あるいはどの程度その履歴情報の淘汰を進めれば)、従来のコラボレーション(協働)やコーディネーション(協調)を超えるパフォーマンスを発揮できるかが今後の検証の対象となろう(すでに「スティグマジー」とウェブ上のマス・コラボレーションを引きつけた先行研究も存在する★8)。さらにその先には、「スティグマジックな都市設計」「スティグマジックな民主制」「スティグマジックな市場活動」といった可能性も構想しうると思われる★9。

左:ペンキ液滴と数字タグでマークを付けたワーカーを用いて個々のミツバチの活動性を調べ、その行動的刺激─応答規則を調べることができる
右:菌園の中のハキリアリの一種
ともに引用出典=『生物にとって自己組織化とは何か』



以上の本稿での主張を、次のようにまとめ直すができる。20世紀を通じて、著名な建築家や経済思想家たちは、自己組織化現象としての都市や市場の本質に迫った(それをクリストファー・アレグザンダーなら「セミラティス」、フリードリヒ・ハイエクなら「自生的秩序」と呼んだ)。その結論は、複雑な自己組織的秩序そのものをアーキテクトが人為的に設計することはできないというものだった。しかし、いま情報環境の出現によって、セミラティスや自生的秩序「そのもの」を一挙に設計することは不可能でも、正と負のフィードバックへの操作的介入と、「スティグマジー」を支えるログの集積・保存を通じて、自己組織的秩序の宿りやすい「環境」(=「生成力」の高いアーキテクチャ)であれば設計可能になりつつあるのではないか。これが筆者の暫定的な結論である。
もちろん、つねに自己組織化がわれわれにとってすばらしい帰結をもたらすわけではない。たとえばポール・クルーグマンが『自己組織化の経済学──経済秩序はいかに創発するか』(東洋経済新報社、1997)のなかで、ゲーム理論家トーマス・シェリングによる人種差別の「自己組織化」(人種ごとの居住地域の棲み分けがアルゴリズム的に起こる現象)に関する研究を引きながらいうように、けっして許容されることのない自己組織化現象もある(むしろその数は多いかもしれない)。
しかし、だとするならば、それゆえにこそ自己組織化現象に関するケーススタディをわれわれは今後も積み重ねていく必要がある。たとえば負のフィードバックをかける度合いをどの程度高めれば、自己組織化の及ぶ規模・領域を制限することができるのか★10。こうした知見を発見していくうえで、インターネットという情報環境は、自己組織化に関する各種パラメータが操作可能な「壮大なるデザインの実験場」(先述したデネットの言葉を使えば「デザイン集積の原理」が働く「デザイン空間」)であり、比較対象となるアーキテクチャが数多く存在するという点で(実証研究の変数コントロールが比較的行ないやすいという意味で)、ケーススタディの宝庫なのだから。
社会生物学者のE・O・ウィルソンも言うように、創発や自己組織化に着目したとしても、システムの作動するメカニズムに関する洞察を与えないのならば、それは単なる神秘主義でしかない★11。その意味でいえば、情報環境における自己組織化現象の設計・操作可能性に着目する筆者の立場は、大変大仰ではあるが「設計的創発主義」なり「操作的生成主義」と呼んでもよい。「世界は分けてもわからない」(福岡伸一)というのもある種の真理ではあるのだろうが、広大な情報環境を前にした筆者の関心は、神学者ラインホールド・ニーバーの有名な言葉をもじっていえば★12、「変えることのできるものと変えることのできないものとを、識別する知恵」ではなく、「変えることのできなかったもの《を》変えることができるようになったかどうかを、識別する知恵」なのである。

動物の群れにおける情報の流れは、個体間で直接的に伝達されることもあれば(たいていは通信信号による)、間接的なこともある(ふつうは進行中の作業に含まれる目印による)。巣の共同建設作業では間接的な情報の流れがとりわけ重要である。なぜなら、個体がつくった部分構造からの情報を通して、その活動をうまく調整することができるからである。この図における実践の矢印は、環境からあるいは他個体からの当該個体への情報の流れを示している。他方、破線の矢印は、環境をかえることによって当該個体に特定の行動応答を引き起こす行動を指している。
引用出典=『生物にとって自己組織化とは何か』



★1──たとえば以下の著作・論考を参考のこと。『アーキテクチャの生態系』(NTT出版、2008)、「ニコニコ動画の生成力」(『思想地図 Vol.2』NHK出版、2008)、浅田彰+東浩紀+磯崎新+宇野常寛+濱野智史+宮台真司による共同討議「アーキテクチャと思考の場所」(『思想地図 Vol.3』NHK出版、2009)、「選択/淘汰の起こる場をいかに設計するか」『ユリイカ 特集=レム・コールハース』(青土社、2009年6月号)。
★2──たとえばハワード・ラインゴールドほか『スマートモブズ──"群がる"モバイル族の挑戦』(NTT出版、2003)、伊藤穣一「Emergent Democracy(創発民主制)」(2003)など。
★3──マルコ・イアンシティほか『キーストーン戦略──イノベーションを持続させるビジネス・エコシステム』(翔泳社、2007)
★4──大向一輝「ボーン・デジタルの情報学──第1回:生まれながらのデジタル情報」(『artscape』2009年09月01日号、大日本印刷株式会社)
★5──本論とは外れるが、批評家の福嶋亮大が現在展開している『神話社会学』(仮題、青土社、近刊予定)でフィーチャーされているレヴィ=ストロースの神話論は、こうした「アルゴリズム論」の視点とパラレルである。ここでは詳細を触れることはできないが、神話社会とはすなわちコミュニケーションがアルゴリズム化する社会とほぼ同義である。
★6──濱野智史+藤村龍至「設計/デザインを考える」(東浩紀+宇野常寛編『Final Critical Ride』2009)
★7──ただし同書のなかで、「スティグマジー」は「自己組織化」に先立つ古い学説として紹介されており、「自己組織化」のメカニズムを理解するうえで重要な先行研究としても取り上げられていると同時に、「自己組織化」仮説を棄却しうる対立仮説としても扱われている。よって本文中における《「スティグマジー」に基づく自己組織化現象》という表現は、必ずしも同書の主張を100%受けたものとはなっていない点に留意してほしい。
★8──Mark Alan Elliott, "Stigmergic Collaboration:A Theoretical Framework for Mass Collaboration," Submitted in partial fulfilment of the requirements of the degree of Doctor of Philosophy, Centre for Ideas Victorian College of the Arts The University of Melbourne, 2007.
★9──たとえば建築家・藤村龍至の「超線形設計プロセス」というアルゴリズミック・デザインは、建築模型を漸進的に設計・進化させ、そのログをすべて保存したうえで合意形成を行なっていくという点で、「スティグマジックな建築設計」と呼んでもよいのかもしれない。藤村によれば、建築模型の特徴は、ヴァーチュアルな設計の青写真でもありつつ、リアルのモノとしての実体性を持つという両義性にあり、それゆえにそのログの堆積・保存は非常に強力な合意形成の手段として役立つという。これを受けたうえでの筆者の関心は、果たしてこの手法をどこまで都市設計にまで拡大できるのかにある。というのも、リアルのモノである模型は、筆者の好む言葉を使えば「同期的」なメディアであるために、それに基づいた合意形成に参加できるメンバーの規模はどうしても限られてしまい、「都市設計」の規模にまで拡大適用することは難しいと思われるからだ。そこで筆者が夢想しているのは、たとえば「BIM(Building Information Model)」と呼ばれる建築情報化ツールと、リアルのモノの模型をなんらかの形で融合することで、いわば「擬似同期」的な模型に基づくスティグマジックなコミュニケーションを実装できないか、といったようなものである。
★10──東浩紀が各所で指摘しているように(たとえば共同討議「アーキテクチャと思考の場所」(『思想地図 Vol.3』NHK出版、2009)や、『波状言論S改』(青土社、2005)での北田暁大、鈴木謙介との鼎談)、ここでいう「物理的限界」に基づく負のフィードバックなるものは、ジャック・デリダが『有限責任会社』(法政大学出版局、2002)で展開した「Limited Inc.=有限のインク」の問題を彷彿とさせる。このとき正のフィードバックに相当するのは、人文・社会系のタームで言い換えれば「欲望(他者の欲望を欲望するということ)」に代表される「再帰性」であり、これを制御する負のフィードバックとは、無限後退的に突き進む「再帰性」の及ぶ範囲を限界づけること(マークすること)に相当する。たとえば大澤真幸の『身体の比較社会学〈1〉』(勁草書房、1990)によれば、人類社会の歴史とはすなわち、「再帰性」(を超越論的に/先行的投射によって支える「第三者の審級」)が対面的なコミュニケーション範囲、つまりは物理的限界を超えて「抑圧身体→集権身体→抽象身体」へと通用範囲を拡張(お好みならば「創発」と言い換えてもよい)していくプロセスにほかならない。これに対し、筆者がここで想定しているのは、むしろその再帰性が及ぶ範囲を、情報環境の擬似物理的限界の性質によって囲い込み、安定化させていくという方向性である(これは大変抽象的に聞こえるかもしれないが、たとえばサイバーカスケードやバブル現象に対する対処として捉えれば実に具体的な問題となる)。今後の情報環境の展開によっては、「抽象身体→集権身体→抑圧身体」へと、むしろ逆向きに縮約されていく「超越性/再帰性の制約手段の発展史」が描ける可能性もある。
★11──ロジャー・リューイン『コンプレクシティへの招待──複雑性の科学 生命の進化から国家の興亡まですべてを貫く法則』(徳間書店、1993)
★12──以下、ニーバーの祈りの邦訳を引用しておく。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

はまの・さとし
1980年生。株式会社日本技芸リサーチャー/情報環境研究者。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。論文=「ウェブログの普及過程に関する社会意味論的分析─情報社会論の再検討」など。著書=『アーキテクチャの生態系──情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版、2008)


200909

特集 きたるべき秩序とはなにか──システム、パターン、アルゴリズム


自己組織化は設計可能か──スティグマジーの可能性
自生的秩序の形成のための《メディア》デザイン──パターン・ランゲージは何をどのように支援するのか?
アルゴリズム的思考と新しい空間の表象
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