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2009年 08月 10日
論評:佐高信「佐藤優という思想」 ①――佐藤優を使うことの社会的悪影響という観点の欠落
論評:佐高信「佐藤優という思想」 ②――本文批判(付記:佐藤優と小林よしのりと「パチンコ問題」) 1. この連載「論評:佐高信「佐藤優という思想」」は、②まで書いたが未完で、『金曜日』から何らかのリアクションがあれば、結論部分として③を書くつもりであった。直接的なものではないが、興味深いいくつかの文章があったので、これを機会に書いておこう。 もう先週号になってしまったが、『金曜日』2009年7月31日号の編集後記(「金曜日から」)において、株式会社金曜日のある社員は、以下のように書いている。 「「金曜日はニセモノだけれど、ほかよりはずっとマシ」との評価をある人から受けた。なにを!とは思わない。むしろ同感であり、好評であると思う。 ニセモノは不純で、不足し、ブレている。しかしそれは何と比較してか? 前提されているのは、純粋で、満足な、一貫した「私のホンモノ」である。そのホンモノに対して差異だけでなくいくらかの近似性を認めるからこそ、ニセモノなのだろう。そうでなければただのベツモノだ。 明確な自己定義は主体的な生き方に不可欠だ。そしてそこからの距離や違いで他者を定義することもその帰結である。だからこそ、どこまでを自らのニセモノに含められるかが問われるように思う。 「あなたは私のホンモノだ」と同一視するのでも「あなたは私とベツモノだ」と切り捨てるのでもなく、「あなたは私のニセモノだ」。そう言う人とこそ、つながっていきたい。」 ここではもちろん、私の文章どころか、『金曜日』への批判についても言及されていない。にもかかわらず、これは、『金曜日』批判へのリアクションとして(『金曜日』内部で)機能すると思われる(批判へのリアクションとして意図されているかいないかにかかわらず)。 私はこの連載の①で、以下のように書いた。 「繰り返して言うが、左派雑誌が佐藤を重用するのが問題なのは、左派雑誌としてよくないから、ではない。そもそもそんな雑誌には何も期待していないのである。問題なのは、それが社会という<外部>にもたらす悪質な影響である。」 ところが、上で引用した金曜日社員の文章の論理からすれば、『金曜日』への批判は、まさに「左派雑誌としてよくないから」行われている、ということになるだろう。この社員からすれば、自分たちへの批判は、「『金曜日』は左派雑誌として「ホンモノ」ではなく「ニセモノ」だ」という認識から行われているということになり、また、そうした批判に対しては、以下のような認識にならざるを得ないだろう。「あなたたちは、『金曜日』を自分たちとは「ベツモノ」ではなく、「いくらかの近似性を認めるからこそ」、「ニセモノ」として批判するのでしょう?みんながみんな、あなたたちのように、「ホンモノ」になれるわけではないのだから、「ニセモノ」を認めないのは、あなたたちの不寛容さの表れに過ぎないのでは?」と。 この連載の①を読めば明らかだと思うが、少なくとも私はそんな批判を行っていない。上でも改めて引用したが、私が一貫して問題にしているのは、世間的には左派ということになっている『金曜日』が<佐藤優現象>を推進することによる、社会への悪影響である。 上の金曜日社員の言葉を使えば、私からすれば『金曜日』は、「平和」「人権」を真っ当に擁護しようという雑誌とはすでに「ベツモノ」であるが、『金曜日』は自らを「平和」「人権」を擁護する「ホンモノ」(または「ホンモノ」たろうと努力している「ニセモノ」)の雑誌として自己を表象しており、世間一般も、「ホンモノ」(または「ホンモノ」たろうと努力している「ニセモノ」)の左派雑誌として表象され、一定の影響があると考えられる(もはやほぼなくなっている、と言ってしまってもよいかもしれないが)からこそ、批判しているのである。 注目すべきは、金曜日社員のこの論理が、エルサレム賞受賞への批判に対する村上春樹の反論に大変似ていることである。村上は、エルサレム賞受賞がイスラエルのガザ侵攻を正当化することにつながるという、侵略への自身の加担を主として批判されていたにもかかわらず、批判が、村上のイスラエル批判の不十分さを批判する「正論原理主義」の立場から行われたものだとして、問題をすり替えている。いや、村上は意識的にすり替えているのではなく、本気でそう思っているのかもしれない。上の金曜日社員も、意識的にすり替えているというよりも、本気でそう考えているように思う。自分たちの「善意」をどうして「正論原理主義」者たちは理解しようとしないのか、と。この種の「善意」ほど有害かつ厄介なものはない。 仮に、この金曜日社員の文章が、『金曜日』批判を念頭に置いたものではなかったとしても、『金曜日』の自己理解がそのようなものであれば、私の上の指摘は妥当する。また、仮に、『金曜日』批判を念頭に置いたものであったならば、佐高の「佐藤優という思想」も合わせて考えると、そんなに批判が気になるならば、本誌で論争としてちゃんと採りあげればいいではないか、と言わざるを得ない。<佐藤優現象>への『金曜日』の加担が批判されていることを知らない読者からすれば、これらの文章は、唐突過ぎて意味がよくわからないだろう。このままでは、「『金曜日』は批判に対してちゃんと反論している」というアリバイづくりをやっている、と言われても仕方がないのではないか。 2. この連載の①の冒頭で書いたように、『金曜日』がおかしくなっていることはかなり認知されつつあるようであり、部数も相当低下しているようであるから、『金曜日』への積極的な批判の必要性もなくなりつつあるかもしれないが、『金曜日』の今後について記し、連載の区切りをつけておく。 『金曜日』の方向性については、今年の1月に書いた「佐藤優の議員団買春接待報道と<佐藤優現象>のからくり」で、既にある程度論じているので、詳しくはそちらを参照していただきたいのだが、ここでは一部抜粋しておこう。 「私は、『金曜日』は、市民運動・社会運動によって社会を変えるよりも、佐藤とのつながりによって、佐藤の社会的上層部とのつながりを通じて、社会に影響力を行使する側に回ることを選択(というほど自覚的なものではないと思うが)したのだと思う。自己弁明としては、佐藤へ『金曜日』が働きかけて、佐藤が政治家ら要人や保守派(読者)に対して『金曜日』の主張を代弁することによって、『金曜日』の主張が社会的に広がる、という論理である。または、佐藤が媒介者となって、政治家ら要人と『金曜日』関係者が会合し、『金曜日』が直接影響を与える、ということもあるかもしれない。もちろん、佐藤と関わることによる、人脈の拡大(マスコミ人は大好きである)等の個人的な利益もあろう。 市民運動、社会運動の力によって下から社会を変えることは無理であるから、佐藤優(の諸活動や人脈)を通じて上の中で、上から社会を指導する、あるいは、社会をいじくりまわすことを志向した、と言い換えてもよい。体制側(の一部派閥)に自分を売り込むことによって政治的影響力を行使(あるいは、行使したつもりになる)する道を選ぶ志向になりつつあるのではないか。ここでは『金曜日』は「市民の週刊誌」というよりも、胡散臭い政治集団のようなものになっている。」 基本的にこのラインにのっとって、今後の『金曜日』(および佐藤優と結託する左派メディア全般)は進むと思うが、もう一つ指摘しておくべきは、金曜日社長の佐高は、『金曜日』の転向について、実はすでに内心開き直っているだろう、ということである。 2008年7月4日号の佐高信の「「売りまへん」に泣く」なる一文は、私には、佐高の「転向宣言」であるように見える。 http://www2.kinyobi.co.jp/pages/vol709/fusokukei 佐高はここで、以下のように述べている。 「亡くなって1カ月ほど過ぎた「偲ぶ会」で、突然、涙がこみあげた。「学歴はないけど病歴はある」が口癖だった岡部伊都子が、ある時、大手の出版社から連載を断られ、 「私は自分を売りまへん」 と京大教授だった上田正昭に告げた、と知った時である。京都での「偲ぶ会」の席上、その何番目か後に話さなければならないことも忘れて、私は思いっきり唇を噛みしめた。 それがどんなに辛い選択だったか。それでもあの小柄で華奢な岡部は自分を売らなかった。」 そして佐高は、「転向するにも能力が要ることを忘れないでほしいね」という言葉を引きつつ、以下のように続ける。 「売りものになるというか、影響力のある文章を書く人間が転向するよう狙われるのであり、売りものにならないような文章を書く人間はそもそも転向を要求されない。 この機微がわからず、ただ、転向しなかった人間だけを礼讃していては不毛だろう。競輪で「トップ引き」という言葉があると聞いたことがある。うろおぼえだが、最初にトップを走る選手は風の抵抗とかがあって不利になるのに、それを承知でトップを引く選手のことを、そう言うらしい。 いわゆる革新の陣営では、トップを引きながらも転向してしまった者に対する優しさがないのではないか。たとえば部落解放運動の西光万吉である。西光さえをも転向させてしまった権力を激しく憎みつつ、西光の「弱さ」に学ばなければ、第2、第3の西光を続出させることにしかならないだろう。 岡部は「売らない自分」を持っていた。ということは「売る自分」も持っていたということであり、誰に何を売るかという問題なのである。 」 佐高の文章を周辺の人物はチェックしてやるべきではないのか、と改めて思わせる一文である。誰でも気付くことだとは思うが、節を曲げなかった岡部の事例が、摩訶不思議にも、節を曲げることを正当化することに使われているという珍妙さをまず指摘しておこう。 佐高は、権力に「狙われ」て転向するということは、それだけの「能力」があったということだと主張している。だからどうなのか、仮に「能力」があった上で転向したのならば、その方が社会的な被害を拡大するという点でより悪質ではないか、としか言いようがないのだが、佐高は、だから転向者も一概に悪いとは言えない、と言いたいようである。この人、意外に(でもない?)エリート主義者なんじゃない? そして、佐高が「革新の陣営」に対して求める、「トップを引きながらも転向してしまった者に対する優しさ」とは、佐高および『金曜日』の転向への「優しさ」を、「革新の陣営」に対して要求して求めていると私は読む。恐らく、「1」で挙げた金曜日社員も、「「ホンモノ」ではないと攻撃するのではなく、「あなたは私のニセモノだ」として認める「優しさ」を持ってほしい」と言うだろう。 佐高は転向について、内心開き直っているから、批判に対しては「佐藤優という思想」のようなアリバイの一文で身をかわそうとしつつも、何の躊躇もなく、転向の道を突き進んでいくことだろう。もちろん、『金曜日』の他の編集部員や常連の書き手で、佐高のような転向をよしとしない「良心的」な人間もいるだろう。だが、社長である佐高の敷いたレールに沿って『金曜日』が進む以上、そうした人びとの「良心」は、転向路線に対するある種のアリバイとして機能することになる、と思われる。 百歩譲って、仮に『金曜日』の投書欄が、自らへの本質的な批判を積極的に採り上げ、活発な論争の場として機能しているならば、転向へのある程度の抑止力になるかもしれない。だが、現状はそうでないし、2007年3月時点では、編集部で「投書を選んでいる」のは、佐藤優と極めて密接な関係らしい、伊田浩之である。現在でも「投書を選んでいる」のが伊田ならば、抑止力になる可能性は全くないだろう。 無論、転向路線で行けば、従来の『金曜日』を支えていた読者はますます離反していくだろう。『金曜日』が今年に入って、部数が低下していると危機を訴えていることも、それに関連しているのかもしれない。 だが、仮に『金曜日』の部数が突然回復しても、私は驚かない。佐藤を支持する「抵抗勢力」、政治家、団体等が、自らのプロパガンダの媒体として、相当部数を買い上げて『金曜日』を買い支える(恐らく、佐高らごく上層部のみ知る形で)、ということは十分に予想できるからである。というよりも、『金曜日』が生き残るとしたら、その道以外にないだろう。そしてその場合の「生き残る」とは、まともな言論機関として「生き残る」ということではない。 3. そして、どうやら『金曜日』がその道を歩み始めているのではないか、と思わせるのが、先週号に掲載された、佐高信による後藤田正純への、3頁にわたるインタビュー(「国家主義でなく国民主義の政治を」)である。 編集部による、「自民党内リベラル保守の若手を代表する」、「サラ金問題、貧困問題に取り組み、党内幹部議員にも率直にもの申す」といった後藤田の紹介文からもわかるように、これは、かなりあけすけな、後藤田への提灯記事である。後藤田を持ち上げようとする護憲派ジャーナリズムの一部の傾向については、2年近く前に、「リベラル・左派からの私の論文への批判について(3)」で指摘したが、ここまで大っぴらなものを読んだのはこれが初めてである。 このインタビューは、後藤田が、大叔父の後藤田正晴と同じく、リベラル・左派のマスコミの懐柔と利用に長けていることが分かる、興味深い内容である。具体的な発言は忘れたので控えるが、後藤田正純は、2005年にテレビで見たときは自民党右派政治家にしか見えなかった。今は、「リベラル保守」として売り出していく、ということなのだろう。後藤田正晴、野中広務、鈴木宗男といった、現在のリベラル・左派ジャーナリズムがプロパガンダの手段として簡単に利用できることに気付いている政治家が、また一人増えたわけである。 なお、後藤田の以下のような奇妙な発言に対しても、佐高は矛盾を指摘していない。後藤田は「護憲派」ということにするようである。解釈改憲肯定論者の佐藤優を「護憲派」ということにする、『金曜日』らしいといえばらしいが、さすがにこれでは、後藤田にナメられるのも仕方がないのではないか。 「憲法九条と日米安保の問題だって密接不可分です。ただ憲法改正には反対です。僕は加憲論者ですから。改正なんて安倍晋三さんとかタカ派の人が言うこと自体危うい。」 * * * * * さて、単にインタビューだけなら問題ないんじゃないか、と思う人もいるだろう。では、次の事例はどうだろうか。 『金曜日』の最新号(2009年8月7日号)は、「審判を待つ改憲・タカ派議員たち」なる特集を組んでいる。特集の中では、右派系の議員グループを列挙し、その中の一部等に所属する議員については、別頁で「総選挙に出馬する主な右派団体所属議員」として、都道府県ごとに、氏名を挙げている。『金曜日』は、こうした議員グループに所属している議員を、「タカ派議員」と捉えている(そしてその規定を私は正しいと考える)と、普通の読者は思うだろう。記事自体は詳しく読んでいないが、これだけ見れば、なかなかの好企画に見える。 そこで列挙されている議員グループの一つとして、「神道政治連盟国会議員懇談会」が挙げられており、主な所属議員が紹介されている(ただし、「総選挙に出馬する主な右派団体所属議員」の典拠とはなっていない)。神道政治連盟国会議員懇談会の情報については、記事には、「06年9月29日現在。神道政治連盟のホームページより」とある。 では、神道政治連盟のホームページの、神道政治連盟国会議員懇談会の会員である議員を紹介したページを見てみよう。 http://www.sinseiren.org/ouen/kokugikon.html 後藤田正純がいるではないか。『金曜日』最新号の「神道政治連盟国会議員懇談会」紹介記事には、主な所属議員が紹介されているにもかかわらず、後藤田の名前は挙がっていない。 このホームページの議員リストには、「平成18年1月現在」と明記されている。普通、この手のリストには、最新版を掲げるだろう。ホームページには、2006年9月29日付の「神道政治連盟国会議員懇談会」議員リストはなさそうだから、『金曜日』が言う、「06年9月29日現在。神道政治連盟のホームページより」という記述は、おそらく、2006年9月29日時点でホームページ上に掲載されていた議員リスト、という意味なのではないかと思われる(だが、仮にそうであれば、最新版をなぜ参照しなかったのか、ということにもなる。この記事には、麻生内閣の大臣の67%が神道政治連盟国会議員懇談会所属議員、との記述もあるのだから)。 仮に、2006年9月29日時点でアップされていた議員リストには、後藤田の名前は載っていなかった、その時に掲載されていた議員リストは「平成18年1月現在」より以前のもので、そこには後藤田の名前はなかったということであれば、『金曜日』は後藤田が2006年1月時点で神道政治連盟国会議員懇談会に所属していることを知らなかった、ということになる。その可能性は、私には低いように思えるが。 したがって、『金曜日』が、後藤田が神道政治連盟国会議員懇談会に所属していることを知りながら、あえて最新号では後藤田の名前を出さなかった、ということではない可能性もあるから、そのようにはここでは断定しない。だが、少なくとも、最新号の特集記事の論旨から言えば、後藤田は、「タカ派議員」ということに(正しくも)なるのではないのか。 仮に『金曜日』編集部が、後藤田が所属していたことを知った上で、神道政治連盟国会議員懇談会の所属議員として後藤田の名前を出さなかったのならば、これは隠蔽工作と言われても仕方がないだろう。自らが、直前の号で「リベラル保守」などと持ち上げた議員の実態を、知らしめる義務があるからである。また、仮に、所属していたことを知らなかったならば、次号以降で、神道政治連盟国会議員懇談会のウェブ上で公開されている最新の議員リストに名前が挙がっている人物を、「リベラル保守」などと持ち上げるインタビューを掲載した件について、少なくともなんらかの釈明をすべきではないのか。 <佐藤優現象>を推進していることへの批判に対して、佐高信による「佐藤優という思想」という一文を載せてお茶を濁そうとしている『金曜日』が、こうした釈明をするようには思えない。多分やらないだろう。結局、こうした形で、『金曜日』は、佐高が主導して、特定勢力と結合していくのではないか、というのが私の予想である(もうすでにある程度結合してしまっているのかもしれないが)。恐らくそれは、ほとんどの『金曜日』の編集部員や書き手のあずかり知らないところで進められるだろう。 かくして、元総会屋雑誌の編集長たる佐高により、新しい総会屋雑誌のようなものが出来上がるのではないか。篠田博之編集長の『創』も、この方向に進んでいるらしいことがウェブ上では囁かれているが、その情報が確かならば、左派ジャーナリズムは、ブラック・ジャーナリズム的再編の方向に――佐藤優と癒着する岩波書店も含めて――向かっているようである。 ある意味でそれは、『流動』やら『現代の眼』やら『新雑誌X』やら『現代ビジョン』といった総会屋系の左翼雑誌が、当たり前のように発行されていた状況に回帰することである。ただし、一点、大きな違いがある。かつての総会屋系左翼雑誌は、スポンサーたる総会屋それ自体は編集内容にそれほど干渉していなかったようである(古本屋でたまに見る限り、今日読むに耐える文章はあまりなさそうだが)が、新しいブラック・ジャーナリズムは、スポンサーの主張をそのまま反映し、プロパガンダの手段として活用されるであろう、という点である。
by kollwitz2000
| 2009-08-10 00:01
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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