■大切なのは「人間」か「個人」か

はじめて学ぶ法哲学・法思想―古典で読み解く21のトピック

はじめて学ぶ法哲学・法思想―古典で読み解く21のトピック

竹下賢・角田猛之・市原晴久・桜井徹編『はじめて学ぶ法哲学・法思想』ミネルヴァ書房、2010年

・竹下賢様、角田猛之様、市原晴久様、桜井徹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

・法学ではこれまで、「人間の尊厳」を二つの意味で理解してきた。一つは自己決定権の尊重という意味での「個人の尊重」。もう一つは、その自己決定権を制約する抽象的な原理としての「人間の尊厳」である。後者の「人間の尊厳」は、例えば、生殖に対する人為的な操作に反対する。生命という「授かり物」にたいする人工的な介入は、人間の尊厳を傷つけるのではないか、と考えられるからだ。生殖は、自然な現象だ。そこに介入すると、人間が本来もっているはずの、自然主義的道徳を破ることになるのではないか。そのように発想する。

・ルソー的な自然人の道徳では、人間には、理性をもつ以前に、困窮した人を助けるという「憐れみ」の道徳がまずあった。ところが人間は、文明人となって理性をもちはじめると、この憐れみの感情を失い、とくに哲学者は、孤独を好んで他人にかかわりあおうとしなくなる。これでは自然な道徳が廃れる、というのがルソー的な発想。哲学者が理性によって解決できると考える道徳は、自然人の基本的な道徳を破壊してしまう。とすれば、個人の尊重は、人間の尊厳によって制約しなければならない。ただ、この論理がどこまで通用するのか。それが問題。

■自由に育てる/自由を育てる

教育 (自由への問い 5)

教育 (自由への問い 5)

広田照幸編『自由への問い 5 教育』岩波書店、2009年

・広田照幸先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

・宮寺晃夫「自由を/自由に育てる」は、重要。成長論的自由主義の観点から賛同したい。法的な場面で争われる言説を検討するかぎり、親の教育権を擁護する議論は、「自由に育てる」という、リバタリアン的な、あるいはリベラルな選択の理念になってしまう。だが教育学は、個々の家庭が、子供を「自由に育てる」のではなく、子供の精神に「自由を育てる」という、そういう配慮をするのであり、プライバシーに踏み込んで政治を考える。本論文は、そのような教育学の使命を、多元的な政治的討議の場で、話し合うことによって導こうとする。では、政策的・制度的な装置として、「自由を育てる」ためには、どんな工夫が考えられるのか。これは成長論的自由主義にとって、重要な問い。

・本論文は、初期教育にはできるだけ第三者の介入を避けるべきというが、これと対照的な考え方は、ロバート・オーウェンの幼児教育論で、ベンサムが支持したもの。幼児をできるだけ社交的に育てることが、自由を育てることに資すると考えられる。「自由を育てる」ために、例えば、幼児園の無償化、というアイディアは有効だろうか。あるいは、「自由を育てる」という目的のために、その目的を実践していると称する、日本のシュタイナー学校には、一定の公的補助を支給することができるだろうか。思想を制度に受肉するためのアイディアとして。

■市場が十分に発展していないから、金融危機

日本の失われた20年 デフレを超える経済政策に向けて

日本の失われた20年 デフレを超える経済政策に向けて

片岡剛士『日本の「失われた20年」』藤原書店、2010年

・片岡剛士様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

・リーマン・ショック以降の世界金融危機。その原因と教訓について、岩田規久男[2009]の整理を紹介する。それによると、CDSといった金融派生商品は、相対型で取引されていたという。金融取引に関するリスクの根幹部分は、証券化できなかった部分の「リスク」であり、それはつまり、市場の価格シグナルによって調整されていたのではなく、そもそも市場では相手を見つけることができなかったがゆえに、相対取引になっていた。だからその資産価格が下がると、市場でそれを売買するための価値判断を、スムーズにすることができなかった。これはつまり、市場主義が金融危機をもたらしたのではなく、反対に、リスクが高いものについて、市場価格の外部で取引をしてしまったからこそ、危機が生じた、ということである。ありうる規制としては、市場価格を媒介しない相対型の取引を、制約することであろう。これは自由な契約を制約することになるが、しかし市場を制約することにはならない。むしろ重要な意義をもつハイリスクの取引を「市場化」することを意味する。自己組織化された市場とは、このような人工的操作を必要としている。自生化主義の統治術として。