2012年 09月 11日
宮城の”今” 東日本大震災から1年半に
先月、宮城で震災復興ボランティアに参加してきました。震災後、募金をメインに、被災地・被災された方々へ何かできないかと思ってきたのですが、お友達が震災復興ボランティアをしているので友人に「参加して活動してみないか」とお話をいただきました。体力面や、ボランティアに参加する際に伴う”責任”などが心配になったこともありました。しかし、自分でも現地で何か少しでも力になれるなら惜しまず力になりたい。そして、テレビや新聞、ネットでしか観てこなかった被災地の現状、現実に、自分の問題として正面から向きあいたい。震災後、私の地域は大きな被害はありませんでしたが、様々な面で「自分とは関係の無いこと」とは思えなかった。自分も向き合わねばならないことだ…そう感じてきました。2日間、短いですが参加して思ったこと、そして被災地で見たもの、聞いたこと、考えたことを、震災から1年半の今日、書こうと思います。(もっと早めに書こうと思ってましたが、なかなか頭中で整理がつかず、更に体調が優れなかったり、忙しかったりで今日になりました。)
私が参加したボランティアは、被災地の直接的な復興活動(環境整備など)や、被災された地元の方々と直接交流するような直接的なものではなく、被災された方々のこれからの生活・心理面でのサポートのための場を作る作業でした。農業で生計を立てていたのが、津波で田畑が流されてしまった。田畑は未だ元に戻らず、農作業すら出来ない。比較的近くにある仮設住宅に篭りがちになってしまわないように、活動できる場があればいい。その準備作業に参加しました。
活動場所は海から離れた内陸だったので、津波の被害は無かったそうです。ただ、あの強い地震で、建物には被害があったようです。しかし、私が行った時には、外から見た分には何も無かったようでした。とてものどかな、自然に溢れる地区で、ネオンもなく、夜は星がきれいに見えるのだろうなと思っていました。
そんなところで、2日間、黙々と、かつボランティア団体の方々や地元の方とも交流しながら作業をしました。この場が、被災された方々に愛され、役に立つ場になればいいなと願って。自然溢れる屋外で作業をするのは気持ちがよかった。
そんな作業の途中、仮設住宅にお住まいの方がお手伝いに来てくださいました。現地の方のアドバイスは非常に勉強になりました。そして、昨年3月11日、被災した時のことを、私と誘ってくれた友人にお話してくださいました。
自宅は海に近いところにあり、大地震のあと、自宅に津波が直撃…。当時その方とご家族は家の中にいて、浸水してしまった家の中で何とか天井と水面の隙間で一命をとりとめたのだそうです。しかし、あの3月の冷たい海水。第2波が来るという防災無線とサイレン。第2波の前に家の中から脱出。しかし、救助が来るまで何時間もかかった…。あの寒さの中で。もし救助があと少し遅かったら、命は無かった、と…。
お話を聞いていて、この方とお話をしているのが、陳腐な言葉ですが奇跡かもしれない…と思いました。あの大地震、大津波、救助を待っている時間、寒さ、水の冷たさ…。その方は淡々とお話してくださいましたが、人に話せるようになるまで、時間がかかったのではないだろうか…。直に、被災体験を聞いて、その壮絶さを実感しました。
その後、作業を終え、車で仙台市内へ移動。いつもは高速道路を使うのですが、この時は海側の道路を走りました。そう、津波が押し寄せた現場を。途中、仮設住宅の横も通りました。先程の方のお話を思い出す。この仮設住宅に住んでいる方々は、あの津波を生き抜いた方々なんだ…。暮らしは大変だろうなぁとこれまで思っていたのですが、見方が変わりました。震災後を、生きている・生き抜いている方々がここで暮らしている。
テレビや新聞、ネットで被災地の画像・映像を見てきましたが、実際に目の前にすると、あの津波のすさまじさが(当時)約1年半経っても伝わってきました。現場に来て、現場に身を置くと違う。
かつては田畑だった土地は草が生え、手付かずになっている。家の土台だけが残っている。家が残っていても、ビニールシートやベニヤ板で窓や壁がふさがれている。電信柱は斜めに傾き、海の方にある松の並木も斜めに傾いている。この景色に頭の中で、あの津波の映像を思い出し被せて見ていました。流される家や車、逃げる人々…。目をそらすことなんて出来ません。
それでも、車が通れるようになり、瓦礫(この言葉はあまり使いたくない…地元の方々にとっては、大切な家やもの、財産であるのだから)も撤去されている。ここまで来るまでには、多くの人々の力があった。敬意を評します。
車は、名取市へ。被害の大きかったところのひとつ・閖上(ゆりあげ)地区へ。ネットや報道などで、名前は聞いていました。
日和山という人工的な丘。神社があり、閖上地区全体を見渡すことが出来ます。
日和山の近くには閖上中学校があります。そこで、被災体験を語る会が催されているそうです。
日和山に登り、周囲を見渡す。海がすぐそばに見える。津波は、この日和山よりも高く襲ってきたのだそう。ここに逃げた方々もいたのに。日和山の上には、犠牲になった方々を悼む木の碑と、仮設の「神籬(ひもろぎ)」という神が宿る柱が建っていました。手を合わせ、犠牲になった方々のご冥福をお祈りするとともに、一日も早い物理的・精神的な復興を願いました。
土台だけの家の跡…。むごいとしか言いようが無い。
◇震災後の日和山から撮影した閖上地区のパノラマ画像がありました:MSN産経フォト【東日本大震災パノラマ Vol.46】名取市閖上地区(2011.4.2)
◇こちらは、昨年の9月の動画:YOMIURI ONLINE(読売新聞): 動画 【震災から半年】閖上・日和山の祈り
その閖上地区でも、復興へ向けて尽力されている方々がいます。
◇名取市閖上(ゆりあげ)復興支援のブログ
ボランティアに参加して、考えたことは、基本的なことではあるけれども、ボランティアは自己満足ではいけない。助けを必要としている人のために、役に立たなければならない。そして、地元の人でない人が活動する場合、それが本当に地元の人のためになるのか。地元に密着したものでなければならない。私の参加したボランティアで作った場は、その後完成し、地元メディアにも取り上げられて多くの方々が集っていると聞いた。これからも、集いの場になってほしいと願っています。
そして、被災した現場に行ってみて、メディアを通して見るのと、現場に行って自分の目で見るのは違うということ。約一年半。震災直後とは変わってきてはいるが、これからこの土地をどう復興したらいいんだろう?田畑をどう元に戻そう?地元の方々が住んでいた場所は?しかも、宮城だけじゃない。私が行ったのは宮城の一部。岩手も、福島も、茨城も。同じように、震災から生き抜いて、暮らしている方々がいる。どう支援したらいいのだろう?あまりの事の大きさと、目の前に広がる土地の広さ、被害の甚大さに圧倒されてしまいました。でも、圧倒されている場合ではない。やはり、この震災は自分も向き合わねばならないことだ。自分なりの、できる事を。私の地元に帰ってきても、出来ることはある。そして、またボランティアの機会があるなら参加したい。被災地を訪れ、地元の方のお話を聞くようなツアーもあるそうだ。是非参加してみたいし、。観光も地元の力になる(被災された方への配慮は忘れずに)。宮城だけでなく、岩手や福島にも支援を続けたい、そう強く感じました。
◇読売新聞:マナー守り復興の支え…風化防ぐ被災地ツアー
◇NAVER まとめ:被災地(東北)応援ツアーリスト
被災地ツアーに参加する際の注意点・心構えが書かれています。
また、こんな取り組みも。
「onagawa fish」という、宮城県女川町のスタッフが手作業で作製している木製キーホルダー。
◇小さな復興プロジェクト
◇ 女川フィッシュ @onagawafish
女川町の方々へ、義援金がダイレクトに届きます。ネットでの販売もしています。女川町のほかにも、このような取り組み・企画をしている地区があります。このような形の支援もあります。
このキーホルダーを手に、震災の事・被災された方々のことを決して忘れない、そして一日も復興を願っています。
以上、拙い内容ですが、私のボランティア&被災地訪問記録でした。これが終わりにならないように。
※この記事には、私が個人的感じたこと・考えたことを書きます。書いた内容の責任は、すべて私・遼にあります。
また、被災地の画像も含みます。辛いと感じたら、無理せずにこのページを閉じてください。
私が参加したボランティアは、被災地の直接的な復興活動(環境整備など)や、被災された地元の方々と直接交流するような直接的なものではなく、被災された方々のこれからの生活・心理面でのサポートのための場を作る作業でした。農業で生計を立てていたのが、津波で田畑が流されてしまった。田畑は未だ元に戻らず、農作業すら出来ない。比較的近くにある仮設住宅に篭りがちになってしまわないように、活動できる場があればいい。その準備作業に参加しました。
活動場所は海から離れた内陸だったので、津波の被害は無かったそうです。ただ、あの強い地震で、建物には被害があったようです。しかし、私が行った時には、外から見た分には何も無かったようでした。とてものどかな、自然に溢れる地区で、ネオンもなく、夜は星がきれいに見えるのだろうなと思っていました。
そんなところで、2日間、黙々と、かつボランティア団体の方々や地元の方とも交流しながら作業をしました。この場が、被災された方々に愛され、役に立つ場になればいいなと願って。自然溢れる屋外で作業をするのは気持ちがよかった。
そんな作業の途中、仮設住宅にお住まいの方がお手伝いに来てくださいました。現地の方のアドバイスは非常に勉強になりました。そして、昨年3月11日、被災した時のことを、私と誘ってくれた友人にお話してくださいました。
自宅は海に近いところにあり、大地震のあと、自宅に津波が直撃…。当時その方とご家族は家の中にいて、浸水してしまった家の中で何とか天井と水面の隙間で一命をとりとめたのだそうです。しかし、あの3月の冷たい海水。第2波が来るという防災無線とサイレン。第2波の前に家の中から脱出。しかし、救助が来るまで何時間もかかった…。あの寒さの中で。もし救助があと少し遅かったら、命は無かった、と…。
お話を聞いていて、この方とお話をしているのが、陳腐な言葉ですが奇跡かもしれない…と思いました。あの大地震、大津波、救助を待っている時間、寒さ、水の冷たさ…。その方は淡々とお話してくださいましたが、人に話せるようになるまで、時間がかかったのではないだろうか…。直に、被災体験を聞いて、その壮絶さを実感しました。
その後、作業を終え、車で仙台市内へ移動。いつもは高速道路を使うのですが、この時は海側の道路を走りました。そう、津波が押し寄せた現場を。途中、仮設住宅の横も通りました。先程の方のお話を思い出す。この仮設住宅に住んでいる方々は、あの津波を生き抜いた方々なんだ…。暮らしは大変だろうなぁとこれまで思っていたのですが、見方が変わりました。震災後を、生きている・生き抜いている方々がここで暮らしている。
テレビや新聞、ネットで被災地の画像・映像を見てきましたが、実際に目の前にすると、あの津波のすさまじさが(当時)約1年半経っても伝わってきました。現場に来て、現場に身を置くと違う。
かつては田畑だった土地は草が生え、手付かずになっている。家の土台だけが残っている。家が残っていても、ビニールシートやベニヤ板で窓や壁がふさがれている。電信柱は斜めに傾き、海の方にある松の並木も斜めに傾いている。この景色に頭の中で、あの津波の映像を思い出し被せて見ていました。流される家や車、逃げる人々…。目をそらすことなんて出来ません。
それでも、車が通れるようになり、瓦礫(この言葉はあまり使いたくない…地元の方々にとっては、大切な家やもの、財産であるのだから)も撤去されている。ここまで来るまでには、多くの人々の力があった。敬意を評します。
車は、名取市へ。被害の大きかったところのひとつ・閖上(ゆりあげ)地区へ。ネットや報道などで、名前は聞いていました。
日和山という人工的な丘。神社があり、閖上地区全体を見渡すことが出来ます。
日和山の近くには閖上中学校があります。そこで、被災体験を語る会が催されているそうです。
日和山に登り、周囲を見渡す。海がすぐそばに見える。津波は、この日和山よりも高く襲ってきたのだそう。ここに逃げた方々もいたのに。日和山の上には、犠牲になった方々を悼む木の碑と、仮設の「神籬(ひもろぎ)」という神が宿る柱が建っていました。手を合わせ、犠牲になった方々のご冥福をお祈りするとともに、一日も早い物理的・精神的な復興を願いました。
土台だけの家の跡…。むごいとしか言いようが無い。
◇震災後の日和山から撮影した閖上地区のパノラマ画像がありました:MSN産経フォト【東日本大震災パノラマ Vol.46】名取市閖上地区(2011.4.2)
◇こちらは、昨年の9月の動画:YOMIURI ONLINE(読売新聞): 動画 【震災から半年】閖上・日和山の祈り
その閖上地区でも、復興へ向けて尽力されている方々がいます。
◇名取市閖上(ゆりあげ)復興支援のブログ
ボランティアに参加して、考えたことは、基本的なことではあるけれども、ボランティアは自己満足ではいけない。助けを必要としている人のために、役に立たなければならない。そして、地元の人でない人が活動する場合、それが本当に地元の人のためになるのか。地元に密着したものでなければならない。私の参加したボランティアで作った場は、その後完成し、地元メディアにも取り上げられて多くの方々が集っていると聞いた。これからも、集いの場になってほしいと願っています。
そして、被災した現場に行ってみて、メディアを通して見るのと、現場に行って自分の目で見るのは違うということ。約一年半。震災直後とは変わってきてはいるが、これからこの土地をどう復興したらいいんだろう?田畑をどう元に戻そう?地元の方々が住んでいた場所は?しかも、宮城だけじゃない。私が行ったのは宮城の一部。岩手も、福島も、茨城も。同じように、震災から生き抜いて、暮らしている方々がいる。どう支援したらいいのだろう?あまりの事の大きさと、目の前に広がる土地の広さ、被害の甚大さに圧倒されてしまいました。でも、圧倒されている場合ではない。やはり、この震災は自分も向き合わねばならないことだ。自分なりの、できる事を。私の地元に帰ってきても、出来ることはある。そして、またボランティアの機会があるなら参加したい。被災地を訪れ、地元の方のお話を聞くようなツアーもあるそうだ。是非参加してみたいし、。観光も地元の力になる(被災された方への配慮は忘れずに)。宮城だけでなく、岩手や福島にも支援を続けたい、そう強く感じました。
◇読売新聞:マナー守り復興の支え…風化防ぐ被災地ツアー
◇NAVER まとめ:被災地(東北)応援ツアーリスト
被災地ツアーに参加する際の注意点・心構えが書かれています。
また、こんな取り組みも。
「onagawa fish」という、宮城県女川町のスタッフが手作業で作製している木製キーホルダー。
◇小さな復興プロジェクト
◇ 女川フィッシュ @onagawafish
女川町の方々へ、義援金がダイレクトに届きます。ネットでの販売もしています。女川町のほかにも、このような取り組み・企画をしている地区があります。このような形の支援もあります。
このキーホルダーを手に、震災の事・被災された方々のことを決して忘れない、そして一日も復興を願っています。
以上、拙い内容ですが、私のボランティア&被災地訪問記録でした。これが終わりにならないように。
by halca-kaukana057
| 2012-09-11 23:58
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