BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

読書じまい

夜中に目が覚める。本を読んで、やり過ごそうと思うが、文学書、神学書を紐解いても、数頁読んだだけで、すぐに閉じてしまう。退屈しているのだろう。ただし、聖パウロの『エペソ人への書』は面白く読めた。何度も繰り返し読んでいるのに、新しい発見があるのは、論理を超越した宗教的思考がインスピレーションを与えてくれるからだろう。

胃がムカムカする。明らかに酒の飲み過ぎだが、就寝前の安息を得るため、または執筆中の勇気を得るためにイッパイやるので、これは仕方ないと思う。

アルバイトをしないで、読書と執筆にすべての時間を投じる方が、ライターとして明らかに優位に立てるが、今の時代に文筆だけで食っていくのは至難の業である。投資信託、株式投資などの資産運用も手段の一つであるが、短期の利ザヤで利益を上げようとすると、それは投資ではなく投機になるので、執筆に心を傾ける余念がなくなってしまう。結局、生活費を稼ぐためにアルバイトは必要になるが、本業のライティングを圧迫しないように注意したい。もちろん、本業も無理は禁物である。

さて、読書もいいかげん飽きてきたことだし、そろそろ文学を書くとしますか。

Macbook Server

手元にあったMacbook Air 2015をファイルサーバーに仕立てた。本当はLinuxを入れて、第一線で使いたかったが、メインマシンのWindowsとの兼ね合いの他、スペック的に見てけっこう厳しいので、結果的に脇役に落ち着いた。

Macのファイル共有はWindows、Linuxに比べて、驚くべきほど簡単だった。ターミナル、設定ファイルを使わないで、すべてGUIで完結するのは大きな強みである。最後にIPアドレスを固定して作業は終了。MacのディレクトリにWindows、Linuxから常時アクセスできるようになった。ただし、スリープを有効にし、他のコンピューターがWiFi経由でSSDにアクセスした時に、起動するように設定した。サーバーは常時稼働させて運用するのが普通だが、業務用ではない旧式の機体なので、あまり負荷を掛けられない。

この数日間、狂ったようにコンピューターを弄っていたが、そろそろ、文学/神学の創作・研究に戻りたい。ライターの仕事もなんとかなりそうである。ようやく希望が見えてきた。

iPod nano

昨夜はアリピプラゾール 6mgとデエビゴ 2.5mgを飲んで寝た。6時間睡眠。目覚めは爽快。熟睡感がある。鎮静させすぎず、そこそこ賦活させる。この処方がベストなのではないか。やはり、睡眠にトラブルを抱えている以上、睡眠薬を飲むのは必須だろう。精神/神経的な問題をすべて、抗精神病薬で解決できる訳ではない。そういう観点に立つと、医者は凄いな、と思う。彼等は病気を見立て、患者一人一人に合った独特のカクテルを作る。処方は精神科医の妙技と言われる所以だ。一般的なセオリーを参照しながらも、臨床では患者の個別のケースを看取していく。いずれにせよ、体調に適った処方が見つかって良かった。これで安心(安定)して暮らして行ける。

一昨日契約したMicrosoft 365 Personalだが、友達の助言を容れて、解約の手続をしたら、返金してくれた。結局、ほとんど使わなかったので、本当にありがたい。Outlookの機能を拡張したければ、Microsoft 365 Basicを契約すればいいだろう。今後、オンライン取材をする機会が増えれば、Zoomを契約するしかない。私のPCと相性が悪いので、あまり好きではないが。

英語を勉強する必要に迫られたので、机の抽斗の奥に眠っていた、iPod nanoを取り出した。iTunesをインストールし、聴きたいCDをおもむろに入れてみる。Windowsとの相性が悪いのか、最初はソフトウェアの動きが鈍かったが、使っているうちにだんだん動きが良くなってくる。iPodとの同期はスムーズだ。

しかし、久しぶりに専用の音楽プレーヤーを使ってみると、その音質の良さに驚く。スマートフォン、とくにAndroidとは桁違いだ。この頃はAmazon Musicなどストリーミングが主流だが、CDで音楽を聴く。また、それを機器に入れて持ち歩くのもなかなか乙である。職場に出勤する徒歩20分間、音楽、ラジオを聴けるのは嬉しいことである。

iPod nano

Mozilla Thunderbird、再び

昨日は疲れ切って、読むことも書くこともできずに、一日中、パソコンを弄っていた。

私はもともとMicrosoftのファンだが、Windows 11で新しくなったOutlookの使い心地が悪く、これには閉口していた。特に日本語表示でアドレスの性と名が逆転するバグはなんとかして欲しかった。また、Outlookに依存していると、Windowsと同じか、いや、それ以上に愛用しているLinuxに移行した時の不安があった。ソフトウェアはなるべく、特定のOS、機器に依存しない、クロスプラットフォームな仕様がいい。

私はかねがね、Mozilla Thunderbirdをメーラーとして愛用していたが、Microsoft 365との連携が上手くいかず、いつしか使うのを止めてしまった。しかし、今回、アドオンをいろいろ弄っていみると、Exchange ActiveSync用プロバイダTbSyncを入れると、Microsoft 365のメールボックスの他に、予定表、アドレス帳、タスクをシームレスに同期した。Thunderbirdがメインのメーラーに復帰した瞬間だった。私はもうOutlookに戻ることはないだろう。これで、WindowsとLinuxを同じ環境で構築することができる。

しかし、今回の作業で、私はうっかり、Microsoft 365 Personalを契約してしまった。Teamsを本格的に使うことが狙いだったが、Teamsは録音機能はBusinessでないと付いておらず、結局、14,900円をドブに捨ててしまった(Word、Excel、PowerPointなどのOfficeは使わない……)。結局、来年はMicrosoft 365 Basicに自動的に切り替わるが、同社には世話になっており、また、創業者のビル・ゲイツも好きなので、月額260円の出費は厭わないと思える(しかし、それでも私はMicrosoft Officeを使わない)。

来年から、Macbook Air 2015にLinuxを入れて運用できると思うと、楽しみで仕方ない。

バーテンダーはじめました

昨夜は銀座のバーに初出勤した。夕闇迫るたそがれ時に身じたくして現場へ。遂に夜の仕事が始まるんだ、とおのずと気が引き締まった。賃金労働をするのも2ヶ月ぶりのことだった。

店に入ると、卸したての黒のスーツのジャケットを脱ぎ、店から支給された黒のベストを着た。我ながら似合っている。カウンターに立つのは初めてだが(そもそも飲食の仕事は初めてだが)、バーテンダーの装いが似つかわしく思う。

昨夜の仕事は洗い物がメイン。グラスを洗った後、水滴が残らないように丁寧かつ素早く磨いていった。お客様にチェーサーを注いだり、注文を伺うなど、接客の一部も任された。空いた時間には、上司がステアの仕方を教えてくれた。

お客様の6割は外国の方で、接客には英語が欠かせない。リスキリング(むしろ、今まで以上に)英語を勉強しなければ……。

月曜〜木曜のラストオーダーは23時。30分後に店を閉めると、私達は有楽町または新橋の駅に足早に帰っていった。

こうして、私はバーテンダーとしてのデビューを果たしたのだった。

冬の充実

師走に入り、公私ともに急速に忙しくなってきた。新たにそれも一部は未経験の仕事を始めるからであるが、社会的に「私の」役割が増えてきたからだと自覚している。必ずしも順風満帆ではないが、中年に入り、仕事も生活も油が乗ってきたのではないか。

最近の変化といえば、日本酒の味を覚えたことであろうか。私はもともと父親から酒(特に日本酒)の英才教育を受けてきたが、物心が付いた頃にはみずから進んで洋酒を嗜むようになり、以来、日本酒の味を忘れてしまった。しかし、学生の頃は土佐鶴などの銘酒を飲んできたこともあり、ジンロ、鏡月などの悪酒(当時は酷かった…)を飲むと身震いがし、あえて遠ざけることができた。今でも私は安ウイスキーを好んで飲むが、酒の味は識っている方である。善い酒は体と心に善いのである。

あと、他の出来事といえば、自宅の複数のPCで、WIFI経由でファイルを共有できるようになったことだろうか。Linuxはギークには堪らない面白いOSなので、今後、もっと習熟したい。自宅で余っている、Macbook Air 2015にLinuxをインスールして(macOSは吹き飛ばす)、メインマシンにするのが2025年上半期の目標である。

文学と神学に関しては急な飛躍は難しいが、焦ることなく、粘り強くやっていきたい。文学は人についての学問。神学は神についての学問。すべての創作と研究はこの前提から始まっている。人は皆、神の似姿として創られた。ゆえに神学を学ぶことは、文学を学ぶことに繋がり、神を知ることは人を知ることに繋がるのである。おそらく、その逆も然り。

躓くことも多いけれど、なんだかんだ言って、充実した日々である。

生活の中の祈り

会社を辞めて、約2ヶ月、平日は人とほとんど会うことなく、孤独に過ごしているので、自由に使える時間が増えた。基本的には読書と執筆、それと少々の飲酒と仮眠に充てているが、退屈になる時がある。すると、どうだろう。私は持て余した時間を瞑想と祈祷に使い始めた。要するに一人で祈り始めたのである。

クリスチャンは毎週日曜日に、教会に行き、聖餐ミサでキリストの御体と御血を共に頂き、礼拝を捧げる。これが世間から見たクリスチャンの生活である。確かに間違っていないが、必ずしも隣人となりびとと共に祈る必然性はない。

むしろ、キリスト者としての修行は、ミサとしての共同の祈りにあるのではなく、極めて個人的な一人で行う祈りの中にあるのではないだろうか? 私は以前から、ふと不安に襲われた時、道の真ん中や、エレベーターの中で祈っていたが、それが書斎にまで拡大したまでである。

私は原稿を書く時、聖書を読む時、祈る。主の祈りを唱えたあと、己みずから言葉を手繰り寄せて祈る。これもミサに劣らず、立派な宗教の実践、キリスト者の修行だと思っている。