複製権時代の文学
北条裕子の「美しい顔」とそれをめぐる一連の騒動は、「無」あるいは「幽霊」の時代の文学としての「平成」文学を締め括るにふさわしい出来事と言えるだろう。この小説は群像新人賞を受賞し、選考委員と各文芸時評から絶賛され、芥川賞にノミネートされた。内容は、東日本大震災で被災した女子高生の一人称語りによる体験記の形を取り、母の死体に直面し、弟と共に沼津の叔母の下に引き取られるまでの内面の揺れ動きが読みどころの作品となっている。ところが作中の震災の描写に、震災についてのノンフィクション本からの無断借用があることが発覚し、状況は一変した。ノンフィクション本の版元からの抗議で群像がウェブサイトで経緯を説明し、著者も謝罪の文章を公表して、芥川賞も落選となった。
私は以前「早稲田文学」に「コピーライトについての試論」という評論を連載したことがある。そこでは「作者」が死んだ後(これは現実に死んだということではなく、バルトあるいはデリダ的な意味で死んだということである)に「著作権者」が延命し続ける現代という時代を、ベンヤミンを改変して「複製権時代」と呼び、そこにおけるオーラの行方を考察しようとした(「著作権」という概念は「作者」側からの視点に立っているので、受容者の視点から「複製権」と言い換えて見た)。「美しい顔」問題は、この「複製権時代」の文学を考えるための格好の練習問題になる。
すなわち「美しい顔」は、最初は作者が一度も被災地に行くことなく、何も直接経験しないまま想像力によって真に迫った物語を創造したという物語によって強烈なオーラを獲得した。しかしそのオーラはこの作品が、そのリアリティをノンフィクションという直接経験の記録によって代補していたことがあらわにされて、全面的に剥ぎ取られた。当初はプラスの付加価値としてあった経験の不在という同じものが、次にはマイナス価値として攻撃の対象になる。
私がオーラを批判するのはひとたびそれが発動すると、「複製権」の存在が忘却され、現代において書くことにつきまとっている不自由さが隠蔽されてしまう(その結果牢獄をユートピアと取り違える)からでもある。オーラの有無は、作品を「一流」と「二流」に分割する。オーラと無関係に作品を読むことの追求は、私の「固有名批判」のモチーフにつながる。
私は「美しい顔」を、盗用騒動が起きて初めて読んだので、ポジディヴなプラスのオーラからは自由だったとは言えるが、その分マイナスのオーラに染められて読んでしまったかもしれない。後半弟に母の死体を見せるかどうかで急に説教臭くなり、しかも弟の母との対面が一行で済まされてしまうあたりは明らかに密度が低下している。前半は被災体験のリアリティによって読ませる。特に作品の冒頭、主人公が自分を撮影するジャーナリストに対して延々と呪詛的な内面を吐露するところは印象的である。それは一読して読者の心をつかむ語りだが、その突出したリアリティは、作者が元モデルらしいということを考えると、モデル時代にカメラマンから受けた厭な印象に由来するのだろうなと私小説的に想像したくなる(同様の意見はツイッターでもつぶやかれていた)。小説は言葉の集合体であり、言葉は元の文脈と異なる場所に移し替えられる交換可能性がその本質なのだから、このような経験の移し替えは文学的には当然ではある。震災に固有の体験などはない。もし固有な体験があったらそれは体験していない者には伝わらないのだから、伝わる限りにおいて、それはもはや交換可能な非固有の体験ということになる。「美しい顔」はそのことを見事に実証して見せた作品であるだろう。私は西山雄二編『カタストロフィと人文学』に寄せた論考で、木村朗子が提唱した「震災後文学」という概念を批判したことがある。木村はシャーマンのようにとにかく震災について何でもいいから小説を書けと無根拠に煽動していたのだが、「美しい顔」はそのような文壇的煽動の一つの必然的帰結と言えるかもしれない。
この騒動を小保方事件になぞらえる向きがネットであったが、私は佐村河内事件と比較してみたい。佐村河内の場合は音楽評論家・音楽学者による絶賛の嵐だったが、「美しい顔」も作家・文芸評論家・文学研究者の称賛の花束に包まれていた。盗用騒動になった後、これらの称賛者たちはどう応答責任を取るのか、あるいは取らないのか。この手のことは(渡部直己問題と同じく)黙って時間が解決するのを待つという自然主義的(?)態度が一番処世的に賢いのは明らかだが、いちはやくブログで応答している人もいる。日比嘉高氏がそうだが、その誠実な態度には敬意を表するものの、内容には疑問がある。
すなわち日比氏は次のように述べる。「小説の言葉は奪うが、自分自身のために奪うのではない。「収奪」は、社会的な意味変換装置としての小説の機能の、ほんの一面でしかない。小説は収奪するかもしれないが、その先で放ち直している」(「「美しい顔」の「剽窃」問題から私たちが考えてみるべきこと」、ブログ「日比嘉高研究室」)。
ここで日比氏は、他者の経験と言葉を模倣反復することによって奪う「小説の言葉」の暴力性を一方で認めつつ、「小説は収奪するかもしれないが、その先で放ち直している」と、その暴力性を中和し去勢する。小説は「奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく」のであり、「再放流した言葉は、その先でうまくいけば社会のかたちを変えていく」と日比氏は語る。
日比氏は小説を慈善活動のように見ているが、慈善がしばしばそうなるように、それは持って回った偽善の言説に近づいて行く。氏によれば小説は「奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく」とされるが、それは奪ったものをもう一度奪い直し、そこから二重に個人的利益を引き出すということでしかない。小説はそこで暴力性を倍増させる。そもそも「自分自身のために奪うのではない」という意味がわからない。もちろん小説家は自分自身のために他者の言葉を奪う。たとえば島崎藤村の「新生」がいまだに根強く批判され続けているのは、藤村が他者の言葉を奪いつつそのことを社会的に正当化した論理が「偽善」(芥川龍之介)と見なされているからである。小説はそれがはらむ暴力性を簡単には馴致されない。日比氏は、北条氏が金菱氏(北条氏が盗用したとされるノンフィクションの一つの編者)に宛てた謝罪の手紙に「震災そのものがテーマではなく、私的で疑似的な喪失体験にあり、主眼はあくまで、(彼女自身の)「自己の内面を理解することにあった」という告白があったことについて「作者よ、それをいっちゃぁ、おしまいだよ」と述懐しているが(「「美しい顔」それが提起した問題についての補遺」、前記ブログ)、そもそも「自己の内面」と縁を切った小説などあるはずがない。日比氏は「自己の内面を理解すること」を「正直言って読者にとってどうでもいい問題」と言っているが、その「どうでもいい」はずのことを貴重なものであるかのように感じる感性的転倒こそが、近代小説を可能にしたのであり、「自己の内面」は少なくとも著作権違反を恐れないで済む唯一の聖域でありうるのだから、北条氏がするべぎだったのは、むしろ一切参考文献などを参照しないで完全に「私の想像(あるいは妄想)した震災」を書くことだったのかもしれない。もっともその時その作品が新人賞を取れたかは分からない。日比氏は「三島由紀夫の「宴のあと」裁判も、伊藤整のチャタレー裁判も、渋澤龍彦のサド裁判も、柳美里の「石に泳ぐ魚」裁判も、みな同じような雰囲気だったのだろうと」と述べているが、「真実」と「フィクション」の関係の在り方において「美しい顔」問題はそれらとは根本的に異なっている。その「ポスト真実」的な性格、少なくともインターネットにおける炎上という意味において、「美しい顔」はやはり小保方事件や佐村河内事件との連続性の方が強いと私は思う。佐村河内事件でゴーストライターとして世間を欺くことに加担した新垣隆氏は、むしろそれがきっかけとなって作曲家として再生した。北条氏にとっても、もし本当に才能があるのなら、この事件はネガティヴなものではなくむしろ物書きとして得がたいチャンスになりえるのかもしれない。これもツイッターで同様の指摘があったが、もし「美しい顔」を単行本化するなら、なまじ本文を修正するのではなく、参考にした箇所にアンダーラインを引いて詳しく注釈をつけた方が、より文学的に優れたものになると同時に、後世への参考資料として役に立つものになるだろう。
また日比氏は「直接的な震災描写を、7年後に小説で行うことは蛮勇である」と言うが、震災直後に「直接的な震災描写」を行うことは「蛮勇」ではないのかはともかく(そうした小説を私は知らない)、たかだか七年で相対化されてしまうほど震災の体験はちゃちなものだったのだろうか。そうだとすれば震災体験は文学のテーマとしてそもそもたいしたことのないものということになる。だからこそ「震災後文学」などという軽薄なコピーが生まれることになる。本当に深刻なテーマなら、むしろ百年後に初めて真剣に考察の対象となる(直接的な経験をした者が誰もいなくなった時に、直接的描写は可能になる)のではないか。
たとえば「美しい顔」問題と同じ問題が、「慰安婦」についての小説で起きたらどうなるだろうかと私は考える。元「慰安婦」の証言を使いながらそのことを隠して見事な現実的効果を挙げる「慰安婦」の一人称語りの小説を、やはり若い日本の女性が書いたとする。彼女は「自己の内面を理解する」ために書いたのだとして、そのことが露呈した時、どういう事態が起るのか。日比氏のような批評家は「美しい顔」の場合と同様の論理でその小説を擁護できるだろうか。そう問う時すぐに思い当たるのは、現在の日本でそもそもそのような小説を書く「蛮勇」を持つ日本人作家はいないだろうし、発表できる媒体もないだろうということである。「震災」は小説にしろと煽るのに、「慰安婦」については沈黙するのが日本の文壇と言える(筒井康隆はブログで「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」などとつぶやくのではなく、実際に韓国へ行って「慰安婦像」に射精しようと試みる「ネット右翼」青年(あるいは中年)の冒険の物語を小説として書くべきだった。もっともそのような小説をリアルに書けるのは若き日の大江健三郎のような天才だけかもしれないが)。前者については「奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく」希望を捏造かもしれないが想像できるのに、後者についてはその想像力が機能しない。なぜなら「慰安婦」問題は、一つの「社会」の内部にとどまらず、韓国や中国など他の「社会」をまたがる「国家」の次元の問題になるからである。「社会的文脈」はそこでは不断に暴力的に切断され、回復されることなく奪われ続けるだろう。
私は以前「早稲田文学」に「コピーライトについての試論」という評論を連載したことがある。そこでは「作者」が死んだ後(これは現実に死んだということではなく、バルトあるいはデリダ的な意味で死んだということである)に「著作権者」が延命し続ける現代という時代を、ベンヤミンを改変して「複製権時代」と呼び、そこにおけるオーラの行方を考察しようとした(「著作権」という概念は「作者」側からの視点に立っているので、受容者の視点から「複製権」と言い換えて見た)。「美しい顔」問題は、この「複製権時代」の文学を考えるための格好の練習問題になる。
すなわち「美しい顔」は、最初は作者が一度も被災地に行くことなく、何も直接経験しないまま想像力によって真に迫った物語を創造したという物語によって強烈なオーラを獲得した。しかしそのオーラはこの作品が、そのリアリティをノンフィクションという直接経験の記録によって代補していたことがあらわにされて、全面的に剥ぎ取られた。当初はプラスの付加価値としてあった経験の不在という同じものが、次にはマイナス価値として攻撃の対象になる。
私がオーラを批判するのはひとたびそれが発動すると、「複製権」の存在が忘却され、現代において書くことにつきまとっている不自由さが隠蔽されてしまう(その結果牢獄をユートピアと取り違える)からでもある。オーラの有無は、作品を「一流」と「二流」に分割する。オーラと無関係に作品を読むことの追求は、私の「固有名批判」のモチーフにつながる。
私は「美しい顔」を、盗用騒動が起きて初めて読んだので、ポジディヴなプラスのオーラからは自由だったとは言えるが、その分マイナスのオーラに染められて読んでしまったかもしれない。後半弟に母の死体を見せるかどうかで急に説教臭くなり、しかも弟の母との対面が一行で済まされてしまうあたりは明らかに密度が低下している。前半は被災体験のリアリティによって読ませる。特に作品の冒頭、主人公が自分を撮影するジャーナリストに対して延々と呪詛的な内面を吐露するところは印象的である。それは一読して読者の心をつかむ語りだが、その突出したリアリティは、作者が元モデルらしいということを考えると、モデル時代にカメラマンから受けた厭な印象に由来するのだろうなと私小説的に想像したくなる(同様の意見はツイッターでもつぶやかれていた)。小説は言葉の集合体であり、言葉は元の文脈と異なる場所に移し替えられる交換可能性がその本質なのだから、このような経験の移し替えは文学的には当然ではある。震災に固有の体験などはない。もし固有な体験があったらそれは体験していない者には伝わらないのだから、伝わる限りにおいて、それはもはや交換可能な非固有の体験ということになる。「美しい顔」はそのことを見事に実証して見せた作品であるだろう。私は西山雄二編『カタストロフィと人文学』に寄せた論考で、木村朗子が提唱した「震災後文学」という概念を批判したことがある。木村はシャーマンのようにとにかく震災について何でもいいから小説を書けと無根拠に煽動していたのだが、「美しい顔」はそのような文壇的煽動の一つの必然的帰結と言えるかもしれない。
この騒動を小保方事件になぞらえる向きがネットであったが、私は佐村河内事件と比較してみたい。佐村河内の場合は音楽評論家・音楽学者による絶賛の嵐だったが、「美しい顔」も作家・文芸評論家・文学研究者の称賛の花束に包まれていた。盗用騒動になった後、これらの称賛者たちはどう応答責任を取るのか、あるいは取らないのか。この手のことは(渡部直己問題と同じく)黙って時間が解決するのを待つという自然主義的(?)態度が一番処世的に賢いのは明らかだが、いちはやくブログで応答している人もいる。日比嘉高氏がそうだが、その誠実な態度には敬意を表するものの、内容には疑問がある。
すなわち日比氏は次のように述べる。「小説の言葉は奪うが、自分自身のために奪うのではない。「収奪」は、社会的な意味変換装置としての小説の機能の、ほんの一面でしかない。小説は収奪するかもしれないが、その先で放ち直している」(「「美しい顔」の「剽窃」問題から私たちが考えてみるべきこと」、ブログ「日比嘉高研究室」)。
ここで日比氏は、他者の経験と言葉を模倣反復することによって奪う「小説の言葉」の暴力性を一方で認めつつ、「小説は収奪するかもしれないが、その先で放ち直している」と、その暴力性を中和し去勢する。小説は「奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく」のであり、「再放流した言葉は、その先でうまくいけば社会のかたちを変えていく」と日比氏は語る。
日比氏は小説を慈善活動のように見ているが、慈善がしばしばそうなるように、それは持って回った偽善の言説に近づいて行く。氏によれば小説は「奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく」とされるが、それは奪ったものをもう一度奪い直し、そこから二重に個人的利益を引き出すということでしかない。小説はそこで暴力性を倍増させる。そもそも「自分自身のために奪うのではない」という意味がわからない。もちろん小説家は自分自身のために他者の言葉を奪う。たとえば島崎藤村の「新生」がいまだに根強く批判され続けているのは、藤村が他者の言葉を奪いつつそのことを社会的に正当化した論理が「偽善」(芥川龍之介)と見なされているからである。小説はそれがはらむ暴力性を簡単には馴致されない。日比氏は、北条氏が金菱氏(北条氏が盗用したとされるノンフィクションの一つの編者)に宛てた謝罪の手紙に「震災そのものがテーマではなく、私的で疑似的な喪失体験にあり、主眼はあくまで、(彼女自身の)「自己の内面を理解することにあった」という告白があったことについて「作者よ、それをいっちゃぁ、おしまいだよ」と述懐しているが(「「美しい顔」それが提起した問題についての補遺」、前記ブログ)、そもそも「自己の内面」と縁を切った小説などあるはずがない。日比氏は「自己の内面を理解すること」を「正直言って読者にとってどうでもいい問題」と言っているが、その「どうでもいい」はずのことを貴重なものであるかのように感じる感性的転倒こそが、近代小説を可能にしたのであり、「自己の内面」は少なくとも著作権違反を恐れないで済む唯一の聖域でありうるのだから、北条氏がするべぎだったのは、むしろ一切参考文献などを参照しないで完全に「私の想像(あるいは妄想)した震災」を書くことだったのかもしれない。もっともその時その作品が新人賞を取れたかは分からない。日比氏は「三島由紀夫の「宴のあと」裁判も、伊藤整のチャタレー裁判も、渋澤龍彦のサド裁判も、柳美里の「石に泳ぐ魚」裁判も、みな同じような雰囲気だったのだろうと」と述べているが、「真実」と「フィクション」の関係の在り方において「美しい顔」問題はそれらとは根本的に異なっている。その「ポスト真実」的な性格、少なくともインターネットにおける炎上という意味において、「美しい顔」はやはり小保方事件や佐村河内事件との連続性の方が強いと私は思う。佐村河内事件でゴーストライターとして世間を欺くことに加担した新垣隆氏は、むしろそれがきっかけとなって作曲家として再生した。北条氏にとっても、もし本当に才能があるのなら、この事件はネガティヴなものではなくむしろ物書きとして得がたいチャンスになりえるのかもしれない。これもツイッターで同様の指摘があったが、もし「美しい顔」を単行本化するなら、なまじ本文を修正するのではなく、参考にした箇所にアンダーラインを引いて詳しく注釈をつけた方が、より文学的に優れたものになると同時に、後世への参考資料として役に立つものになるだろう。
また日比氏は「直接的な震災描写を、7年後に小説で行うことは蛮勇である」と言うが、震災直後に「直接的な震災描写」を行うことは「蛮勇」ではないのかはともかく(そうした小説を私は知らない)、たかだか七年で相対化されてしまうほど震災の体験はちゃちなものだったのだろうか。そうだとすれば震災体験は文学のテーマとしてそもそもたいしたことのないものということになる。だからこそ「震災後文学」などという軽薄なコピーが生まれることになる。本当に深刻なテーマなら、むしろ百年後に初めて真剣に考察の対象となる(直接的な経験をした者が誰もいなくなった時に、直接的描写は可能になる)のではないか。
たとえば「美しい顔」問題と同じ問題が、「慰安婦」についての小説で起きたらどうなるだろうかと私は考える。元「慰安婦」の証言を使いながらそのことを隠して見事な現実的効果を挙げる「慰安婦」の一人称語りの小説を、やはり若い日本の女性が書いたとする。彼女は「自己の内面を理解する」ために書いたのだとして、そのことが露呈した時、どういう事態が起るのか。日比氏のような批評家は「美しい顔」の場合と同様の論理でその小説を擁護できるだろうか。そう問う時すぐに思い当たるのは、現在の日本でそもそもそのような小説を書く「蛮勇」を持つ日本人作家はいないだろうし、発表できる媒体もないだろうということである。「震災」は小説にしろと煽るのに、「慰安婦」については沈黙するのが日本の文壇と言える(筒井康隆はブログで「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」などとつぶやくのではなく、実際に韓国へ行って「慰安婦像」に射精しようと試みる「ネット右翼」青年(あるいは中年)の冒険の物語を小説として書くべきだった。もっともそのような小説をリアルに書けるのは若き日の大江健三郎のような天才だけかもしれないが)。前者については「奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく」希望を捏造かもしれないが想像できるのに、後者についてはその想像力が機能しない。なぜなら「慰安婦」問題は、一つの「社会」の内部にとどまらず、韓国や中国など他の「社会」をまたがる「国家」の次元の問題になるからである。「社会的文脈」はそこでは不断に暴力的に切断され、回復されることなく奪われ続けるだろう。