石川義正氏の批評への疑問
前回記事について、石川義正氏がthreadsで以下のような批判をしているのを知った。
「大杉重男氏が『情況』のトランスジェンダー問題に介入しているが、絵に描いたような「どっちもどっち」論で驚いた。なぜこのタイミングで、取り立てて彼が深い関心が抱いているとも思えないこのテーマにいっちょ噛みしようと思ったのか。「「ヘイト」的な書き手は、論争不可能な野獣的存在」=熊と表象するとき、大杉氏は自分が熊に襲われていることを想定していない。ヘイト的書き手の主張する「言論の自由」は、大杉氏の言論は保証するかもしれないが、当然ながら彼らが「人類の敵」とみなすトランスジェンダー側の言論の自由は一切含意していない。挙げ句に大杉氏はそんな『情況』的な「言論の自由」(「犯す自由」)を言論封殺の名のもとに「キャンセル・カルチャー」(「殺す自由」)と等置してみせる。『情況』をキャンセルした者たち、さらにそれを擁護する者たちは「革マル的」な「殺す」暴力を奮っているというのだ。だが、お笑い芸人がレイプ前提の飲み会を開いていると知ったら、とりあえず被害を避けるために出席しないのは当然ではないか。しかもその実態を知らずに参加してしまったら「最初からやる気だったんだろ?」と平然と主張する連中ではないのか。」
「そんな「犯す自由」のどこに自由と平等があると大杉氏はいうのだろうか。むしろ「犯す自由」と「殺す自由」を二つともその手の内に揃えたのが『情況』編集部であり第二次トランプ政権ではないのか。書き手以上に編集部が批判されているのはそのためである。それを理解しないここでの大杉氏は、ヘイトを潜在的に支持する(それはトランプ再選を寿ぐことでもある)現実乖離した知識人のひとりであるというしかない」(2024/11/11)。
Threadsでの発言がどれだけ公共性のあるものなのか分からないが、私の名前で検索して出てくる発言なので、石川氏はそれなりの覚悟を持って書いたのだろうと思う。私もそれなりの覚悟で応答したい。
石川氏は「なぜこのタイミングで、取り立てて彼が深い関心が抱いているとも思えないこのテーマにいっちょ噛みしようと思ったのか」と書いているが、その理由は記事に書いてある。私は20年以上前に『重力02』で、女性として育てられ、後に男性と認定されて自殺したエルキュリーヌ・バルバンの手記の翻訳とコメントを載せた。それは当時無視され、私自身にとっても行き止まりだったが、しかし私の中で未解決の問題として残り続けていた。『情況』のトランスジェンダー問題は、私にとってその長年の疑問を改めて考える(解決はできないにしても)契機になったということである。
私のトランスジェンダー的なものへの関心が「いっちょ噛み」であるとしても、それは二十年以上越しの「いっちょ噛み」である(更に遡ればシュレーバー院長の「女性化」妄想の問題まで行く)。そもそもなぜ「いっちょ噛み」が悪いのか私には分からない。石川氏は「いっちょ噛み」でなく、ということは私よりも真剣に近接的に、トランスジェンダーを考えているつもりらしいが、そうした代行性の言説に私は疑いしか持てない。
とりあえず氏は私の文章を落ち着いてきちんと読むべきだろう。私はブログ記事で「「殺す」暴力」「「犯す」暴力」について書いたが、「犯す自由」「殺す自由」については何も書いていない。暴力は自由ではない。むしろ自由の破壊が暴力である。私は『情況』を擁護しないし、そこに載っている文章も肯定しない。小谷野敦など、『あらくれ』についての木で鼻を括った態度に見られるように、論理的な対話が不可能な人であることは明らかである(彼の言説は、自身のストーカー気質を他者に正当化し肯定させるために書かれていると考えると納得できる。彼は恋愛とストーキングを区別できない)。しかし同時にトランスジェンダーに「いっちょ噛み」して怒号する代行的発言にも同調できない。
私は現在のトランスジェンダーをめぐる問題は、本質的にトランス女性とシス女性の間の問題だと思っている。にもかかわらず、『情況』の騒動を見ても、ターフにせよTRAにせよ、シス男性が最も声高に語っている。風呂とかトイレとかはトランス女性とシス女性の間で解決されるべきで、シス男性は出しゃばらずもっと黙って見守るべきではないか。いずれにしても、トランスでもシスでも、人である限り、人は「犯す」暴力の被害者にも加害者にもなりえる。それを認識することは「どっちもどっち論」以前の人としての基本的な態度である。
私の前回記事においてトランスジェンダー問題は中心的なテーマではなく枕に過ぎず、もっと根源的な主題は、六十八年に露呈した暴力の構造を考察することにあった。それは映画『ゲバルトの杜』を批判する絓の論に正当性を認めつつも、そこで盲点になっている「犯す」暴力の問題系をえぐり出すことを目指したものである。残念ながら氏は私の論の後半には関心を持たなかったようだが、私は永井豪などの「両性具有」的表象について、あるいは「変態」の問題について、現実のトランスジェンダーの実践的な話とは切り離して、考えたいと思っている。
石川氏は感情にまかせたヒステリックな終末論的デマの叫びを批評だと思っている節があるが、それはやはり批評ではない。どんなにわめいても現実は変わらない。『情況』編集部と第二次トランプ政権を一緒くたにするのも(私はどちらも支持しないが、だからといってカマラ・ハリスがましだとは到底思えない)あまりに短絡的で、絵にかいたように日本のバラモン左翼・リベラル左翼のパターンを踏襲している。そもそもアメリカの大統領が誰になるか、どうしてそんなに気になるのか。大谷もどうでもいいが、日本人は名誉アメリカ人などにならず、アメリカをもっと突き放して見るべきだろう。いずれにしても民主主義は、「賢人」から見て間違った選択がされる時に最も民主主義としての本領を発揮する。民主主義が常に正しい選択をするなら、それはプラトン的賢人政治と変わらないので、民主主義を止めて賢人政治にした方が良い(結局それが民主集中制ということである)ということになる。
氏は私を「ヘイトを潜在的に支持する(それはトランプ再選を寿ぐことでもある)現実乖離した知識人のひとり」とレッテル貼りをするが、「現実」とは一体何か。氏はthreadsの別の投稿で、「おそらく90年代以降、東アジアにおける平和共存を理念とした緩やかな共同体を成立させるべきだったのだろうし、その動きはアジア通貨危機が起きる98年頃まではある程度具体的な萌芽もあったのだ(それを潰したのは世銀等のパックス・アメリカーナを担う国際勢力だった)」(2024/09/19)と書いているが、天安門後の中国や北朝鮮との間で、革命的な変化なしに「東アジアにおける平和共存を理念とした緩やかな共同体」を実現する可能性が、どこにあったのか。鳩山由紀夫的なものだろうか。石川氏は中国をあまりに「天使」化して考えているように見えるが、「具体的な萌芽」とは何か具体的に知りたいものである。少なくとも「それを潰したのは世銀等のパックス・アメリカーナを担う国際勢力だった」という言葉は、典型的な陰謀論にしか思えない。石川氏はカッサンドラのように破滅的な予言をしばしばするが、私はそこにいかにもバブル世代的な誇張癖を感じる。氏は別の投稿で「『皆殺しの天使』を30年ぶりに観ながら、議会選挙や大統領選挙の結果に胸が苦しくなるほど一喜一憂している自分が、ブルジョワ的規範に生きるあまり勝手に部屋に自ら監禁されて野蛮化し狂気に陥っていくブルジョワそっくりだと思った」(2024/11/4)とも書いているので、自分のブルジョワ・バブル性に気付いているのだとは思うが。
私は氏に『日本人の条件』を献本したが、たぶんこの本は氏の気に入らないだろう。その中で私は、「慰安婦」や歴史認識をめぐる諸論争を検討し、冷戦は終わっていないか、あるいは中国と北朝鮮の勝利で終わったと述べ、「東アジア同時革命」という理念を構成し、革命後の東アジアに「共同体」ではなく「交通空間」を展望した。これは現実から方法的に身を引き剥がした概念だが、しかし現実を主体的に把握するには必要な理念だと思っている。
「大杉重男氏が『情況』のトランスジェンダー問題に介入しているが、絵に描いたような「どっちもどっち」論で驚いた。なぜこのタイミングで、取り立てて彼が深い関心が抱いているとも思えないこのテーマにいっちょ噛みしようと思ったのか。「「ヘイト」的な書き手は、論争不可能な野獣的存在」=熊と表象するとき、大杉氏は自分が熊に襲われていることを想定していない。ヘイト的書き手の主張する「言論の自由」は、大杉氏の言論は保証するかもしれないが、当然ながら彼らが「人類の敵」とみなすトランスジェンダー側の言論の自由は一切含意していない。挙げ句に大杉氏はそんな『情況』的な「言論の自由」(「犯す自由」)を言論封殺の名のもとに「キャンセル・カルチャー」(「殺す自由」)と等置してみせる。『情況』をキャンセルした者たち、さらにそれを擁護する者たちは「革マル的」な「殺す」暴力を奮っているというのだ。だが、お笑い芸人がレイプ前提の飲み会を開いていると知ったら、とりあえず被害を避けるために出席しないのは当然ではないか。しかもその実態を知らずに参加してしまったら「最初からやる気だったんだろ?」と平然と主張する連中ではないのか。」
「そんな「犯す自由」のどこに自由と平等があると大杉氏はいうのだろうか。むしろ「犯す自由」と「殺す自由」を二つともその手の内に揃えたのが『情況』編集部であり第二次トランプ政権ではないのか。書き手以上に編集部が批判されているのはそのためである。それを理解しないここでの大杉氏は、ヘイトを潜在的に支持する(それはトランプ再選を寿ぐことでもある)現実乖離した知識人のひとりであるというしかない」(2024/11/11)。
Threadsでの発言がどれだけ公共性のあるものなのか分からないが、私の名前で検索して出てくる発言なので、石川氏はそれなりの覚悟を持って書いたのだろうと思う。私もそれなりの覚悟で応答したい。
石川氏は「なぜこのタイミングで、取り立てて彼が深い関心が抱いているとも思えないこのテーマにいっちょ噛みしようと思ったのか」と書いているが、その理由は記事に書いてある。私は20年以上前に『重力02』で、女性として育てられ、後に男性と認定されて自殺したエルキュリーヌ・バルバンの手記の翻訳とコメントを載せた。それは当時無視され、私自身にとっても行き止まりだったが、しかし私の中で未解決の問題として残り続けていた。『情況』のトランスジェンダー問題は、私にとってその長年の疑問を改めて考える(解決はできないにしても)契機になったということである。
私のトランスジェンダー的なものへの関心が「いっちょ噛み」であるとしても、それは二十年以上越しの「いっちょ噛み」である(更に遡ればシュレーバー院長の「女性化」妄想の問題まで行く)。そもそもなぜ「いっちょ噛み」が悪いのか私には分からない。石川氏は「いっちょ噛み」でなく、ということは私よりも真剣に近接的に、トランスジェンダーを考えているつもりらしいが、そうした代行性の言説に私は疑いしか持てない。
とりあえず氏は私の文章を落ち着いてきちんと読むべきだろう。私はブログ記事で「「殺す」暴力」「「犯す」暴力」について書いたが、「犯す自由」「殺す自由」については何も書いていない。暴力は自由ではない。むしろ自由の破壊が暴力である。私は『情況』を擁護しないし、そこに載っている文章も肯定しない。小谷野敦など、『あらくれ』についての木で鼻を括った態度に見られるように、論理的な対話が不可能な人であることは明らかである(彼の言説は、自身のストーカー気質を他者に正当化し肯定させるために書かれていると考えると納得できる。彼は恋愛とストーキングを区別できない)。しかし同時にトランスジェンダーに「いっちょ噛み」して怒号する代行的発言にも同調できない。
私は現在のトランスジェンダーをめぐる問題は、本質的にトランス女性とシス女性の間の問題だと思っている。にもかかわらず、『情況』の騒動を見ても、ターフにせよTRAにせよ、シス男性が最も声高に語っている。風呂とかトイレとかはトランス女性とシス女性の間で解決されるべきで、シス男性は出しゃばらずもっと黙って見守るべきではないか。いずれにしても、トランスでもシスでも、人である限り、人は「犯す」暴力の被害者にも加害者にもなりえる。それを認識することは「どっちもどっち論」以前の人としての基本的な態度である。
私の前回記事においてトランスジェンダー問題は中心的なテーマではなく枕に過ぎず、もっと根源的な主題は、六十八年に露呈した暴力の構造を考察することにあった。それは映画『ゲバルトの杜』を批判する絓の論に正当性を認めつつも、そこで盲点になっている「犯す」暴力の問題系をえぐり出すことを目指したものである。残念ながら氏は私の論の後半には関心を持たなかったようだが、私は永井豪などの「両性具有」的表象について、あるいは「変態」の問題について、現実のトランスジェンダーの実践的な話とは切り離して、考えたいと思っている。
石川氏は感情にまかせたヒステリックな終末論的デマの叫びを批評だと思っている節があるが、それはやはり批評ではない。どんなにわめいても現実は変わらない。『情況』編集部と第二次トランプ政権を一緒くたにするのも(私はどちらも支持しないが、だからといってカマラ・ハリスがましだとは到底思えない)あまりに短絡的で、絵にかいたように日本のバラモン左翼・リベラル左翼のパターンを踏襲している。そもそもアメリカの大統領が誰になるか、どうしてそんなに気になるのか。大谷もどうでもいいが、日本人は名誉アメリカ人などにならず、アメリカをもっと突き放して見るべきだろう。いずれにしても民主主義は、「賢人」から見て間違った選択がされる時に最も民主主義としての本領を発揮する。民主主義が常に正しい選択をするなら、それはプラトン的賢人政治と変わらないので、民主主義を止めて賢人政治にした方が良い(結局それが民主集中制ということである)ということになる。
氏は私を「ヘイトを潜在的に支持する(それはトランプ再選を寿ぐことでもある)現実乖離した知識人のひとり」とレッテル貼りをするが、「現実」とは一体何か。氏はthreadsの別の投稿で、「おそらく90年代以降、東アジアにおける平和共存を理念とした緩やかな共同体を成立させるべきだったのだろうし、その動きはアジア通貨危機が起きる98年頃まではある程度具体的な萌芽もあったのだ(それを潰したのは世銀等のパックス・アメリカーナを担う国際勢力だった)」(2024/09/19)と書いているが、天安門後の中国や北朝鮮との間で、革命的な変化なしに「東アジアにおける平和共存を理念とした緩やかな共同体」を実現する可能性が、どこにあったのか。鳩山由紀夫的なものだろうか。石川氏は中国をあまりに「天使」化して考えているように見えるが、「具体的な萌芽」とは何か具体的に知りたいものである。少なくとも「それを潰したのは世銀等のパックス・アメリカーナを担う国際勢力だった」という言葉は、典型的な陰謀論にしか思えない。石川氏はカッサンドラのように破滅的な予言をしばしばするが、私はそこにいかにもバブル世代的な誇張癖を感じる。氏は別の投稿で「『皆殺しの天使』を30年ぶりに観ながら、議会選挙や大統領選挙の結果に胸が苦しくなるほど一喜一憂している自分が、ブルジョワ的規範に生きるあまり勝手に部屋に自ら監禁されて野蛮化し狂気に陥っていくブルジョワそっくりだと思った」(2024/11/4)とも書いているので、自分のブルジョワ・バブル性に気付いているのだとは思うが。
私は氏に『日本人の条件』を献本したが、たぶんこの本は氏の気に入らないだろう。その中で私は、「慰安婦」や歴史認識をめぐる諸論争を検討し、冷戦は終わっていないか、あるいは中国と北朝鮮の勝利で終わったと述べ、「東アジア同時革命」という理念を構成し、革命後の東アジアに「共同体」ではなく「交通空間」を展望した。これは現実から方法的に身を引き剥がした概念だが、しかし現実を主体的に把握するには必要な理念だと思っている。