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「父殺し」と「友愛」

 年末に金沢の徳田秋聲記念館に立ち寄って真山青果生誕140年記念「『檻(おり)』―真山青果との友情」展を見て来た。『文豪とアルケミスト』のおかげで俄に脚光を浴びた感のある秋聲だが、この企画展は流行に流されない気骨の感じられるものだった。
 徳田秋聲と真山青果と言えば、私が真っ先に思い浮べるのは絓秀実『「帝国」の文学』である。2002年に刊行されたこの本は、現在までのところ自然主義文学全体に対するまとまった批評的・理論的論考の最後の本である。これ以後文芸批評自体が思想的自立性を失って内輪向けに幇間化し、近代文学について考えることと現在について考えることとのつながりは見えなくなったが、問題は依然として宙づりのまま残っている。
 その第五章「「父殺し」の二つの型」は秋聲を専ら扱っているのだが、前振りに真山青果が使われていて、秋聲の『黴』の先行テキストとして青果の「枝」が論じられるのは創見と言える。絓氏は日本自然主義文学を総体として「父殺し」の文学としてとらえ、その場合の「父殺し」とは、二種類あると指摘する。すなわち「現実的」な「父殺し」と「想像的」な「父殺し」である。前者は「生ける父を殺すことによって、その地位を簒奪しようとする」のに対して、後者は「父はすでに死んでいるがゆえに、自らその「父殺し」の罪を引き受けようとする」ことと定義される。前者の「父殺し」を遂行したのが田山花袋であり、後者の「父殺し」を遂行したのが青果であって、秋聲は青果から「父殺し」を学んで『黴』を書いたというのが絓氏の見立てである。
 この絓氏の論は、秋聲論として、また自然主義文学論、近代文学論として多くの論点を提示している。ただ惜しまれるのは、絓氏が「枝」と『黴』を直接比較していて、「枝」に対する秋聲の直接的応答であると言える「檻」を参照した形跡がないということである。これは「檻」が従来ほとんど注目されたことのない作品だった以上仕方のないことであり、絓氏が先行論として意識していたと思われる平野謙(『明治文学全集 70 真山青果集 近松秋江集』の編者であり、解題の中で「枝」について詳しく批評している)も、「檻」を読んだ様子がない(読んでいれば言及したはずである)。だが「檻」は「枝」と対となる小説であり、そして両者を読み合せると、絓氏の論をもっと発展させる可能性が見えて来ると私は思う。
 「檻」は、物語内容的には、「枝」に続く内容を持った短篇である。秋聲は1908年9月15日、青果に誘われ国府津に一泊後、湯河原に旅行する。そして同年11月『新潮』に青果と共作で「湯河原日記」を出す。これは15日・16日が秋聲、17~19日が青果の執筆である。それは文語体による文字通りの簡潔な旅日記だったが、翌1909年4月青果は『中央公論』に「枝」を発表し、さらにその翌1910年4月秋聲は『早稲田文学』に「檻」を発表する。内容的に「枝」と「檻」は、「湯河原日記」を小説的な次元で書き直した共作とみることができる。
 すなわち「枝」の主人公は、青果をモデルとした岸田という小説家である。岸田はかねてから憧れていた死の床に伏す作家(国木田独歩がモデル)の病院に通って看病し、その通夜の席で酒を飲んで暴れ顰蹙を買う。友達のいない岸田のほとんど唯一の友は清水(秋聲がモデル)であり、清水は岸田の才能を高く評価し、いつも優しく励ます。その岸田に立見という美青年が弟子入りしたいと田舎から上京し。最初はとまどっていた岸田は次第に受け入れるようになる。ある時立見は突然いなくなり、岸田はショックを受けるが、戻ってきた立見から両親に岸田への弟子入りを許してもらうために帰省していたのだと告げられ安心する。そして岸田は立見と清水を誘い、亡き独歩がモデルの作家にゆかりの国府津に泊まった後、湯河原に逗留するが、二人とも仕事を多く抱えていたにもかかわらず何も書けない。
 「枝」を読んで印象的なのは、「餓えた人のやうに激し」い「岸田の友を求める心」である。岸田はその傍若無人な振舞いのために師である木澤(小栗風葉がモデル)や友人の峰岡と疎遠になり、清水と立見だけが岸田の友愛に応えてくれたように描かれている。そしてこの岸田の友愛は、同性愛的なイメージがまとわりついていることでも特異である。すなわち立見を連れ歩く岸田は「岸田、君は非常な美少年を連れて歩いて居るツてぢやないか。オスカア・ワイルドだツて評判あるぜ」とからかわれ、清水は「細く顫えのある、優しい女のやうな声」をしていて、岸田と温泉に入った時には「湯の中の手足は恐ろしく美しく見える」と描写される。
 他方、秋聲が「檻」で描く青果との友愛は、応答と応答拒否の間で揺れ動くもっと複雑な様相を示している。「檻」は、「東京から△△雑誌のN氏が遊び旁々原稿取りに来るまで、岡辺も林も一筆も筆を取らなかつた」と、時系列的には「枝」の続篇のように始まるが、そこに描かれる秋聲から見た人間模様は「枝」とは反対の印象を与える。すなわちそこでは「枝」の立見に当たる書生は影が薄くすぐに帰されて姿を消し、岡辺(青果)は温泉宿の娘に恋愛遊戯を仕掛ける。林(秋聲)はそれに巻き込まれるのを警戒するが、岡辺(青果)とは文壇の交友関係をめぐり何かにつけて口論になる。やがて林は東京に帰ろうとするが、岡辺に強く引き留められ、それを拒否すると絶交状を送られる。しかし林が本当に帰る際には、宿代を割勘にして岡辺も一緒に帰る。
 ここに示されているのは、言わば「父殺し」をした友にどこまで忠実でありうるのかという主題である。「父殺し」という概念は、フロイト的に考えると二重の意味を持っている。一つはいわゆるエディプス的な「父殺し」である。そこでは子は父を殺して母と交わり、その罰として失明し、盲目となって去勢される。もう一つはモーセ的な「父殺し」であり、そこでは息子たちが共同で「原父」を殺し、「原父」が独占していた女たちを共有する。前者はギリシア的「父殺し」、後者はヘブライ的「父殺し」と言えるが、両者は複雑に絡み合っていて、「父殺し」と「友愛」をめぐる問題系を形作っている。「友愛」は「父殺し」に起源を持つが、同時に「父殺し」をした者は「友」を失い孤立する。
 「枝」において青果が、秋聲や書生との間に結ぼうと欲望するのは、「我々を子に産んだ人々は不幸ですな」という親不孝の原罪によって結ばれた共犯者たちの友愛の共同体である。この原罪は現実的には専ら母親を不幸にしていることに対するものであるが、それは父が既に死んでいるからである。「枝」によれば青果は自分は稼いだ金で遊びながら、貧窮している母親に仕送りをせず、実家を顧みなかった。19歳の時に父を亡くした青果は長男として家を守るべき立場だったにもかかわらず、その役割を放棄した。
 これに対して「檻」で秋聲は、青果の友愛の押しつけに反発し抵抗しながらも、完全には拒否できないものを感じていることを書いている。「檻」には次のような記述がある。「けれど林は、然う自分ばかり潔白がつてゐる理由はないと思つた。近頃は殊に美しい処ばかり見せては居られなくなつた。自分の性格の痕つけて来たところを振顧つて見ると、浅猿しいことも卑しい処もあつた。自分で情なくも思つた。岡辺なぞも其全人格を無忌憚に暴露してゐるに過ぎないやうな気もした。自分のやうな善意を持つた人間が、必ずしも愧ずべき事を働かぬとは、保証できなくなつた」。
 これは岡辺=青果が代作を開き直って肯定することに対しての林=秋聲の感想だが、青果を鏡として秋聲は自分もまた「潔白」ではないことを自覚して行く。それでも青果と自分が完全に同類であるとは認めたくない秋聲は「けど、それには程度がある。根本の意志に相違がある」と抵抗するが、青果に「五十歩百歩ぢやありませんか」と言われるとそれ以上言い返せない。
 そして「黴」は、「自分のやうな善意を持つた人間が、必ずしも愧ずべき事を働かぬとは、保証できなくなつた」というこの「檻」の認識の上に立って、自分のした「愧ずべき事」を徹底的に描いた物語である。すなわち「檻」では岡辺から宿の女中との恋愛遊戯に誘われた林は「罠」を感じてそれをクールにスルーしたが、「黴」の主人公笹村(秋聲がモデル)は、親友の深山(三島霜川がモデル)の知合いで手伝いに来たお銀に手を出ししまい、子供を認知し入籍する。その間笹村はM先生(尾崎紅葉がモデル)の代作を務めて生活費を稼いだことが描かれ(はっきりと代作と書かれているわけではないが「己もまだ先方から受け取らんのだから」というM先生の言葉から推測できる)、また人目をはばかる女性と同棲生活を送り(「奥には媚なまめいた女の声などが聞えていた」という言葉で暗示されている)、創作意欲も盛んな同輩のI(泉鏡花がモデル)の姿も書き込まれている。「黴」は紅葉に対する「父殺し」の物語であると言えるが、それは一人ではなく複数の「子」らによるものである。鏡花が「黴」に激怒して秋聲と絶交したことは良く知られているが、その理由は単に紅葉に対して秋聲が「不敬」であるというだけではなく、紅葉を崇拝していた鏡花をも紅葉に対する「父殺し」の共犯者としてさりげなく暴露していることにあるように見える。秋聲は生涯鏡花の「紅葉殺し」を繰り返し証言(告発ではない。秋聲もまた共犯者だったのだから)している(最後の短篇「喰はれた芸術」は鏡花の紅葉未亡人に対する冷淡さを描くと同時に自分も夫人とは気楽に付き合えない気持ちを告白する)。鏡花の「紅葉殺し」が意味するのは、いわゆる「反自然主義文学」としてカテゴライズされる文学もまた、「父殺し」=過去との断絶なしには成立しなかったということである。
 「枝」を書いた青果は、間もなく二度目の原稿二重売り事件を起こし、小説を止めて新派劇の座付き作家に転身して成功する。「枝」の主人公は書くことに何の困難も感ぜず「小説を書く事ほど楽な仕事は恐らく有るまい」と考えているが、青果が小説家を続けられなかったのは、まさに「書く事が楽である」ためだったように見える。青果は「父殺し」をしたことの自覚が希薄で、自身が盲目であること自体に対して盲目だった。他方「常に窮々と苦しがつて、短い短篇一つ書くにさへ病気しそうだと云つてゐた」と書かれた秋聲は、「父殺し」の後の盲目の中で書くことの困難さに突き当たっていたからこそ、書き続けることができた。秋聲記念館の企画展には、大正半ばになって秋聲が書いた新聞小説『誘惑』を青果が新派劇にして大好評だったことが解説されていたが、秋聲が楽に書き飛ばすことに転向し通俗小説の濫作に向かって行くことの契機に青果が関わっていることは面白い。
 とはいえ「檻」や「黴」に見られるような「父殺し」の共犯者かつ証言者としての秋聲の位相は、その後「大正」の終焉においても反復されている。すなわち山田順子との恋愛関係を描いた一連の順子物の一篇「春来る」では、主人公融の恋人愛子の痔の治療を、大正天皇の侍医の一人であるK博士が行う。そして愛子の痔が無事治癒するのに対して、大正天皇は死ぬ。K博士は下心のある愛子の痔の治療には熱心なのに(実際博士のモデルとなった八代豊雄は誘惑されてこの後順子を一時愛人にする)大正天皇の病を治すことにはあまり関心がなさそうだという意味で「大逆」的な存在とも言えるが、作品に「大逆」的な緊張感は全くなく不謹慎に大葬の噂をする博士は喜劇的に描かれる。それは大正天皇が身体的に死ぬ以前に、既に存在感的にとっくに死んでいる状態だったからであると考えられる。この「大正」の終焉の白々しい抽象性は、現在の「平成」の終焉と比較したくなる。ただし病める天皇を皇太子が「摂政」として補助した「大正」時代が実際に終焉する以前に終焉していたとすれば、「平成」は逆に形式的に終焉しても実質的にはすぐには終焉しないのであり、次の元号の時代は病める皇后を抱える頼りない天皇を上皇が「院政」的に補助することから始まりそうである。
(2月5日付記)湯河原は幸徳秋水と菅野すがが検挙された地でもある。『「帝国」の文学』は大逆事件を花袋的な「父殺し」の極限形態としつつ、「幸徳と菅野もまた、そこで「湯につかりすぎて熱病を患った」(『黴』)ごとく、「大逆」事件にまきこまれることになるのだ」と指摘する。「檻」において、秋聲は、執拗に湯河原に引き留めようとする青果を振り切って東京に帰ることで、「湯につかりすぎ」ることを回避し、「父殺し」がもたらす破局を回避したのかもしれない。
 また「黴」における秋聲や鏡花らによる「父殺し」が意味するのは、「自然主義」と「反自然主義」の共犯者的関係だが、それがまさに「父殺し」であるが故に、「自然主義」と「反自然主義」とは「友愛」関係を結ぶことができないのだと言える。「反自然主義」は自分の「潔白」を信じようとし、「自然主義」は「五十歩百歩」だと冷笑する。
プロフィール

大杉重男

Author:大杉重男
批評家。著書に『小説家の起源-徳田秋声論』『アンチ漱石-固有名批判』。新刊『日本人の条件―東アジア的専制主義批判』(2024年10月31日刊 書肆子午線)http://shoshi-shigosen.co.jp/books/cat/criticism/。

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