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侠客的なものについて

 位田将司・立尾真士らの同人誌『G‐W‐G』3号「特集 天皇/制と文学」を、入手することができた。まず読んだのはやはり絓秀実「自由と民主主義万歳! われらコソ泥たち―ケーススタディ」である。改めて絓氏の卓越したモラリストとしての首尾一貫性に感心した。去年ネットで話題になった渡部直己のセクハラ問題について、懇切丁寧に委曲を尽してその問題点を解説していて、ネット情報だけで判断することの危うさが良く分かる。私自身、渡部氏や「美しい顔」問題について不用意なことを書いたかもしれないと反省した。ただ他人による「享楽の盗み」をあれこれあげつらうことは、それ自体が抗しがたい享楽には違いなく、私も頭では分かっていても、ネットの噂話を見るとつい書いてしまうことがある。「享楽の盗み」叩きを止めるには享楽を断念するモラルが必要となるのだが、市民的モラルの正当性が失われている(あるいはそもそもない?)現代日本において、それは非常に困難であり、特に享楽からの疎外意識を持ちやすい男性にとっては、よほどの知性と判断力が必要となる。単に「怒号」するだけで「享楽の盗み」叩き(「ヘイト」とも言われる)を抑えられると思うのは幻想に過ぎない。「怒号」は新たな「享楽」を作り出し、新たな「享楽の盗み」疑惑を「怒号」された相手や第三者に誘発させる。「怒り」と「ヘイト」の区別をつけるには、鎌田哲哉的才能が必要となる。
 絓氏の論を読んで私が考え直してみたいと思ったのは、田山花袋の「蒲団」の問題である。絓氏は「文壇が、特権的に享楽を盗む特異な―才能溢れる?―人間たちの共同体と表象されてきたこと」の起源に、小林秀雄の「中原中也と長谷川泰子との三角関係をはじめ、その享楽を盗む疑似「原父」的なキャラクター」の神話を指摘する。これはその神話以前にはまだこのような表象は確立されていなかったということである。すなわち自然主義文学の起源の一つと目される「蒲団」の物語は、「特権的に享楽を盗む」ことに失敗した「文学者」、セクハラを遂行できなかった「文学者」、そのことによって自身の才能の貧寒さを露呈させた文学者の物語であった(主人公の「性欲」は蒲団をかぐだけでは満足できなかったので、泣くしかなかった)。この意味で「蒲団」は単なるセクハラ暴露小説ではなく、むしろセクハラ批判小説と言える(ハラスメントがあるとすれば、書かれる以前の現実のセクハラというよりは、書かれることそれ自体によってヒロインのモデルに及ぼしたテクスチュアル・ハラスメント的な被害が問題となるだろう)。以後の自然主義文学においては、花袋に限らず、たとえうまく行った恋愛・情事であるにしても、決して読者(特に男性)にとって羨ましいもの(つまり「享楽の盗み」的なもの)として書かれることはなかった(これに対して自然主義を批判した漱石は、倫理と享楽の盗みを両立させた「ラッキースケベ」(享楽を盗んでもセクハラと言われないで済むこと)的シチュエーションを書くことに生涯固執し続けたと言える)。小林が「私小説論」において自然主義文学とその鬼子としての私小説を批判したことの深層にあったのは、「享楽の盗み」ができない「私」(要するに非「モテ」ということだが)を叩くことで「享楽の盗み」を合法的にできる「社会化した私」(「リア充」)を正当化し、後者を特権化することだった。絓氏はかつて小林を明智小五郎に例えていたが、日本的「名探偵」とは、罰をうけることなく犯罪という享楽を盗み、それを読者に共有させる存在であり、現在の「名探偵コナン」においてそれは希薄な形で国民的に共有されている。
 ただ私が一点気になったのは、渡部氏が発したと報道された「おれの女になれ」発言について、絓氏が映画『日本大侠客伝』 の中でヒロインをヤクザが「おれの女にならないか」と恫喝する場面と比較しているところである。氏は渡部氏がこの映画と同じニュアンスで「おれの女になれ」という類の発言をしたとすれば、それは「一〇〇年以上前の日本の九州の積出港には厳然としてあったであろう「封建的遺制」が、一九二〇年代ニューヨーク・ハーレムにあった白人向け高級クラブの名を借りた高田馬場の大衆的なカフェ(コットン・クラブ)に、突如として現出した」ということに過ぎず、「あまりにも時代錯誤的な話で、興味がわかなかった」と述べる。
 だがそれは本当に「時代錯誤」なのだろうか。絓氏は他方で、渡部氏の例より遙かに悪質な広河隆一の「性暴力」「レイプ」については、「広河の話は、現代にも『大侠客伝』があるということだ」と書いている。別に文学の世界に限らず、日本社会においては至る所で性をめぐる「封建的遺制」が現在も百年前と変わらず反復されているのではないか。それでは絓氏はそれをなぜ「時代錯誤」と呼ぶのか。それは現代日本が、欧米諸国と共通の「自由と民主主義」社会であるという前提があるからであるように見える。
 しかし本当にそうなのか。私は最近「東洋的専制」という概念をオッカムの剃刀代りに使っていろいろ考えているのだが、現代日本の「享楽の盗み」と「享楽の盗み」叩きに、欧米のそれとは異なる東洋的刻印が押されていることの徴候が、この「時代錯誤」には含まれているように感じられる。  
 ここで絓氏が映画『日本大侠客伝』を引き合いに出していることは、その意味で示唆的である。私はこの作品を見ていないが、ヒロインとヤクザがいるなら、当然ヒーローとしての「侠客」もいるだろう。絓氏は「時代錯誤」で「興味がわかなかった」と否認の身振りをしているが、私は渡部氏に対する絓氏の振舞いに、どこか任侠的なもの、侠客的なものを感じる。そしてこの問題に限らず「義を見てせざるは勇なきなり」的な侠客性は、絓氏の批評の通奏低音のようにも見える。それは時に蓮實重彦の東大総長からの退任を親分の刑務所からの出所に例えるような感性の発露ともなるのだが(『知的放蕩論序説』)、この侠客性は、探偵性と共に小林秀雄の文壇制覇の大きな要因だったことは指摘しなければならない。中原中也や坂口安吾など、当時の名だたる「無頼派」文学者たちと酒場でやり合った、酒場で誰それを泣かしたという武勇伝が、小林に「インテリやくざ」的なオーラを付与し、以後の文芸批評家たちの憧れの行動モデルになった。
 この治外法権的暴力の容認を伴う侠客性は、欧米における「ギャング」性や「マフィア」性とは異なっている。しかし日本では両者がしばしば混同され、その中でゴダールのような映画が評価されたりもする。といって侠客性は純日本的なものであるのでもなく、東洋的、東アジア的、漢字文化圏的なものである。それは「封建的遺制」というよりは、司馬遷『史記』の「侠客列伝」にまで遡る「古代的遺制」と言える。侠客は、時の権力に虐げられた弱者を法の外側から「義」によって助けるが、それは権力そのものの批判には向かわず、権力を本来的な正しい在り方に戻すことに「義」を見出して行く。その意味で侠客は、日本の天皇制を表面的に批判できても、東洋的専制の構造そのものは批判できず、そのことにおいて結局迂回しながら背中から後ろ向きに天皇制に回帰する。天皇制もまた江戸的な「封建的遺制」ではなく朝鮮・中国的な「古代的遺制」であり、だからこそ日本の近代化のためのイデオロギー的中核になりえた。
 絓氏がそうだというわけではないが、侠客的なものが持つ問題性についてはもっと批評的になる必要がある。絓氏はこの論の最後で「戦後天皇制民主主義」を「セクハラもなければ不倫もなく、嫉妬も羨望もない」「ただ、「弱者」によりそった「憐み」と「同情」だけがある」天皇家の姿として定義しているが、この天皇家のイメージは、欧米的な「自由と民主主義」ではなく、古代中国的な堯舜的徳治政治の範疇に属しているように私には見える。とすればやはり、天皇制を廃止するには「東アジア同時革命」(共産主義革命ではなく市民革命による「自由と民主主義」の初めての獲得)が必要なのではないか。
プロフィール

大杉重男

Author:大杉重男
批評家。著書に『小説家の起源-徳田秋声論』『アンチ漱石-固有名批判』。新刊『日本人の条件―東アジア的専制主義批判』(2024年10月31日刊 書肆子午線)http://shoshi-shigosen.co.jp/books/cat/criticism/。

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