鷹の台に『ノルウェイの森』はなかった | 文・地主恵亮

鷹の台と地主さん

鷹の台という街がある。東京都小平市にあり、西武国分寺線が走り、江戸時代に玉川兄弟がつくった玉川上水が流れている。武蔵野美術大学や津田塾大学があって学生街に思えるけれど、実際は緑の多い静かな住宅地だ。

武蔵野美術大学は羽海野チカさんのマンガ『ハチミツとクローバー』の舞台のモデルとされる大学で、津田塾大学は村上春樹さんの小説『ノルウェイの森』のヒロイン・直子が通った大学のモデルといわれている。そんな「青春が詰まったような街」に、大学生の私は住んでいた。

美大生になって、上京するまでのこと

私は高校に入学したころから「美大に行こう」と決めていた。今となってはなぜそんな目標を定めたのか、よく思い出せない。映画や写真、絵画が好きだったからだとは思う。地元・大分の普通科の公立高校に入学したけれど、勉強には向かないようだったので、一般的な大学入試は無理だと考えてそのような進路にしたのだろう。

地主さん
この記事を書いている地主です!

卒業したら、同時に東京に行こうとも決めていた。小学生のころから憧れていたのだ。

家族で見ていた朝のニュース番組で、背景に映るのはいつも東京の様子だった。高い建物が並び、多くの人々が歩いている。当時は鹿児島に住んでいて、地元にないそんな景色に憧れた。

東京にある美大の選択肢は、片手で数えられるくらいしかなかった。美大に行くために高校1年生のころから平日は夕方5時から夜9時まで、土日祝日と長期の休み中は朝9時から夜9時まで、365日デッサン教室に通った。その時間を勉強に充てる手もあったと、今となっては思う。

そんなわけで私は武蔵野美術大学に入学し、上京することになった。

武蔵野美術大学
武蔵野美術大学

上京したのは2004年のことだ。東京での家探しは母と一緒に行った。東京タワーにも上り、そこから見える景色は大都会としか言いようがなかった。高い建物が並び、人は多い。緑は少なく、私が過去に住んでいた街とは全く違うことに感動した。

思い描いた東京と全く違った「鷹の台」

家探しの結果、私が住んだのは小平市にある鷹の台駅の近く。なぜ鷹の台かといえば、理由は簡単で武蔵野美術大学があったからだ。母は私が朝に弱いことを踏まえて、大学の近くに住むのがいいだろうと勧めてきた。もちろん私もそれに異論はなかった。

鷹の台駅
私の東京生活は鷹の台で始まった

不動産屋さんの車で内覧に向かう道中、初めて鷹の台の景色を見たが、私の頭の上には「?」が点滅し続けていた。人であふれていて高い建物が立ち並ぶような、思い描いていた東京と全く違ったからだ。

観光で訪れる場所ではないし、何か大きな商業施設があるわけでもない。おそらく東京に住んでいる人でも、知らない、行ったことがないという人も多いと思う。九州を中心に転勤族をしていた地主家は、私が上京しなければ鷹の台を知ることすらなかっただろう。

住み始めてから、鷹の台を歩いていて「あれ、前にこの辺来たことあったかな?」と思うことがあった。

玉川上水
玉川上水

玉川上水*1に沿って木々が生い茂る、美しい緑のある景色。

駅前の商店街
高い建物がない駅前の商店街!

駅前には商店街があるのだけれど、高い建物はなく、空が広く感じられる。

つまり、私が上京前に住んできた九州の街とあまり違いがないのだ。こんな東京を私は知らなかった。東京はどこも高い建物が立ち並んでいると思い込んでいたが、そんなことはないと鷹の台で学んだ。様子を見にきた母も「のどかね」と言っていた。

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そして当時、大学の周りには畑が広がっていた。ブロッコリー畑だ。玉川上水には高い木々が生い茂り、ブロッコリーは近くで見ると森みたいだから、それらがいろいろ頭の中でごっちゃになり、私の中で鷹の台は大森林地帯ということになった。実際は家々がたくさんあるのだけれど。

ブロッコリーの収穫時期になると、ブロッコリーの切断面から何か液体でも出ているのか、緑を煮詰めたような匂いが大学周辺に立ち込めていた。今もブロッコリーの匂いを嗅ぐと鷹の台を思い出す。

住宅街
ブロッコリー畑は住宅地になっていました

『ノルウェイの森』に憧れていた、鷹の台での青春

鷹の台駅の周辺には三つの大学があった。私の通っていた武蔵野美術大学と津田塾大学、白梅学園大学だ。そのほかに私立の高校もあった。学生街ではあるが、木々がそんな騒がしさを飲み込むのか、玉川上水が流していくのか、よくある学生街の雰囲気とは違い、静かな住宅街だった。

静かな住宅街

高校時代に『ノルウェイの森』を読んでいた。鷹の台に住んでしばらくは読んだことも忘れていたのだけれど、津田塾大学の前を通ったときに、直子が通っていた大学ではないか、とふと思い出して読み返した。確かに直子は津田塾大学をモデルとした大学の近くに住んでいたし、主人公のワタナベは直子の家に来ていた。

青春を感じた。恋の予感だ。高校時代、恋人はもちろん、友達さえいなかった私についに青い春がやってくると心が弾んだ。

ワタナベが通っていた大学のモデルは、早稲田大学といわれている。私が武蔵野美術大学に通っていた当時、早稲田大学と授業交換みたいなことをやっていた。だから、私も早稲田大学に通っていると言ってもいいと勝手に考えた。

そして、直子は津田塾大学をモデルとした大学に通っていた。細かく見れば私とワタナベの境遇は全然違うのだけれど、冥王星から地球を見るくらいの距離感では、私はもうほぼワタナベなのだ。

これは完全に私に直子的な人が現れるやつだ、と、私は鷹の台に「ありがとう」とお辞儀した。期待を込めて『ノルウェイの森』を10回くらい読み返したのではないだろうか。

地主さん
結果、1人だったよ!

その結果、私に恋人ができることはなかった。青春の風が私に吹き付け前髪を揺らすことさえなかった。無風。微風もない、無風。そんなわけで毎日自宅から玉川上水の脇を1人歩き、木々の間から差す柔らかな光を浴びながら大学に通った。

鷹の台の様子

友達すらほぼできなかった。美大だからみんな一匹狼で制作に打ち込んでいると思っていた。しかし、大晦日に大学近くの神社で、初詣に来るお客さんにりんご飴を売るバイトをしていたときに、クラスメートがグループで仲良く初詣に来ているのを目撃した。「みんな友達がいるんだ、仲がいいんだ」とそのとき初めて理解した。

男3人女3人のグループでとても楽しそうだった。りんご飴を買ってくれたら許す、となぜか上から目線で見ていたのだけれど、りんご飴も買ってくれなかった。どうやら、鷹の台に青春がないのは私だけだったようだ。

神社
当時、私がりんご飴を売るバイトをしていた神社

鷹の台には緑が多いけれど、『ノルウェイの森』の緑(本作のもう1人のヒロイン)は私の前に現れなかった。自然の緑で満足するしかない。畑も多く残っていたから緑だらけなのだ。今は当時と比べれば減っているようだけれど。

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畑も多かった

鷹の台の思い出、「パレード」と「下水道管」

青春を諦めたある日、授業はないけど早く目が覚めたので、鷹の台駅の裏にある小平市立中央公園に行った。よく晴れた風の気持ちいい日だった。公園の中心にはグラウンドがあり、その周りに道があり、駅とは反対側に抜けられるようになっている。その道の脇にある階段に座り道を挟んだグラウンドを見ていた。

小平市立中央公園
小平市立中央公園

しばらくすると鷹の台駅に電車が着く音がした。ドアが開き、閉まる音。やがて重そうに電車が走り出す。そんな音を聞いていると、華やかな格好をした女性たちが目の前の道を次々に通り過ぎていく。それは、突如として始まったパレードのようだった。

彼女たちは中央公園西口通路という、鷹の台駅から公園に通じる通路から出てくる。津田塾大学までの最短ルートなのだ。

パレードを眺める地主さん

彼女たちには武蔵野美術大学の学生とは違うキラキラ感があった。

私はこれをパレードと名付けてたまに見に行っていた。そこにイヤらしい気持ちはなく、人々の身に着ける衣服の空間での見え方など、芸術的な観点で見ていたのだ、私は一応美大生だし。

ふれあい下水道館
よく行った「ふれあい下水道館」

パレードは大学の一限の始まる直前だけしか見ることができないので、私の際立った鷹の台での思い出ではあるけれど、一番かと言われるとそうではない。

一番の思い出は「ふれあい下水道館」だ。下水道とは何なのかという展示を見ることができ、本当に使われている下水道管の中に入れる施設だ。家から3分くらいの場所にあり、無料なのでよく行っていた。

ふれあい水道管の内部
中に入れるんです!

私の大学時代、あるいは鷹の台を象徴するのがこの下水道館であり、館内にある「湿気を帯びた暗闇に続く穴の中」だった。私は暇さえあれば(恋人も友達もいないので随分と暇だった)、ここに通った。湿り、決して「いい」とは言えないにおいが充満する、光が届かない暗闇を見続けていた。

下水道管の中
私の青春の景色

いつ行っても人は少なく、館内を静けさが支配していた。地下25mにある厳重な扉が開け放たれ、わずかなスペースだけが光をもち、その先にはどこまで続くかわからない暗闇が続いている。

ちょっと声を出してみると、とても反響する。そして、やがて暗闇に飲み込まれ消えていく。あるいは下水と共に流れていく。それが面白かった。この街では声も青春も多くのものが水に流されていくのだ。

ふれあい水道館の看板

大学を卒業してから、何人かの女性と話をする機会があった(それくらいの経験はあるのだ)。大学時代は何をしていたのか、という話になったときに、授業の話と一緒に下水道館の話をした。それは面白いの? と何人かに聞かれた。面白い、と私は答える。だって、日本で唯一、本物の下水道管の中に自由に入れる施設なのだから。

そして、同時に先ほどのパレードの話をすると、女性の目が死んでいくのがわかった。芸術的な観点で、とフォローすると目が死んでいくスピードがさらに増した。そのためこの話はあまりしないようにしている。

でも、どちらも上京前には見られない景色だった。それがうれしかったのだ。

キラキラしたパレードと、下水道管の暗闇。しかし私には、暗いけれど楽しい下水道管の中が「明」、女子大生はたくさんいるけれど青春は起きない境遇が「暗」に感じられた。鷹の台は私にとって、明暗が逆になった街だったのだ。

下水道管

鷹の台の隣町に、なじみの美容室をつくる

20歳のころから、東京で髪を切るようになった。といっても、最初は家の浴槽で、自分で切っていた。これなら無料だと喜んだが、だんだん浴槽に髪が詰まるようになり、業者を呼んだらなかなかの修理代を取られたので、家で髪を切るのをやめた。

街の様子

家の周辺でめぼしいお店を探したものの、見つけることができず、自転車でもバスでも行きやすい隣の国分寺に出掛けた。

ちなみに、鷹の台駅と国分寺駅の間に恋ヶ窪駅という駅がある。駅近くに住んでいた私に恋が訪れなかったのは今でも不思議だ。

今の国分寺駅
今の国分寺駅!

国分寺では、特にこだわりなく、予約なしでもいいと言われた「イエロールー」という美容室に入った。マンションの1階にあって、値段も私に優しく、美容師さんも腕が良かった。その後16年間、36歳になった今も電車で通っているくらい素晴らしいお店だ。

美容室「イエロールー」
美容室「イエロールー」

16年も通えば顔見知りでしょ、と思うかもしれない。実際今はそうなのだけれど、私の記憶では顔を覚えてもらうのに6年くらいかかった気がする。理由は私が年に1回しか髪を切らなかったからだ。

最近は私も身だしなみに気をつけるお年ごろなので、年に2回は行っている。本当はもっと通いたい。今もどこかに私の直子や緑が待っているはずだから。

イエロールーの看板
マジでいいお店なので行った方がいいよ!

さて、どこかの地域を紹介する記事では、オススメの飲食店を取り上げたくなるものだ。鷹の台も、駅前から延びる商店街に飲食店がある。

でも、私には記すことがない。今はもうお店がなくなっていた、というノスタルジーにあふれた理由ではない。単純に飲食店を訪れていないのだ。大学の学食で1人食事をしていたから。

学食に行かない日は自炊をしていたので、本当に飲食店の思い出がない。だから唯一、思い出に残るお店が美容室。イエロールーはとても尊い。国分寺にあるけれど、鷹の台時代の大切な思い出だ。

鷹の台の思い出を青春にしたい

今は髪を切りに国分寺までは行くけれど、その先の鷹の台に足を延ばすことは減っている。でも、気が向けば、数年に一度くらいは足を延ばし、玉川上水を歩き、下水道管の中で暗闇を見つめる。

住みやすくはある街だった。都心で働くには国分寺まで出てJRの中央線に乗り換える必要があるけれど、スーパーや家電量販店など買い物にも不便はない。

鷹の台の街

緑が多く、夏になればセミが全力で鳴く。いい意味で東京を感じさせない魅力がある。

緑が多い鷹の台

また、家々や畑の間に細い道が多かった。車は走れない細い道。それは探検のようで楽しかった。ここに道があるのか、と感動して、どこに続いているんだろう、と探索した。そのような好奇心をくすぐる街でもある。

細い道
細い道

最近は開発が進み、大学の周りの畑が減っていたりして、私が住んでいたころとは変わった景色も存在する。鷹の台駅の前も再開発をするようだ。

ただ、変わらない景色も多い。玉川上水は今日も流れ、木々が強い光を遮り、柔らかな光が舗装されていない道に影をつくる。

一度も恋人ができなかった街だけれど。結果、今もまだ独り身だけれど。

大学は卒業したけれど、今は鷹の台に住んでいないけれど、全然今からでもいい。「好きです」と言ってくれていい。以前は言えなくて……と今になって告白してくれていい。過去は玉川上水と下水道の水に流すから。

鷹の台の思い出を青春にしたい。どうか、よろしくお願いいたします。オーケー、鷹の台と関係のない人でも私に好きです、と言ってくれていいです。

下水道管の暗闇の奥にある明るい未来を一緒に見たいのだ。

筆者:地主 恵亮(じぬし・けいすけ)

地主恵亮さん

1985年福岡生まれ。基本的には運だけで生きているが取材日はだいたい雨になる。著書に『妄想彼女』(鉄人社)、『ひとりぼっちを全力で楽しむ』(すばる舎)などがある
Twitter: @hitorimono

編集:はてな編集部

*1:江戸時代に江戸市中に飲み水を供給するために築かれた「玉川上水」。後にこれは農地へも水を供給し、武蔵野の農業にも大いに貢献する。