何かを勝ち取るまで岐阜には帰らない。LiSAさんが探し続けた東京での居場所

インタビューと文章: 榎並紀行(やじろべえ) 写真:小野奈那子 

圧倒的な熱量のステージングと歌唱力で、日本を代表するライブアーティストに上り詰めたLiSAさん。岐阜県で育った幼少期から、歌手を夢見ていたといいます。

11歳で沖縄へ“移住”して歌と踊りのレッスンを受けたり、21歳で母親の反対を押し切って上京したりと、勢いのままに環境を変え、プロへの道を模索してきました。

東京で何かを掴むまで岐阜へは帰らないと決心。ライブ活動の傍らオーディションを受け続けるも、なかなか自分の居場所を見つけられなかったというLiSAさん。もがきながらも歌とパフォーマンスを磨き続け、上京から3年後にソロデビューを果たします。

何者でもなかった若者が「LiSA」になるまでの3年間、高田馬場で過ごした夜明け前の日々について伺いました。

「SPEED」に憧れ、11歳で一人沖縄へ

―― LiSAさんは岐阜県関市のご出身です。子どものころの遊び場を教えてください。

LiSA:家族で住んでいた団地が遊び場でした。同年代の子どもがたくさんいる団地で、敷地内には小さな砂場があったり、滑り台があったり、バスケットゴールがあったり。外に出てみると、どこかで仲の良い誰かしらが遊んでいるような環境でしたね。

―― LiSAさんご自身は、どんな子どもでしたか?

LiSA:お友達と遊ぶ時は、どちらかというと活発で。当時はローラーブレードがすごく流行っていて、みんなでリレーをして遊んだのを憶えています。あとは缶蹴りをしたりと、外で遊ぶことが多かったですね。あのころの思い出は、ほとんどが団地の中での出来事です。

―― そのころから歌手になりたいと思っていたのでしょうか?

LiSA:歌うのは大好きで、ミュージカル教室にも通わせてもらっていました。小学生のころには、当時の私と同年代くらいのSPEEDさんがテレビで歌って踊る姿に憧れて、私もあんなふうにかっこいい人になりたいと思いました。

―― その思いのまま11歳で沖縄へ転校し、現地のスクールで歌とダンスを習うことになったと。さすがに一人暮らしではなくホームステイとはいえ、その年齢で親元を離れ、見知らぬ土地で暮らすのは大変な決断ですよね。

LiSA:心置きなく沖縄へ向かうことができたのは、母が応援してくれていたからです。また、沖縄の人たちは心がとても温かくて、子ども一人でやってきた私のことを心配し、街の人みんなが我が子のように大切にしてくれました。

それに、お友達も最初からたくさんできました。県外からの転校生ということでドキドキしていたのですが、みんな本当に温かく迎えてくれて。

―― ホームシックになることはなかった?

LiSA:沖縄には、歌とダンスを学びに来ました。夢中になれるものがあったので、あまり淋しさを感じることはなかったですね。あとは、やはり沖縄の海の存在が大きかったです。学校の裏に海岸線が広がる風景は、海のない岐阜で育った私にとって新鮮でした。「沖縄の浜って、本当に星砂なんだ」と感動したりして。

岐阜では団地の公園に集まって友達とおしゃべりしていましたが、沖縄の時は海辺に集まって過ごす時間が多かったです。

母と“けんか別れ”をして上京。高田馬場で初めての一人暮らし

―― 中学2年生のころに沖縄から岐阜にいったん戻り、しばらくは地元を拠点にパンクバンドのメンバーとして活動していたそうですね。その後、2009年に21歳で上京することになった経緯を教えてください。

LiSA:当時の私はすでに20歳を超えていましたが、岐阜ではやりたいことを見つけられずにいました。それまで音楽しかやってこなかった自分が、最後に勝負できる場所は東京しかないと思い覚悟を決めたんです。母には上京することも再び音楽の道を目指すことも反対されていましたが、決心は揺らぎませんでした。母に黙って家も決めてしまい、告げたのは出発の前日。確かお正月でしたね。

―― お正月早々に……。

LiSA:母は美容師をしていて、年末年始が大忙しなんです。お正月、家に帰ってくる唯一のタイミングがそこしかなくて。そのとき私はもう身支度を終えた状態で、母に「東京へ行ってくるから、これにハンコを押してください」と賃貸マンションの保証人の書類を渡しました。母からは「東京に行くこと、許してないから」と突き返されて、私も「じゃあ、保証会社にお願いするからいいよ」と。結局ハンコをもらわずに、半ばけんか別れのような状態で岐阜を飛び出してしまいました。身の回りのものを詰めた数箱のダンボールと一緒に、高田馬場駅近くのマンションで暮らし始めたんです。

―― なぜ、高田馬場を選んだのですか?

LiSA:上京前から東京にはライブや曲作りのために何度も来ていました。その時にサポートしてくれたバンドメンバーと集まっていたのが、高田馬場にある「GATEWAYSTUDIO」です。このスタジオで夜中にリハーサルをしたあと、歩いて帰れる場所ということで選びました。

―― 沖縄時代も親元を離れホームステイをしていましたが、一人暮らしは初めてですよね?

LiSA:そうですね。初めての一人暮らしは驚きの連続で、まず家の電気がつかないことにびっくりしました。電力会社に電話して電気を通してもらわないといけないことすら知らなくて。生活に必要なものも分からなかったので、しばらくは家具も何もない部屋で過ごしていましたね。

―― そこから、どうやって東京での生活基盤をつくっていったのでしょうか?

LiSA:まずはアルバイトを探すことから始めました。岐阜時代の貯金は初期費用でかなり目減りしてしまい、このままでは数カ月で破産するという状態でしたから(笑)。

最初に始めたバイトはドラッグストアです。土日はライブやバンドのリハーサルがあって働くことが難しかったのですが、そのお店はスタッフの数が多く、シフトの融通がきいたので助かりましたね。

夢追う若者が、キラキラして見えた高田馬場

―― 東京で初めて暮らした街の印象はどうでしたか?

LiSA:最寄駅は下落合駅でしたが、電車に乗るときは高田馬場駅まで歩いていました。スタジオも高田馬場にあったので、どちらかというと下落合より高田馬場の街の印象のほうが強く残っています。下落合方面から商店街を抜けていくと音楽系の学校がたくさんあって、楽器を手にした若い人たちがたくさん歩いていました。音楽が身近にある街、夢を追いかけている若い人たちが多い街で、全体的にキラキラとしたパワーを感じましたね。

―― LiSAさん自身も夢を追いかける若者の一人。当時は複数のバイトを掛け持ちしながら、音楽活動をしていたとか。

LiSA:そうですね。ドラッグストア以外に、高田馬場駅前のたばこ屋さんで働いていました。売り場の椅子に座ると、ちょうど目の前に駅の大型ビジョンがあって、最新の音楽チャートがずっと流れているんです。そこで流行りの音楽情報が分かるんですよ。

薬局でもずっと有線放送が流れていましたし、スタジオに行けば音楽に詳しい仲間がいる。常に、いろんな音楽に触れられる環境だったと思います。

そうそう、当時のバンドメンバーが新宿ゴールデン街にある串揚げ屋で働いていて、私もよく通っていたんですけど、その店内では昭和の音楽がずっと流れていました。ちあきなおみさんの『夜へ急ぐ人』を初めて聴いた時は、衝撃を受けましたね。

―― ちなみに、高田馬場の近辺でよく通っていた飲食店や思い出の場所はありますか?

LiSA:早稲田大学の近くにある「わせ弁」こと「わせだの弁当屋」さんですね。唐揚げがいっぱい入ったお弁当が大好きで、よくお腹を満たしていました。あとはチェーン系のラーメン屋も好きだったのですが、お金がなかったので、ご褒美という感じでしたね。

飲食店以外では、住んでいたマンションの近くにあったコインランドリーが思い出深いです。一人暮らしを始めた当初は家に洗濯機がなくて、服も布団も、ぬいぐるみも全てそこで洗っていました。洗濯を待つ間、店内の椅子に座って本を読んだり音楽を聴いたり、考え事をしたり。たまに、音楽仲間が通りかかっておしゃべりしたり。子どものころの団地のように、外に出れば友達に会える。街全体が学校のような感じでしたね。

―― 「GATEWAYSTUDIO」での思い出も教えてください。

LiSA:ライブのあとはバンドメンバーに毎回のように怒られていました。というのも、当時のバンドは私が結成したわけではなく、年上のサポートメンバーにお願いしてライブをしていたんです。そのため、「一緒にデビューしよう!」という感じではなく、「あなたはプロになりたいんでしょ。だったら、こういうことができなきゃダメだよ」という、厳しい目を向けられていました。

メンバーは私よりもバンドの経験値が豊富で、いろんなノウハウを持っていました。ステージ上での立ち居振る舞いから発言、パフォーマンス、さらには物販のことまで、毎日のように怒られながらも多くのことを学ばせてもらいましたね。

―― 「GATEWAYSTUDIO」は、歌手としての自分を鍛えてくれた場所という感じでしょうか?

LiSA:エンターテイメントを学んだ場所ですね。当時やっていたパンクというジャンルは、玄人のお客さんが多いんです。そういう人たちに手を上げてもらい、盛り上げるにはどうすればいいかをひたすら考えていました。地元でバンドをやっていた時は、ただただ自分が好きな歌を歌って、友人だったり、聴きたいと思ってくれる人にだけ届けばよかったのですが、東京では誰も私のことを知りません。そうした状況でライブの動員数を増やすためにはステージングを磨き、お客さんを掴んでいかないといけない。「GATEWAY」は、音楽でご飯を食べていくために必要なことを学んだ、プロの歌手としての原点といえるかもしれません。

「そんじょそこらの結果じゃ岐阜に帰れない」

―― 東京での生活は、何が一番不安でしたか?

LiSA:やはり、金銭面の不安が大きかったです。音楽活動に注力したくてライブを増やすとバイトのシフトに入れなくなり、出費だけが増えていきます。食費など、削れるところはなるべく節約して何とかやり過ごしていましたね。お米だけ炊いて、おかずは100円ショップのふりかけとなめ茸、あとはインスタントの味噌汁を大量に買って、毎日ほぼ同じものを食べていました。

―― 音楽をやるにもお金がかかりますしね。

LiSA:特に、私のバンドは全員がサポートメンバーでしたから、リハーサルの度にギャランティや交通費をお支払いしていました。また、ライブの際にもライブハウスごとにチケット売上のノルマがあって、達成できないぶんは自腹になります。東京のライブハウスは地方に比べてノルマが高いこともあって、バイト代が全て支払いで消えてしまうこともありましたね。

―― 上京当初のライブは、何人くらいお客さんが入っていたのでしょうか?

LiSA:私の歌を聴きにきてくれたお客さんという意味では、数人いればいいほうでした。どうすればお客さんを増やせるかも分からず、なかなか明るい未来を描ける状況ではなかったですね。でも、私は家出同然で岐阜を出てきたこともあって、戻れる場所もない。不安な気持ちに苛まれながらも、ここで何かを掴むしかないと思っていました。

だから、ライブをしながらオーディションもたくさん受けました。芸能関係のオーディションは19歳までの年齢制限があるものが多く、すでに21歳だった私にはチャンス自体が少なかったのですが、何冊ものオーディション雑誌を買い、受けられるものは全て応募して。音楽関係だけでなく、俳優やモデルのオーディションもありましたね。

―― 何がなんでも音楽で、ということではなかった?

LiSA:もちろん、最終的に音楽につながればいいなという気持ちはありました。ただ、当時はそれよりも東京でとにかく自分の居場所を見つけることを優先していたように思います。自分はずっと音楽をやってきたし自信を持っているけれど、それ以外の可能性があるのかもしれない。東京の人たちに、それを見定めてもらうような思いで様々なオーディションを受けていましたね。それくらい、自分の中では後が無い状況でした。

―― まだ21歳で、これからいくらでも可能性があるような気もしますが、本人としてはそこまで追い込まれていたと。

LiSA:そうですね。先ほども言いましたが、東京には最後のチャンスだと思って出てきましたから。私は子どものころから芸能界を夢見て沖縄でレッスンを受けたり、地元に戻ってバンドを組んでみたりしましたが、どれも“そこそこ”のところまでしかいけませんでした。やりたいことを散々やり尽くして、最後にトライできる場所が東京だったんです。ですから、夢いっぱいで上京してきたわけでは全くなくて、必要としてもらえる場所を探すために必死でした。

居場所を見つけるために、とにかくアクティブに動いて動いて。時間をつくるために睡眠をギリギリまで削って。当時、家にはほとんどいなかったと思います。

―― 過酷な生活に疲れてしまったり、岐阜に帰りたいと思ったことはなかったですか?

LiSA:もちろん疲れていたと思いますし、一人で泣いてしまうこともありました。でも、それは未来に対する不安から生まれる涙で、諦めようとか、寂しいから岐阜に帰りたいと思うことはなかったです。

逆に、東京で何かを勝ち取るまでは、絶対に帰れないと思っていました。家族や岐阜でバンドをやっていた時に応援してくれていた人たち、これまでの私を見てきてくれた人たちを納得させるには、そんじょそこらの結果ではダメだと。だから、地元を懐かしむ暇もなかったですね。


―― そんな思いと努力が実を結び、2010年にはテレビアニメ『Angel Beats!』の作中バンド「Girls Dead Monster(以下、ガルデモ)」の歌唱パート(ユイ役)を任され、翌2011年にはソロデビューを果たします。

LiSA:ガルデモのころはまだ高田馬場に住んで、アルバイトも続けていました。2010年にガルデモの全国ツアーが始まってからは、バイトのシフトに入れなくなって経済的に大変でしたね(笑)。

高田馬場を離れたのは、「LiSA」としてスタートを切って環境を変えたいと思ったタイミングです。

―― 高田馬場を離れてからは、何度か引越しを繰り返していると。

LiSA:私、引越しが好きなんですよ。なぜなら、引越す度にその街を好きになれるし、思い出の風景が増えていくから。新しく訪れた街でも、いいなと思ったらSUUMOを開いて物件を探している自分がいます(笑)。引越す時は、物件の条件ではなく、確実に「街」で選んでいますね。ちなみに、高田馬場に住んでいた時の思い出の風景は、マンションの前を流れていた神田川沿いの桜です。満開になる季節を、いつも楽しみにしていました。

考えてみれば、私が東京で最も長く住んだのが高田馬場だったかもしれません。約3年間だけでしたが、私にとっては東京での初めての居場所になってくれた街。今でも、強い愛着がありますね。

お話を伺った人:LiSA(リサ)

岐阜県出身。6月24日生まれ。'10年春より放送されたTV アニメ「Angel Beats!」の劇中バンド「Girls Dead Monster(通称︓ガルデモ)」2代目ボーカル・ユイ役の歌い手に抜擢され人気を集める。'11年春にミニアルバム「Letters to U」にてソロデビュー。その後、TVアニメ「Fate/Zero」、「ソードアート・オンライン」、「魔法科高校の劣等生」、「鬼滅の刃」など数々の人気作品の主題歌を担当し、国内のみならず世界中にてヒットを記録。 ‘19年4月に配信開始した楽曲「紅蓮華」は、配信直後に数々のデイリーチャートを席巻、配信デイリーチャートにて38冠を達成、“平成最後・令和最初”の週間デジタルシングル(単曲)で首位を獲得。同年末には「第70回NHK紅白歌合戦」への初出場を果たす。‘20年10月には、アルバム「LEO-NiNE」とシングル「炎」を同時リリースし、オリコンデイリーアルバム、シングルランキング(10/13付)にて、“W1位”を獲得。‘20年末にはTBS「第62回輝く!日本レコード大賞」にて、「日本レコード大賞」を獲得、さらに’21年末には3年連続となる「第72回NHK紅白歌合戦」への出場を果たした。22年11月には自身6枚目のアルバムとなる「LANDER」をリリースし、23年9月から全国ホールツアー「LiVE is Smile Always~LANDER~」を14カ所19公演で開催する事が決定。圧倒的な熱量を持つパフォーマンスと歌唱力、ポジティブなメッセージを軸としたライブは瞬く間に人気を集め、アニソンシーンにとどまらず、数多くのロックフェスでも活躍するライブアーティストとして、その存在感を示している。 座右の銘:今日もいい日だっ。 オフィシャルサイト:https://www.lxixsxa.com

インタビューと文章:榎並紀行(やじろべえ)

榎並紀行(やじろべえ)

編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。

Twitter WEBサイト:50歳までにしたい100のコト

※記事公開時、川の名前に誤りがございました。2月15日(水)12:50ごろ修正しました。お詫びして訂正いたします。ご指摘ありがとうございました。